「…カーシュ……」
 カーシュはそれ以上、こちらに近づいては来ない。力強い拳で殴ってもくれない。戒めてもくれない。
 ただ、してはいけないことをしようとしている者を見る、許せない者を見る、憎むような目で、例えてしまうなら蔑むような目で、私を見る。

 私にはそれが辛かった。悲しかった。

「…もう、殴っては下さらないのですね、カーシュ様……」
 目に涙が滲む。泣かない。

 私は“時のたまご”を後ろ手に、その手には星色のお守り袋を握って、砂浜の上を一歩、あとずさった。砂を足が引っかいて跡を作る。
 カーシュを見る。睨む。


「…何やってんだ、。それを返せ。」
 首を振る。左右に。
「大切なモンなんだ。それがねえと戦えないんだ。」
 首を振る。左右に。
「そのお守りは小僧のモンだ。おまえのじゃない。」
 首を振る。上下に。
「…何やってんだ、。それを返せ。」
 首を振る。左右に。


「……貴方はカーシュ様じゃない!私はカーシュ様の部下だ!貴方の指示は聞かない!」
「バカヤロウ!」
 涙が滲む。泣かない。

「近づくな!」
 “時のたまご”を足元に落として、刹那、剣をまっすぐにたまごに向ける。切っ先は触れるか触れないか、触れない距離でたまごに突きつける。

「……これが無ければ戦えない。戦わせない。この世界は終わらせない!星の見た夢は終わらせない!」
「…………。」

 私は自分から、語り始める。

「――星がひとつの夢を見た。ひとりの女性が愛に触れた。世界がふたつの大きな可能性を生んだ。龍が、運命が、時が、人が、壮大な戦いの中にたった一人の少年を巻き込んだ。少年は全てに立ち向かった。
 今、この戦いを終わらせてしまったら、可能性は不要になる。愛は、哀しみは、解き放たれる。きっとこの夢は夢になってしまう、星は夢から醒めてしまう。私はそんなのは絶対に嫌だ!」
「…………。」

 ――セルジュという少年が自分の姿を取り戻し、かつての仲間と再会して、そして運命を打ち破って、そして星の痛み、恨み、復讐の塔はその姿を現した。
 その頂上に君臨する敵をも倒して、しかし戦いは終わらない。遥か昔、気の遠くなるような過去、そしてまだ見ぬはずの未来も含めて、全てがひとつの目的に向かって動いていた。
 セルジュは戦わなければならない。可能性の分岐点、天使の迷う場所、ここ、オパーサの浜を通って、私達の生きる世界へ行って。

 私には全て関係ない。壮大なスケールでの戦いも、星も、龍も、人も、何もかも、関係がない。私に関わらないところで皆通り過ぎていく、本来ならばそれらはそういう存在だ。
 私の世界は、テルミナや、騎士団や、そこに生きる人々だ。それだけの、狭い世界だ。私にはそれらが必要で、私が守りたいのはそれらなのだ。

 それらを守るためには、この世界を終わらせてはならない。私一人では、ダリオ様と二人だけでは、ラディウス殿やザッパ殿と四人だけでは、足りない。何もかも足りない。
 蛇骨様がいなければ。リデル様がいなければ。グレンがいなければ。ゾアがいなければ。マルチェラがいなければ。
 ――カーシュがいなければ、足りない。何もかも足りない。


