作業は円滑に進んだ。人の数は元より、成し遂げたいと思う意志が確実にそこにあった。
 従来、訪れ手を合わせる者も減りどこか寂れた雰囲気を漂わせていたテルミナ外れのそこも、今では人々の手によりきれいに整備され、別世界のそこと同様の厳かな、特有の空気をまとうようになっていた。

 テルミナ商店街を奥に進み、石造りの階段を右に曲がって降りて、今は聖剣の刺さっていない一角を通り過ぎて、小島と小島を繋ぐ小舟に乗る。
 さらさらと優しく流れる水を掻き分け、舟を進める。そしてその場に私は足を踏み入れた。先にそこに訪れていたカーシュは私の来訪に気付くと、気恥ずかしいことでもあるのか、視線をわずかに傾けて片手を挙げるだけで応じた。
 カーシュが前にしているのはその場に定感覚に並べられた多くのうちのひとつの石だった。歩いてカーシュの傍に寄りがてら、そこに刻まれた名前を私は横目に確認し、そのことについては特に言及せずにカーシュに向き直った。
 私は確かにこの目でカーシュを見つめた。


「………一応な、オレにだってセンチメンタルな面はあるんだよ。」
「え?」
「花でも供えてやろうと思ってな。青リンドウ。」
「…ああ……」
 カーシュが顎で示した、実際彼の目の前の石の目の前に置かれた青い花を見とめて、私は納得して呟いた。彼が何を突然言い出したのかも理解して、頷く。
「ありがとう。私達のエゴに付き合ってくれて。」
「いいさ。オレにとっても、他人事じゃねえしな。」
 見ると、その場に点在する他の石の前にも、青リンドウの花が供えられていた。カーシュが供えたものだ。


「……でも、よかったわ。」
「ん?」
「貴方達が来てくれて。」
「…ああ…」


 川のせせらぎがゆっくりと聞こえる。ゆっくりと時間が流れる。
 ゆっくりと話をする。


「どんなに私達だけががんばったとしても、それでは意味がまるで無かったの。私達はひとつの集団として、一丸になって戦ってゆかねばならない。
 そのための活気を人々に思い出させるには、私達だけでは力が足りなかった。
 ……本当によかったわ、貴方達が来てくれて。」
「これじゃ、いつかとは逆だけどな。」
「…逆?」
 私は純粋に疑問に思い、語尾を上げてカーシュに尋ねた。

 カーシュは答えた。
「最初に世界のひずみが出来て、時空を移動したのはセルジュだ。あいつはHOMEからANOTHERへ移動した。
 まさか今回は、オレらがこっちへ飛ぶことになるとはな……」
「びっくりしてしまうわね。セルジュに連れられてではなく時空を越える感覚は、どのようなものだった?」
「……突然のことに焦りすぎて、全然覚えてない。」
 私はくすりと笑った。
「それはいつかとは同じね。セルジュも言っていたわ、最初の時空移動のときは、突然過ぎて現実味に欠けていて、あまり記憶に残っていないのだと。」
「ああ。…まあ、そんなもんだろうな…」
 カーシュはどこか遠くを見るように、どこか遠く、現実でないところに語りかけるように、そう言った。それだけ彼にとっては「時空を越える」ということが、現実味のないことだったのだろう。

 そしてその途端に、えもいわれぬ切なさは私を襲った。幼い頃の淡い初恋をしたときに似た、純粋できれいな感情だった。
 そしてきれいなものと同時に汚いものも誕生する。それは欲求だ。欲するものが目の前に現れた途端に色を濃くする、醜い汚い欲求だ。
 彼にあんなふうに触れられていたが本当に羨ましい。この感情は汚い。私も彼に触りたい。私は貴方に触れられる、この世界で確かに生きている。そう証明したい。この感情は汚い。
 けれどもそれら全ての原因となる感情は、きれいで、純粋なものだ。


「好き。」


 私はその感情を告げた。


「好きよ、カーシュ。愛しているわ。」
 私はカーシュにその感情を告げた。ただ素直に、言葉にした。
 そして彼に向けて手を伸ばす。カーシュはその手を取ってくれたけれど、指と指が触れた途端に、私は悟った。静かに悟った。
「…………悪い。」
「…………。」


 返事はそんなものだった。私は静かに俯いて、彼の返事を一字一句逃さずに噛み締めた。 そうすると、私の愛しさ切なさも今度こそ本当に過ぎたものに変わって、逆に見えてくるものがあった。

 いかにも、恋愛に対して不器用で、途端にナイーブになるこの人らしい返事だ。
 そして、恋愛に対して非常に真剣に向き合うことのできる、この人らしい返事だ。

 そっと私の手は彼のほうから離される。もうその手を追うことはせずに、そっと、私は私の手を自分のもとに引き寄せた。

 カーシュはしばらくばつの悪そうな顔で立っていたけれど、…いや、だからこそか、私はほほえんだ。
 貴方が気になさらないでね、カーシュ。暗に目で訴える。
 それでも彼の様子が変わらなかったから、私は笑みの形を変えて言ってやった。
 そのようなことを言ったことのない私にとっては、少々むつかしいことだった。


