【女将と傭兵エルガーの問答】




 草木さえか細い呼気をして寝入る丑三つ時。ナマエは木板を張った廊下を、音を立てぬよう摺足気味に歩いていた。
 向かうは、望みはないと知りつつも夢にまで見るほど長年待ち続けた男――エルガーが眠る客室だ。
 数年前に山で拾い、男衆として傍に置き始めた青年が連れ帰った一行の中にエルガーがいると知ったとき、彼女はあまりの驚愕と歓喜にかつての夜のごとく立ち眩みを起こして倒れてしまうかと思った。白足袋の足でどうにか床を踏み締めて、情けなく引っ繰り返ってしまうことは避けられたものの、ナマエは久しく揺れ動くことのなかった己の女心がそわそわと浮き立つのを自覚していた。
 それでいて少女のようにはしゃぎたてずにいられたのは、彼が行動を共にしていた見目麗しい少女に不吉な予感を覚えたからだった。
 果たして彼女の抱いた懸念は丸きりその通りに形を成して、だからナマエは〝なごみ〟の女将としての矜持もなにもかも全て捨て去って女としての己を取った。
 例え深刻に命に関わる代物ではないにせよ、なに食わぬ顔で毒入りの膳を並べること。その行為に躊躇いはなかった。いっそ自分で自分を恐ろしく思うまでに。
 恋情を知らず、それどころか冷めた眼差しで一瞥をしていたあの青年。それが時を経て再び現れた今、眦に熱い慕情を湛えてナマエでない女を見つめている。
 それがあまりに堪え難かった。年甲斐もなく激しい嫉妬心を抱いて、そうして思った。
 なぜかつての自分には、その眼差しが与えられなかったのだろうと。
 だけど彼女もまた、色恋沙汰になにがしかの根拠を求めようというのがそもそもの間違いなのだということを痛いほどに理解していた。なにもかもが理屈、理屈で罷り通るのが世の常だとばかり思っていたのはもう随分と昔の話。今ナマエの中にあるこの激情も、理屈で片付けられるようなものではないのだから。

 やがて目指していた部屋の前へと辿り着いたナマエは大きく胸を膨らませて深く息を吐く。襖に手をかけて慎重に開け放った彼女は中を覗いて、そうしてころころと喉を鳴らした。

「あら……、あらあら」

 白面が、行燈の灯火にぽうと照らされる。框に貼られた真新しい紙を透き抜け角を取られたまろやかな明かりの中、笑むナマエ女将は月の女神のごとく麗しい。
 ――部屋の中にはすでに身体を起こし胡坐をかいて、浴衣姿など見る影もなく旅装を整えたエルガーが険しい面持ちで彼女を待ち構えていた。
 ナマエが丁寧に敷いてやった布団はその脇へとすっかり畳まれている。ぴんと角を揃えて清潔に佇むさまに、過去、男衆の真似事をさせていた頃に教え込んだ業がまだ彼の中に息衝いていることを悟る。

「……あたくしの企みごとなんて、端ッからみいんなお見通しだったって、そういうことですか」
「…………」

 どこか投げやりに笑う彼女に、エルガーは黙りこくって応えない。だが、ナマエは元よりわざわざ問答を楽しむためにこの場へと赴いたわけではない。構わずに彼の傍へ静々と歩み寄ってそっと身を寄せた。

「……ね、あたくしがなんのために訪ねてきたか、おわかりでしょ」
「……なあ、女将さん、俺は――、」
「どんなに酷くしたっていいから……抱いてほしいんです。あの夜みたいに」

 帯を緩めて、ナマエは躊躇いなくエルガーに向かって胸元を曝け出した。歳を重ねてさすがに抗いようのない重力にやや垂れつつも、未だ年相応でない瑞々しい張りを持つまろい脂肪がとろりと現れて、愛しい男のゆびさきを今か今かと待ちかねて花蕾のごとき先端を紅く尖らせる。
 エルガーは闇において輝き浮かび上がらんばかりの裸体を目にすまいと顔を逸らしたが、ナマエは彼の右手を取るとその掌を豊かな膨らみへと押し当てた。乳房が溢れるように押し潰れて、エルガーの手が白い肉に埋もれる。

「あたくしなら若い娘や見世女にできないようなこと、なんだってしてあげるし、してもいいのよ」
「――よしてくれ」

 男の情を希う痛々しい言葉に、エルガーはとうとうナマエの手を振り解いた。

「なあ、女将さん。……あの夜のことは、俺に非があった。真実俺を想ってくれたあんたに、あんなことをすべきじゃなかった」
「いいんですよ、別に。あたくしが望んだことですもの。今だってそうだわ」
「それでもだ」

 エルガーの浅黒く日に焼けた眉間に苦々しい皺が深く刻まれる。ぎりりと食い縛った口許の右端、顎から頬の半ばまで顔面を割るように残る、若かりしかつてにはなかった大きな裂傷痕が奇妙に歪む。まるで、三日月口をして卑劣にナマエを嘲笑うかのように。
 それはもちろん彼女の抱く心象からなる幻影で、実際のところエルガーは哀れな女を嘲りさらに追い詰めるような非道な男ではなかった。

