甘橙は入り江にて


 つやりと照る、ジューシーなパッションカラーが目に眩しい。
 紙袋いっぱいに詰まったオレンジは、世界を一日中ぴかぴかに照らし回った後でようやく沈んでいく赤みがかった太陽みたいな色をしている。身体の前で赤ん坊を抱くように抱え込んだ紙袋に鼻先を突っ込んで胸いっぱいに深呼吸をすれば、でこぼこの皮からは少し苦みがあって、けれど胸のすくような爽やかな香りがして、あたしの頬は勝手にきゅうっと笑顔の形に持ち上がる。
 新鮮つやつやで美味しそうな野菜や果物、それからあたしに甘くて優しい店主のおじさん。家のお使いなんて疲れるばかりだけど、唯一この八百屋へ来るのは好きだった。

 紙袋からぱっと顔を上げるとおじさんはにこにこ顔であたしを見ていたから、あたしもにっこりと笑い返す。

「それじゃ、お代はまた掛けでね! いつもありがとう、おじさん」
「おう! ……ああ、いや、そうだ。ちょいと待ちな」

 お礼も早々に、このお使いの依頼主であるお父さんに怒られる前にと立ち去ろうとするあたしを呼び止めて、おじさんがちょいちょいと手招きをする。なんだろうと素直に近付いていくと、おじさんはあたしのスカートの左右にあるポケットに小さいオレンジをふたつばかしぎゅっぎゅっと詰め込んでくれた。少し強すぎる力加減に釣られて一緒になって左右にぎゅっぎゅっと傾きながら目を瞬かせるあたしに、おじさんは「小さくって売りモンになんねえからな」と気前よくガハガハ笑う。
 日焼けで黒々とした顔は一見強面だけど、笑い皺がくっきり刻まれたこの笑顔を見れば怖がる奴なんてもういない。ほんのちびっ子泣き虫だった頃のあたしでさえ、そうだったんだから。

「いいの!? やったあ!」
「ははは! 端ッから期待してたくせに殊勝な口利きやがる。おやっさんにゃあ内緒だぞ! あんまり甘やかすなって、また怒られッちまうからな」
「うんうん、わかってる! おじさん、ありがと!」

 そうそう、こういうことがあるからあたし、ここに来るのが好きなんだ。八百屋のおじさんはおまけだと言って、あたしに形の悪い野菜や果物をくれることがたびたびあった。おじさんの言う通り、「今日ももしかしたら」の気持ちがあったことは否めない。
 でも、それを言ったらそうとわかってあたしを甘やかすおじさんのほうにも責任があると思わない? ……なんてね。ウソウソ、感謝してます、とーっても。
 おじさんに小狡さを揶揄われ、自分でも現金すぎると内心頭を小突きつつも元気いっぱいにお礼を告げて、手を振りながらに走り去る。
 そんなあたしの背中を追っかけるようにして、おじさんの「転ぶんじゃねえぞ!」の声が雲ひとつない青空に高く響いた。



 オレンジの小山を抱えながら機嫌よく、橙や赤をしたパステルカラーの石が大きさも配置もランダムに敷き詰められた大通りを往く帰り道。
 あたしはふと、自分が今まさに向かおうとしている先が少しだけざわついていることに気付いて、それから「うげえ」と顔を顰めた。町の外門から真っ直ぐに伸びる大通りの中ほどにある、冒険者向けの道具屋の前。そんなところにまでずかずかと乗り込んできた荷馬車と、大人ひとりの背丈を優に越えるほど高く積み上げられた荷物を目にしたからだ。

 あたしの暮らす町は今でこそ賑やかで旅人も商人も多く出入りするけれど、その起源は小さな漁村にある、らしい。随分昔のことで、あたしのお祖父ちゃんさえ産まれてないような頃の話だから詳しくは知らないけど。魚だの貝だの海塩だの……その他さまざまな海の恩恵を浴びながら慎ましく暮らしていたところへお貴族様がいらして、村の美しい景観に大変感銘を受けたのだという。
 それから村は漁業の傍ら観光業で目覚ましい発展を遂げて、今のような大勢の行き交う賑やかな町になったんだとか。
 問題はここからで、元々の起がちっちゃな村だったこの町は、今でもその規模は人の入りほどには大きくない。そもそもが入り江のそばでひっそりと興ったような村だったから、大きくなるための土地が圧倒的に足りなかったんだよね。限られた大地でせいぜい拵えられたものと言えば、それなりの広さの市場がひとつといくつかの宿屋とお店ぐらい。それも、どれもこれもぎっちり身を寄せ合うように建っているから、町はメインの大通りを除いては半ば迷路みたいになっている。

