冷たさすら消え失せてしまった、海の上を歩く。
 全てを包み込み、優しく、時には厳しく、テルミナで無意味に生を送っていた私に語りかけてくれていた母なる海は、ここでは時を止められてしまっている。
 崩壊を遂げた塔へと足を踏み入れ、襲いくる異形の敵に応戦しながら、ただ、私は目的もわからずに先へ進む。

 死海。

 セルジュは、本当にここへ到達してしまった。
 これが、ただ、自らを苦しめる大いなる運命に翻弄されながらも必死に足掻く、セルジュの力なのだろう。私にはない力なのだろう。
 だからこそツクヨミも、かつての主であったヤマネコの下を離れ、他の誰でもない、セルジュの傍にいるのだろう。
「モタモタしてると置いてくよ。」
 最早その機能を成してはいない機材の上を身軽に飛んで、振り返って、ツクヨミが私に言う。わざわざ予告をしてくれるところが彼女の優しさだ。
「ごめんなさい。」
 私は、呆然と何もないはずの空間に目を固定するセルジュから目を離して、ツクヨミの後を追った。




「なあ、好きだったんだろう?」
「!」
 私は危うく手元のカップを離してしまいそうになる。反射的に強すぎる力でその取っ手を握り締めて、ツクヨミに視線を向ける。

「誰が、どなたを、どのような意味合いで、好きだったと仰るの?」
「あんたが、カーシュを、恋愛という意味合いで、好きだったと言うんだ。」
「…………。」


 海上歓楽街、ゼルベス。身分の知れない者が管理するこの巨大な船の中、死海へ入るための情報源を求めてファルガというその男に勝負を挑んだところ、見事に負けた。移動手段であるボートを奪われた。
 成す術もなくなった私達はひとまず今夜の居場所を作るため、船内で宿を取った。例えば、今日のところはもう取り合おうとはしないファルガに再戦を申し込むにしても、この船で金銭を貯めるにしても、何にしても、寝床は必ず必要である。
 セルジュは今はいない。情報収集をすると言って出て行ってしまった。
 結果、部屋には女2人。


「なあ、そうだったんだろう?」
「……それが事実であったとしても、あなたには関係のないことでしょう。」
「そうだな、全く、関係はない。ただ、気になることがあるんだ。」
 ツクヨミが目を伏せた。その様子がただ悪ふざけをしているだけのものにはとても見えなかったから、私は会話を続けてしまった。

「気になること?」
「……ああ。」
「私に答えられることなら、何でもお答えするわ。お尋ねになって。」
 私は思わず親身な様子になって、ツクヨミに話しかけていた。最初とほとんど変わらない調子で、彼女は尋ねてきた。
「あんたはカーシュのことが好きだったんだな。」
「……いいえ。」
 私は確かに首を振って見せた。

「好きだった、のではありません。私は今でも、あの方をお慕い申しているの。誰よりも、何よりも。」
 ツクヨミがきょとんと目を丸くする。瞬間だけの間があって、その次には目を細めて、おかしそうに笑っていた。
「…ははっ、そうだったな。間違えてたよ。」

「それで、気になること、とは?」
「それだ。そのことなんだ。それが、あたいには理解できないんだよ。」
「……?」
「どうして、生きているかもわからない人間を、ずっと想い続けることができるのか。どうして、そいつの目には違う人間しか映っていなくても、そいつを想い続けることができるのか。」
「…ツクヨミ……」
 私は目の前の、道化師風の化粧をした、今もそれを落とそうとはしない、一見、私よりも少しだけ年少に見える少女を見た。
 人を慕う気持ちが理解できない。言葉に反して、その思いは重過ぎる。そう思われた。

「それに、あたいは判らないんだよ。人を想う気持ちが、いったい何なのか。愛なのか、情なのか。」
 私は何となく、悟ってしまった。この少女が想いを捧げている相手が、いったい誰なのか。
 私はその人の顔は知らない。声も知らない。ただ、知っているのは、優しい微笑みだけ。


