私の朝は他の者よりも早く始まる。
 ベッドから起き出して、他の者を起こさないよう、細心の注意を払って部屋を出る。普段の装備は完了させて。

 蛇骨館の入浴施設を使用するためだ。この時間帯ならば、使う人間が少ないことは知っていた。
 龍騎士を志す女性、というものは、男性に比べて圧倒的に少ないどころか極希なため、蛇骨館にある入浴施設は、シャワールームこそ個室になっているものの、大浴場、脱衣室には男女の区分けがなかった。
 蛇骨館にいる数少ない女性、マルチェラ様やルチアナ様、リデル様などはいずれも相応の地位を持っていらっしゃる方ばかりだ。彼女らには、完全に個別に入浴施設が与えられている。
 アカシア龍騎士団は女人禁制ではない。しかし、現状として、女性の数が少ないのだ。
 だからおそらく今の騎士団では他に例を見ないだろう、女性下級龍騎士である私は、こうして誰も使用しないような時間帯に入浴しなければならない。

 とはいっても、本当にこの時間帯には他の者の使用がないので、ただ単に入浴時間が他と違う、というだけである。何事もなければ大浴場を独占できる、と考えればこれも悪くなかった。
 広い広い浴室で、いくつかある湯船のひとつ、比較的小さなものにお湯を張って、たったひとりでつかる。――悪くない。


 脱衣場に入った私は、石鹸、洗髪料など、持ってきたものを胸に抱えて、念には念を入れて、浴場の確認をする。脱衣完了、いざ入らん、となったときに、先客がいたのではまずい。
 どこか湿気の残る床を素足で歩き、浴場の扉を開ける。水気を十分に含んだ白い空気が溢れ出した。
「!」
「おー、失礼してるぜー。」
 中から聞こえてきた、聞き覚えのある声。あり過ぎる声。
「何だ?遠慮せずに入って来いよ。」
 私は無言で扉を閉めた。がらがらぴしゃん。

「(…な、何で、どうして、カーシュ様が……ッ!?)」
 大人数で使うことに特化した大浴場は基本的に、我々下級兵士が使用する。四天王の方々にはきちんと個別に施設が与えられているはずだ。

 …もちろん、使用禁止、という決まりごとなどはなかったが。だから時々四天王の方々が入浴しておられるという話も聞かなかったわけではない。
 部下から非常に慕われているカーシュ様のことだ。きっと、普段からこうして我々が使うのと同じ浴場を使用し、汗を流し合い、部下との親睦を深めていらしたのだろう。


「(それにしても何でこんな時間に…っ!)」
 と、いう疑問は、他人からすれば、自分にも大いに当てはまることではあるのだが。
「…………。」
 入れない。入れるわけがない。
 私は入浴は諦めた。今の出来事は忘れることにした。
 無言で扉に背を向けて、背中にかかるカーシュ様のお声を聞かないようにして、歩き出す。きっとあの位置からでは個人までは特定できなかったはずだ、このまま立ち去ってしまえば、何事もなくまた今日は始められる――。
「おーい、入って来ねぇのかよ。」
 がらがらと扉が開いた。私はびくんと肩を跳ねさせる。
「遠慮なんか必要ねーって。さー共に汗を流そうじゃないか、はっはっは。」
 何故だかカーシュ様はいつもより上機嫌である。ここで私が何も聞かなかったことにして立ち去って、その気分を壊してしまうのは、とても忍びない。

 恐る恐る振り返って、言った。
「…忘れ物を取りに来ただけですので……」
 声がか細く震える。なるべくカーシュ様は見ないようにして言う。
「私は失礼させて頂きます……ごゆっくりお過ごし下さいませ。」
「何だ、残念だな。……ん?この、無駄に丁寧な口調、妙に高くて女っぽい声は……」
 ふと疑問に思い当たった直後、カーシュ様はすぐに答えに到達したようだった。

「ああ、おまえか!」
「……そうでございます…」
 気づかれてしまった。さすがはカーシュ様、私のような末端の者の存在も覚えておられる。

「オレ、しょっちゅうここの風呂使ってんだけどよ、おまえにだけは一度も会ったことねぇんだよ。」
 当然でございますカーシュ様。その時間帯には私は入っていませんから。
「ちょうど今日はゾアに色々と付き合わされてな……こんな時間になっちまった。せっかくの機会だ、背中くらい流してくれねぇか?」