 つまりなにが言いたいかっていうと、この町に馬を休ませられるような余りの土地は観光用の定期便のためのもの以外にはほとんどないってこと。
 ちらりと視線を向ければ、今も商人は横柄な態度で声を荒げていて、道具屋の若い主人はおろおろと困った様子でいる。

「――わざわざ景色だけが取り柄のつまらん町まで来てやったっていうのに、これはいったいどういった了見だ!?」
「で……ですからね、本当に遠路遥々ありがたいことなんですけれども……」
「そう思うなら馬の休む場所のひとつぐらい、快く用意するのが礼儀ってもんじゃないのか!」
「え、ええと……そうだ! 我が家の軒下ならお貸しできなくもないですよ。日除け程度にはなります、ハイ」
「ふざけているのか!」
「め、滅相もない!」

 どうやら男は、馬を引き連れてきたのを店の主人に苦言を呈されたことや町に厩のないことで大層ご立腹らしい。
 うちによく出入りをする馴染みの商人さんたちならこの町独自のルールみたいなものをよくわかってくれているから、こんなことは起こりようがない。ということは、ここらの気風に疎い一見さんかな。と、そんなところまで考えて思い出す。
 そういえば、仕入れの商人さんのひとりが身内の不幸でどうにも都合がつかなくて、仕方なしに急遽暫くの仲介役として荷受問屋を雇ったっていう話が会合であったんだっけ。お父さんから軽く内容は聞いていたけど、うちにはあまり関わりのないところの人だったから、すっかり忘れていた。
 なるほどね。じゃあ、あの荷受の商人はバカンスがてら荷を卸しに来たのに、文句はつけられるわ、どうやら厩のある宿もなさそうだわでお冠なんだ。あたしに言えたことじゃないけど、相手がケツの青さも抜けきらないような若造だから舐めてかかっているというのもあると思う。
 勝手も過ぎればいっそ清々しさまであるけれど、こんなとんでもない奴を寄越してくれちゃって、仕入問屋のほうはどう落とし前をつけてくれるつもりでいるのか。大変なところに致し方なく仕事を任せた先で外れを引いちゃうなんて全くもって運がないと言えばそれまでだけど、ここまで大騒ぎになっちゃって、信用問題に関わってくる大事だ。
 だいたい、あの気弱な主人も主人だと思う。いつまでもおろおろきょどきょどぺこぺこしてないで、町のすぐ手前にはお国がわざわざ造ってくれた流しの商人向けの宿場があるんだから、そっちへ誘導してやればいいのに。まあ、あの手のタイプは大人しく聞きやしないだろうけどさ。
 人間たちが引きも切らずぎゃんぎゃんやっている傍で、見るからに若い二頭の馬は熱い陽射しに照らされ続けてすっかり滅入っている。間抜けな道具屋の主人と高慢ちきな商人は置いておくにしても、あれじゃあ馬が可哀想だ。馬たちには、主人を選ぶこともできないんだから。
 周囲の人々は遠巻きに眺めるだけで、誰もこの騒動を止めようとはしない。それであたしは仕方なく紙袋を抱え直して、ぷうっと大きく息を吐き出した。

 大丈夫……大丈夫。こんなに人目が多いんだもん。せいぜいが引っ叩かれるくらいで大層な真似はされやしない。万が一のことがあってもこの辺りの人間はほとんどが顔見知り。それに家にさえ辿り着ければ、漁師上がりのお父さんにあんなひょろひょろ男が敵うもんか。
 そうして入れた気合いが萎(しぼ)んでしまわないうちに、あたしはわざと足音を荒くしてふたりの間に割り込んだ。
 突然飛び込んできた小娘に男ふたりはぎょっとして、一瞬だけ黙り込む。その隙を逃さず、あたしはほとんど反射みたいにばっと口を開いた。

「ちょっと! いい加減にしなよ」

 威勢よく張り上げた声が少し震えていたのを自分以外に気付かれやしなかっただろうかと少し不安になる。だけど一度こうして声を上げてしまったからにはもう黙っていられずに、あたしはさらに続けた。

「さっきから聞いてたけどねえ、いい大人が見っともないよ。あんたがどんなに我儘言ったって海から厩(うまや)がにょきにょき生えてくるわけでもなし、そろそろ聞き分けたらどうなのさ」