「私にも、よくは判らないわ。」
 ぽつり、ぽつりと語り始める。
「この気持ちに説明はつかない。それは愛なのかもしれない。ただの哀れみなのかもしれない。良心のかけらなのかもしれない。
 それでも、私は今、…――あのときから、断言することができるのよ。カーシュ様を愛している、と。」
「…………。」
「その気持ちはずっと変わらない。あの方がお亡くなりになっていようとも、他の方を想われていよういようとも。私はただ、あの人に私のたったひとつの愛を捧げるだけ。」
「…………。……なんだ、それ。」
 ツクヨミは、拍子抜けしたようにそれだけ声にした。なんだよそれ、説明になってないぞ。軽く笑って続けてそう口にする。

「ごめんなさい。でも、私にお答えできるのはこれが精一杯だわ。…そして、これが私の正直な気持ち。私にとっての真実。」
「ああ、わかった、わかったよ。ありがとう。悪かったな、変なことを訊いて。」
「いいえ、全く構いませんことよ。でも、驚きましたわ。あのツクヨミ様が、私に恋愛相談など、持ちかけてこられるだなんて。」
「ばっ…そんなんじゃないやい!誤解すんな!あたいはただ気になる人間の心理を尋ねただけでっ」
「お相手はどなたですの?ツクヨミ様みたいな素敵なお方の気持ちに気づかれないだなんて、とんだ朴念仁ですのね。わたくし、精一杯応援致しますわ!」
「うるさいなあ、もう!誰だろうとあたいの勝手だろ!…あ、ヤマネコ様、ちょうどいいところに!この無駄に丁寧な物腰の女を何とかしてくださ――っ」
 久しぶり、本当に久しぶりに、私は誰にも気兼ねしない楽しさで笑った。セルジュは困ったように唸って、ツクヨミは可愛らしい道化師の動作で彼に擦り寄って、私はその様子を見て、楽しかったから笑った。








 ああ、カーシュ様だ。

 わたくしが3年間待ち続けた、今も想い続けている、カーシュ様だ。

 3年前の、あの姿のままだ。どこも変わっておられない。そう、どこも。変わっておられない。
 整った顔立ちも、流れるような蒼い髪も、一点を見つめ続ける赤い瞳も、何も変わっておられない。いっさい変わらない。
 未来永劫、変わることはない。


「カーシュ様……っ!」
 お会いしとうございました。でございます。覚えておられますか?
 カーシュ様がお出かけになっている間、わたくしは剣の腕はもちろん、あなた様にご指南頂いていた、斧の腕も磨いておりましたのよ。
 今では、それなりには振れるようになりました。それもひとえにカーシュ様の教えのおかげにございます。
 わたくしは、ずっとお待ちしておりましたのよ?
 龍騎士団の皆様が、あなた様が、帰って来られる時を。高らかな音楽がテルミナに鳴り響いて、騎士団の方々がテルミナに入って、パレポリの軍勢を倒して、追い出して、そしてその中心で、蛇骨様やリデル様、四天王の方々が笑う時を。
 わたくしは、ずっとお待ちしておりましたのよ?
 あなた様が、わたくしに、残した言葉を下さるのを。


 涙が溢れて止まらない。嬉しいのか、悲しいのか。この気持ちはいったい何なのだろう。
「カーシュ様、カーシュ様……っ!」
 縋りつくこともできない。その身体に触れることも叶わない。

「…………」
「カーシュ様!でございますわ!聞こえませんの!?ああ、わたくしはそこにいるのではございません!こちらをご覧になって下さいませ!」
 そのお顔に手を触れて、無理矢理にこちらに向けようとしても、手は空しく何もないところを掻くだけ。
 声は届かない。姿も、見られない。

「…ああ……っあ、ああ……」
 立っていられず、その場に崩れ落ちる。籠手で固められた手が無機質な石の床を引っ掻いて、尚更私は涙を流した。
 こんなにも、無機質なものでさえ、確かにここに存在しているというのに。
 カーシュ様は、こんなにも、はっきりと、目の前に存在しているのに。確かに存在しているのに。
 “ここ”ではない。
「カーシュ様……蛇骨様……っ」
 呼ぶ声は、嗚咽に紛れて、とても意味ある言葉にはならない。とめどなく溢れる涙が、頬を伝うことすらなく床に落ちて、跡を残す。
 ずっと待ち続けていた人が、居た。ここではないどこかに、朽ちることも許されず、生ではない生で繋ぎとめられていた。