「え、えぇっ!?そんなこと…っ」
「だから遠慮はいらねぇって。色々ゆっくり話したいこともあるんだよ。」
 遠慮も多少混ざってはいるが今問題なのはそこではない。
「それなら、日が昇ってからいくらでもお伺い致しますっ!」
「裸でしかできない話もあるんだよ、男にはな。」
 ……女でございます。

「…………。」
 私にはとても、四天王直々の命を断ることなんてできない。
「…な、いいだろ?…あ、そうだ、これだ。四天王命令だ。オレの背中を流せ。」
「…承知致しました。」
 カーシュ様の命だったら尚更だ。私は泣く泣く頷いた。


「いや、おまえ、鎧くらい脱いでけよ。」
 タオルと桶を手に、後に続いて浴場に入場しようとした私を振り返って、カーシュ様が言う。
「これは基本の格好ですので。」
「風呂に鎧着て入るなんて無粋だぞ。」
「…何か起きたときにすぐに対応できるように…」
「大丈夫だ、何かあったらオレがおまえを守る。」
 甲冑の下の私の顔は真っ赤だ。

「いいか、じゃあ先に入ってるから、鎧は脱いでくるんだぞー。」
 その声が浴場の奥に消える。私はぽつんと独り、入り口に取り残される。
「(…どうしよう…)」
 鎧を脱ぐ。そんなことをしたら身体つきが顕著に表れて、カーシュ様に気づかれてしまう。その前に、甲冑を取った時点でおしまいだ。
 カーシュ様だけには、自分が女であることは絶対に気づかれてはいけない。気づかれたくない。
 それでも、カーシュ様の頼みはきちんと聞き入れたい。役に立てる部下でありたい。

「…………。」
 幸い、浴場内には白い湯気が立ち込めている。頼まれているのは「背中流し」だ。うまくやれば、もしかしたら、大丈夫かもしれない。

 気づかれたら終わりだ。それでも、ここでうまく気づかれずに背中を流して差し上げれば、カーシュ様もきっとお喜びになるはずだ。
 私は腹を括る。そして勢いよく甲冑を外して、脱衣場の床に叩き付けた。


 素足でひたひたと浴場の床を進む。
「おー、こっちだ。」
 白く霞んでよくは視認できないが、個室のシャワールームとは別に設けられた、身体を洗うスペース、壁際の鏡の前にカーシュ様は居た。幸いにも、背中を向けていた。鏡は曇りに曇っていて本来の役割を果たしていない。
 カーシュ様はこちらを向こうともされなかった。
「(見てはいけない見てはいけない…)」
 私の姿をはっきりと見られることも問題だが、私がカーシュ様の姿をはっきり見てしまうことも大問題だった。殿方の裸体を背中からといえど見てしまうのは、とてもではないが私には耐えられそうにない。特に、カーシュ様のものでは。

 言われるがままに背中を流して差し上げながら、私はカーシュ様のお話に耳を傾ける。
「そういえばおまえ、遠征には行くのか?あの、死海への奴。」
「いいえ、私は蛇骨館の留守をお守りする役目を頂いております。」
 近々、死海への大規模な遠征の話が持ち上がっていた。なんと、蛇骨様とその令嬢リデル様、四天王全員、騎士団員の半数以上が向かうのだという。
 しかし、それだけの大切な任務とだけあってか、さすがに実戦経験のほぼない私のような新米は、蛇骨館の留守をお守りする役目を頂戴していた。

「なんだ、来ないのか…つまんねぇの。」
「つまる、つまらない、の問題ではございません。大切な任務なのですから。私のような者が行って、皆様の邪魔をするわけには参りません。」
「邪魔しないようにすればいいだけじゃねぇか。」
「……そうですね。」
 目の前には広い背中と、蒼い長い髪の毛。
「これがもっと先の話でしたら、私も自信を持って志願できたかもしれません。でも、今はまだ、私には、技能も経験もない。」
「だからその分オレが鍛えてやるよ。強くしてやる。帰って来たらまた特訓だからな。オレがいないからって、サボるんじゃねぇぞ?」
「…承知しております。少しでも、技能を身につけておきます。」
「向上心だけは一人前だな。」
「恐れ入ります。」

