扉の前で、必死に心を落ち着ける。
 深呼吸をする。すーはーすーはー。効果音が妙に安っぽい。
 それでもまだどきどきと胸が高鳴っている。あまりの緊張に、そのまま倒れてしまいそうだ。
 こんなこと、カーシュ様のお部屋にお邪魔するなんてこと、この3年の間に何度も何度もこの身をもって経験してきたというのに。

 意を決して取っ手に手をかける。すっかり手になじんでいたはずのそれは、籠手ごしにも、冷たく重い。
 扉の前でためらって、取っ手に手をかけてためらって、そしてついに、
 取っ手を下げる。そしてまたそこでためらって、刻々と時間が過ぎてゆく。


「……………………。」


 ぶは、と、今まで耐えてきたのがついにはちきれたような笑いが部屋の中で起こったのが分かった。清々しいまでの遠慮のなさと大胆さで、そのまま笑いは大きくなってしばらく続く。
「……………。」
 私は兜の中で視線を下げ、気恥ずかしさに頬をかきたい気持ちだったがそれをすることができなかったのでただ黙り込んだ。
 笑い声が聞こえる。カーシュ様の。


「く、くるしい………おまえ、さっさと入って来いよ!」
「大変失礼致します!」
 それまでの緊張ためらいも何のその、カーシュ様にただ一言そう言って頂けさえすれば、長年鍛えられてきた条件反射と忠誠心から即座に部屋に入室することができる。
 けれどもそこは「カーシュ様の」お部屋だった。私はここに、「カーシュ様から」呼ばれた。その事実は当然私に動揺を与えていた。顔が隠れていて本当によかったと私は思う。

「まあ遠慮すんな、座れ!」
「は……」
 返事をしたはいいが、そう言ったカーシュ様の示すのは彼の座っておられる隣、横に広いソファの端である。
 いつもの私ならば、カーシュ様とソファをご一緒できるだなんて!と、喜んでそこに腰掛けていただろう。だけれども、今の私にはとても、…。
「…………結構でございます。わたくしはここに立たせて頂きますので…」
「ん、そうか。まあ、おまえがそう言うならいい。」
 カーシュ様はカーシュ様でそんな私の様子に違和感を感じられたのか、感じられたようであるけれども、それ以上言及してくることはなかった。私は内心でカーシュ様にお礼を言った。


「して、今回このようにお呼び立てなされたご用件は何でしょう。」
「全くおまえは、ほんっとに無駄に丁寧に話す奴だな……」
「これがわたくしでありますので、ご容赦くださいませ。」
「でも、グレンとか、騎士団の同期には親しげに話してるんだろう。」
「ええ、それはまあ、確かに彼らはわたくしの同期、友人でありますから…」

 会話を続けながら、私は私で、その内容に疑問を抱きつつあった。なぜカーシュ様はこんなことを、こんなときに、改まって、話題にしてくるのだ?
 私のこの口調は騎士団に入団した頃から変わらないものである。…確かに、当初に比べれば少々女性らしさを失ってしまったことは事実であるが、それは緩やかな変化であり、今改まって、わざわざ私を呼びつけてまで話すようなことではないはずだ。おそらく。

「ただ、おまえのは少しがさつで、乱暴なところがあるんだよな…」
「!?」

 それはわざわざ私を呼びつけてまで話すようなことではないはずだった。おそらく。
 私は思わず目を剥いてカーシュ様を見た。兜に隠れて、その表情がカーシュ様に知られることはない。
 私のこの驚きは、カーシュ様が突然意味不明な文脈に関係ない、全く身に覚えのないことを口走ったからではない。あまりにも私の心に強く響きすぎて、なぜ彼がそのようなことを言うことができるのか、純粋に過剰に気になってしまったからだ。

 “おまえのは”。
 では、「少しがさつで、乱暴なところが」ない、「無駄に丁寧に話す」人は、どこにいる?


「…………。」
 うまく言葉を見つけられない。私は俯いて黙り込んだ。
 カーシュ様は私を見て何を思われたのか、急に申し訳なさそうに表情を変えて、声調を和らげた。
「…いや、悪かった。変なことを言ったな。」
 けれども私は、そんなカーシュ様に対してむしろ声を荒げる。いいえ、違うのです。
「いいえ!違います、違うのです。私はただ、カーシュ様のお言葉が気になって……」
「!?」
 今度は驚き目を見開いたのはカーシュ様だった。言うことを言ってしまうと心もとなげに立ち尽くすことになった私を前に急に立ち上がって、私に詰め寄る。両肩を掴む。

「気になるだって!?」
 突然の距離に心をときめかす余地もない程、カーシュ様の声は、表情は、切羽詰ったものになっていた。
「いったいどこが!?」
 がくん、と、揺さぶられる。しっかりと両肩を掴む手の力は強く、恐ろしい。
 私はカーシュ様を見つめた。
「わ、わたしには、うまく言い表せないのですが…、カーシュ様の先程の、まるで“もう一人の私”がいるような、口ぶりが、」