「……置いて行きましょう、ヤマネコ様。」
「でも……」
「死海の様子がこのまま安定しているとは限らない。こんな所で立ち止まっているわけにはいかないんだよ。」
「…………。」

 セルジュとツクヨミ。2人の会話がおぼろげに耳に届く。そう、私はまだ“ここ”に生きている。だから、2人の会話を聞くことだってできる。
 立ち止まっているわけにはいかない。

「……でも、だからこそ、をここに置いて行ったら、どうなるかわからないんじゃないか?」
「足手まといになるようなら置いて行け。そう言ったのはどこのどいつだ?」
「一緒に行こう。そう言ったのはこのボクだ。」
「…………じゃあ、好きにしなよ。あたいはヤマネコ様を待つからさ。」
。」

 名前を呼ばれ、それを確かに聞いた私は自ら立ち上がった。そしてセルジュの方に向いて、涙を拭うことすらせずに言った。
「何を揉めていらっしゃるの?足手まといにはならないと、申し上げたはずよ。」








「セルジュ。あなたは、とても強いのね。」
 きょとんとしたネコの顔が、こちらを向く。元の物騒さとは打って変わった可愛らしい仕草だ。私は小さく笑みを零す。
「ボクが?」
「ええ。」
 その強さはこの聖剣イルランザーの輝きにも似ている。亡者の巣窟と化したあのような邪悪な地にあっても、決してかすむことはない。
「ずっと申し上げようと思っていたの。あなたが、テルミナで私を導いて下さったときから。まだ短い期間だけれど、あなたと共に旅をしていて、尚更そう思わされているの。」
「…………。」
「あなたはとても強いわ。私はあなたの事情は一部しか存じ上げていない。それでも、あなたの強さは伝わってくる。あなたのその姿勢には、きっと、たくさんの人が勇気付けられていたことでしょうね。」


「………何だか、照れるよ。そんなふうに言われると。」
 顔を赤くしているのかもしれないセルジュは、私から目をそらして、ボートの縁から後方に流れ行く海を見た。亡者の島はもう遥か遠方に小さくなっていて、目指すはグランドリオンに閉ざされた死海である。

「あら、ごめんなさい。昔からよく言われたものだったわ。はものをはっきり言いすぎる、と。」
「あ、いや…そういう意味じゃなくてね。別に、嫌な気分になったわけじゃないんだ。」
「ふふ、ありがとう。それなら幸いだわ。」

「………何だか調子を狂わされるな――……。カーシュもそんな感じだったのかな?」
 先程からネコの動作がとても面白い。照れて頭を掻いたと思ったら、何かを紛らわすかのように視線を動かして、遠くに思い出を見つけたと思ったら、今度は目の前に事実を見つけて笑う。
 セルジュはやっと私に視線を向けて、そうして尋ねてきたのだった。

「…そうね、私には判らないわ。でも、私があの方に調子を狂わされていたのには間違いなかったでしょう。」
「…………。」
「お願いだから、あの方を誤解なさらないでね。あの方は人一倍騎士団を大切にしていらして、自分よりも周囲を優先される方だったの。それがあなたにどんなに迷惑だったかは判らない。判らないからこその戯言なのかもしれないけれど…。でも、お願い。過去に縋る愚かな女からのお願いだけれど、心に留めておいてね。」
「………うん。」
 セルジュは真顔で頷いた。
 そしてまたそれぞれに海を見て、水を切って進むボートに身体を任せて、ほんの数拍置いてから私は気づいて顔を上げた。

「嫌だわ、話が横にそれてしまった。本当に言いたかったのはこれではなくてね。」
 そしてまた改めてセルジュを見る。

「ありがとう、ってことなの。今なら心からそう思えるの。テルミナから私を導いて下さって、本当にありがとう。この先にどんな結果が待っていたとしても、私は先へ進むことができそうなの。本当に、ありがとう。」
「…………。」
 セルジュは目を丸くして私を見た。