「……返せよ。」
「近づくなっ!」

 剣を握る手に力を込める。時のたまごに突きつけて、微動だにしない。

。」
「その名を呼ぶなっ!」

 剣をカーシュに向ける。切っ先を確かに彼に向けて、離さない。

「なあ、。」
「おまえはカーシュ様じゃない!私をその名で呼ぶな!」

 剣が砂浜に落ちる。私の手をカーシュが握る。

「……小僧から聞いた。おまえ、ちゃんと泣いてないんだって?」
「!」

 目に涙が滲む。

「駄目だぞ、ちゃんと泣かないと。溜め込むと、いつか爆発しちまう。」
「…………。」

 目に涙が滲む。…泣かない。
 手を握る手が温かい。力強い。

 ぐい、と、引き寄せられる。
 温かい胸に閉じ込められる。温かい。
 目に涙が滲む。

「オレはおまえのカーシュ様じゃないし、おまえはオレの部下じゃないけど……おまえはで、で、オレはカーシュだ。
 ちゃんとここに居る。」
「……う、」

 その場に立っていられなくなる。力なく、その場に崩れ落ちる。温かいのは変わらない。
 目に涙が滲む。唇を噛み締める。目頭が熱い。気持ちが爆発する。

「…う、うわああああああん!!」

 どこか奥から込み上げてきた気持ちが、涙の濁流となって溢れ出す。
 そうして私は、温かい胸の中で泣いたのだった。








「……世界が分かたれても、二度と会えなくなっても、私は貴方のことを忘れない。栄光の龍騎士団を守って、そして、そちらの世界の私と、お幸せに。」

「なんて、言える程、私は心優しくはありません。そんなのは絶対に嫌。」


 私の涙は止まらなかった。
 ずっと泣かなかった。カーシュ様が帰って来られなかったときも、皆様が帰って来られなかったときも、町がパレポリに占拠されたときも、悲しみの日々を過ごしていたときも。
 セルジュの前で泣いて、ダリオ様の前で泣いて、それから私の涙はここにきて解き放たれてしまったようだ。気持ちが昂ぶっていたのが落ち着いても、涙が止まらない。流れ続ける。

 温かさに包まれて、涙ながらに気持ちを吐露する。


「私は私が幸せになりたい。セルジュや、騎士団のメンバーと共に、騎士団を再興したい、テルミナの町の人々に笑顔を取り戻したい、エルニドを魔の手から救いたい。
 そして、何よりも、貴方の傍にいたい……っ!」
「オレはカーシュだけど、おまえはだけど、違う。あのダリオの親友だったのがオレでないように、おまえの好きだったのはオレじゃない。おまえはきっと、間違えてるだけなんだよ。
 ……死んだオレのこと、忘れないでやってくれ。」
「…………貴方はいつもいつも、残酷なことを仰いますのね、カーシュ。カーシュ様とは大違い。」

 温かい胸を突き放して、カーシュの顔を見る。初めての距離から赤色の瞳を見つめる。

「違うわ、カーシュ。貴方は私の好きだった、私の好きなカーシュ様ではない。…でも、私が今好きなのは、貴方なの。今私の目の前にいる、カーシュ、貴方なの。」
「…………。」
「矛盾している、と、言ってちょうだい。自分でも解っているの。おかしいわね。」

 少し首を傾げて笑うと、収まりきらなくなった涙が零れた。
 声は震えて涙は語りを邪魔したが、カーシュは黙って聞いてくれた。本当に優しい、素敵な男性だ。

 流れるような美しい蒼も、吸い込まれそうな魅惑的な赤も、カーシュ様のものである。けれども私を見つめる視線は、違う。カーシュだけのものだ。
 温かさに包まれて、私は悲しいのか嬉しいのか最早判らなかったけれど、涙を流した。


。」

 指が涙に触れる。両方の手が頬を包み込む。ああ、温かい。優しい。
 私をじっと見つめる魅惑的な赤に、私は本当に吸い込まれて、吸い寄せられて、引き寄せられて、私はカーシュとキスをした。
 頬の手が首に下りて、そのままぎゅう、と、抱き締められる。力のこもっていない、それでも気持ちがたくさんたくさんこもった手で、腕で。

 私はきっと二度目の恋をした。
 とびきり幸せで、悲しい、とても儚い恋だ。


 唇を離して、私はカーシュだけを見て少しだけ照れて笑う。涙が零れる。
 けれどもすぐに笑顔は涙で崩れて、私はまたカーシュの胸に倒れこんで、泣いた。

「カーシュ…好き……大好き…!貴方と離れたくない、ずっと一緒に居たい!」




「………ごめんな、。」

 返ってくる言葉なんて判っていた。私は恋する矛盾を抱えた女だけれど、だからこそ、判っていた。
 私はただただ、そんな彼の言葉に、頷いた。
「ダリオと一緒に、騎士団をよろしくな。……あっちのオレのこと、忘れないでくれな。」


 私はきっと二度目の恋をした。
 とびきり幸せで、悲しい、とても儚い恋を、強く、強く、幸せに、した。