破鍋女は身の程知らず


 ――風が、土や緑の気配に巧妙に隠された雨のにおいを暴き出して運んでくる。
 俺は手にしていた肉付きのいい笠をした茸を背中の竹籠に放り込んでから、屈めていた腰をぐぐぐっと伸ばして立ち上がった。やや強張った筋肉や骨を鳴らすのが気持ちいい。
 そうやって全身をばきぼき言わせながら樹々の影から脱け出して手のひらを庇代わりに、山中に至ってなお吸い込まれそうなほど高い空を見上げてみる。上空では、黒っぽい土の地面ばかり見つめていた目には眩しいほどの青い空気が広がっているのだが、一方でその蒼を割り裂くようにして山の頂に向かって薄く引き伸ばされた棚雲が靡いている様子も見受けられる。

 ――いやはや……弱っちまうね、ほんと。

 口をひん曲げて空を睨む間にも、山道を駆け上がっていくようにひゅうひゅう吹く冷たい風にうなじを舐められて思いがけず俺のいたいけなおハダが鶏さんになる。それでヒトサマにちょっかいを出すだけ出したあとは素知らぬ顔で通り過ぎていくんだから、とんでもないもんだ。
 奴らが行きつく先は山頂で、吹き荒れる風は灰を混ぜたように濁った雲を急速に大手で掻き集めて塒を巻いている。
 上昇気流が、雷雨を呼ぶ積乱雲を発生させようとしていやがるんだろう。

 山の天気ってもんは驚くほど急激に変わる。その心変わりの激しい気候には山麓に住むうち随分慣れてきたと思っていたのに、冴え渡る空に雨具は不要と背負い籠だけを持って出た俺はどうやら見通しが甘かったようだった。
 思い返してもみれば、出掛けに女将がなにか言うのを聞き流しながら宿を出てきてしまったのだが、あれはもしかしないでも天気が崩れるだろう予兆を俺よりもずっと早くに読み取って、注意を呼びかけてくれていたのだろうか。
 勢いを増してきた風でざんばら髪がはためく頭に平手をぱしっと打ちつけて、せっかくの心遣いを無碍にした戒めを与える。背中に負ぶったからっからの竹籠の軽さが、なんとも物悲しい。

 ――ウーン、しくじった。

 麗しの女将に唯一まともに役立てる肉体労働で頼られたことに舞い上がって喜び勇んで宿を飛び出しておきながら、収穫がこれっぽっちじゃ情けないにも程がある。かといってこのまま無理を押して風雨で無駄な怪我を拵えたり病を持ち帰ったりしたんならば、かえって大迷惑だ。それは本意じゃない。
 男衆の真似事をさせてもらっているとはいえ、仕事っぷりはまだまだろくすっぽままならない居候の身。ほとんどひとりで宿場を切り盛りする女将に要らない世話をかけることだけはあっちゃならない。

 身体だけ無事に持って帰りさえすりゃあ、また天候が落ち着いた頃に山を登ればそれで済む話だ。余計な手間を増やすよりかは、そっちのほうがきっとずっといいに違いない。
 両の手のひらで顔を挟み込むように頬を打って、ため息は吐かずに飲み込み、自分の中のつまらん矜持や見栄になんとか折り合いをつける。そうして俺は宿への帰り道をすたこらさっさと辿り始めた。

 ――ちまちまとした町村は追い出して、河港を擁する都だけを取り囲んで砦のごとく傍迷惑に立つ山は、岩の塊を高く無造作に積み上げてそこにぶすぶすと森をおっ立てたような、いかにも近寄り難い見た目をしている。それでもその外見の厳めしさとは裏腹に案外と行き来はしやすいし、山の恵みは豊富だしで、普段から俺以外にも人の出入りはそれなりに多い。
 その親しみやすさと言ったら、登山に慣れていない者や体力の少ない子供でも山道を外れなければ問題なく山を越えていけるほどだ。
 これは往来の多さがために人の手が入れられた道が数多くあるおかげだった。集落方面から入っても都から入っても、麓から中腹にかけては比較的なだらかな坂が続くし、特に山の周りをぐるりと半周してへばりつくようにある、ほとんど人工物みたいなありさまの道は鼻歌混じりのスキップでも進んでいけるほど歩きやすい。単に都への経路として使うだけならこれほど歩きやすい山もないのではなかろーかと思う。別に俺は山で産まれ山と育った山男さんというわけではないから、実際のところはどうだか知らんが……。

 難点は天候がとてつもなく変わりやすく、地面が信じられないくらい水捌けの悪い粘土質であることだった。その上、樹木がばったんばったん伐り倒された山道周りは別として、森林率が大凡八割を超える山なもんだから、ただでさえねっとりした地面は太陽の光をほとんど樹木に遮られて、なにはなくとも常に水を含んで冷たく重い。
 ここに悪天候が重なるともう最悪で、夏場でも冬の入りみたいに寒くなることもある。冗談みたいな話だろ。ところがどっこい、マジも大マジなんだな、これが。お山に詳しい学者さんをして「この奇跡的に整った山道に対しての山全体の天候と形状と地質は、最早創造神の悪ふざけの産物」とまで言わしめたほどなのだから、どれほど質が悪いのかはお察しだろう。
 そんな具合だから、点々と石畳の敷かれた山道だけをこの山の姿なんだと勘違いをしてお散歩気分で調子づいてなんの備えもなしに山の中へと分け入ってしまえば、すぐに体温や体力を奪われて身動きが取れなくなってしまう。それは旅人だろうが地元の者だろうが、多少の程度の差はあれど同じこと。
 ちなみに言うと、俺こそがその前者の調子づいた馬鹿垂れ野郎であった。雨が降っていたわけでもないのにうっかり行き倒れかけたところを女将に拾ってもらった縁が今も途切れず続いて、雑用を任せてもらうのと引き換えに宿に置いてもらっている。
 かつてと比べれば俺も随分とまあ山慣れしてきたもんだとは思うが、やはり俺よりもずっと長く山に慣れ親しんできた女将には敵わない。
 山に入ってその恵みを採取するにはほとんど必須になる脚絆への〝蝋引き〟の技術も、彼女から教わった。
 脚絆とはそもそも脚の負担を軽減するために身に着けるものなのだが、殊天候の変わりやすい山においてはかえって歩みを阻み身体を冷やす、言葉通りの足枷になりかねない。
 そんなときに役に立つのが蝋引きだ。蝋引きとは、布地に蜜蝋なんかを擦り込んで防汚や撥水の効果を持たせる加工のことを言う。
 覚えの悪いふりをして何度も何度も教えを請うた甲斐があって、俺はもうここらでは一番蝋引きが上手くなった。元々手順という手順もないほど簡単にできる加工だから一度で覚えることができたのに、女将に「もう、本当に困ったさんだこと」なんてころころ笑われるのが堪らなくグッときちゃって駄目だった。その日の夜は俺の独り身の息子も困ったさんだったよ。いや、ほんと。

