天下無敵号、の名を持つ、エルニド海に漂う海賊船。私の居た世界では歓楽街ゼルベスの長であったファルガが船長として率いるこの海賊団の下に、一時的に我々は身を寄せていた。事を急いては仕損じる。セルジュの旅路は、まだまだ途方もない程に長いと思われたが、しかし、今は急ぐときではなかった。
 私はある種の違和感を胸に抱えながら、ある人物を探して甲板に出る。現在、この船には、アカシア龍騎士団に関わる多くの人物が乗っていた。


「カーシュ様!ご無事で何よりであります!」
 私の視界の中で、アカシアの龍騎士の鎧を身にまとった一般兵が、四天王であるカーシュ様に向かって敬礼混じりに話しかけた。
 すると、なんとカーシュ様は一介の騎士に過ぎない彼女に顔を向けて足を止めて、気さくに挨拶をされて、会話を始められたのだ。
「おまえはずーっと牢屋に閉じ込められてただけだけどな!」
 楽しげに話す飛び切りの笑顔。龍騎士は甲冑の下できっと顔を赤らめているのだろう、少し声を荒げて話す。
「そっ、それだけではございません!わたくし、ファルガ殿と協力して、他の者をお助け致しましたッ!」
「それだってファルガの力じゃねーか。全く、おまえはまだまだだな!」
「…た、確かに、そうですけれど…っ!で、でもっ、カーシュ様は相変わらずのお力ですね!かつての敵ヤマネコと手を結び、パレポリの目を欺くその知恵!あの大人数の包囲の中からお嬢様を救い出す強さと勇気!そして、愛!やはり貴方は、私の尊敬すべきお方です…っ!」
 蛇骨館潜入よりこれまで、さほど多くの時間は経っていない。だからまだセルジュに関する情報は、特に彼女のような部外者にはよく伝わっていないのだろう。多少間違いのある言葉に小さく苦笑し、けれどもカーシュ様はさも楽しそうに彼女と接した。


「それじゃ、オレはこれから大事な役目があるから。おまえはせいぜい船に残って、訓練でもしてろ!斧だって忘れんなよ!」
「了解であります!このわたくし、カーシュ様のご指導なくとも、必ずや、その名に恥じぬ龍騎士で在り続けましょう!」
「テメー!言うようになったな!おまえなんかまだ見習いだ、見習い!」
 ひとしきり話して、笑いあって、そしてカーシュ様は歩いてセルジュの傍へ行く。また違った様子で彼と話し始めるカーシュ様の様子を、彼女はじっと甲冑の奥から見つめていた。


 私は勘の鈍い女ではあるが、頭の弱い女ではない。これくらいなら、はっきりと私にも、手に取るように解る。
 たとえ甲冑でその身を顔を隠していても、たとえ分厚い装甲で身をかためていても、溢れる気持ちを隠すことなどできはしないのだ。熱い恋心に気づかないのは、せいぜい、その気持ちを向けられている本人の男性のみだ。

 私は甲板の上で足を進める。一定の幅を一定の間隔で踏んで、龍騎士の彼女の傍へ歩み寄る。
。」
「……あ、貴方は…」
 ぴくりと甲冑が反応して、私を見る。その視線にはもう先程までのような、焼ける程の熱は込められていない。ただほんの少しの疑問と興味が含まれているだけだ。
 “私”であるならばすぐにはっきりとものを言うであろうところを、この龍騎士の彼女はしばらくためらって、中々言葉を継ごうとはしなかった。私は無表情に、その奥に正体の知れないどんよりとした怒りのような気持ちを湛えて、彼女を見ていた。

「どうして甲冑をしているの?」
「え?」

 彼女の予想にはなかったであろうことを言う。

「それを取りなさい。」
「………。」
「取りなさい!」
「――だ、だめです!これを取ったら、私は――」

 私は拒絶の意を示す彼女には構わずに、右手を伸ばして、彼女の身につけている甲冑の留め具に指をかけた。

 今までに何度もそうされてきたように、慣れた手つきで、この私が龍騎士の甲冑を外す。
 言葉で嫌々とは言うものの、結局行動には移さない彼女から甲冑を取り外し、その素顔をあらわにさせる。