「…………。」
「……全く、カーシュったら。おかしな意地を張って、私の思いをのけたこと、後悔していらっしゃるのではなくって?」
「…ばーか、んなわけねーだろ。」
 カーシュがそこで初めて表情を変えて、私の言葉に便乗して下さる。何て優しい方なのだろう。そう思いながら私は尚も続けた。
「あら、どうかしら。貴方はいつまで経ってもお嬢様に思いを告げられない甲斐性のない方ですもの。」
「なんだって!?」
「私知っているのよ、カーシュ。貴方がお嬢様に思いを寄せておられたこと。そしてそれを、未だにお嬢様に告げられていないこと。」
「別に告げなくたっていいだろーが。オレは今の関係に満足してる。」
「本当に?本当にそれで良くって?そうは思っていないのが私にもまるで分かるわ。
 私は貴方が心配なのよ、カーシュ。もうずいぶんといい年になったというのに、いい人のひとりやふたりも居られないだなんて……。
 お嬢様に言い迫る覚悟がおありなら、その際には私に相談してちょうだいね、カーシュ。いつでも力になるわ。」
「…………。」

 発言する番がカーシュに回っても、彼の言葉はない。
 そのときにはもう、いいや私が私の番を最後まで終える前に、私は既に泣いていた。顔を両手で隠して泣いていた。


……」
「……ごめんなさい、ごめんなさい。無粋なことを言い過ぎたわ……」
 だが、私が涙を流したのはそれが理由ではない。
「……カーシュ様にも、こんなふうに思いを伝えて、そして今貴方がしたように思いを告げられることができていたのかもしれないと思うと…っ」
「……バカ。おまえのカーシュがオレみたいな甲斐性無しとは限らねえだろ。おまえのことをちゃんと見てたかもしれないじゃねえか。」
 カーシュの優しい気遣いの言葉。しかし私は首を振った。
「…私はね、カーシュ。そうは思わないの。決して今は思わないの。
 もしもカーシュ様が遠征から帰っていらしたら、彼はそのとき、私が当時望んでいた言葉を下さっていただろう、なんて、今では思わないの。」
「え……?」


 私の心にカーシュ様が浮かぶ。
 流れるような蒼い髪。深い色の、吸い込まれてしまいそうな赤い瞳。
 でも違う。今私の前に居るのは、流れるような蒼い髪に、深い色の、吸い込まれてしまいそうな赤い瞳を持つ、カーシュという名前の、別人だ。
 私はその像をすぐに掻き消した。


 私は顔を覆う両手を離して、涙は拭わずに、カーシュを見上げた。笑う。
「当時はカーシュ様に思いを受け取って頂けたかもしれないと有頂天になるばかりだったけれど、今、貴方と出会って、様々な人の可能性を目の当たりにして、冷静になって考えると、そう思えてならないの。貴方を見ていてもよくわかるわ。」
「………そういうもんなのか…?」
 カーシュはたぶん問題なく笑えているのだろう私を見て、それだけ言った。少し腑に落ちないような様子だった。
 だが、男性というものはえてしてそういう生き物だ。総じて、意地でも鈍い。
 それが自分自身(とその可能性)に対しての分析をされているともなれば、どんなにそれが事実に近いものであるとしても、意地のようなものから絶対に事実と認めることはないのだ。
 私はそれを知っているのだ。なぜならカーシュ様とカーシュをずっと見て、心で追ってきたからだ。


 私はくすくすと笑みを零した。自然に、奥底から溢れ出た、気持ちのいい笑いだった。
 涙はいつしか乾いて頬に張り付いて、まるで最初から居なかったかのようにふるまっていた。わずかに残った跡にはカーシュは気付かないふりをしてくれるのだろう。彼は意地でも鈍い男性だから。
 そして彼は優しい人だから。

「それじゃあね、カーシュ。貴方は忙しいのでしょう?
 わたくしはもうしばらくこの場に留まるわ。貴方は遠慮なさらないで、先へ歩いていって。」
「……お、おお…」
「また会いましょう。そのときには、良いお知らせを期待しているわ。」
「やめとけ!期待外れてがっかりすることになるから!」
 私は笑顔でカーシュに手を振った。カーシュは困ったようなしかめっ面で言葉は乱暴に私に返していたけれど、それは何だかとても安心できる様子で、だからこそ私は笑顔でカーシュに手を振った。
 こちらには背中を向けて歩いていくカーシュも、最後に一度振り返って、こちらに手を振ってくれた。私はカーシュに手を振り続けた。
「またな、。」






 そして私は目の前の空間に向き直った。
 魂すら眠らない、たくさんの墓石に。