 ただでさえオレンジにも負けないくらいに鮮やかだった商人の顔色は今や赤黒くさえなっている。後ろでやっぱりおどおどするだけの主人の薄っぺらの腹には町長さんを呼んでくるようにと肘をくれてやりながら、あたしは少しでも見くびられないように胸をぐっと反らし、眉間と両目に一生懸命力を込めた。

「あたしが宿場まで連れてったげるからさ、今回のところは引き下がってよ。がっかりさせちゃったんだろうし、宿の人に口利きはしてあげる。馬と荷物を任せておけば、観光する暇くらい少しは……――」
「――っお、女子供が商売に口を出すな! 引っ込んでいろ!」
「っ、え。わあっ……!?」

 すっかり口を利きもしなくなった商人に安心して、周囲の邪魔な野次馬連中をどう蹴散らそうかと気も漫ろなところへ胸座を掴まれて目を引ん剥く。文句を言う間もない。そのまま払い除けるように男の後方へと思いきり投げ飛ばされて、あたしは持っていたオレンジを散らかしながら背中からまともに荷馬車に突っ込んだ。
 なんの気構えもなく訪れた衝撃はあたしの肺から無理矢理に酸素を押し出して、一瞬呼吸も止まる。咳込みながら俯き見た地面にはいくつものオレンジが転々と跳ねていて、「おじさんに申し訳ないことしちゃったな」と暢気に思う。
 そんなあたしの身体全体を覆うようにして濃く大きな影が落ちたから、あたしは思わず空を見上げて――。
 そうしてあたしは、人は本当にびっくりしちゃうと一歩も動けなければ声だって出せやしないんだということを初めて知った。

 荷台の上で積まれていたいっぱいの荷物が、ぐらあっと重心を崩して倒れ込んでくる。周りの人の、潮騒みたいなどよめきが波紋のようにざあっと広がっていく。逃げなければと思うのに、あのいかにも重たそうな木箱があたしの頭をぺしゃんこに潰してしまう想像が何度もおでこの裏(うら)ッ側(かわ)のところに浮かんで、手足はがちがちに強張っていた。
 「わああ」なんて主人と商人の間抜けな悲鳴が聞こえてくるけど、叫びたいのはあたしのほうだっての。そうやって毒づいてやりたかったのに、やっぱり声は出ない。

 あ、やばい。どーしよ。
 あたし、死んじゃうのかも。

 もう目を開けていることすら恐ろしくって、ぎゅうっと目蓋を固く閉ざしたあたしの身体をなにかが横から掻っ攫う。
 驚いて目を開ければ、あたしのすぐ真横の地面には砕けた木箱とそこに詰め込まれていた荷物とがばらばらに散乱していて、周りの人々はみんな揃いも揃ってぽかんと口を開けた間抜け面でこっちを見ている。
 頭の中はぐちゃぐちゃでなにがなんだかちっともわからなくて。ばくばくと激しく鳴る心臓の音を聞きながらいつの間にやらお腹に回されていた太い腕を無意識にぺたぺた触っていると、不意に後ろから顔を覗き込まれた。

「危ねぇとこだったなあ、お嬢ちゃん。怪我はねぇかい?」
「――な、ない、ですっ」
「そうか。そりゃ、よかった」

 でかい、と。
 今までの全ての状況を忘れてただ思う。
 あたしを間一髪助けてくれた、右頬に大きく走る向こう傷を歪ませてにかっと笑った彼は、山のような巨体をしていた。金色の毛並みをした熊に人間性と社会性を持たせたらちょうどこんな感じかもしれない。
 気のいい熊さん然とした朗らかな彼は笑顔から一転鬼面を皮膚に馴染ませると、傍迷惑な男ふたりを厳しく怒鳴りつけた。荷受はびゃっと飛び上がって驚くべき脚力で馬を引き摺るようにして走り去り、道具屋主人は米搗き飛蝗のごとくビョンビョン頭を下げる。それら全てを見下ろして鼻を鳴らした彼はもう一度こちらを振り返り、あたしの腕のあたりに視線を留めながら太い眉をやんわりと下げて穏やかに微笑んだ。

「な、無理するこたねぇよ。ちょいと端に寄って手当てして、そんですぐお医者に行こう。見ての通り、おじさんは荒事の経験は豊富だからな、間に合わせにはなるが簡単な応急手当ぐらいはお手のもんだぜ」

