月の船に乗れぬものたち


 欲情を孕んだ熱が蛇のような執拗さで素肌の上を這いずり回る感触に、彼は身を強張らせることしかできずにいた。
 硬直する青年を冷笑う五つの首を持つ白い蛇は、まだ青さの残る首筋をなぞり、発展途上ながらもしなやかな筋肉を備えた胸をつうと舐める。瞬間、蛇に舐め上げられた彼の心臓からは濃霧のような恐怖がどうっと激しく噴き上がって、それが胸の肉を大きく裂いた。痛みなどなかった。痛覚に喘ぎ慄く正常な意識など、最早残されてはいなかった。
 具現化した闇とも霧ともつかぬ濁った煙の噴出がようやく収まったかと思えば、今度は恐怖が抉じ開けた風穴から汚泥のごとき嫌悪感がどろどろと激しく流れ出る。泥は彼が横たわる寝具や身に纏わりつく白蛇を見る間に汚していくのだが、蛇はこれこそが悦楽の極みだと言わんばかりに白い腹や口許を薄汚く染めて汚泥を味わい楽しんでいる。
 あまりにも悍ましい姿だった。身体を横たえているにも拘わらず、天地が引っ繰り返るような目眩さえした。
 くらつく頭に檄を飛ばすべく、彼は目蓋が軋むほど強く目を瞬かせる。瞬きごとに邪悪なる蛇の姿が変じていることにはすぐに気が付いた。二度三度と瞬く頃には、白い蛇は白い女の腕へとすっかり様変わりしていた。
 ——刹那、濃霧を切り裂いて、女の手が彼の眼前へぐわっと伸びる。
 しなやかな五本の指はまず彼の額につと触れた。やがて鼻梁を辿り、唇へと至る。その触れ合いには慈しみの心など欠片も感じられない。死にかけの獲物を嫐るような手つきだった。
 歯の根も合わぬほどに全身が震え出す。
 怯える彼を嗤う女の声がする。
 その声を追いかけてくるように、霧の奥から淡々しく微笑む女の顔がにゅうと突き出た。
 美しくも恐ろしく、そしてなによりも忌まわしい……——母の顔。
 母は瞳に嗜虐の色を湛えて、彼を冷たく見下ろしている。冷酷な眼差しを注いだままで、彼女は陶器染みた両腕に一層害意を漲らせると、彼の頬を挟んで掴み上げた。
 白塗りの面が醜悪に裂けて覗く、毒々しく赤い咥内。そこからぬらついた舌が伸びて、伸びて——。
 エルガーの頬を、ぞろりと舐めた。



 エルガーは声なき悲鳴を上げると、全身をばねのように跳ね上げて飛び起きた。正体不明の重みを帯びる己の身体を見下ろせば、全身にじっとりと絡みつく白い肌をした女が見える。

「————ッ!」

 浅く速い呼吸が冷静さをより奪って叫ぶ余裕もない。一も二もなく弾き飛ばした。女は抵抗という抵抗もなく吹っ飛んだ勢いのまま叩きつけられて、そのままぐったりとして動かない。
 心臓がばくばくと激しく脈打っていた。突き飛ばしたままの姿勢を正しもせずに、エルガーは闇の奥で蹲る女に必死に目を凝らす。血を含んだ泥のように粘ついた脂汗が蟀谷から首筋へをゆっくり伝う。
 そのときふっと、彼の鼻腔を掠める香りがあった。甘さを纏った青々しい森林のような——藺草の香り。それが混迷を極めてぐちゃぐちゃに乱れたエルガーの意識を現へ連れ戻す。
 ここが彼の滞在する〝なごみ〟、その貸し与えられた一室であることを理解したエルガーは、それでようやく大きく息を吸い込んだ。
 未だ乱れた拍動を訴える心臓に胸の上から手をあてて、深く大きな呼吸を繰り返す。冷静さを取り戻した両の目で先の自分が泡を食って必死に投げ飛ばした白いものを見てみれば、それはなんてことはない、ただの掛け布団だった。腰を曲げてくちゃりと圧し折れた布団は、「日々終夜身体を温めてやった恩を忘れたか」とでも言わんばかりに暗がりから恨めしげに彼を見返している。

「は……、——はは……」

 乾燥に罅割れささくれた唇が歪んだ弧を描く。あまりの馬鹿馬鹿しさに漏れ出る乾いた笑みが抑えられなかった。笑いながらに視界を閉ざすべく目元へやった自らの手は震えていて、空虚な笑いはすぐさま重々しい苦渋に塗り潰される。

 ——季節は夏。
 この地方の夏季は空気中に多分に湿気を含んで、日の射さぬ夜においてもじっとり暑い。望みもしない過去へ遡って引き摺られるような悪夢は、この蒸し暑さが一因を担ったのだと見て間違いないだろう。
 頬にへばりつく汗を手首に擦りつけるようにしてぐっと拭う。喉の奥には生臭い臭気がこびりついている——ような気がする。錯覚に過ぎないとわかっていても不快極まりなく、喉の渇きがあったのも手伝って、エルガーは水を求めて静かに部屋を脱け出した。