「……そんな、お礼を言われることじゃないよ。むしろ、ボクのほうこそ。…一緒に来てくれて、ありがとう。」
「嫌だわ、セルジュ。私がお礼を言われることなんてないの。あなたがお礼を言うことなんてないの。嫌だ、本当に嫌だわ。私はあなたにどんなに感謝しても足りないくらいなの。お願い、お礼なんて言わないで。」
「でも、ボクもそんなに言われると逆に申し訳なくなっちゃうな。危険な戦いに巻き込んだかもしれない、って思っているんだし。」
「だからそれは、最終的には私が選択したことだから、――」
「それでも、結局はボクの都合に付き合わせただけで、――」
「もう、嫌だわ、セルジュ!そんなに気を遣わないてちょうだい!」
こそ、そんな妙に丁寧な口調で話さないでよ!」








「………もうひとつの世界がある。ボクの死んでいる世界。」
 呆然と立ち尽くす私に、セルジュが静かに語りかけた。
「でも、そこではアカシア龍騎士団は無くなってはいないんだ。四天王も、――カーシュも、きっと、生きている。テルミナも栄えている。
 そしてこの大きな戦いに、アカシア龍騎士団は巻き込まれているんだ。ヤマネコの陰謀に利用されていたんだ。」
 私は意味を計り兼ねていた。視線を地面に、マブーレの大地に向けたまま、セルジュの方を向くことすらできない。
 全てを失った私は、本当に呆気なかった。

「世界を繋ぐ揺らぎが復活した今、ボクはあっちの世界に戻る。やらなければならないことがあるんだ。そのためには、一人でも多くの仲間が、一緒に戦う仲間が必要だ。」
「…………。」
。キミが、これからどうするのかはキミの自由だ。…また、テルミナに戻って、静かに暮らすのも、ひとつの選択肢なのかもしれない。
 …でも、迷っていると言うんだったら、ボクと一緒に来てはくれないか?もしかしたらそこに、キミの探す道があるかもしれない。」
「……そちらの世界の、騎士団……」
「……うん。」


 そうだ、そうだったのだ。
 セルジュの語った話には、“こちらの世界”“あちらの世界”が出てくる。あのときこうしていたら、こうなっていたら。「たら」「れば」の可能性から生まれる、とてもよく似ていて、少しだけ異なる2つの世界。そしてこちらの世界では既に無くなっているアカシア龍騎士団も、ヤマネコ様も、――カーシュ様も、あちらの世界ではまだ健在なのだとか。
 ただ、死海へ行くことだけで精一杯で、愚かな私はその意味に気づいていなかった。どこか、2つの異なる世界――パラレルワールドの存在を、頭の隅で否定していた。


 そう、“あちらの世界”には、まだ、カーシュ様が生きていらっしゃるかもしれない!


 それが何なのだ、だから何だというのだ。私はただ、本当のカーシュ様を探す。偽者の、ただの可能性から生まれただけのカーシュ様になど興味はない。
 ――そんなことを思っていたのかもしれない。

 マブーレの賢者に会って、ガライ様の霊と戦って、死海をこの目で見て、天龍に命を助けられて、そしてやっと私は、この世界の真実を、可能性を、信じることができるようになったのかもしれない。


「行きます、行きますわ!そちらの世界に。行かせて下さいまし!」
 気づけばそう口にしていた。
 今なら、無限の可能性を私も信じられる。偽者、本物。何がどうなっているのか、私には理解はできない。それでも、確かにそこに存在しているというのなら。

 カーシュ様にもう一度お会いしたい!

 そして何よりも、私は、目の前のこの心優しき少年の戦いに、力添えをしたくなっていたのだ。
 私を前に進ませてくれた導いてくれた、この少年の力になりたくなっていたのだ。
 私には、彼を取り巻く悲痛な運命の全貌は解らない。それでも、力になりたい。


 ――少しだけ、待っていて下さいますか、カーシュ様。
 は、真実を確かめとうございます。そして、あなたのひとつの可能を確かめとうございます。必要とあらば、力になりとうございます。
 そして、ただ、私を導いて下さったこの少年の力になりとうございます。
 もしかしたら、その後に、私の求める“道”が、見つかるやもしれません。

 ですから、少しだけ、待っていて下さいますか、カーシュ様。