 どうして彼はこんなにも熱心に心配してくれるんだろうと視線の先を辿って、あたしはようやく気付く。真っ赤に濡れた、自分の腕の惨状に。

「……ああ! これ、血じゃないの! オレンジ!」
「…………ん!?」



 紺碧の大海原が遠くに輝く、ビビッドオレンジのレンガ屋根と石灰が塗られた白い石の壁とが織り成す大迷宮を、あたしはのんびりと眺めていた。……優しい熊さんにお姫様抱っこをされた状態で。
 あの後、大怪我を負ったという誤解は解けたものの、すっかり腰が抜けてしまってひとりじゃまともに歩けもしなくなってしまったあたしは、結局熊さんもといエルガーさんの厚意に甘えて家まで送り届けてもらうこととなった。

「ごつごつして居心地はよくないかもしれねぇが、少しの間だけ我慢してくれよな」

 とはエルガーさんの言だが、もちろんここまで親切にしてもらって文句を言えようはずもないあたしは、そのお礼と言ってはなんだけど道中ちょっとした観光ガイド役を務めることにした。
 あたしがぺらぺら捲し立てるのを受けて物珍し気に辺りをきょろきょろ見回すエルガーさんにあまり身を寄せ過ぎないように気を付けながら、紙袋をぎゅうっと胸に抱いてまた口を開く。

「騒がしい町でしょ」
「ん? ああ。ま、俺はこんぐらい賑やかなほうがむしろ落ち着くが」
「ほんと? それならよかったけど。朝も夜も関係なく商人だの旅人だのが出入りするから、一日中うるさいよ。酒が入るぶん、かえって夜のほうが喧しいかも」
「なるほどねぇ。だから人呼んで〝不眠の入り江〟ってか?」
「あははっ、そうそう」

 日が長い上に強く太陽の照りつける入り江の町は日向と日陰とがくっきりと別れており、エルガーさんは極力影の中を選んで歩いてくれている。その気遣いが今は素直にありがたい。
 道を進むにつれて話題は段々尽き始める。困り果てて、あたしは大事に抱えていた袋から無傷のオレンジをひとつ取り出した。

「そういえば、さっきはびっくりさせちゃってごめんなさい。うちの町のオレンジって、ちょっと変わった色してるんだよね」
「ああ、ありゃ確かに驚いた。俺はてっきりナマエちゃんの珠のおハダに傷がついちまったもんだとばかり思ったぜ」
「あは、なにそれ。……これね、名前もヘンテコで、ブラッドオレンジって言うの。見た目は少し悪いけど……でも甘ぁくて美味しいんだよ。この町の名産なんだ」
「これがぁ?」

 赤黒い果肉を思い出してかたじろぎながらも飛ばされる冗談が少しおかしい。あたしは笑いながら、ポケットの中から折り畳みの果物ナイフを取り出した。

「疑ってるね? 味見に一個切ったげるよ。それで気に入ったら、後でいくつか持ってって」

 とりわけ器用なわけではないけれど、果物を切り分けるぐらいは目を瞑ってでもできる。命の恩人に名産品を味わってもらおうと張り切って果皮に刃を当てたあたしは、そこでようやくぶるぶる震える自分の手を自覚して本当に驚いた。
 エルガーさんが、あたしをじっと見る気配がする。慌てて、拳をぎゅうっと握り込んで手の震えを隠した。

「……あは! ごめんなさい。エルガーさんが格好良くって、緊張しちゃってるのかも! ホラ、うちの町の男たちって、でこぼこオレンジかくにゃくにゃワカメみたいなのしかいないじゃない? だから……っ?」

 肩を抱くようにぎゅっと力を込められて、つい軽薄な口を噤む。薄い袖越しに、彼のごつごつとした大きな手のひらの熱を感じる。

「――わっはっは! ナマエちゃんみたいな若い子にそんなふうに言ってもらえるなんて、おじさんもまだまだ捨てたもんじゃねぇな!」

 エルガーさんはもうあたしを見ていなかった。見ていなかったけど、あたしの中にべったりこびりついた恐怖を蕩かすように、何度も何度も優しく肩を叩いてくれた。
 その手が本当に熱くて。見上げた彼の太陽に反射する金髪が、本当に眩しくて。

