カーシュ様がレナや彼女の母親に挨拶やお礼を言い、アルニ村を去るのを、私は見てはいけなかった。
 なぜなら私が「死海へ赴くカーシュ様」に会ったのは、あのときの早朝、それが最後でなければいけなかったからだ。
 私は寝たふりをして他人の家に引きこもり、カーシュ様を見送りはしなかった。




 私は準備を終えて家主に挨拶すると、村を出る直前に見送りにきてくれたレナに改めて向き直った。

 夕焼けに似た色の髪の少女の見送りは、とても心もとないものだった。ただただ見送られる者への、私への心配が詰まっている。
 一度、二度、三度、私はがむしゃらになってレナに礼を言って、その手を握って、どこまでも不自然にアルニ村を去った。
 ただ私の頭にあるのは、ここを出なければ、出て目的地へ向かわなければ、という思い。私はそれに従うままに最低限の平静だけを繕って行動した。
 レナもまた“可能性”を探す余地のある人物だということに気付くこともなく。








 村を出て少し歩き、誰の姿も見えなくなったところで私は立ち止まった。


 しかしそれも一瞬のことである。私はすぐに何かに弾かれるように走り出し、「目的地」へと向かう。
 向かうは私達の町、テルミナ。私の故郷であり、カーシュ様やダリオ様の生まれた町。
 私はそこに帰るのだ、カーシュ様の言葉どおりに、そして私の記憶どおりに。私はそこに帰って、3年間カーシュ様を待ち続ければよい。
 そして3年経てばドアをノックして“セルジュ”という少年が部屋に入って来て、私に様々な夢のような世界の旅の物語を届けてくれる――

 そのようなことを頭に浮かべるとも知れず、私は無我夢中で走る。走る。走る。そして転んだ。
 私は溺れ谷というにはまだ草木の豊かな地点で転んだ。足元も見ずに前すら見ずに走っていたのだから、当然の結末であった。

 顔を上げる。もう兜は付けていなかったから(そう、「私にはもう兜は必要ない」のである)、ろくに受身も取れなかった私の顔にはたくさん傷がついた。
 口の中にも砂が入り込んだので、ぺっぺっと吐き出す。ひとしきりその動作を繰り返してからふと歯を合わせてみると、じゃり、というあの砂を噛む独特の嫌な感触が脳にまで響いた。

 私は私の進行をこんなところで阻害されるわけにはいかない。立ち上がり再度進もうと足を踏み出す。
 だがそれまでだった。

 何の前触れもなしに私の思考は何事かによって掻き混ぜられ始める。意識で追うには膨大な量の思いや考えが頭を駆け巡り私の脳を削った。


「(私はいったいどこへ行こうというの?テルミナの町?でもそこは私の帰るべきところではない。私は家を捨てた。そして龍騎士になった。私の帰るべきところは蛇骨館だ。あの町は私の帰るべきところではなく、守るべきところだ。
 蛇骨館はまだ健在である。私はあの場に帰ることができる。あの場に帰って、また戦うことができる。
 できるのか?四天王が一人もいない、私の憧れが姿を消してしまった状況で。それに私は何も始めから戦うことを諦めていたわけではない。最初こそ蛇骨館に残り剣や斧を振るっていたのだ。私が諦めたのはいったいいつだったか。
 いや諦めたことなどなかった。ただ私は続く虚無に心を蝕まれ心が麻痺してしまっただけだ。明確に諦めていたらそれこそ私は戦うことができていたはずだ。私は戦わなかった、ただ悲しみに身を浸すばかりで。
 私はそのような人物になりたかったのか?清楚で、可憐で、気品と情熱に満ち溢れた美しい、薄幸の女性に。薄幸といえば私はリデルお嬢様に憧れたこともあったか。だからこそ私はあのような女性になってしまったのか。
 私はいったい誰なのだろう。死海へ行くカーシュ様達を止めることもできず、ただその帰還を待機していて、しかしそのときはやってはこずに、いつか蛇骨館が悪の手によって破壊され、テルミナに戻り平坦な日常を続けていた、それが私なのか。私はいったい誰なのだ。)」


 思考の狭間で、不快感に私は咳き込んだ。だがそれが幸いして私は冷静さの入り込む少しばかりの余地を手に入れる。


「(私はいったい、誰なの?この旅は何?わからない、何もわからない。なのに私は『知っている』――。
 誰か、誰か、誰か、この言葉の矛盾を私にも理解の及ぶように説明して!私にはこの不可思議な事象を想像することすらできない!誰か、誰か、カーシュ様――!)」


 その隙間に入り込んできた冷静さは私の愚かな人間性を呼び起こし、私の人間性は私のアイデンティティを目覚めさせる。私はずっとずっと目指して駆けてきた背中を思い描きただ夢中でそれに助けを求めていた。
 カーシュ様、カーシュ様。その背中目指して走ることは、何と軽く、楽なことだっただろう。
 何と尊く、充実したことだっただろう。

 それが私の全てだ。そうだ私はどんなときも前を見て走って来た。


「(……カーシュ様は、今はいない。きっとご自身の可能性をもう見つけてしまわれたのだ。
 私は?私はなぜ、未だこのようなところで迷っているの?私はここのところずっと、もう一人の自分を思い描いては悩んでいたというのに――。なぜ私はまだこんなところにいるの。)」




 私はやっと立ち上がった。今度こそ本当に立ち上がった。
「(行かなければ。私は、私の行くべきところへ、行かなければ。)」
 そして転んだときに周囲にぶちまけてしまった荷物から直接兜を抜き取って、それを装備する。
 私は龍騎士だ。アカシア龍騎士団所属のしがない一人の下級兵。それが私だ。

 つぎはぎだらけの兜は頭部を守る装備品としてはとても心もとない。だがそれでいい。これの役割はあくまでもそんなものだ。
 私が私であることの証明。


 無数にあった選択肢の全てを自分の意志で切り捨てた(たったひとつ、“私”が選ぶべきたったひとつ以外は)私は、目的地へと歩き出す。向かうのはテルミナではない。“”が、かつてカーシュ様と共に向かったヒドラ沼。ただ、そこにはもうヒドラもドワーフも生息してはいないけれど。
 そこは現在は毒素に冒されて、とても人間が入るには危険過ぎる土地となっている。ましてや、私のような実力のない者が一人では危険度は尚更高いものとなる。
 だがそれでも、私はそこに行かねばならなかった。かつて私の可能性が分かたれた場所、世界を二分するには至らなかったけれど、それでも確かな私の分岐点となったところへ。








あとがき