 ――さて、そんなこんなでしんなりした落葉を踏み締めながら、暫く。もうじき山から抜け出せる折り返しの坂道に差し掛かったところで、俺は今頃山へ登っていこうとする三人組と出会した。
 見慣れない顔だ。余所から来たんだろう。
 ひとりは腰に刀を提げた黒髪の少女だ。男好きする豊満な身体つきに人目を惹く可愛らしい顔を挿げておいて、あれで中々腕が立つのだろうか、所作は思いの外きびきびとしている。
 その隣に並んで歩くは道士のような出で立ちをしたお団子髪の少女。恐ろしいほど目鼻立ちの整った娘で、その表情がくるくると目まぐるしく変わりさえしなければ人形がひとりで歩いているとすら思ったかもしれない。
 そして最後に、使い込まれた鎧を着込んで大仰な大剣を背中に担いだ厳つい大男。先の可憐な美少女ふたりとは随分とちぐはぐな取り合わせではあるが軽妙に言葉を交わし合っている様子から一行の親しさが窺える。
 明らかに冒険者や傭兵といった風体の彼らはいずれも旅の経験は浅くないのか、足取りも軽く臆せず山道をすたすた歩いている。
 山越え程度なら雨が降り出しても少し先に行けば休憩地として使える山小屋もあることだし、自己責任の範疇だろう。そうやって通り過ぎかけるも、キャベツの葉っぱみたいに大きくなった俺のお耳は、なんと奴らが山を越えるのではなくどうやら登る気であるらしいと聞きつけてしまった。
 山の外の薄紫を帯びた暮れかけの空は依然透き通っているが、山頂のほうはもう暗くなり始めている。このまま見送るのはなんとも目覚めが悪いと、俺は慌てて一行に声をかけた。

「ちょいとちょいと、あんたら。まさか、今からお山へ登ろうってのか? 悪いこた言わんから、やめときなよ」

 俺の言葉に三人はぴたりと足を留めてこちらへ振り返る。その流れで、娘っこふたりの前に出るようにして大男が俺に訊ねた。

「それほど危ない山なのか? そう言うあんたはどうやら山帰りのようだが……」
「どんな目的でどこまで行くかによらァな。なにしに来たの。そんな御大層なもん、ぶらッ下げてさ、まさか観光ってわけじゃないんだろ?」

 今度は大男の背後から顔を覗かせて、剣士の娘が言う。

「山に詳しいの? 私たち、この山に生えてるっていう薬草がほしくて……」
「薬草? どんな? わざわざ登っていかんでも少し脇道に入っていきゃあ、採れるもんは採れるよ」
「ええと……、ゲンキガデ草っていう……」

 すぐそこで手に入れられるもんなら手伝ってやるのも吝かでない。そんな善意からの問いに返された名前を聞いて、俺の脳裏にひとつの薬草がぽんっと浮かぶ。

 ――ゲンキガデ草。茶褐色をした太い茎の上に大ぶりの白い花を咲かせ、根元には痼みたいな丸っこい疣をふたつ拵えた、冗談みたいな形の薬草だ。
 花弁を燻すと異臭を発し、古くはせいぜい気付け薬として用いられるばかりだったようだが、近年では根元の疣に良質な薬効が認められ、気病みにいいとか精力増強にいいとか……まあ、とにかく元気が出る薬草として知られている。俺も採取の経験がある薬草だ。

 だからこそ言える。
 こんな状況下で今からゲンキガデ草を摘みに行くのは無謀以外のなにものでもない、と。

「……なるほど。山頂のほうにしか生えてないやつだ。そんじゃ、やっぱしやめといたほうがいいね。直に天気も崩れる」
「こんなに晴れてるノニ? オマエ、適当言ってんじゃないダロナ」
「馬鹿言っちゃあいけないよ。あんたら虐めて、俺になんの得があるってンだい。ほら、あっちのほう、見てみろって。もうそろ降り出したっておかしかないぜ」

 こんなにくりくりまあるくて、純真そうな愛らしい空色の目をしておきながら疑り深そうにこちらを見据えるお団子娘に苦笑して、俺は葉っぱが生い茂る頭上のさらに向こう、山の頂を指さす。すると三人は揃って素直に山頂に目を向けてくれた。これで中々愛嬌のある奴らだ。

「こっからじゃあ、ちょいと樹で塞がれッちまってわかりにくいがね、山の天辺に黒っぽい雲が集まり出してるだろ。ありゃ雨だけじゃなく、雷も落ちる雲だね。俺もそうだけど、見たところあんたらも特に雨の備えはないんだろ。危ないよ」
「そんな……」

 俺の言葉に剣士の娘はあからさまに顔色をなくして、大男をちらりと見上げる。対する男のほうには娘ほどの深刻さはなく、肩を竦めるばかり。
 その妙な温度差に、俺はなんだか鼻がむじゅむじゅっとする。

「なんだよ。どうせそこまで長引きゃしないよ、また明日にもすっかり晴れるだろうさ。どこか宿でも取ってしっかり準備して、そんで出直しゃいいだろ。よっぽどなにか急ぎの用でもあるのかい」

 空の様子を逐一気にかけながらもよくよく話を聞いてみれば、この三人組はやはり余所からやってきた冒険者だそうで、麓手前の町で依頼を受けて薬草採取にやってきたのだという。
 なんでも「登りやすく整備された山道を登っていって草を採るだけの簡単な仕事」だのと言われて依頼を請け負ってきたようだが、とんだ大嘘だ。
 ゲンキガデ草は採取の際に茎や根になんの準備もなく少しでも傷をつけたら即座に花と疣が枯れ落ちて薬効が見込めなくなる、素人には扱いの難しい代物だ。
 そして厄介なことに、この薬草を追い求める者を最も苦しめるのは植物のそういう繊細な性質といった生温いもんじゃあない。

「――それにね、この山の登りにくさったらないんだよ。これで雨まで降り出したら冗談抜きで死にかねない。誰になんて言われてここまで来たんだか知らないが、自殺行為だよ」
「そこまで大変な道なの?」

 ひとまずこの天候で山に入るのは到底無理だということは納得させて、雑談ついでの自己紹介も交えながら一緒に山を下る道すがら。
 俺の言葉に黒髪の少女あやめは驚いたようにぱっとこっちを見た。紫根で深く染めた極上の絹みたいなポニーテールまでもが、持ち主の動作を真似るようにしてひらりと軌跡をなぞる。