 こうしてなんとも呆気なく、太陽を背負ったあまりにも熱く眩しすぎる彼に、私の恋心は奪われてしまったのである。



 鼻歌混じりに、足取りも軽く家へ向かう。

 ――あれから、エルガーさんはちょくちょく家を訪れてくれるようになった。なにもわざわざあたしに会うために来てくれているわけではないというのはわかりきっていたけれど、それでも嬉しかった。昔は自分が町にこもりっきりでいるのを尻目に他の子供たちが親の手伝いで海や町の外に出ていくのを羨ましく思っていたものだけど、今になって産まれて初めてお父さんの仕事に感謝した。
 ……まあ、当のお父さんやお姉ちゃんなんかは、あたしがエルガーさん目当てで夜の手伝いにも顔を出すようになったのを快くは思っていないようだけど。きっと、あたしが変な輩に絡まれないか心配してくれているんだと思う。
 でも、悪いけどそんなのあたしには関係なかった。
 接客中のほんの少しの合間、エルガーさんと交わす当たり障りのない会話のひとつひとつが、どれも等しくかけがえのないものだった。彼と出会ってからの日々は、まるで夜空に吊るされた無数の洋燈のように光り輝いていた。
 ああ、あたし、本当にエルガーさんのこと好きになっちゃったんだ。初めて恋、しちゃったんだ。そう心の中で呟くたびにそわそわして落ち着かなくって、今にも飛び上がって大声を出しちゃいそうになる。
 エルガーさんは旅の途中だそうだけど、もう暫くはこの町に滞在する予定なんだとか。その間、うちの店にはしっかり世話になる予定だとも笑ってくれた。
 そのことを聞き出したとき、あたしがどんなに喜んだかは多分誰も知らないだろう。あたしは夜が明けてもそのハッピーな気持ちを引き摺っちゃうぐらいにはすっごく嬉しくて、今もスキップしたい気持ちを必死に我慢しているほどだった。

 ……でも、そろそろ気を引き締めなくっちゃね。休憩を終えて仕事中にまでにまにましてたんじゃ、お父さんに叱られちゃう。
 二度三度と顔を挟み込むように頬をぺしぺし叩きながら、大通りから枝分かれする小径に入る。すると、その先でレストランの前で佇む女の子ふたりの姿が目に入った。
 ひとりは上等な黒酸塊の実みたいに艶のある黒髪を高いところで結い上げた女の子。小柄だけど、剣を下げているから剣士なのかも。
 もうひとりはさらに小柄だ。ピンクゴールドにも見える極めて明るい茶色の髪をふたつのお団子結びにした女の子。あたしが子供の頃に流行った『闘拳武伝』の〝かんふーますたー〟を思わすその独特の姿に、つい目が釘付けになる。懐かしいな。昔、あのドールを買ってもらったっけ。
 ――と、そこで正気になった。人をじろじろ見るなんて失礼にも程がある。慌てて目を逸らしかけたけど、そのときになって彼女たちの足を留めさせている――いや、困らせているものがなんなのかに気付いて、結局あたしは三人に近付いていった。

 腕を大きく振りかぶり、そして思いっきり振り下ろす。

「旅人搾取、はんたーい!!」
「いってえッ!?」

 毎日の仕事の手伝いで鍛えられた右腕から繰り出したチョップは、正確無比に馬鹿たれの脳天を捉えた。驚きこっちを振り返る彼女たちはひとまず置いといて、あたしは大袈裟に頭を押さえて蹲った馬鹿の耳を抓んで捻り上げた。

「いてえ、いてえ、いてえって! アにすんだよナマエ!」
「こンのあほんだら! あんたねえ! 前にも旅人さんからぼったくって町長さんから注意されたの、忘れたわけ? ほんとに追い出されたって知ンないよ!」
「なァんだよ! ちょっとした出来心じゃねえか! 少しばかしチップ代を多めに恵んでもらうだけだって!」
「そんな言い訳が通用するかッ! あんた、料理の腕は悪くないんだから、いい加減真面目に営業しな!」
「わかったから耳放せって‼ 取れちまうじゃねえか! 俺のキュートなお耳が!」
「善意の忠告も聞こえない砂の詰まった耳なんか取れちまえ!」

 ……ぎゃあぎゃあ、わあわあ。勧奨懲戒、破邪顕正、綱紀粛正。ウーン、最後はちょっと違うかも?
 さてもそののち、あわや悪徳店主の毒牙にかかりかけていたふたりを振り返り、あたしは小さく照れ笑う。

「ごめんね、驚かせちゃって」
「ううん、そんな……。まあ、確かに驚きはしたけど、助けてもらったんだもの」

 例の馬鹿店主を成敗した後、あたしは親切ついでに観光がてらふたりをこの町一番の飯処へと案内していた。
 地元の人間にはそんなことしないくせに、町の金銭感覚に明るくない観光客と見ればぼったくるような陰険な店は残念ながら他にも心当たりがある。仕事前の身ながら、ここで別れて変にやきもきするよりはずっとマシだと判断したのだ。
 それに外からのお客さんで大きくなった町なんだから、礼儀正しいお客さんにはめいっぱい優しくするのが古くからこの町に住む人間の掟みたいなもの。お父さんも事情を説明すれば怒りはしないという確信があった。

