障子戸を開けて寝室に陽光を採り込む。日を遮る山も木もほとんどない風景には未だに慣れなくて、少しだけ目がしょぼつく。時間で言えば、俺はあの山麓よりもこのふるさとで過ごした時のほうが長いのに。
「――ナマエさん、今日はいい天気だぜ」
振り返り、まだ布団の中にいる彼女に笑いかける。
「…………」
返事はない。身動ぎひとつしない。いつも通りだ。故郷の景色には馴染まないのに、こればかりは早々に慣れた。
――あの日、こっ酷くフラれたのがよほど堪えたか、それともまたなにか別の要因でもあったのか。あれ以来女将は――ナマエさんはこんなふうに人形みたいになった。
息はしている。ただそれだけ。食事も風呂も排泄も、世話をしてやらなきゃ自分じゃまともになんにもしない。手間はかかるし話も笑いもしてくれなくなった上、いつか振り向いてくれるなんてことは夢の中でさえ望めなくなったが、それ以上に俺がこの女を生かしているんだという実感ひとつが俺を満たしていた。
寝具を片付けて着替えでもさせてやろうかとナマエさんから布団を剥ぎ取る。すると彼女の股の間がしとどに濡れていることに気付いた。薄い寝巻も布団も、薄っすらと黄色く汚れている。
「……あれ? なんだあ、ナマエさん。またお寝小しちまったんだね。恥ずかしがるこたないよ。俺がきちんときれいきれいにしてやるからね」
裾をたくし上げて大股を開かせて、半身を抱きかかえるようにしながらいつも用意のある手拭いで股間を綺麗に拭いてやる。かつて服越しに股を押しつけただけでぴいぴい泣き喚いていたのが嘘みたいに、ナマエさんはなにも言わない。ただ黙って、濁った目でぼんやりと虚空を見つめている。
着替えより先に風呂に入らせてやるのがいいだろう。抱き上げた彼女の身体は弛緩しきっているにも関わらず羽根が生えたように軽い。また少し痩せちまったかな。粥ばかりじゃ無理もないか。
だけど、擦り寄せた肌にあたる温もりは昔とちっとも変わらない。山で死にかけていた小汚い俺に厭わず手を差し伸べてくれた、あのときのまま。
「――ナマエさん、俺、幸せだぜ。嘘なんかじゃないさ」
想像していたよりずっと、地獄の涯ってもんはあったかい。