、HOMEに来てくれ。」


 セルジュのその言い出しは突然のものだった。
 テレシフターを使っての、簡易的で、効率の良いものでない。わざわざこの天下無敵号まで来て、そして私に面と向かっての、誠意あるものだ。
 セルジュは焦燥した表情のまま、いつにない強い調子で(彼はいつも強いのだけれど)、言った。

、今すぐHOMEに来てくれないか。」

 どうして、と尋ねるような野暮なことはできなかった。彼が言うのだ。ほんのささいなことでないことはわかる。


 私はセルジュについてANOTHERに来て、それ以来、一度としてHOMEに戻ってはいなかった。
 土龍に会うべく土龍の島へ行くときも、人類未踏の地である世界のへそへ行くときも、マブーレを復興させるためにファルガ殿が呼び出されたときも、私はずっとここで待機していた。
 それでもすべきことはたくさんあったから、私はずっとここに居られた。騎士団の方々や海賊団の方々と接することができた。

 私をもうひとつの可能性へと誘ったのは、セルジュだ。
 そして今、私をひとつの可能性へと導いたのも、セルジュだった。


「……ええ、わかったわ、セルジュ。」








 セルジュと行動を共にするときには、基本的に3人で動いている。彼は元々はアルニ村の民間人であり、大人数での行動には慣れていないのと、その必要がないのとが理由だ。騎士団や軍隊のように統率の取れていない者ばかりでは、烏合の衆にもなり兼ねない。
 しかし今は、私とセルジュの2人だけだった。オパーサの浜から次元を超え、HOMEへ、私の元居た世界へと移動する。セルジュの生きるアルニ村の北側を抜け、龍騎士ではなくパレポリ軍が見回る溺れ谷を抜け、エルニドの北側へと出る。
 そこから西に向かえばテルミナ、東へ向かえば蛇骨館や影切りの森がある。セルジュは東へ向かった。

 私は心拍が心なし早くなるのを感じた。セルジュは何も言わなかった。いったい、今から、どこへ行こうと言うのだ?
 テルミナへも久しく入っていない私だったが、蛇骨館へはもっと昔から足を踏み入れていない。その姿を見てすらいない。かつて、あの荘厳たる全貌が保たれていたときには、たとえテルミナに居たって、その姿を目にすることができていたというのに。
 今はもう、あの我々龍騎士の、蛇骨様の館は、廃墟と化していた。


 セルジュは方向転換し、影切りの森ではなく、蛇骨館跡の方へと足を進めた。私はその後について歩いた、いや走った。
 いったい彼は何をしようとしているのか、どこへ行こうとしているのか、私に何を伝えようとしているのか。様々な疑問や可能性や答えのようなものが私の頭をたくさん回って、たくさん通り過ぎていった。
 かつて、何度も何度もこの足で踏んだ大地を走る。蛇骨館に向かって走る。崩れて廃れてしまったその姿に胸を痛めながらも、セルジュの背中だけを見て走る。


 そしてその視線は、ひとつの、大きな姿に釘付けになった。


 次に足が止まる。そして少しだけ経過してから、よた、よた、と、おぼつかない、まるで赤ん坊のような足取りで少しずつ進むことを始める。その間中、目はずっと、セルジュの背中を越えて、集まる人々の隣をすり抜けて、大きな姿を見つめていた。
 白の鎧を身にまとった、大きな、本当に大きな姿。かつて私が憧れ、剣を持ち続ける背中を押して下さった、支えてくださった存在のひとつ。
 彼はセルジュと私の、いや、最終的には私の来訪に気づくと、そのまま、優しく微笑んで見せて下さった。


「ダリオ様!」


 私は信じられない気持ちでいっぱいであった。ああ、嬉しいのか、悲しいのか、もはや判らない。
 地面を掴む足が不確かなものになる。膝が震えて、うまくその場に立っていられなくなる。慌てて一歩下がって地面を擦って、立ち続ける。
 口が開く。もしかしたら私は、笑っているのかもしれなかった。


「ダリオ様……」
「ダリオ、おまえは知らねーかもしれないが、こいつも龍騎士のひとりだ。名前は。驚いただろ?女で騎士団に入ってたんだよ。」


 カーシュが私をダリオ様に紹介するのを聞いて、私は言葉を選んで話し始める。と申します。入団したのは、3年とほんの少し前なので、ダリオ様はご存じないでしょうが、私は、ダリオ様をずっと存じ上げておりました。
 たどたどしく言い切ると、しかし、ダリオ様の次の言葉は、私にとってまったく予想外のものであった。

「知ってるよ。」
「え?」
「テルミナに住んでいた、ちゃん。一度、家に遊びに行ったことがある。君が生まれたときにね。」

「そうだったのか?」
「何だ、覚えていないのか?おまえも一緒だったぞ、カーシュ。」
「え……」

 カーシュが困ったような顔をする。全く記憶にないというその様子を咎めるような言葉だったが、実は私も覚えていない。全く、記憶にないどころか、知らない。まさか、四天王の方々が来訪してくださったのなら、覚えていないはずがないのだが……。