「今向かってるのは酒場なんだけどね、最近はお昼にもちょっとだけ開いてンの。ちなみにあたしのおすすめメニューはパエリア! サフランのいい香りがするあっつあつのお米の上に、ぷりっぷりのおっきな海老と立派なムール貝がごろっごろ乗って、絶品なんだ!」

 背後からごくっとふたりぶんの生唾を飲む音が聞こえて思わず忍び笑う。ちょうどお昼時な上、あんなことがあって余計な消耗をしたからきっと腹ペコなんだろう。

「マ、なにか別のものを頼むにせよ、この町に来たらシーフードを食べなくっちゃ始まンないよ! 新鮮な魚介類が町一番の自慢なんだからね。――ほら、着いたよ!」

 特にトラブルというトラブルもなく店に辿り着き、帰ってきてすぐに着られるように入口脇に置いていたエプロンをきゅっと締めて、同様に側にあったメニューを彼女たちに向け慣れた手つきで差し出す。

「はいっ。さっきも言ったけど、おすすめはパエリアね。あたしが仕込みも手伝ったんだもん。ほっぺたが落っこちること間違いなし!」
「えっ」
「エッ」
「んじゃ、ご来店まことにありがとうございまあす! 二名様ご案内っ!」

 ぽかんとして顔を見合わせていたふたりは、あたしとメニュー表を順番に見てからぷっと吹き出した。

「あやめ、ワタシたち、まんまとしてやられたヨ!」
「ええ、本当に。彼女、商売上手だわ!」

 彼女たちはくすくすと鈴を鳴らすように可憐に笑いながら、快く席についてくれた。厨房から顔を出して帰りの遅いあたしを叱ろうとしていたお父さんは変り身早く無言でサムズアップ。花のある客を連れ帰ってきたことを喜んでくれているらしい。
 だからあたしもにっこり笑って親指を立て返した。これが看板娘の実力よ。



「あんたさ、やめときなさいよね」

 今まさに口に運ぼうとしていた昼食のパスタがべしゃっと落ちる。
 夜間営業を終え、店の清掃も済ませて、お父さんや夜をメインに手伝うお姉ちゃんにとってはようやく訪れた休息の昼間。そんな時間にまだ眠りもせずに放たれたお姉ちゃんの唐突な言葉に、あたしはどきりとした。
 急にわけのわからないことを言われたからではなくて、その言葉が自分へ差し向けられた理由にじゅうぶん思い当たるところがあったからだ。
 あたしが昨晩は手伝いに行かなかったこともあって、少人数で店を回すのは忙しく疲れただろうに。お姉ちゃんはそれを微塵も感じさせない溌溂とした綺麗な顔に皺を寄せて、あたしをじろりと見る。

「ああいうイイ男に、手垢がついてないわけないでしょ。後で泣く羽目になるわよ」
「お、お姉ちゃんには関係ないでしょ」

 案の定エルガーさんのことを言っているらしい。反抗心を覚えたあたしが尖らせた唇なんてちっとも意に介した様子もなく、肩を竦めたお姉ちゃんは事もなげに続ける。

「昨日ね、あの男。ふらっと店に入ってきたもんだから、あんたもいないことだし、後で一緒に脱け出さないかって誘ってみたんだけど、」

 こ、このおんな~!

「なあによ、その顔。可愛い妹のためを思って、健気なお姉様が先に毒見しといてやろうとしたんじゃない。別に本気で店を空けるつもりもなかったし」

 お姉ちゃんはしらっとした澄まし顔で悪びれる様子もない。
 自分で言うのもなんだけど、あたしみたいな奥手なタイプとは違ってお姉ちゃんはちっとも恋愛に臆するところがない。そうやって軽々しくさして好きなわけでもない男と連れ立って脱け出そうだなんてあたしからしたら信じられないことだけど、お姉ちゃんにとってはたかだか軽い冗談のひとつで済むらしい。

「で、ええと……、エルガーさんだっけ? あんたの王子様」
「もうっ、なんなの! 揶揄うだけならもうよして、とっとと寝なよ!」
「あの人さあ、すっごく手慣れてるのよね。女の躱しかた」