「まさか山頂までこの山道みたいに歩きやすいとは思ってなかったけど……」
「なんというか、山頂へはそもそも道っていう道がほぼないからね」
「道がナイ?」

 瞬くふたりぶんの大きな眼にこっくりと頷く。

 この山は比較的歩きやすく整備が行き届いているのは事実だ。
 だが、それは飽くまでも山越えをする旅人や山の恩恵に与りに来た地元民など、人の通りが多くある地点のみに限られる。
 山の半ばを越えて山頂までとなると、途端に様相は一変する。異様に険しい山肌が延々と続き、そこを登っていこうものなら息つく間もなくぬるついた苔が生す岩場から岩場へと飛び移るように登る羽目になる。
 豊富な山の幸に緑の美しさ、そして登り始めの道の易しさに騙されて深入りすると元の道に戻ることもできなくなって痛い目を見る山なのだ。

「だけどよ、そいつはほとんど最短のコースで登ってった場合だろ?」

 あやめや美沈の疑問に俺が答える形で絶え間なく続いていた話を、これまでほとんど静かに聞くだけだったエルガーが無精髭をさすりながらぽつりと疑問を溢す。

「多少時間は食うが、確か山頂までには山の裏っ側にある谷をぐるっとなぞっていく迂回路がなかったか? 谷間にかかる橋があったよな?」
「おや、詳しい。あんた、昔ここに住んでたりした?」
「住んでたってわけじゃねぇが、まだ駆け出しの頃に仕事で少しな」
「道理で。マ、あんたの言うこた間違っちゃないよ。でもね、その橋はもう落ちてんだ」
「落ちてる?」
「そう」

 エルガーの言う橋は確かにあった。誰がかけたか最も過酷な山路を飛び越えるように谷間にあった橋は、しかし数年前に焼け落ちた。幸いにして森にまで燃え移ることはなかったが、炎に木材と縄とで形作られた全身をすっかり舐め尽くされた橋は、もう跡形もない。町のほうでは再建の話も出ているようだが、その費用もさることながらあんな山で作業をしたがる大工がまずいないから、事は一向に進んでいない。

「なるほどな……。じゃあ、やっぱり今から登ってくのはどの道無理がある話だったか」
「だからずっとそう言ってるだろ」
「いやいや、なにもおまえの話を疑ってたわけじゃねぇんだ。気を悪くさせたんならすまねぇな」

 豪快に笑いながらも茶目っ気たっぷりに謝る姿がどうにも憎めなく、俺はため息ひとつでその場を流してやってから話を変えた。

「ところであんたら、町じゃ大嘘吹き込まれてきたようだが、ゲンキガデ草が生える場所はわかってンのかい?」
「ワタシたちに依頼してきたヤツは『山道を登っていけばすぐ見つかる』って言ってたヨ」
「マジでそれ誰から聞いたの? ほとんど嘘しかないけど、一発ボコっといたほうがよくねえかい?」
「あとで殺しとくヨ」
「そこまでせんでも」

 殺すにしても殺人幇助で俺までしょっぴかれそうだから、憲兵とかに捕まったとしても絶対俺の名前は出さないでほしい。

「ゲンキガデ草は採取が難しいって言ったのはさっきの通りだけど、まず見つけるのも大変なんだよ。狭い岩間に生える草だからね。ちょいとコツがいるから、慣れてないと手こずるだろうな」

 三人して「話すこと話すこと全部が初耳です、きょっと~ん」みたいな顔で聞いてて普通に可哀想になってくる。いったいなにしたらこんな嫌がらせ受けるんだ。町の民家という民家の窓全部に馬糞でも投げ込んできたのか?

 そもそもゲンキガデ草は上質な薬草であることは間違いないけれども、別で代用の効くものはいくらでもあるのだ。よっぽどなにか事情がない限りはわざわざこんな危険な場所に生えているものを採りにいかせようなんて依頼は早々ない。
 俺が請け負ったことがあるのも、〝勃起不全の治療のため〟とかそういう切羽詰まった裏事情のあるやつだった。しかもその手の依頼はだいたいが山登りに慣れた奴のところに直接依頼が来て、大っぴらに依頼書を貼り出されるようなことはないから、まずもってふらっと訪れただけの冒険者が任されるような仕事ではない。
 代用は効くと言っても高級な薬草に需要がないわけではないという点を鑑みて、町が余所者共に敢えて割を食う依頼を押しつけたのだろうか。

 雑談相手を務めながらも、そこまでつらつら考えた俺はひとつのちょっぴり嫌な可能性に思い至って、冗談っぽい振る舞いは保ったままで三人から一歩距離を取る。

「……念のため訊くけどさあ、あんたら三人、町でとんでもない悪さをしてきて、それでこんな七面倒な仕事もらってきたってンじゃないだろうな?」
「悪さなんざ――、」

 「心外な」とでも言いたげに顔を顰めたエルガーが、しかし思案するように視線を巡らせて言い淀む。

「……いや、まあ、ちょいとばかしの騒ぎは起こしたけどよ」

 どうにも煮え切らない返答だ。
 ただその反応からいって先ほど想像したように、こいつらが見かけによらず大悪人だという可能性はなさそうだと見て、俺は気を抜いてへらへら笑った。

「なんだあ。もしかしてお連れのかわゆい娘っこ共が、町の偉ぶった太っちょくんに手でも出されかけたのかい?」

 ――と、瞬時にエルガーから醸される空気がよくよく砥がれた包丁みたいに鋭くなる。
 どうやら茶化して適当ぶっこいた質問がまさかの大正解を踏み抜いてしまったらしい。今度こそ俺は本気で飛び退いた。

「……大当たりだ。まさかとは思うが、その太っちょくんはおまえの親しい友人か?」
「うーんにゃ。だからそう怖い顔しなさんなって。荒事は苦手なんだよ、俺ァ」

 見ろ、このサブイボを! いたいけな一般市民の怯えを!
 袖を捲って粟立った肌を見せつければさすがに悪いと思ったのか、あやめに肘で小突かれたエルガーが誤魔化すように俺の背中をぽんぽん叩いて苦笑う。
 さすがに今回を嘆息ひとつで済ませてやるのは生温い。俺は奴のがしっとした脇腹に拳をぼすっと一発入れてやってから話を続けた。

「その太っちょくんは俺のお友達じゃあねえんだがね、地主の息子だ。手癖、足癖、女癖の悪さが三つ揃ってゴミ野郎ってんで、ここいらじゃそりゃあ有名なんだよ」

 あの盆暗息子は器量好しと見れば本当に見境がなくて、あろうことか女将にも手を出そうとしたもんだから、俺が追っ払ってやったこともある。単にケツを蹴り出して追ン出したんじゃお宿に迷惑がかかるだろうと、厚かましくも女将を組み敷く機会を狙って宿泊するデブにわざわざモーホーのふりまでして熱烈に迫ってみせたのは未だ夢に見るくらいに糞みたいな記憶のひとつだ。
 でもそのおかげであの太っちょくんは俺の顔を見るだけでそそくさと逃げていくようになった。今にして思えば奴が最悪のタイミングで薔薇園の芳しさに目覚めなくて本当によかったと思う。

