前提というものは本当に恐ろしいものである。
だから、それにただ則っているだけのカーシュ様は何も悪くない。
つまり、それに則って行動していた私が悪いのだ。
「(…謝ろう…)」
本当に悪いことをしてしまった。ただ、カーシュ様の命に従いたかっただけなのに。
変なところで、私という個人が主張してしまった。
ただ、この場合、私はどうすればよいのだろう?
私のような下級兵が四天王の個室へ出向く、など言語道断である。そのようなことが許されるのであれば、きっとどの兵士も四天王の指南を求めて部屋に押しかけてしまうだろう。
普段のようにカーシュ様が部屋にいらすのをお待ちするのも大変無礼である。用件があるのはこの私なのだから。私から、ご挨拶に向かわなければならない。
そもそも、今日もまたカーシュ様が部屋にいらして下さる保障などないのだ。もちろん、カーシュ様は、部下の教育を途中で投げ出すような無責任なお方でないことは重々承知している。だがしかし、いいや、そうではなくて、ええと。
私はどうすることもできずに今日もまた甲冑をつけて、普段の仕事をするために部屋を出るのだった。
とは思っていたが、実際はそうでもないらしい。同室の者から聞いた。
四天王の部屋に身分のない兵士が伺うことは、禁じられていないのだとか。
そのあたりから、アカシア龍騎士団の自由性を感じさせられる。女性や未成年の入団を許してしまう程だ。特にマルチェラ様に至っては、入団当時は6才という若さだったという。(いや、既にこうなると若さではなく「幼さ」か。)
完全に実力主義なのだった。しかしだからこそ、ここまで多くの者が騎士団の名の下に戦っていると言える。
私は扉の前で、息を吐き、吸い、吐いて、吸って、最後にゆっくりと吐いた。そうしてから身なりを整えて、手についた埃を払って、扉を軽く叩いた。
「カーシュ様、いらっしゃいますか?今、お時間よろしいでしょうか?」
名前を告げることは、今の段階ではしない。そもそも私は実はカーシュ様に対して名乗ったことはなかったし、名前を尋ねられたこともなかった。実際のところ、私のこのという男性のものにしては淑やか過ぎる名前を告げてしまえば、怪しまれてしまうこと請け合いだったのだが。
「おー、おまえか。入って来いよ。」
中から投げかけられた言葉に、私は失礼しますと一言置いてから扉を押して開けた。
さすがに下級兵のものとは違って、大変綺麗な、落ち着いた雰囲気のある部屋である。その奥の壁際にある机についていたカーシュ様は、首だけを私に向けて、手招きをした。
私はそれには素直に従って歩を進める。それでも、ある程度の距離は保った所に立つ。
「何の用だ?」
「カーシュ様に謝罪したいことがありまして。」
「オレに?」
「はい。」
カーシュ様は何か書きものをされていたらしい、筆記具を机の上に置いて、椅子を軽く引いて、今度は身体も私のほうに向けられた。
「何だ?」
「昨日の件であります。私はカーシュ様に狼藉をはたらいてしまいました。誠に申し訳ございませんでした。」
頭を下げて謝罪する。
言葉にすれば、何と浅いことなのだろう。一晩かけての私の思案に比べて、たったのこれだけだ。言いながら私は自分の言葉の浅さを認識して、そして自分の浅はかさに歯噛みした。
「どんな罰でも受ける所存にございます。」
浅い、ただひたすらに浅い。
これは、私の本当の気持ちだ。全てを言葉にしている。だが、それが、こんなにも薄っぺらく感じられてしまう。
つまり、これは、私の気持ちの浅さだ。
「……ほう。おまえはいったい、オレに何をしたんだ?」
「…カーシュ様を背後から突き飛ばし、その頭部を投げつけた桶で覆い、そして脳天に桶をぶつけて、その後の始末もつけずに去ってしまいました。」
「そういうことだな。」
頭は上げない。カーシュ様の低い声音が少しだけ怖い。
「おい、頭を上げろ。」
そう命じられ、私は素直に頭を上げた。とほぼ同時に、真横からの強すぎる衝撃と共に突然視界がぶれて、身体もそれにつられて真横に飛ばされた。壁に肩がぶつかった。