 カーシュ様の手が離れるのは突然だった。突然の衝撃、いや束縛からの解放に私は少々よろめき、けれども体勢を持ち直してそしてそれでもカーシュ様を見る。

「もう一人の自分……」
「あ、あの、私の勝手な印象ですので、気になさらないでくださ」
「おまえ、他に何か、最近変わったことねーか?」
「え…」

 その問いかけは実に突然のものだった。話題の転換が急過ぎる。けれども私自身、何か思い当たるところがあったのだろう、不思議な程自然に、考えることを始めていた。
 最近、変わったこと。
 ――ふと、ある日、目を覚ましてから、何かが変わってしまったような気がしていた……。長く夢を見ていた気がした。――


「……笑わないで、聞いて下さいますか。」
「何でも聞く。尋ねたのはこのオレだ。」
「………最近、切に思うことがあるのです。もう一人の自分がいたら、という仮定。
 私は今の自分に満足していません。私には憧れる自分の像というものがあります。私の頭に度々浮かぶのは、その『憧れる自分の像』というものを具象化したような、そんな自分の姿なのです。
 私は思うのです。自分に腹が立ったとき、自分に愛想を尽かしたとき、『でも、あの自分なら、』と…。」


 話し終わった後すぐにはカーシュ様の反応はなかった。
 こんなことを話してもいいのだろうか…という不安に駆られながらも話していた私は、終わってから尚更不安になる。こんなことを話してもよかったのだろうか。カーシュ様に変に思われてしまったのではないだろうか。
 視界を得るために開けられた兜の穴から、カーシュ様をちらりと伺い見る。

「……そうか、“もう一人の自分”が……。」
「…………。」


「…………。」


 考え込むようにカーシュ様が黙り込んでしまったものだから、当然私には声を発することはおろか何か動作をすることもできず、私は抱えるには重過ぎる捨てるには軽すぎる不安を抱えて立ち竦んでいた。けれどもそんな中でも必死に、四天王のお傍に居られるような龍騎士目指して美しく立つ。
 私がどの程度そうしていたのかは正確には知れないけれど、とにかくカーシュ様のお言葉は突然のものだった。


「よし、出かけよう。」


 突然の、そう、発せられたタイミングも内容も何もかも突然のその言葉に私はただただ「はあ?」と、四天王のお傍にはとても居られないような間抜けな龍騎士の声をあげることしかできなかった。
 それでもカーシュ様は非常に納得しておられるらしく、立ち竦む私をよそに意図的に立ち上がって、部屋の中を忙しく行ったり来たりして何事か支度を始めた。
 あの、と呼びかけようにもうまく声が出ない。ならば私にできるのはずっと立っていることだ!と仕方なくそう決めて、私は大人しく部下らしく龍騎士らしくその場に立っていた。
 カーシュ様の身支度する姿をこの目で見られるだなんて……という喜びは、「四天王のお傍に居られるような龍騎士」ならば、感じてはいけない感情だ。


 カーシュ様はそんな私に対して目も暮れず、あわやこのまま部屋を出て行って、本当に「出かけて」しまうのではないか、というときになって、ようやっと、私に声をかけて下さった。

「オレはしばらく館を空ける。ゾアもマルチェラも一緒だ。大佐は館から出るわけにはいかねえし、お嬢様は危険だから連れて行けない。
 どうだ、おまえは来るか?“可能性探し”に。」

 私は驚いてカーシュ様を見る。私が何と答えたらよいのか考えることもままならずにいると、カーシュ様はころっと言葉を変えられた。
「いや、おまえも来い!オレが見たところ、おまえも関係者だ。絶対に来たほうがいい。」
「は、はあ……」
 言われるがままに手を取られて、そのことに喜ぶ暇もなく私は部屋から連れ出される。ああ、さようなら、カーシュ様のお部屋。
 ただ私の頭にあるのは、事の突然さに対する戸惑いのみ。何となく、この突然さは、私の愛する日常を壊してしまうような気がしていた。


 カーシュ様に連れられて、館の中を歩く。いや、歩かされている。


 いつもの私だったらきっと、喜んで!とか、ぜひとも!とか、とにかく自ら進んでカーシュ様の外出にご同行しただろうに、どうしてか、このときばかりは自ら動くことができなかった。
 それはなぜか、わからない。けれどもこのとき私の中には、私自身が先程カーシュ様にお話した「もう一人の自分」の姿が、確かにちらついていた。
 清楚で、可憐で、気品と情熱に溢れた美しい女性。私のような粗忽で乱暴な者では決して成り得なかった私の姿が……。