「ある種の名物みたいなもんさ。〝奴の顔を見たなら女子供は家にしまえ〟ってね」
「そいつは……もっと早くに知りたかったご当地情報だな」
「なるほど。町の観光パンフレットに記載しておくよう打診しとく」
「ぜひそうしてくれ」

 ――ここまで事の次第が明らかになれば最早隠し立てすることもないと思ったのか、三人はこれまでの経緯を詳しく話してくれた。

 聞くまでもなく予想通りといったところだが、事の起は例の地主のご子息様にお嬢さん方が「この町に滞在するからには屋敷に上がって自分のもとまで挨拶をしに来るように」とお声がけをいただいたことだという。
 もちろんそんな下心の見え透いたお誘いに彼女らが応じる義理があるはずもなく。当然お断りを入れたようだが、太っちょくんは逆上。襲い掛かってきたところをエルガーが返り討ちにしたらしい。
 面倒なのはここからで、妥当なしっぺ返しを食らった太っちょくんはなにを思ったか「ゲンキガデ草を自分の元まで持ってくることができたなら今回の無礼を見逃す」などと宣ったそうだ。無礼を見逃してもらったほうがいいのはどう考えても太っちょくんのほうだと思うが、これ以上騒ぎを大きくするのは得策ではないと判断した三人はその条件を飲んだのだという。

 早い話が、一行は腹癒せの嫌がらせを受けたということだろう。ものがものだからもしかしたらそれ以外にもなにか下衆っぽい企てがあったのかもしれないが。

「しっかし、面倒なのに目をつけられたもんだね。特に大事な用がないならヘコヘコ頭下げて言いなりになるより、とっとと町を離れたほうが賢いと思うぜ。奴がでかい顔できんのはせいぜい町の中でぐらいだからね。まともに相手するこたないよ」
「そうしたいのは山々なんだけど……」

 難しい顔をしてあやめが言葉尻を濁らせる。いったいなにかと思えばその後を引き継ぐようにして膨れっ面の美沈が俺をじろりと睨み上げた。

「無茶言ウナ。アイツ、王族と繋がりがあるとか教会と懇意にしてるとか言ってたヨ。親交の証にもらった勲章もアルッテ。町を出ても、そんな連中からの追手がかかったらそっちのほうが厄介ダヨ」
「ああ、それ? もっともらしく言ってるだけで全部嘘だから、気にしなくていいと思うよ。俺もそれ聞いたから屋敷中引っ繰り返して見て回ったことあるけど、なんも出てこなかったし」
「ええ? おまえ、優男に見えて中々骨のある真似するなぁ。気が合いそうだ」
「ははは、こんな厳ついおっさんと気が合っても」
「わっはっは、言いやがる」

 俺たちが冗談めかして笑い合う中、にこりともしなかった美沈が唐突に道脇の樹の幹に拳を打ちつけたから、俺とエルガーはふたりしてびっくらこいて飛び上がった。明らかに後方支援型ですみたいな細っこい腕をして、中々に腰の入った重々しい打撃音だ。

「えっ、なに急に」
「薄々嘘じゃナイカと思ってたノニ、万が一を考えてヤツを始末できなかった自分を戒めてル」
「そう……程々にね……」

 ――そうして無駄にじゃれ合いながらもなんだかんだ山をすっかり下ると、いよいよ雨がざぶざぶと降り出した。このまま歩道を真っ直ぐに突き進んでいくとやがて街道に出るが、脇道に逸れると俺が居候させてもらっている宿に辿り着く。
 山麓にぽつんとある温泉宿――〝旅籠屋なごみ〟。そこは旅館と呼ばうほどには立派な佇まいはしていない。むしろそこそこに規模のある民宿といったほうが、まだ聞こえがそれらしい。

「あんたら、町に戻る以外にあてはあんのかい」

 目に飛び込んでくる雨滴を袖で除けながら、俺は雨が葉や地面を叩く音に負けないように少し声を張って訊ねる。その問いに冴えない面持ちで顔を見合わせたあやめと美沈の姿が言外の答えで、俺はそれならと〝なごみ〟への宿泊を提案してやった。手持ちが多少足りなくとも、ここで会ったのもなにかの縁だ。少しくらいはカンパしてやってもいいとも言い添えて。
 すると娘ふたりはぱあっと顔を輝かせて喜んだ。〝温泉宿〟であるというあたりが女共の気を惹いたらしい。

「ねえっ、エルガーもそれでよければこのままお言葉に甘えない? ……エルガー?」

 喜色満面でエルガーを振り仰いだあやめの顔が困惑に曇る。山を下り終えた頃からエルガーはなにやら物思いに耽っていた様子で、今の今まで俺たちの話を丸っと聞き流していたらしい。美沈にどつかれ、あやめに先ほどまでの話の流れをもう一度頭から説明されて、エルガーはようやく頷いた。

「ああ……、まあ、今から町に取って返すにしてもこの雨だしな……」

 ただやはりその反応はすっきりしないもので、あやめは暫く心配そうにエルガーを見上げていた。



 宿につき、ひとまず俺が先に話を通しておくからと三人を外に待たせておいて、引き戸の正面扉をからから開ける。するとその音を聞きつけて、少しもしないうちに湯上りタオルを袖にかけた〝なごみ〟の女主人ことナマエさんが俺の元までぱたぱたと駆け寄ってきてくれた。
 小紋をぴしっと着込んで髪を綺麗にまとめ上げた彼女は、むらなく白粉を乗せた卵顔を憂いに染めている。柳眉をきゅうっと寄せた女将はそりゃあお空の雲の上に住まう天女様のごとく輝きを放っていて、数時間ぶりの再会ということもあって俺は本当にどうにかなっちまうかと思った。俺の目が美しさで潰れずに済んでいるのは正直言って奇跡だと思うね。

 女将は湯上りタオルで俺の頭をもふもふ拭きながら小言を聞かせる。

「まあまあ、こんなに濡れて! 雨が降りそうだって、だから言ったじゃあないの!」
「えへえへ、女将のお手々すべすべ~」
「これっ! 人の話はきちんとお聞き!」

 こんなに至近距離で叱られてもむしろご褒美なんだけど大丈夫……? 俺、女将の美しすぎるとこがほんとに心配だよ……。

「あ、そーだ、聞いてよ。俺、客を連れ帰ってきたんだぜ。褒めてくれよ」

 女将の白魚お手々を存分に堪能しながら、俺は外にいる三人と行き合った事の顛末を話して聞かせる。「お客様を雨空の下でお待たせするなんて!」と怒られはしたものの、女将は三人が見舞われたひと悶着に大層同情的で、そういうことならと彼らを受け入れることを快諾してくれた。そうでなくとも心優しい女将が客の宿泊を断るなんて道理はなかっただろうが。