 食べ損ねたパスタを再び巻き取る手がぴたっと止まる。あたしがなにも言わないのをいいことにお姉ちゃんは全く言葉を選ばない。

「あれはよくて既婚者、悪くて現地妻がいるタイプね。あんたみたいなおぼこ娘に太刀打ちできる男じゃないわよ」

 瞬間、頭にカーッと血が上る。あたしは衝動のままに両手をテーブルに叩きつけた。お皿とフォークががしゃんと派手な音を立てたけど、それでもぴくりともしないお姉ちゃんのつまらなそうな顔が憎たらしい。

「っそ、そんなの、わかってるし……! わざわざお姉ちゃんに言われなくたって! あた、あたしみたいなちんちくりん、エルガーさんが相手になんかするはずないって、わかってるし!」

 仲良くなれたと思っていた。いつか自分の中で覚悟ができたら報われなくたっていいから告白しようと思っていた。そんな自分の軽はずみな情動を指摘されたようで恥ずかしくて、憤ろしくて。
 お姉ちゃんとただふたり向き合っているのが堪え難くて、あたしは気付けば食べかけのパスタのことも忘れて家を飛び出していた。
 ろくろく前も見ずに直走るあたしに、何人かのご近所さんがびっくりして足を止めたり声をかけたりしてくれたけど、それでもあたしは走り続ける。
 もうどこをどう走っているんだかもよくわからないまま、ただ駆けて駆けて駆けて。一歩も動けないくらい、胸が張り裂けそうなくらい息が上がった頃になってようやくあたしは立ち止まった。
 喉と肺が灼けるように熱くて、胸に手を当ててふうふうと呼吸を繰り返す。むちゃくちゃに走りながら、どうやらあたしはエルガーさんと初めて出会った大通りにまで出てきていたらしい。
 額や首筋を汗がだらだらと流れていく感覚がうざったい。ハンカチなんて持ち合わせていなくって、仕方なく手の甲で汗を拭ったあたしは、道の向こうからこっちのほうへ向かってくるエルガーさんを見つけて、ただでさえ絶え絶えな息が止まるかと思った。
 こんなぐしゃぐしゃな姿を見せたくなくて、ぱっと目についた道具屋に飛び込んで身を潜める。店内にいた肝の小さい道具屋の若主人や何人かの冒険者らしき客は飛び上がるほど驚いていたけど、それどころじゃないあたしは店のドアに張り付いて外の様子をじっと窺う。
 あたしにはエルガーさんしか見えていなかったけど、そこにいたのは彼だけじゃなかった。すぐ隣に綺麗な女の子を連れていた。どこかで見たことのあるような子だ。
 随分落ち着いてきたはずの心臓がまたばくばくと鳴り出す。喉がからからに乾いて血の味さえするような気がする。
 あたしの知らない子と仲がよさそうに並んで歩くエルガーさんは、本当に楽しそうで、穏やかで。

 ああ、あんな顔、するんだなあって。

 あんな顔、あたしは見たことない。あんなに優しくて、どろどろに溶けちゃいそうに甘い顔、あたしは知らなくて。
 ただひとりきりで舞い上がってたんだって、痛いくらいに理解させられた。

 ねえ、報われなくたっていいなんて、とんだ大嘘だった。だってあたし、今こんなにも苦しいんだ。

 これまでの人生で初めてってくらいに大粒の涙が次から次へと溢れ出す。客たちに背中を小突かれるまま、おろおろと近付いてきた道具屋の主人の気配を感じるけど顔を隠す気力もなかった。

「あ、あのう……」
「うるさい」
「ごめんなさい」

 客に煽てられた挙句の薄っぺらい慰めの言葉を吐かれることだけはどうしても許せなくて、弱々しく震える主人の言葉をひと息に遮る。勝手に店へ飛び込んできて勝手に泣き始めて、あたしの中の冷静な部分が悪いことをしたなと他人ごとに囁きはしていたけれど、彼とまともに口を利くだけの余裕はなかった。
 ふと、せめて嗚咽だけは漏らすまいと唇を噛むあたしの目の前に真っ白いハンカチが差し出される。隅に赤みがかった太陽みたいなオレンジの刺繍がある。道具屋の主人のものだろう。

「あ、あの……よかったら、使って」
「…………」
「か、返さなくて、いいので」

 口を開けたら大声で泣き出してしまいそうで、あたしはそのまっさらな善意をお礼もなしに毟り取ることしかできなかった。走り去るあたしの背中に「またいつでもどうぞ」の声がかかる。
 もうどうしようもなくて、行き場なんて他に思いつかなくて。結局あたしは自ら逃げ出したくせして、お姉ちゃんの部屋に転がり込んだ。