 一面に雲が薄く波立つ空に、月の船はすっかり遠くへ昇りきっていた。雲間から射す月光は下界のものを淡く浮かび上がらせて、闇夜にも茫漠とした輪郭が窺える。それは硝子戸や障子を閉めきった屋内であっても例外ではなかったから、ただ目的地へ向かって歩くというだけなら灯りがなくともほとんど苦労はない。
 泊まりの客はなく、中にいるのは疾うにすやすや寝ついているであろう女将と自分だけというありさまの宿に、人の気配は当然ない。外も、梢の葉が時折吹く風に身を震わす以外ではしんと静まり返っている。息を吸って吐くという、ただそれだけの音でさえ発することを躊躇うような静寂だ。
 だというのにエルガーの恵まれた体格に相応しく重たい足は、その一歩ごとに廊下を耳障りにぎしぎし軋ませるからぎくりとする。別に悪事をはたらいてやろうというわけでもないのに、床板が咎めるように鳴くたび彼はなにか後ろめたい思いがしてやまなかった。

 おっかなびっくり歩いていくこと暫く、ようやくお目当ての厨まで辿り着く。ここには朝昼夕と女将が立ってくるくると忙しくしているのだが、夜も更けた今となってはもちろん人の気配などない。
 障害物のほとんどない廊下とは違い、厨にはその主であるナマエ女将の使い勝手がいいような距離感で調理器具だの調理台だのがあるから、身体の大きなエルガーにとってはやや手狭である。ものにぶつかったり剰え落としてしまったりなどしないように、細心の注意を払いながら奥へと進む。
 厨の隅には水をたっぷり貯め込んだ甕がある。木蓋が被せられており、その上には柄杓が逆さに置かれている。エルガーは音を立てないように慎重に蓋を開けると、甕から柄杓で水をなみなみ汲んでそのまま口をつけた。
 井戸から汲み取った清い水はさすがに多少温くなってはいたものの、それでも彼の喉から苦味を流し去り渇きを潤すにはじゅうぶんすぎる代物だった。ごくごくと喉を鳴らして飲み干せば少しだけすっきりしたような心地になって、エルガーはまた息を吐く。

「——あらまあ、エルガーくん。まだ起きてらしたの」

 背後から思いがけず声がかかったのは、そのときである。
 驚いたエルガーが振り向けば、そこにはすっかり寝ついているものとばかり思っていたナマエ女将の姿があった。大袈裟に言うほどでもないが、物音を立てないようにと研ぎ澄まされていた彼の神経を以てして、彼女の足音は拾えなかったのだ。そのことに必要以上の動揺を覚えたエルガーは言葉も失くして、ただただおどおどと女将を見返す。
 一方エルガーの動揺に全てを察してか、女将はすまなそうににこりとして言った。

「まあ……、驚かせちゃいました?」

 うっそり微笑みながら「ごめんなさいね」と小さく言った彼女は、そのまま細い首を捻って後ろを振り返った。エルガーも通ってきた、廊下へと繋がる出入口のほうだ。

「ほら、うちの廊下、ぎしぎし言ってうるさいでしょ。だからあたくし、足音を立てないように歩くのがやたらに上手になってしまって……。お客様を驚かしちゃいけないんで、昼間はわざと音を立てて歩くようにしてるんですけれどね」

 緩く括っただけの濡れたような艶のある髪を下ろした女将は、普段は見慣れぬ寝巻姿であるという以外は至って平時通りでいる。彼女の笑みに言い知れぬ安心感を覚えたエルガーは、それでやっと己を取り戻したような心地がした。

「すまねぇ、女将さん。もしかしねぇでも、俺が起こしちまったかな……」
「ああ、違うのよ。なんとなく寝つけなくて、お水を飲みにきたんです。だからずっと起きてたの。エルガーくんのせいじゃないわ」
「それならよかったけどよ……」

 笑う女将の言葉つきはもっともらしく、エルガーにはそれが真実なのか彼を気遣った嘘なのかは判別がつかない。どちらにせよ彼女の優しさにあれこれ詮索を重ねるべきでないと、彼はそれ以上の追及を飲み込んだ。
 ——と、女将がなにかに気付いたようにエルガーの顔をまじまじ見る。

「あら……、エルガーくん、顔色が少し……——」

 言うが早いか、女将の手が徐にエルガーへ差し伸べられる。
 その月光りを帯びて青白い手に、彼はかつての忌むべき日々を幻視してしまった。生地を離れてなお骨身を蝕む怯えが、彼女の心配りの手を強かに払い除けざるを得なかった。

 ——ばちん!