 女将は「三人は自分が持て成すから、おまえは濡れ鼠のところを悪いが取り急ぎタオルを持ってくるように」と言いつけた。「その仕事さえ済ませれば風邪をひかないうちに風呂を済ませるように」とも。
 女将の言うことはなんでも聞くと生まれた星の元に定められている俺なので、もちろん否やがあろうはずもなく良い子のお返事をして奥へと引っ込む。
 そうして早々にひとっ走り三枚のタオルを持って戻ると、玄関口は異様な空気に包まれていた。
 なにがあったの……とおどおどしながら間抜けに近付いていくと、どうやら状況が飲み込めていないのはあやめと美沈も同様らしい。
 一方でエルガーは気難しげに俯いており、そんな彼を見つめる女将の花のかんばせは尋常でない驚愕に満ち満ちている。

 えっ、まずい、どーしよ。もしかして女将の美意識的にこの熊男は地雷だったか? エルガーだけは天幕渡して野宿でお願いしよっかな……。責任取ってその隣で俺も寝袋で寝るから。

 そのときになって背後でタオルを持ったままはわはわする俺に気付いたらしい、女将は一転明るい声を張り上げてにっこりした。

「エルガーくん! 随分ご立派になって! お元気でした?」
「――おう、こっちはぼちぼちやってるぜ。あんたも、元気そうでなにより」
「あらまあ、ご謙遜なさって!」
「――……えっ? エルガー、女将さんと知り合いだったの!?」

 女将とエルガーを除いたこの場の全員の心情を代弁して、あやめが両目を剥く。思わぬ事実に俄かに沸き立った場で、俺は人知れず悟っていた。

 ――『こいつ、さては女将の地雷じゃなくて俺の地雷だな?』と。



 雨に降られて身体も冷えただろうということで話もそこそこに、俺も含めた濡れ鼠共は揃って湯に浸かるよう促された。「男衆をお客と同じ湯に浸からせるわけにはいかない」と俺は女将の私室の風呂を使うよう言われたので、三人とはそこで一旦別れた。

 湯から上がった後は三人を客室へ通し、俺は夕食の準備をしている女将の手伝いに行く。とは言っても厨に顔を出す頃にはだいたいの支度が終わっていて、あとは時間のかかる煮込みだの蒸しだのの工程を残すのみだったから、俺に手が出せるようなことはほとんどなかった。
 仕事もないのに置物よろしくぬぼーっと突っ立ってても仕方ないから、茶と菓子を三人が待つ二間を襖で仕切った畳敷の客室まで持っていく。
 湯上りほこほこの身体を浴衣に包んだ三人は、町ではばたばたしていてろくに昼も取れずに空腹だというから、そのまま早めの夕食を出すこととなった。

「――今でこそこんなにご立派になられたようですけれど、昔はエルガーくんもご苦労なさってらしてねえ。お宿の力仕事を手伝ってもらう代わりに、食事やお布団のお世話をさせていただいてたんですよ」

 俺が配膳に従事する傍ら、食事の世話をするために部屋へ残った女将の穏やかな声が廊下に漏れ聞こえてくる。
 小皿料理と新しい酒瓶を手に部屋へ入ると、女将が逸早く俺に気付いてにこりとした。

「情けねぇ話、当時は食うにも困るようなありさまでな。女将さんには本当によくしてもらったもんだ。ありがたい限りだよ」
「……そうなんだ!」

 両者の間にあるそれだけでない空気感はきっと誰もが感じ取っていた。だがしかしあやめはエルガーがそう言うならとその疑問を全て飲み込むことにしたようだった。繕いきれなかったのはほんの一瞬の沈黙だけで、あとは平然とにこにこ笑っている。なんとも健気で、見上げた女である。

「――ああ、今この子が持ってきました角皿には、ひとくち大に切った揚げ出し豆腐が入ってます」

 俺が机の上に人数ぶんの皿を置いていくのを見計らって女将が言う。

「餡にはお山で摂れたお野草を刻んで入れてましてねえ、このお野草が〝エイジングケア〟ってんですか、美容効果があるって言うんで、ここらの女たちは佃煮だのなんだのにして好んで食べるんです。あたくしも常備菜としてよくいただいてるんですよ」

 微妙な雰囲気を漂わせていた空気が、彼女の口にした〝美容効果〟という言葉でそわりと浮ついた。

「た……確かに女将さん、エルガーより歳上だっていうのに凄く若々しいかも……」
「若々しいトイウカ、最早年齢不詳の美魔女って感じダヨ……」
「あらまあ、いやですよう。こんなおばさん、捕まえて」

 娘っこ共の世辞の気配などない心からの驚嘆に、女将はしっとりころころ笑う。いつも俺の称賛は「はいはい、どうも」なんて適当に受け流すくせして、今ばかりは随分嬉しげだ。

「いやいや、嬢ちゃんらの言う通りだ。むしろ女将さん、あんた昔以上に別嬪だぜ」

 ふと食事中ずっと絶えず杯を嘗めていたエルガーが、酒が入って気分をよくしたのか、ふたりの尻馬に乗っかってそんなことを言う。

「……ほんとうに?」

 その言葉を受けて少女のように愛らしく眦を下げてはにかむ女将に、今度こそ場がしんと静まり返った。
 エルガーは凍りついた。あやめは感情の読めない笑顔を浮かべて、その隣でエルガーを見る美沈の目は完全に据わっている。
 こ、この野郎~! 調子づいて余計なこと言ってんじゃねーぞマジで! 焼け木杭でキャンプファイヤーでもする気か!?
 愕然とする俺にはっと視線を合わせたエルガーが、生まれつきか動揺のためかヘッタクソなダブルウインクでひたすら糞みてーなアイコンタクトを送ってきやがる。収集つかないからってよりにもよって俺に助けを求めるな、喧嘩売ってんのか。
 結局エルガーの奴にはもちろん俺にだってできることなんてあるはずもなく、そのうち残りの料理の準備をするためにと腰を上げた女将と一緒に下がりながら、俺は既視感を訴える記憶を手探りで漁り始める。

 ――エルガーくん……なるほど、エルガーくんね……。

  そう、今さらながらではあるが、俺は奴の名前に聞き覚えがあったのだ。

 ――本当にしくじった。そうか、あのエルガーくんだったか。

 そうだ、そうだった。いつかの晩酌時、てろんてろんに酔った女将がぺろっと口を滑らせた男の名前が、確かにそんな名前だった。つまり俺は、憎き恋敵を手前自身で諸手を挙げて迎え入れちまったらしい。
 厨まで戻って馬鹿でかいため息を吐く俺に小首を傾げながらも、女将は慣れた手つきで蒸し上がった茶碗蒸しを鍋から出している。念のため鬆が入っていないかを確認しているのだろう、ほんの少しだけずらされた蓋の奥に肉厚な茸の笠を認めて、俺は思わず声を上げてしまった。