「君は覚えていないのも無理はないと思う。まだ小さなときだったから。」
「……あー…」
「ほら、一度、大富豪の家に生まれた子どもを見に行ったことがあっただろう。よっぽど大きな家だったみたいで、門前払いを食らってしまったが。」
「…そ、そうだったかな?…そんな記憶はどこにも……」
「まったく、おまえは忘れっぽい奴だ。」
「……うるせー。」

 すねたように言ってみせるカーシュに、その場に小さな笑いが起こる。私も口元を押さえて、いつの間にか笑ってしまっていた。
 この場に居るのは、騎士団に関わりのある人達である。元四天王にして、今はアルニ村の村長をなさっているラディウス様、蛇骨様のご令嬢、ダリオ様の婚約者でいらしたリデル様、そして現四天王であるカーシュ、ゾア、マルチェラ。そして私。そして私をここに連れてきてくれたセルジュと、場の中心人物であるダリオ様。

「ほら、馬鹿な話してないで事情説明。わざわざセル兄ちゃんが連れて来てくれたんだからさ。」
「ああ。」

 マルチェラがカーシュを腕で小突く。戦友である彼らは言葉だけでなく目と目で意思を伝え合って、頷いて、そしてカーシュが私に向き直った。
 その流れには、その場に居た誰からも非難の声はあがらない。わざわざカーシュに説明を委託したのは、総員の意思なようである。
 それは果たして、私への気遣いからか、それとも単に、彼がダリオ様の一番の親友であったことからか。


。ダリオは、」

 説明がされる。
 ダリオ様は、私の目の前に立っているダリオ様は、HOMEの世界の人間であるらしかった。およそ4年前の亡者の島への遠征の際、亡者に襲われ海へと投げ出されたまでは、どちらの可能性でも共通している出来事だったが、しかし私の目の前のダリオ様は、奇跡的にも存命のまま、地図にも載っていない小さな離れ小島まで流され、そこで生活されていたと。
 これもまた、可能性の分岐だった。世界を二分するでもない、死んだか、死ななかったか、それだけの小さな分岐。

 私の目の前のダリオ様はダリオ様であるのだけど、確かにカーシュたちの友人ではあるのだけど、しかし彼はカーシュ様の友人であって、“カーシュ”の友人ではなかった。
 過ごしてきた世界が違う。道が違う。時間が、違う。


「…………。」

 ダリオ様は、ダリオ様は、ダリオ様は、こちらの世界の、私の世界の、龍騎士だ。四天王の長を務めておられた、聖剣イルランザーの使い手、テルミナの英雄。
 私は立って説明を聞いていた。思考を絡ませながら、聞いていた。
 時々、言葉の間に、思考の影に、小さな不安を隠して。
 …………。


「蛇骨館を再建しようと思うんだ。」

 私は顔を上げてダリオ様を見た。カーシュの言葉の続き、少しだけ言いづらそうだったそれをひったくって話し始めたダリオ様を見上げた。でないと、彼は背が本当に高いから、目を見ることができない。

「…さい、けん……?」
「ああ。…騎士団をすぐに立て直すのは、無理かもしれない。でも、建物を直して、人を集めて、テルミナの人たちと協力すれば、できないことじゃない。
 でも、いつかきっと、かならず、アカシア龍騎士団を立て直してみせる。」

 騎士団の再興。
 それはずっと、私が夢見ていたことだ。私一人の力では為し得ない。

「俺がいる。君がいる。世界は違っても、四天王が揃っている。リデルも、蛇骨様も、先代の四天王もいる。
 ……本当は、その前に倒さなければならない敵がいるけれど…、俺は戦いには出られそうにないから。ここに残って、今すべきことをしようと思うんだ。」

 ダリオ様がいる。カーシュもゾアもマルチェラもいる。リデル様も蛇骨様も、ラディウス殿もザッパ殿もいる。一人じゃない。

「……ダリオ様……皆様…」

 声が震える。私の声だ。こんな情けない声、私の声じゃないみたいだ。
 目頭が熱くなる。そして何かが心の奥底からこみ上げてきて、私は嗚咽を止めるために両の手で顔を覆った。

「……今まで独りで、大変だったね、ちゃん。」

 首を振る。左右に。私は逃げていただけだ。
 ……でも、辛かった。悲しかった。孤独だった。

 大きな手が頭に触れる。力強く撫でられる。

「アカシア龍騎士団再興に向けて、行動開始だ!」

 首を振る。上下に。力強く、何度も、何度も。
 夢にまで見た、アカシア龍騎士団を再興するときが、現実のこととなって、今、私の目の前に存在している!

 私は嬉しくて、少しだけ悲しくて、とにかく気持ちがいっぱいで、泣きそうになってしまっていた。何度も頷きながら、けれども返事がうまく返事にならなかった。
 その場の皆様が、優しく、慈愛に満ちた目で私とダリオ様を見て下さるのがわかる。本当に温かい人達だ。
 私は涙声で、なんとかそれだけ、口にした。

「わたくしもお手伝い致しますわ、ダリオ様。」




 ……でも、涙が出てこなかった。嬉しさや悲しさの下に、何か漠然とした、大きな、不安のような感情が、影を潜めていた。