 痛々しい音が、厨に響く。

「……あ……、わ、悪ィ、すいません……。女将、俺……」

 しどろもどろに、謝罪にもなりきらぬ拙い言葉を繰り返す姿に、きょとりと目を瞬かせた女将はなんてことのないように笑う。だが、エルガーの目を避けるようにさりげなく背後に隠された清潔に白い手が暗がりにも仄かに赤らんでいたのを、彼は見逃さなかった。

「それにしても……酷い寝汗ね。少し待ってらして。なにか拭くものを持ってきてあげましょうね」

 まともに謝ることもできないまま、女将は踵を返して行ってしまった。エルガーは呆然と立ち尽くしたまま、彼女の背を見送ることしかできなかった。



 気まずい沈黙が横たわっていた。だが恐らくこの居心地の悪さを感じ取っていたのはエルガーひとりで、女将はこれといった気懸りもないのだろうことは想像に難くない。
 女将が持ってきてくれた手拭いで顔や首回りをすっかり拭うと、身体だけは随分さっぱりした。ややしっとりとした手拭いをどう処理すべきか考えあぐねて、汗水で汚れたものをそのまま彼女に突き返すことに気が引けたエルガーは、結局それを首根に掛けて垂らすに留めた。
 彼女の他意のない思いやりに礼を言うべきだとは思う。だが同時に、それこそ思いやりを以て差し伸べられた手を痛烈に打ち払った己が恥知らずにもなにを言えようかとも思った。
 なにを言うべきか惑うばかりのエルガーを哀れんだか、それともやはりこれといった意図のない思いつきであるのか、女将はエルガーを見上げるとにこにこ言った。

「ねえ? エルガーくんさえよければだけれど、少し……外を歩いてみませんか」



 ——問いかけの体は成していたものの、彼女はエルガーが頷くであろうことが最初からわかっていたのかもしれない。手拭いを持ってくるのと一緒に持ち出してきていたらしい上着を羽織って手提げの提灯に火を灯した女将は、慣れた様子でエルガーを先導するように歩き出した。遅れを取らぬように、つかず離れずで後を追う。

「寝苦しいときに無理にお布団に入ったって、眠れやしませんからね。こういうときは、いっそお部屋から脱け出してしまったほうが寝つきがよくなるってもんです」

 提灯の灯りを揺らしながら山を成す岩肌に沿うようにして往く森に、女将の柔らかい声がふうわり漂って夜風に流れていく。それと同じ風に乗って鼻腔を掠める、女の髪の甘い薫り。
 懐かしさを覚えた。
 そんな自分に吐き気がした。

「……そいつァ経験則かい。勉強になるね」
「ええ。あたくし、君よりも幾分かお姉さんですから。重ねてきた歳の数だけ、少しは物知りなつもりよ」

 ちらりと後ろを振り返った彼女は、卑屈に昏い眼差しでエルガーを一瞥する。

「——所詮、井の中の蛙に過ぎないけれどね。大きな海は知らないの」
「……『されど空の蒼さを知る』、なんて言うだろ」

 エルガーは言葉に詰まりつつも、なんとか返答を探して話題を繋ぐ。すると女将はエルガーのその必死さを微笑ましそうにしてころころ笑った。

「ふふ……、それ、誰が言い出したのかしらね。そんな苦し紛れの文句。空が蒼いことなんて、誰だって知ってるわ」

 力ない笑みだった。己を呪っているような、ここにはいない誰かを呪っているような——鬱屈とした笑みだった。

「ごめんなさいね。慰めようとしてくれたんだもの。そんな優しい子にこんなこと言っちゃ、意地悪ね」
「いや……」
「——いかが? 冷たくっていい風が吹いているから、少し当たっていれば気持ちも落ち着くんじゃなくって?」

 先までの空気を削ぎ落として、女将は切り替えて言う。
 彼女の言う通り、部屋に籠りきりでいるのと比べれば新鮮な風が吹き抜けていくぶんかなり涼しく感じられる。湿気があることには変わりないが、森の中にいるためだろうか、それすらどこか爽やかだ。じわじわ滲む汗も起き抜けの粘つくような感触はなく、さらりと肌を伝い落ちて大地に滲みていく。

「あら、まだ暑い? 扇いだげる」

 額に汗を浮かせたエルガーを見かねてか、女将が帯から抜き取った扇子で彼をはたはたと扇いでくれる。気まぐれに木々の間を抜ける頼りない風よりも冷涼とした空気が彼の火照った肌を冷やしていく。
 胸のうちにある蟠りさえ、掻き消えていくような心地がした。

「……なあ、さっきの」
「なあに?」
「手……、すまなかった、女将さん」
「ええ? なんです、今になってそんなこと」

 女将は目をぱちくり瞬かせると可笑しそうに笑った。今度こそ、陰りのない冴え冴えとした表情をしていた。

「気にしいな子ね。あたくしのほうは、もうとっくに忘れてしまっていたのに」


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23/06/13