「女将、それ――」
「なんです?」

 俺の疑問を多分に含んだ声音にも変わらぬ笑顔につい口を噤む。

「……なあに? おかしな子だこと」

 呼びかけるだけ呼びかけて二の句が継げないままの俺に、女将はくすくす笑ってそのまま三つの茶碗蒸しを盆に乗せて持っていってしまった。
 ひとり残された俺は遠ざかる女将の細い背中を見て、次いで調理台脇の屑籠を見る。

 〝なごみ〟の名物料理はいくつかある。
 ひとつが先ほど茶碗蒸しの上にも小さく切って乗せられていたフクフクタケだ。その名はふくふくと肉厚な笠に由来する。煮たり蒸したりするととろりと口の中で蕩けるようになる絶品の茸で、うちではよく姿煮にして出していた。
 もうひとつは茶碗蒸し。卵と出汁を合わせたこの辺りの宿では定番の料理だが、うちのひと味違うところは鶏肉を使わない代わりにトリッポ草という名前の山菜を用いる点だ。トリッポ草は蒸すと鶏肉のような食感と味わいになる多肉植物で、山の高所に生えているのをよく目にすることができる。

 フクフクタケもトリッポ草も、どちらも大変に美味であることは間違いない。だけど、通常このふたつを同じ献立で出すことはあり得なかった。個別に食べるぶんには味の良い良質な山の幸だが、食い合わせると毒性を発揮する成分があるためだ。

 俺にその自然の知恵を授けてくれたのは誰あろう、女将自身だった。



 草木も眠る丑三つ時。こんな夜半に至ってその人は、就寝の準備ひとつ整えないままで手燭を片手に音ひとつなくするすると障子戸を開けた。

「――女将」

 暗がりから、静かに呼びかける。
 びくっと震えた女将の履く白足袋が踏む板張りの床が、耳障りにぎしぎし軋む。怯えたように振り返る大きく見開かれた目はやがて暗闇の中から正確に俺の輪郭を切り取って、そうして疲れ果てたように澱んだ。
 これほどまでに若々しく美しい彼女が、今ばかりは実際に積み重ねた年齢以上に老け込んで見える。まとめ髪からほつれた髪が、彼女の白い肌にいくつもの針金みたいな影をつくつくと落としているせいかもしれない。

「……おまえはあたくしのこと、なんでもわかるのねえ」

 彼女は、苦く笑って空いた左手で俺の手をそうっと引いてくれた。
 だから俺は、彼女の言うことのなんでもかんでもを受け入れる決意を新たにできた。



 宿には蔵として用いられている小さな地下室がある。そこでは保存のきく食材や調味料なんかの類の他、草刈り鎌や薪割り斧といった作業道具だの麻縄だの宿の雑事や山仕事に使う道具たちが、普段であれば所狭しと置いてあるのだが。
 ――それらが乱雑に除けられた蔵のど真ん中に、あやめは力なく倒れ込んでいた。ただでさえ色白の肌は知らず知らずに含んだ毒のためか全身血の気が失せていて、縄で縛り上げられた手首や足首ばかりがこってりと赤い。棚に置かれた燭台の頼りなく揺らめく灯火にぼんやりと照らされる姿は、その胸が薄く上下していなければ一見死んでいるようにも見えた。
 戸口に立つ俺に背を向けて屈み込む女将があやめの頬を平手で軽く叩くと、あやめは小さく呻いて夜露を纏った黒薔薇の睫毛をふるりとさせた。
 目蓋がゆっくりと開いて、微睡から未だ脱け出せずにいる深い色味をした虹彩がとろとろと周囲を見渡す。

「お目覚めですか、あやめさん。おはようございます。とは言っても、まだ夜深けじゃございますが」
「あ、え……? おかみ、さん……?」

 麻痺毒がまだ残っているのだろう、呂律が回っていない。だが痺れて動きの鈍い表情からも彼女の戸惑いの色は克明で、「いったいこれはどういうことなのか」と目が語っていた。弱々しく藻掻くすらりとした脚が、着崩れた浴衣をさらに肌蹴させる。
 女将が、彼女の頬にかかった髪を人差し指で掬う。

「ねえ、あやめさん。あなた、エルガーくんにはもう可愛がっていただいたの?」
「……え?」

 なにを言われたのかもわかっていないような顔で、あやめは呆然としている。女将はそんな彼女へ手を伸ばして、張りのあるふっくらとした乳房を思いきり鷲掴みにした。

「なッ――!?」
「大きくて形がよくて、張りがあって……いやらしいお胸だこと」

 指と指の隙間からくにゅりと漏れ出さんほどに荒々しく形を変えられた胸に、さすがにあやめもさっと顔色を変える。頬を赤らめて睨む女の顔が恐ろしいわけもない。女将も当然意に介せず、感触を確かめるように胸を揉みしだき続けている。

「ッん……! いや、やだ、あっ」
「あら、いやだ。もうここをこぉんなにそそり立たせて……」

 浴衣越しにもはっきりとわかるほど、まろやかなふたつの膨らみの頂点にぴんと立って存在を主張するもの。まるで男に乱暴されるためにあるみたいに薄い布地を健気に押し上げる乳頭を、女の細い指先がきゅうっと摘まみ上げる。
 堪えかねて高く鳴いた少女を、女将は嗤った。

「――女の手で乱暴にされるのが、そんなによろしいの?」
「な、に……やめてっ……!」
「こんなはしたないお胸、エルガーくんたら喜んだでしょう。助平な人だから。あたくしも昔は随分と虐められてしまって」

 毒と拘束の影響で思うように動かない身体で、それでも抵抗を続けていたあやめがぴたりと動きを止める。俯いた彼女の表情は影になっていて俺からはよく見えない。

「――あらまあ! ごめんなさいね。あなた、彼に抱いてもらったことなかったの」
「……!」
「うふ、くふ。いやだわあ、悪いことを聞いてしまって……うふふふ。ああ、可笑しいったら……」

 だがわざわざ彼女の顔を覗き込んだ女将は声を弾ませてそんなことを言うから、少なくとも女将にとってはなにか満足のいく面持ちでいたのだろう。
 紅を引いた鮮やかな唇に指先を預けて嬉しげにころころ笑う女将は、やはりうっとりするほど美しい。

「おかみさん……、あなた、いったいどうして……。どうして、こんなこと……」
「ああ、そう、そうでした。そうよねえ、突然のことだったから、驚いたでしょう」

 あやめからぱっと手を放した女将がこちらに目配せをするので、俺は戸口から離れて一歩前へ出る。あやめは今まで俺がいることには気付いていなかったようでほんの少しだけ目を見開いて、それから眉根を寄せて唇に歯を立てた。