「――――。」
「――――。」


 私と同じ髪。私と同じ目。私と同じ顔。
 私の目が私を見る。少し怯えたような、実際のところはいったいどういった気持ちを抱いているのか解らない、私の目で私を見る。

「や、やはり貴方は……」

 そうは言いつつも、はやはり混乱しているようであった。

 しかし私は混乱してはいない。冷静に手甲を外して、そして手を覆う布地も外して、手を冷ややかな外気に晒して、
 そしてその手を大きく振りかぶって、の頬を張った。

 乾いた音が甲板に、海に、空に広がる。それと同時に霧散する。せいぜいその程度のことだ。


「……この、愚か者ッ!」
「………。」
 は手で頬を弾かれたその姿勢のまま、どこか虚空を見つめている。いや、見つめてすらいなかった。
 私はどんよりと重くのしかかる気持ち、怒り、憎しみ、それらに似たようなものを燃え上がらせ、を大声で怒鳴りつけた。

「貴方のような、いつ終わるとも知れぬ平和な日々に骨抜きにされ、ただ安穏と生を送るだけの馬鹿者が私だなどと――、信じたくもない!」
「…………。」
「恥を知れ!」

 しかしが気を持ち直すのは、私の無自覚の予想よりも非常に早かった。何も映していなかった瞳に確かに私を捉え、その内に敵に立ち向かうときの勇気や強さを閉じ込めて、彼女は私に向き直る。

「何ですって!?貴方、いったいなんのつもりなの!?いくら貴方が私であろうとも、突然そのようなことを言われれば私には理解することはできない!」
「私は貴方。貴方は私。私は貴方のもうひとつの可能性だ。」

 声の調子を抑えて、しかし燃えたぎる炎はそのままに、私は私の目を見て静かに話す。

「セルジュという少年の死によって、大きな2つの可能性が生まれ、この世界はふたつに分かたれた。“貴方”ではない“私”が存在する世界には、貴方の愛する人はどこにも居ないのよ。」
「………え?」

 強い瞳が瞬間揺らぐ。まぶたが動きまつげが揺れ、は動揺した、しかし真剣な面持ちで私を見つめた。

「蛇骨大佐は騎士を率いて死海へ向かい、そしてそのまま飲み込まれました。リデル様も、ゾア様も、マルチェラ様も、私のような、貴方のような、多くの龍騎士達も。」
「…………。」

 一拍置かれて、私は続ける。

「もちろん、カーシュ様も。」


 がそのときいったいどんな気持ちになったのか、私には解らないし解りたくもなかった。
 驚いてか、絶望してか、衝撃を受けてか、悲しみを抱いてか、ただただ私を見るばかりで一向に返事をしようとしないに、私は言った。


「好きなら好きと言ってしまえばいいでしょう!!」


 荒げた声は当然、甲板にて話をしていたカーシュ様とセルジュの元へも届く。大方、最初の平手打ちのときから不穏な空気を感じてはいただろう。
 そして私の言葉も、しっかりとその耳に入れていただろう。

!…さん!」

 セルジュが私と私の名前を呼び、こちらに駆けて来る。本当に優しい少年だ。
 そしてそのすぐ後ろには、カーシュ様も立っていた。

 私は表情を変えずに、カーシュ様を見る。カーシュ様を表情を強張らせて、私ではないほうの私を見る。
 やっと甲板に居る他人の存在に気づき、は、一度、二度、私とカーシュ様とを見比べ、まるで、何かしてはいけないことをしてしまったときのような表情になって、私を見てから、走って船内へと消えた。

 今度はセルジュが、おろおろとした様子で、私とカーシュ様とを見比べ、そしての消えた方へと視線をやる。
「お気になさらないで……セルジュ。」
「で、でも…」
「いいの。これは私の問題だから。…ごめんなさいね。」
「…………。」
 セルジュは何だかとても悲しそうな表情をした。ああ、そんなに悲しそうになさらないで。浮かんだフレーズは言葉にはならない。
 そして彼は、いったい何に気を遣ったのか、甲板から立ち去る。


 他に人も居ない。私はこの甲板で、カーシュ様と2人、残された。