「なあ、あれからいくらも経って、それでも悔やまない日はなかった。『あんたにあんな酷い真似、絶対にしちゃァなんなかった』って」

 ゆえにいよいよという今もなお、彼はナマエに対して理性的な対話を試みようとしてくれる。〝後悔〟などという惨たらしい言葉を口にしながら。

「あんた、きっともうわかってるだろ。俺ァよ、あの嬢ちゃんが――あやめが好きなんだ。芯まで惚れ込んじまった。だから、裏切りたくねぇ」

 剥き出しになったままの胸が、しんと冷えていく。

「お付き合い、なさってるってわけじゃあなさそうでしたけれど」

 喉を震わせてかろうじてそれだけ絞り出したナマエに、エルガーは首肯する。

「……ああ、そうだ。だから裏切りだのなんだのは、所詮俺ひとりの心持ちの問題だ。こんなところまで来てくれたあんたに恥かかせるのは本意じゃねぇが……頼む」

 途端、彼は折り畳んだ長い脚はそのままに、這うようにがばりと頭を下げた。

「あんたの心がそれで済むならどんなに詰ってもいい、殴ってもいい。出ていけって言うなら今すぐここから俺だけでも宿を発つ。どうか、許してくれねぇか」

 首級を差し出すように無防備に晒されたエルガーの太い首筋を見つめるごと、言い知れぬ寒気がますます彼女の骨身に染み通って痛い。
 小さく丸まった彼の身体を通り越して視線を部屋の中へと潜らせれば、壁に寄り添う形である文机の上に一枚の書置きが目についた。頼りなげに身を揺する光明では隅にこっくりと居座る影まで全て焼き払うことは難しく、ナマエの目には判然としないが、どうやらそれは「一旦先立って宿を発ち、山を越えた先の町へ行く」というようなことが書いてあるらしかった。
 過分なく短い、簡素な手紙だ。経緯が記されることも特段の感情が宿ることもなにもなく、実にさらりとした文面だった。それがエルガーの彼女に対する執着のなさの顕れのようで、忌々しくてならなかった。

「……本当に可笑しいこと。そうまで義理立てしたいあの娘、もうここにはいなくってよ。ご自身の足で、お宿を出ていかれましたから」

 だからナマエは、嘘を吐いた。

「――は?」

 思わずといった風情でエルガーが身を起こす。ナマエはその身振りをでき得る限りの冷淡さで以て迎えた。エルガーが乾いた唇を舌で湿らせるのを、ナマエはただじっと見つめる。

「……あんたは、無害な山の幸を組み合わせて毒の料理を作った。効果は軽い麻痺毒といったところか」

 やはりエルガーはあの茶碗蒸しが含む微毒に気付いていたのだ。ナマエのことなどすっかり忘れ果てたように、あれきり立ち寄りもしなかったくせに。苛立たしいようでどこか仄温かい相反する感情の牙が彼女の胸を食い破って、さも旨そうに咀嚼する。

「あやめたちはそれを食ったはずだ。動けるはずがねぇ」

 そう、そしてなんの思惑があってのことか、そこまで見抜いていながら彼はナマエの毒牙を見過して、今こうして対峙している。

「それに、すぐ隣の部屋でごそごそやってたんなら俺がすぐにわかる」
「もう、疑り深くて仕方のない子。うとうとしてらしたんじゃなくて? もう夜半過ぎですものね、仕方がないわ」

 こうも知らぬ顔で毒を忍ばせられるものか、こうも知らぬ顔で偽りを吐けるものか。

「あのねえ、毒の草があるなら、解毒効果のある草だってありますよ。別の献立をお出ししたら怪しまれてしまうでしょ。それで下手にお皿を交換されでもしたら困ってしまうし……。
 それなら最初から全員に同じものを口にさせて、後から解毒の草を噛ませたほうが楽だもの」

 こんな薄情な男に惚れさえしなければ、己の醜さを生涯知らずに生き通せたものを。
 だが、エルガーとは違ってナマエには最早悔いの念など小指の先ほどもない。

「だからその解毒ついでにね、あたくし、あの子にこっそりお話ししたんですよ。あんな若くて可愛らしいお嬢さんをだまくらかすのは心が咎めたけれど……あたくしと昔に何度も枕を交わしたって聞かせたら、あの娘、エルガーくんに失望したって」

 ナマエの言葉に顔色を失くしたエルガーは即座に隣の間を隔てる襖の引手に手をかけた。躊躇するように指を戦慄かせたものの、すぐさまに開け放った先には布団の中ですやすやと寝息を立てる明るい髪色の少女――美沈ただひとりの姿がある。

 かつてのエルガーのように男衆として傍に置いている若者の過去を気にかけたことは、ナマエにはほとんどなかった。しかしながらこんな状況下に陥って初めて、彼女はあの若人が札付の悪党でよかったと心底思った。ナマエに戦闘だのなんだのといった分野の知識はとんとないが、どんな業を用いたものか傭兵稼業で身を立てるエルガーに一切気取られることなく娘ひとりを掻っ攫うなど、並大抵の技量でないのは確かだろう。

 呆然とでもしているのか、硬直するエルガーの背に向けて調子づいたナマエは煽り立てるように続ける。

「酷い子よねえ、あんなに親しそうなお友達も置き去りにして――」
「――女将、あんた、嘘をついてるな」
「え、」

 「なぜ」を問う間もなく、ナマエの視界は天地をぐるりと裏返る。

「――!? げほっ……!」

 畳に叩きつけられた、と。舞い上がり鼻腔を掠める藺草の香りと背中の痛みでようやく気付いた。

「嬢ちゃんが美沈を置いてひとり出ていくなんてこたァ、あり得ねぇんだよ」

 エルガーの声が重く、重く、響く。

 少女時代は村に唯一ある屋敷の最奥で守られ、女将となってからは宿の中からほとんど出ずに生きてきたナマエに戦いの勘は当然ながらこれっぽっちもない。
 だけれども、そんな彼女でもこれだけはわかった。

 これは、これは――――殺気だ。

「あんた、あやめになにしやがった」

 彼女は、初めて恋い慕う男に恐怖した。


――――
22/11/13