「あたくしね、あやめさんにお願いがあるんですよ。それにさえ頷いてくれたら、なんにも酷いことなんかしやしません。あたくしだって、このお可愛らしいお顔がずたずたになるとこなんて見たかありませんもの。ねえ?」
「なにが……目的、なの……?」

 あやめの問いに、女将はにっこり笑って事もなげに言う。

「あのねえ、あやめさん。あなた、このままどこぞなりへと姿を消しちゃあくれませんか」
「…………」
「エルガーくん、あたくしにくださいな。ね、安いもんでしょう? 男ひとり手放さずにいるか、この先もお天道様の下で生きてくかって、お若いんだもの、簡単なことでしょう」

 女将のお願いを、あやめは静かに聞いている。訊ねつつも同じ男に目を向けた女同士、薄々女将の真意をわかっていたのかもしれない。こんな状況下でよくもと思うほど強気に唇を吊り上げたあやめは、きっぱりと告げた。

「――絶対に、嫌」
「……そう」

 女将の声音からすこんと色が抜け落ちる。

「じゃ、あたくしからのお話は終わりです。あとはゆっくり楽しんでらして」
「まち、なさい。どこに、行くの……!」
「言ったでしょ、お話は終わりですって。あたくしのお願いを聞いてくれない人に喋ることなんかありゃしませんよ」

 先ほどの表面上だけでも穏やかな受け答えとは打って変わって、女将はもうにこりともせず冷酷に言い捨てて、俺の背にぽすんと手を当てるとそのまま立ち去っていった。俺は彼女が灯りを置いていったのが心配で、階段を登りきって戸の外まで出ていくのをきっちり確かめてからようやくあやめに向き直った。

「なあ、あやめ。俺だってなにも若いあんたに悪い思い出を植え付けたいわけじゃねえんだ、優しくしてやるから安心しなよ」

 手足は縛られ全身は痺れ、這い蹲ることしかできないはずのあやめの瞳からはそれでも消えやしない凛とした光が窺える。なにがあろうとも俺たちの言いなりになんてならないぞという強い意志がそこにあった。

「俺の見立てじゃあ、あんたはよその男の胤を股にたんまり詰めたまんまで惚れた男の前にのこのこ出ていけるほど恥知らずな女じゃないと思うんだが、実際のとこはどうなのかね」
「っ……!」
「それともこんな身体だ、案外この手のことにゃ慣れっこだったりするのかい? マ、試してみればわからァな」

 言いながら服を脱ぐと足元から小さく悲鳴が上がる。毎日目にしてすっかり見慣れた自分の身体の傷。それは俺にとっては喜びでしかないのだが、初めて目の当たりにする人間にとっちゃ確かに刺激が強いだろう。
 俺の胴には生まれたまんまの肌の色なんてどこにもないくらいに大きさも種類もさまざまな傷が刻まれているのだから。

「これ、すげーだろ。女将につけてもらったのよ」

 俺の言葉にあやめは愕然とする。

「あの人も酷いもんでさ、俺の気持ちをわかって傍に置いてるくせして、どんだけ迫っても『ウン』って頷いちゃくれねンだ。自分をまんまとヤリ捨てしてからこっち、顔も見せない男に操立てしたいって泣くんだもんな。可愛いだろ」
「エルガーが、そんなこと……!」
「じゃ、なにか? うちの女将が虚言癖のイカレ女だって言いたいのか? え?」

 話しかたをすっかり忘れたように押し黙るあやめの顔色は悪い。

「……マ、今こうやって綺麗に生きてるあんたらを否定したいわけじゃない。あんたがそうだって言うなら、実際あの男はかなり真っ当に過ごしてるんだろうさ。昔がどうだったかはさておきね」

 ほとんど着ている意味もないくらいに乱れまくった浴衣に真っ白い顔がなんとも寒々しく、俺は少しばかし同情的になってあやめの柔らかい頬を撫ぜてやった。温めてやろうと思ってなんの含みもなく善意でしていることなのに、嫌がってかぶりを振るから仕方なく手を退けてやる。

「……女将があんまりさめざめ泣くもんでさ、俺ァ『それなら思い出がほしい』とお願いしたんだよ」

 今でもさまざまと思い出せる。
 酒の勢いに任せて「あんたは俺の心をわかってるはずだ」と言ってやった。「あんたの中に誰がいたっていいから、身体だけは俺を一等傍に置いてくれ」と縋ったんだ。
 あの女はとんでもない悪女で、俺がそうやって迫るのを思いも寄らないことを言われたような顔つきで聞いていた。ただ黙って傍で尻尾を振るだけの犬とだけ思っていたのが、初めて人間の雄であったことを知ったように狼狽えていた。組み敷いた身体の柔らかな下っ腹に熱く膨れたものを押し当てると、女将は――ナマエさんは、はっと目を見開いた。

 そうして、泣きやがる。

 ――とある男を待っている。
 ――その男以外にはもう身体を明け渡さないと心に決めた。
 ――ゆるして、おねがい、ゆるして。

 ああ、本当に。泣きたいのは俺のほうだって怒鳴りつけてやらなかったのが不思議なくらいだった。
 こうして思い返してみれば腹の底がぐるりと引っくり返るような心地がするのに、そのときの俺は変に頭が冷えていた。
 白粉のない瓜実顔に絶えずはらはら流れ落ちる涙を指の背で拭ってやり、俺はひとつの提案をした。

「そいでさ、シてもらったわけよ。セックスよりすごいコト♡」

 ぶるぶる震える冷え固まった蝋みたいになっちまった手を握ってやりながら、火で炙った包丁を〝せーの〟で一緒に俺の腹へと突き立てた。人を刺したことはあっても自分を刺すのは初めてだったし、なにより癒えない傷を刻んでほしいという想いが先走りすぎて、俺は危うく死ぬところだった。
 全身汗水漬くで腹からだくだく血を流す俺に、ナマエさんはわんわん泣きながら一生懸命に包帯を巻いてくれた。
 それが、俺たちが初めてふたりで築いた情の思い出。一生消えない、俺の情愛とナマエさんの罪悪感。俺たちのどろどろに煮詰まった感情の可愛い可愛い合いの子ちゃん。
 何度も何度も繰り返すうちにナマエさんは手心を加えるのがうんと上手くなって、今ではうっかり死にかけることもない。虫も殺せないような白い手をした女に、俺が人の肉を切る味を覚え込ませたのだ。
 下手な人殺しよりもよっぽど人を掻っ捌く腕があるくせ、それでもまだ指に包丁を押しつけるごと初心に散々泣き腫らすのがいじらしくて仕方なくて、刃を立てる場所に迷うようなありさまになってさえも俺は未だにおねだりがやめられなかった。

