「頼み、って――?」
 頼みがあるんだ。突然のガイの言葉に、は目を丸くする。
「『平仮名』というものを、覚えたい。」
 およそ二十代のいい大人が言うようではない言葉だったが、それでも言っている本人の様子は大真面目だった。








「いい?この5つ、読んでみて。」
 部屋の真ん中に置かれた小さな机。そこにガイをつかせて、は少し離れた所に立って、色のついた紙を見せて言っていた。
「…さ、し、す、せ、――そ?」
 恐る恐るといった様子で読み上げたガイに、は、
「それはこっち!ひとつずれてる!」
 違うでしょ!と、叱咤した。
「え、あ、あ――本当だ。なら…た、ち、つ、…て、と?」
「そう。ならこの5つは?」
 頷き、言いながらは次の行を指差す。
「…な、に、ぬ、ね、の?」
「正解。」
 は微笑み、
「とりあえず、基本はここで終わりね。次からはランダムに読ませます。」
「…あ、ああ…、判った。」
 ガイはごくりと唾を飲み込む。
「はい、これ。」
 言って、「あ」を指差す。
「あ。」
「これ。」
 続いて「と」。
「と。」
「これ。」
 「め」。
「ぬ。」
「違うでしょ!」
 順調な中での突然のミスにリズムを崩されたは怒り、声はさすがに抑えてはいるものの怒鳴った。
「あれ――?」
 違ったか?と、ガイは判っていないという様子を見せる。
「違うわよ。これはぬじゃなくてめ!ここが輪になってないでしょ。」
 少し離れた位置に立つが紙の「め」を指すが、小さな文字なのでガイにはよく見えず、目を細めて必死に見る。
「あ――、本当だ。」
 の言うことが理解出来たガイは、なるほど、と声を出した。
「…判った?それなら次、いくわね。」
 ガイの返事を聞いた後、はまた平仮名を指差し始めた。








「却下。」
 ガイが差し出した紙を読み、は冷たく突き返した。「読む」勉強から「書く」勉強に入ってから十数分後のことだった。
「えっ、どうしてだ?」
「『る』が『ろ』になってる。『れ』が『わ』になってる。」
 間違っている箇所を指で示し、は冷静に間違いを指摘した。
「……やり直しですか、先生。」
 自分よりよっぽど年下であるに、ガイは訊く。
「やり直しです。」
 そう告げると、ガイはしゅん、と肩を落とし、それでも文句を言うことはせずに黙って平仮名を書き始めた。








 何度かやり直しを繰り返し、ようやくガイがの合格を貰えたのは、勉強開始から大分時間が経った頃だった。
「…お疲れ様。」
 精魂尽き果てた様子で机に突っ伏すガイには労いの言葉をかける。
「――でも、どうしていきなり平仮名覚えたいなんて言ったの…?」
 その後頭部に尋ねると、ガイは顔を上げずに、
「…そうすれば…、に…読んでもらわなくても済む…だろ…?」
 掠れた声で途切れがちではあるが、言った。
 その言葉には意外さと共に嬉しさも感じる。
「(そんな余裕もないだろうに、他人のことまで考えて…。)」
 はガイが突っ伏していたおかげで自分の今の表情を見られずに済んだ、と、思わず緩んでしまった表情を引き締める。
「でもね、」
 そして声をかける。返事はない。
「…この国には、カタカナが50と、漢字が無制限にあるのよね。特にカタカナなんかはパソコンの本を読むならたくさん出てくるわ。」
 後頭部だけで落胆するのが判ったガイに、は微笑んで、小さな声で、ありがとう、と言った。
 には、その言葉がガイに聞こえたかどうかは判らない。