「……?」
くらくらする意識の中、私は状況が飲み込めずに顔を上げてカーシュ様を見る。赤く染まった拳。赤い目。
「いっ…てえーー!!さすがはアカシア龍騎士団特性メットだ……!」
そして拳は簡単に解かれ、痛みをどこかに振り払おうとするかのように振られ、カーシュ様に抱かれる。
殴られた。カーシュ様に。メットの上から。私はそう認識した。
だから私の頬には傷こそないが、頭には殴られたことによる衝撃がじんじんとする痛みで残っていた。
「それが昨日の仕返しだ。…カーシュ様は優しいからな、これっぽっちで許してやる。」
「…………。」
「ああ、そうだ、後ひとつ。」
「っ?」
カーシュ様は私の腕を掴んで、力任せに引いた。慌てて力を添えて私は立ち上がる。
「命令だ。何か不満があったらちゃんと言え。」
赤い目が私を真っ直ぐに見つめていた。
「またあんなことされちゃたまったモンじゃねーからな。いいか、わかったな?」
「…………。」
「返事は!」
「はいっ!」
状況が飲み込めないながらも、仕込まれた条件反射で私は大きくはっきりと返事をした。
「復唱だ。」
「私は、カーシュ様に、何か不満があった場合にきちんとそれをお伝えします。」
「よろしい。」
しっかりと私の腕を捕まえていたカーシュ様の手が離れた。私は瞬間バランスを崩しそうになりながらも、きちんと持ち直す。
「あっ、あの、これはいったい、どういう…」
「あぁ?まだわかんねーのかよ?もう一発欲しいか?」
言いながら不敵な笑顔と共に作られた拳。
それを見て、1秒、2秒、3秒。
「ああっ!」
私はやっと理解した。遅すぎる理解だった。
何せ、温室育ちの私にとって、殴られて済まされる、というのは初めての経験だったからだ。罰を受ける、ということを頭で理解はしていても、実際にそうなったらどこかで理解が及ばない。
しょせんは私はその程度だったということだ。
「理解致しました!カーシュ様は、無礼な行為をした私を、自らの拳で戒めて下さったのですね!」
それでも私は感動して、声を荒げて話す。
自らの拳を痛めてまでも、カーシュ様は私に戒めを与えて下さった。
「ちげーよ。」
が、返ってきたのは予想外の言葉。
「え…?」
「そのことに対しては、ただの仕返しだ。まったく、今でも赤く腫れてんだぞ、ここ…」
前髪の間から覗いた額にあったのは、痛々しい赤い跡。
「オレがおまえを叱りたかったのは、おまえが不満を溜め込んでたから、だ。
別に、オレが上司だからって、遠慮することなんかねぇんだ。気に入らないことがあったら言えばいい。」
「…………。」
私は黙ってカーシュ様を見た。
気に入らないことがあったら言えばいい。その言葉が頭の中で反芻される。
この頬の痛みはカーシュ様の拳の痛みだ。カーシュ様の言葉の重みだ。
…そして、私の決意の重みでもある。私はメットの上から頬に手を当てて、離した。
「遠慮ばっか、中途半端にしてんじゃねーよ。オレに対して、真正面から風呂桶投げるだけの度胸があるんだから、な?」
「……はいっ!」
「良い返事だ。よし、それなら今から風呂だ。」
「え、」
「オレに対して不満があるんだろ?腹割って話そうじゃねーか。」
「ちょ、え、そ、それはっ」
「だから遠慮することなんかねーっての。裸の付き合いはいいぞー。」
「な、な、な、な、なにをなさるのですかっ」
「!」
「あなたはそうやって半ば無理矢理に私を行動させて!少しはわたくしめの意見もお聞き下さい!」
「おー、そうだ、よく言った。よし、なら言え。聞いてやる。」
「腹を割った話とやらをご所望でしたら、素晴らしい方法があります。
今から、庭で、共に手合わせを致しましょう!それが我々龍騎士の、心からのやり取りの方法のひとつです。」
「なるほど。いいじゃねぇか。手加減はしねーぞ?」
「はい、承知の上でございます!」
即効でぶちのめされた。
でも、不思議と、心地良かった。とても清々しい気持ちだった。