 熱のこもった吐息をうっとり漏らす俺に、あやめは唇を戦慄かせて呻いた。

「あ、あなたたち、おかしいわ……」

 思わず鼻で笑った。あまりにも、くだらなくて。
 どうとでも言やいいと思う。おかしかろうがイカレていようが、俺たちは俺たちなりによろしくやってたし、これからもそれなりにどうにかやっていくんだろう。そこに常識ぶった外野の雑音なんぞ、煩わしいだけだ。

 これ以上話すこともない。足首の拘束は解かずに、いざつるつるの膝を掴んで脚を大きく割り開かんとしたそのとき。背後で鳴ったけたたましい轟音に俺はほとんど反射で振り返った。

 ――――そして、鬼がいる、と。

 心の臓まで総毛立つ心地がした。
 実際そこにいたのは鬼ではなくエルガーの奴だったのだが、目にまで見えるような怒気を全身から立ち昇らせて佇む姿は悪鬼をも思わせた。
 凄まじい殺気に身を強張らせた俺は、しかし奴の分厚い肩に担がれている女の姿を認めて声を張り上げた。

「ナマエさん!」
「――エルガー!」

 俺とあやめが叫ぶのはほとんど同時だったように思う。
 その声が合図になったか、女将を雑に地面へ下ろしたエルガーが猛獣のごとき素早さで飛びかかってきて、俺は敢えなく張り飛ばされた。蔵に積まれた色んな荷を巻き添えにしながら女将のもとまでぶっ飛ばされて、一瞬肺に隙間なく石の塊が詰められたみたいに呼吸ができなくなる。
 咳込みつつも、すぐ隣でぐったりする女将の頬を軽く張って顔を覗く。意識はあるようだが当て身でも受けたか、脂汗を掻いて唸っている。
 だが、肝を冷やしたのも束の間。女将はすぐにカッと目を見開いて、俺の胸をどんと押した。青白い血管の浮いた細っこい手には草刈り鎌が握られている。

「あんなに尽くしたのに……あんなによくしてあげたのに……! その子とあたくしとで、いったいなにが違うっていうの! どうしてあたくしじゃ駄目なのよ!」

 血を吐くような凄まじい絶叫だった。止める間もなかった。
 だが刃を向ける先も定まらない混乱を極めた一撃は振り下ろされることもなく、難なくエルガーによって絡め取られる。よろけてへたり込んだ女将の手から鎌を奪い取ったエルガーは、静かに視線を落とした。
 殺す気だ。すぐにわかった。
 俺は散らばっていた薪割り斧を引っ掴んでふたりの間に割り込む。すると即座にがちんと金属と金属を強く打ちつける音が痛々しく響いた。
 わざわざ鎧まで着込んでここまで辿り着いた様子からわかっていたことだが、明らかに毒の影響を受けていない。

「てめえ、女将が丹精込めて作った料理、食わずに捨てやがったろう。悪い男だな」
「嘘塗れの大悪党に謗られる筋合いはねぇと思うが。そういうお前は、荒事は苦手だって話じゃなかったか? かなり動けるようじゃねぇか」
「嘘なんかついちゃないよ。おイタも喧嘩もすっかり足洗ったんだ。昔と比べちゃあ随分苦手さ」

 渾身の一打を受け止めた斧を握る手がまだびりびりと震えている。俺がもうまともに腕に力を入れられないことを隙なく見抜いたらしいエルガーは、足の甲で俺の腕を蹴り上げて斧を取り落とさせた。
 怒りに飲まれた自我もそれでいくらか落ち着いたのか、あやめを背後に庇いながらエルガーは眼光鋭く俺たちを見据える。

「女将から、話は全て聞いた」
「……ああ、そう。それで?」

 煽るつもりでもなんでもない。本心からの問いだったがエルガーがそれをどう思ったか俺にはわからない。ただ殺気の滲む目つきからして快く感じていないのは明らかだろう。

「……どうして、女将を止めてやらなかったんだ」
「……はあ?」

 瞬間、脳が奴の言葉を理解することを拒否した。そんな俺の間抜けな反応にエルガーはより発奮して吼えた。

「――惚れた女が人の道を踏み外そうとしたんなら、止めてやるのが男だろうが!」

 それを、お前が言うのか。
 悉く俺の神経を逆撫でしやがる野郎だとは思いつつも、敢えて口にはしなかった。奴自身が誰より自分でそうとわかっているような顔をしていたからというのもあるし、しみったれた男の泣き言をなによりもこいつの前で吐き出すことが我慢ならなかったからだ。

「そりゃ、あんたの恋愛観だろ? 人の色恋沙汰に首突っ込んで押しつけがましいことを言うなァ、よくねえな」

 俺の足元ではもう立ち上がれもしない女将が声もなく、尋常でない様子で震えている。きっともう俺たちの問答さえ耳に入っていない。

「惚れた女が望むなら一緒に地獄にだって堕ちてやるのが俺の恋愛観だ。例え俺に振り向いてくれなくたって、この世のどこより汚ェ場所への道連れに選んでもらえたってだけで光栄さ」

 隣へしゃがみこんで、俺はその華奢な肩を抱く。震えはそれでも止まらない。この女が求める腕は俺のものではないからだ。この期に及んで我儘尽くしの女で本当に困っちまうったら。俺がそういうとこも可愛いと思える男でよかったって、いつかそう言ってくれたら報われもするんだが。

 すっかり腰が抜けちまってるのか、起き上がらせてやろうにも女将は骨がないみたいにふにゃふにゃ座り込むばっかりだから、俺はその身体を横抱きにしてやった。
 エルガーは苦々しく俺たちを眺めながらも、取り立てて邪魔をしてやろうという気はないらしかった。

「あんたは俺の惚れた女に手ェ出した。俺はあんたの惚れた女に手ェ出した。これであいこにしてくれるってこと?」
「…………」
「マ、都合よく受け取らせてもらうとするよ」

 そのまま前を通り抜けていこうとすると、ふとエルガーが口を開いた。

「……どこへ行くつもりだ」

 首だけで振り向くと、いつの間にやら拘束を解かれてエルガーの羽織っていた外套を巻きつけたあやめの姿が目に入った。俺の視線を遮るように、エルガーが半歩横へズレる。

「さてね。女将にも、もうこんなとこで細々宿を営む用もねえだろうから、あんたがこのまま見逃してくれるってンなら不義理をして出た故郷に帰って畑でも耕すかね。ふたりで慎ましく暮らしていくぶんには、さほど困らんからよ」

 慎重に階段を登って開け放たれたままの戸を潜り抜けて外へと出る。雲ひとつない空には、夜にぽっかり穴を空けたみたいな真ん丸の月が出ている。

 静かな夜だった。俺たちふたりがどこかへ姿を眩ませちまっても、誰もきっと気付かないくらいに。