 少しでも鍛錬を怠っていては、性別によるハンディキャップが備わっている自分はどんどん他の者に置いてゆかれてしまう。
 一般的に女性のほうが有利であると言われるエレメントによる攻撃も、自分にはあまり向いていなかった。突出した技能がないのだから、肉弾攻撃、エレメント攻撃、どちらにしても限界まで伸ばさねばならない。少しでも、騎士としての力を有するために。

「にしても、なぁ。その口調、どうにかなんねぇの?」
「口調…で、ございますか?」
「そうそう、その“ございます”とかって奴だよ。」
 “ございます”の部分だけ、声を上ずらせていたのが妙におかしい。私の真似ということなのだろうか。

「…身分の差がありますから。」
「だけどおまえのは丁寧過ぎるんだよ。まだ、蛇骨大佐とか、リデルお嬢様に対してならわかる。」
 “リデルお嬢様”の名前を呼ぶときだけ、どこか慈しみがこもっているように感じられた。

「カーシュ様は四天王のひとりにございます。」
「四天王って言ったって、ただちょっと束ねる立場にあるだけで、おまえ達と戦場は一緒なんだよ。」
「…ここは戦場ではございませんが。」
 戦場に居る際には、意思の伝達を簡潔に行うためにも、言葉が多少乱雑になってしまうことは致し方ないだろう。

「だーっ、もう、通じねぇなぁ!」
「申し訳ございません……。」
 昔から“お前は融通が利かない”ということを言われることは多々あった。自分でも、私はつまらない人間だとは思う。

「…とにかく、そんなに肩肘張る必要ねぇってこと。解らないのか?」
「理解し兼ねます。四天王は我々下級兵の上に立つ、立派な方々であります。そのような方々に、無礼をはたらくわけには参りません。」
「じゃあおまえは一緒に戦う仲間に、ガチガチに固めた敬語で接するってのかよ?」
「……なかま…」
「そうだ、仲間。オレとおまえは仲間だ。」

 仲間、か。そんなふうに考えたことはなかった。

 騎士団に入る前も入った後も、私にとって四天王は憧れるべき遠い遠い存在で、確かに、実際のところは戦場は同じであるのだけど、“仲間”という視点で見ることなど考えたこともなかった。
 私もいつか、カーシュ様と同じ戦場で、剣を振るうことができるのかもしれない。…いや、いつかきっと、共に戦ってみせる。

「……恐れ入ります。」
「だからっ!おまえはまたそうやって丁寧過ぎる言葉でっ」
「――それでも、こればかりはわたくしにはどうしようもないのですよ。」
「!」
「申し上げたことはございませんが、私はテルミナにある旧家の生まれなのです。それなりに身分のある家にございます。
 ですから、私は、身分に相応しい言動を取るように、と、教育されて参りました。昔ながらの伝統を重んじていたのです。ですから、この口調は長年染み付いた私の技のようなものです。もちろん、相手に払う敬意の現れではあるのですが。
 故に、私にはどうしようもないのです。どうかお許し下さいまし。」
「………また、丁寧な口調で長々と…」
「申し訳ございません。それに、ですね。」
 続けざまに言う。もうひとつ理由があった。

「身分云々の前に、私は、お相手がカーシュ様だから、口調が丁寧になるのです。尊敬する相手、敬愛する相手には、敬意を払うのが当然でございましょう?カーシュ様が、蛇骨大佐やリデルお嬢様にされるのと同じように。」
「…………。」

 私は男ではないし実際裸になっているわけではないのだが、カーシュ様の仰ったとおり、裸での会話もいいものなのかもしれない。本当に“裸でしかできない話”がある。
 カーシュ様とこんなにも、ゆっくりと、長く、会話をしたのは初めてだった。いつもは私が斧で追いかけられたりしていたから。

