こぽこぽと心地よい音を立てて飲み物がグラスに注がれる。いわゆる“酒”というものだ。
「どうぞ、カーシュ様。」
 夜、と形容するには少し早い時間帯、カーシュ様の部屋にお邪魔した私は、いわゆる“酌”をして差し上げていた。初めての経験だ。
「…………。」
 カーシュ様は無表情でグラスを手に取り、飲む。私はまた酌をする。飲む。飲む。飲む。
「…そんなに飲まれては身体によくないのでは…」
「構わん。」
 その“構わん”には、「この程度では身体など壊しようがない」ではなく「身体くらい壊したほうがいい」というニュアンスが含まれているように思われた。

「…いつまでもお付き合い致しますわ。」
 何とか力になれないだろうか、と、思って考えて考えに考えて出た言葉は、そんなものだった。それくらいしか結局私には思い浮かばなかったし、できなかった。
「………オレはな、」
「はい。」
 ただただ酒を飲むだけだったカーシュ様が、不意に口を開く。
「…もしかしたら、ダリオを憎んでいたのかもしれなかったんだ。」
「はい。」
 飲む。
「オレからリデルを取ったあいつを。どうあがいても勝てはしないあいつを。」
「はい。」
 飲む。
「だから、………だから、なあ。」
「…はい。」
 手が、止まった。グラスが少々危なっかしくテーブルの上に戻されて、カーシュ様は気分が悪いかのように、目を閉じて、ソファの背もたれに身体を預ける。
「カーシュ様、お加減よくありませんか?」
 恐る恐るお顔を覗き込むと、長い睫がすっと持ち上げられて、真紅の瞳が私を捉えた。


 カーシュ様の悲しみは、私には到底理解し得ない底にある。
 騎士団内で報告されたこと、まことしやかに囁かれていること、風の噂になっていること、
 カーシュ様から直にお聞きしたこと。
 それらを統合し整理してみると、必ずそこには、何か言いようのない「ズレ」が生じてくるのだった。
 まだ、私の知らない事実がある。私の推測は役には立たない。

 それでもどうにかして、このお方を悲しみから解放して差し上げたい。
 そう思うのは、愚かなことなのでございましょうか。


 私を捉えた瞳は離れない。離さない。
 私はただ動けなくなって、カーシュ様の言葉を待った。
「おまえも飲めよ。」
 無造作に、グラスを押し付けられる。鼻腔をくすぐるアルコールの匂い。
「…はい。」
 そのグラスは、カーシュ様が先程まで口にしていたものだった。もう既に、私は何度か、カーシュ様と器を同じくして飲み物を口にしている。
 私はグラスの縁を見て、くるくると手の中で回して、口をつけた。

 ふっ、と、身体が軽くなったような気がした。それと共に、自分の中で、あるものが大きくなる感じがする。
 私は今度は逆に、カーシュ様の真紅の瞳を捉えた。離さない。
「ねえ、カーシュ様。」
「何だ?」
「悲しかったでございましょう?辛かったでございましょう?そのように無理をなさらずともよいのです。」
「………無理なんてしてねぇよ。」
「そんなはずがありません。」
「おまえに何がわかる。」
「何も、何もわかりませんわ。でも、それでも――」
 それでも。無理なんてしていない、と、いくら言ったところで。
「ダリオ様を失って!リデルお嬢様に気持ちは届かなくて!ダリオ様をお慕いしておられるリデルお嬢様をお慕いしていて!今も尚その事実に苦しめられて!
 ダリオ様はあなたの大切なご友人であったはず――それなのに、素直にその死を嘆くことも許されないまま――苦しめられて。
 あなたが無理をなさっていないはずがありましょうか!」
「………ああ。」
 重い頷き、ひとつ。
「してるさ。無理はしてるさ。もうこれ以上ないくらいにな。もう、あいつのことを思うと胸が押し潰されそうだ。
 だが、それ以外にオレにどうしろと?行き場のない思いに胸を詰まらせて、それ以上、オレにどうしろって言うんだよ?」
「……すべて、忘れさせて差し上げます。」
「は?」
「このわたくしが、すべてを、忘れさせて差し上げますわ!」
 言うなり私はグラスを置いて、カーシュ様のお顔にかかる前髪を払いのけて、自分の顔を接近させた。間近で赤い瞳を見る。
 コンマ数秒、そこで間を持ったところで、突然の言葉と行動に為す術もないらしいカーシュ様に口付けた。
「なっ……何をす」
 言葉は最後までは聞かない。私は顔を離して戸惑うカーシュ様の姿を目に入れて、頬に触れていた手を肩に置き、もう片方の手をカーシュ様の身体を滑らせて、下腹部に持っていく。その手を目的の場所で這わせると、うっと呻いて顔をしかめて、その表情に私自身が何かをそそられたようで、いつの間にかもう一度唇を奪っていた。
 先程よりも一層深い接吻の後で、荒れた息を取り戻そうともせずに行為を続ける。
「わたくしが…すべて忘れさせて差し上げますわ。」
 もう既に、背徳的な行為に自らを戒めるような余裕は、消えてなくなっていた。
 ただ、赤い瞳が自分のすべてだ。ただ、そこから悲しみを取り去ってやりたいとだけを思う。