「――うるっさいわねえ! なにひとりでばたばたしてんのよ!」

 つるつるの卵みたいな眉間にぴきっと皹を入れたお姉ちゃんが、ベッドから勢いよく起き上がって吠えるように怒鳴る。鬼も斯くやとばかりの形相は、だけどすぐに全ての表情が削ぎ落された。

「お、おねえちゃん」

 涙で詰まってへろへろな声だった。むしろちゃんと口に出せたと錯覚しているのはあたしだけで、お姉ちゃんからしたらなにを言っているんだかよくわからなかったかもしれない。
 それなのにお姉ちゃんはベッドから出ると、クローゼットの中にかかっていたお店用の服とエプロンをぱっと取り出した。

「……明日のお昼、市場のサンドイッチよ。海老じゃなくて、スモークサーモンのほうの。間違えるんじゃないわよ」
「……あ、ま、まって。ちがう。そんなつもりじゃなかったの。あたし、出れるよ。おみせ……」
「はあ?」

 あたしのせいでろくに寝られてもいないはずなのに、交換条件だとしてもそんなことはさせられない。慌ててエプロンを取り上げようとしたあたしのおでこを、お姉ちゃんは親指と人差し指でばちんと弾いた。

「あんたね、そんなしみったれた顔でお客の前に出るつもり? 冗談も休み休み言いな。客商売、舐めてンじゃないよ」

 痛烈な正論になにも言えずに黙り込む。そのまま手早く着替えを済ませたお姉ちゃんはいつもばっちりのメイクもなしに、すたすた部屋を出ていった。
 かと思えば、またひょっこりと顔だけ出してあたしを睨む。

「そこで大人しくねんねしてな。今、あんたがやるべき仕事はそれだけよ」

 ベッドをびしっと指さして、それで今度こそお姉ちゃんは去っていった。
 あたしは涙でべしょべしょの顔のまま、ベッドに倒れ込むしかなかった。



 ……そうして、それからどれほどの時間が経っていたのだろう。薄い掛け布団越しに、がちゃりという少しこもった音がする。お昼の営業を終えたお姉ちゃんが帰ってきたのだ。
 もぞもぞと身動ぎするだけで顔も出せないあたしに構わず、お姉ちゃんは言った。

「ねえ、あの人、店に来たわよ。もうすぐ出ていくんですって」
「……お、おしえてもらったの?」

 着替えているのだろう、衣擦れの音がする。
 名前を出されずとも誰のことを言っているのかはすぐにわかって、あたしはぐしゃぐしゃの声で訊ねる。お姉ちゃんは少し黙ってから素っ気なく突っぱねるように吐き捨てた。

「ンなわけないでしょ。なんであの男があたしにわざわざお別れの挨拶なんかしてくれるのよ。仲間うちで食事に来て、話してるのがたまたま聞こえただけよ」

 そしてその言葉はあたしが抱いた仄かな希望を完膚なきまで粉々に打ち砕いた。お姉ちゃんは敢えて口に出して言いはしなかったけど、それはあたしに向けても同じことが言えたからだ。

 エルガーさんにとってあたしは、旅立つことが決まってもさよならを言うほどの関係じゃない。

 ああ、なんだ。そうだったんだ。随分と、簡単なことだったんじゃないか。笑いたくもないのになぜか笑みが零れ出す。
 なにを思い上がっていたんだろう。なにを馬鹿みたいに――ひとりで夢想していたんだろう。
 当然じゃんか。あたしは可愛くもなんともない、特に取り立てて秀でたところのないただの町娘。ちょっと優しくしてもらったからって変に夢見て、本当に恥ずかしい。

 破れた恋の痛みがあたしの喉をひぐひぐと鳴らす。お姉ちゃんはあたしを慰めるようなことはひとつも言わなかった。ただ、布団の中で丸まったあたしの背中を一回だけぽんと叩いた。

「ナマエ、あんたの部屋、借りるからね」

 それで、欠伸をひとつ溢したお姉ちゃんはそのまま部屋を出ていった。
 あたしはもう笑えもしなくて、お姉ちゃんのちょっと高いシャンプーのにおいがする枕に顔を押しつけてわんわん泣いた。

 夢見がちなあたしの初恋は、こうしてなんとも呆気なく終わりを告げたのだった。