「なら仕方ねぇ。寛大なカーシュ様は特別に許してやる。」
「ありがとうございます。」
「…それに、おまえの話も聞けたしな。へぇ、金持ちの生まれなのか……道理で物腰も丁寧だと思ったよ。一瞬女かと思ったくらいだ。」

 私はその一言にぎくりとする。その“一瞬”の間だけは答えが出ていたということか。そんなわけないのになー、と笑うカーシュ様は本当に細かいことを気にされないお方だ。
「生まれはテルミナなんだな。オレもそうなんだよ、鍛冶屋の息子だ。」
「存じております。」
 カーシュ様の実家の鍛冶屋は、アカシア龍騎士団御用達だ。私も幾度もお世話になっている。


「さて、そろそろお流し致します。」
「ああ、頼む。」
 私はシャワーに手を伸ばそうと、立ち上がる。足りない距離を埋めるために一歩踏み出して、その足で何かぬるっとしたものを踏み付けてしまった。
「!」
 体重を支えるだけの摩擦が足りなくなって、足が後方に滑る。視界いっぱいに迫るカーシュ様の広い背中。

 私は声にならない声をめいっぱいあげて、迫ってくるものを逆に押し返して体勢を持ち直そうとする。つまり、カーシュ様の背中を突き飛ばす。
「のわっ!?」
 したがってカーシュ様は前に倒れて、私は反動で浴室の床に尻餅をついてしまった。

「…もっ、申し訳ございません、カーシュ様!」
「お、ま、え、なあーっ!!」
 当然のごとくお怒りになったカーシュ様がこちらを振り返ろうとする。私は最悪の事態を回避するために、手元の桶をカーシュ様のお顔に投げつけた。

 骨にぶつかったのか、こおん、と軽い音が浴室に響く。

 直後に自分のしたことを認識した私は、すぐに謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ございません、カーシュ様!ああ、私はなんて無礼な真似を…っ」
 それはもう、お怒りになられるなられる。カーシュ様は無言で肩をわなわなと震わせていらっしゃる。その頭には桶がかぶさったままだ。

「おまえ……っ」
 どうしてあんな凶行に走ったかって、私はカーシュ様に事実を知られたくはない一心だったのだ。身体を触れさせるわけにも、顔を見られるわけにもいかなかったのだ。
 結果、こんな事態を引き起こしてしまったのだけれど。ああ、本当に申し訳ございません。

「おまえなあーっ!!」
 カーシュ様はまったく意味のこもっていない言葉を叫んで、桶を力いっぱいご自身の頭から剥ぎ取った。私はまたも声にならない声を上げて、必死になって自分の顔を隠す。
 間髪入れずに飛んできた風呂桶で、その必要はなくなったけれど。

 脳天に走った痛みに思わず漏れそうになる声を、必死に抑える。反射的に出す声がどこまでカーシュ様を怪しませてしまうか、わかったものではない。

「…痛いでありますカーシュ様…」
「るせっ、ソルトンみたいな喋り方すんじゃねぇ!」
 私の口調にご自身の部下を彷彿とさせられたらしいカーシュ様は、直後に、何か引っかかるところがあったのか、黙り込んでしまった。
 私ははっとして身体を覆う。
 しまった。見られてしまった。
 どう見ても、この身体は男性のそれではない。

「……おまえ…」
「…………。」
 押し黙る。ついに知られてしまったか。いや、これまで知られずに済んでいたことが奇跡に近い。
 しかし、カーシュ様のお言葉は、私の小さな覚悟をいとも簡単に打ち砕くものだった。

「っとに細い身体してんなー!いや、むしろオレは心配になってきたぞ…?まるで女じゃねーか。」
 覚悟し、桶を外して素顔を晒そうとしていた手から力が抜けた。
「……は?」
「あ、わり…女みたい、はいい加減に言い過ぎか。でも安心しな。このオレ様がおまえをちゃーんと一人前の男にしてやっから!」
「…………。」
 力がまたこもった。
 女です、と、言いきってしまえたら、どんなに楽だろう。

「結構です!」
 頑として言い放って、そして桶を力いっぱい取るなりカーシュ様の脳天にぶつけて、私は走って浴室を去った。
 こんなに情けない自分は大嫌いだ。