永遠の夜をここに置け


「――おうい! 今日は大漁だぞお!」

 蒼く晴れ渡った空の下で、少年のからりと爽やかな大音声が響き渡る。
 ナマエが顔を上げるよりも素早くその声に反応したのは、彼女と一緒になって鈎針を一生懸命に手繰っていたふたりのお姉さんたちだ。彼女らは「きゃあっ」と嬉しげに歓声を上げると、びょこびょこと覚束ない足取りで天幕を飛び出していく。
 と、その拍子に戸口の垂幕を押し上げる役目を果たしていた棒切れがぱたんと倒れた。襤褸布で切り取られた青空が覗いていた天幕の中は、一変して一面を橙を帯びた淡い影に閉ざされる。

「やったあ!」
「さっすがエル!」

 薄い布一枚隔てられた外からは、お姉さんたちの楽しそうにはしゃぐ声がする。
 ナマエは彼女らの後を追うことはなく、しかし這うようにして天幕の出入口の傍まで行く。小さな手で継ぎ接ぎの垂幕をそうっと持ち上げると、ちかっ、ちかっと刺すような光が彼女の瞳を鋭く突き抜けて、痛いほどの目映さに涙が滲む。
 ナマエが天幕から顔を出して忌々しそうに太陽を睨んでいるのに一番に気付いたのは、彼女の兄だ。
 兄が魚籃を提げていないほうの腕をナマエに向かって大きく振る。するとその隣にいた少年もまたナマエに気付いて、大きな手をぐわっと挙げた。
 くすみひとつ脂汚れひとつない眩しい金髪を持つ、かの少年の名はエル。ナマエたち、〝孤児の集い〟の仲間のひとりだ。
 他のみんなと比べたらまだこの集まりに加わって日の浅いエルはそれでももう随分慣れた様子で、一緒になって魚を獲りに出かけていた兄たちに絡んだり、飛びついてくるお姉さんたちを抱き留めたりしている。最初こそエルをとびきり怪しんで警戒していたのはお姉さんたちだったのに、今では彼に一番べったりなのも彼女たちだ。

「――なに笑ってんの」

 エルを中心に団子状になった子供たちの塊からいつ脱け出したのか。滑らかな褐色の肌をしたお兄さんが天幕の前、ナマエの傍にとすんと腰を下ろす。乱されきった髪を直す彼の大きな目が不機嫌そうに眇められているのを見て、ナマエは慌てて口元を編みかけのハンカチタオルで隠しつつ笑いを収めた。

「……エルが来てからお腹いっぱいご飯が食べられるようになって、嬉しいなあって。お兄さんも、そう思うでしょ」

 ナマエが言うと、お兄さんは綺麗に通った鼻筋をくしゃっと皺くちゃにした。形のよい美しい唇が皮肉っぽく歪められる。

「ハ、あいつが来る前までは僕たちが情けなくっていつもひもじい思いしてたっていう、遠回しな嫌味? それはそれは、大変ご苦労おかけしました」
「もう、違うったら。お兄さん、すぐそういう意地悪言う」

 あんまりな物言いだ。ナマエは表情を隠すためのハンカチを下ろして、膨らませた頬を見せつけて不満を表明する。お兄さんはすかさずその長い指でナマエの頬の空気をぷしゅっと抜いて、つまらなそうに浅くため息を吐いた。

「マ、エルのやつも、いないよりかは役に立ってるよね」
「……お兄さんは意地悪で、素直でもないんだから」
「僕ほど素直な男もそういない」
「それから自己評価が歪んでる」
「なんだと」

 本当に殴る気もないのにふざけて振り上げられたお兄さんの拳から頭を庇いながら、ナマエは痩せた腕の隙間から兄とエルを透かし見る。

 ――〝孤児の集い〟。
 親のいない子供。居場所のない子供。お金のない子供。ひもじい子供。ないない尽くしの幸せじゃない子供たちの寄せ集め。善意の大人の手が差し伸べられることのない子供たちだけで生き抜くためにこの集まりを作ったのは、ナマエの兄だ。
 この拙い相互扶助の集団に、小難しい規則はほとんど存在しない。〝仲間たちで立てた誓いは必ず守り、決して裏切らない〟というたったひとつの鉄の掟を除いては、ルールというルールなどない。
 だけど、大人たちに搾取され足蹴にされ続けてきた子供たちにとっては、そのたったひとつの誓いさえあればじゅうぶんな縁になり得た。絶対に自分に背を背けない誰かがいるという確信は、驚くべきほどの心強さを子供たちに与えてくれる。

 そんな子供たちの群れに突然現れたエルは、色んな肌色をして色んな顔立ちをした子供たちの中でも極めて目立つ異質な子供だった。
 彼がどこから来たのかをナマエは知らない。そういう子供たちは大勢いるから、正直言ってそう気にかけたこともない。
 エルは過去や現在にいるその他大勢の子供たちと同じように、いつの間にかこの溜まり場にやってきた。そうして知らないうちにナマエの兄が受け入れていたから、いつの間にやら今みたいにすっかり馴染んでいた。
 ナマエたちの暮らし向きに変化があったのは、それからすぐのことだ。
 エルは知識というものの大切さを知っていた。そして彼はナマエたちにも根気強く、その日その日に気まぐれで与えられる小金や食事よりも、それらを効率的に得るための知識を獲得することの重要さを説いてくれた。
 だから、ナマエたちはもう誰もみんな魚を捕らえる罠が張れるし、雑貨屋に卸すための編み物が編める。小汚い孤児たちの手垢がついた品物をどうにかして販売してくれるよう、雑貨屋に話をつけてくれたのもエルだった。
 親のない子供たちは金のにおいに敏感だ。
 質素ながらも取って付けたような汚れや解れしかない服を着て、誰かが怪我や病気をすればどこからか薬を調達してきてくれて、そしてナマエたちにないたくさんの知識を持った〝エル〟を、みんな自分たちとは違う身分の子供だと気付いていた。
 それでもエルからの歩み寄りと惜しむことなく与えられる知恵を甘ったれた御子息による慈善家ごっこだと撥ねのけなかったのには、いくつか理由がある。
 それはエルが〝孤児の集い〟のためにはどんな力仕事や汚れ仕事であろうとも苦労を厭わなかったためでもあるし、ナマエたちに対して本物の友情を向けてくれているのだとありありと感じ取れたためでもある。
 そしてなにより一番の理由は、エルが明朗な笑顔の下にこっくりと濃い影を覆い隠しているからだった。
 エルはどんなに楽しげにしていても、どこか不幸染みていた。どこにもないと知っている自らの居場所を、それでも見つけ出してやろうという必死さが内面から透けて滲み出ていた。
 エルがどんなに孤児たちに馴染もうと、綺麗な服に白々しい汚れをなすりつけたところでなにも関係はない。心の根っこの奥の奥にまで染みついた不幸の香りこそがないない尽くしの幸せじゃない子供たちにとっては最も強固な符号で、その香りを纏わせている限りエルはいつまでもナマエたちの仲間なのだから。



 昼に食べるぶんだけの魚を焼き、残りは干物にするための処理――この方法も、エルが教えてくれた。――をする。貧乏暇なしとはよく言ったもの。子供たちみんなであれこれと作業をしているうち、エルは今日も日が完全に暮れきる前にはふらりと姿を消していた。
 いつものことだから誰も気にしない。エルに心の休まらない住処があるのだろうことぐらい、みんな疾うに気付いていたから。
 そうして過ぎていくいつも通りの光景の中でいつもとひとつだけ違ったのは、そうやってどこかへ帰っていったはずのエルが、すっかり月が昇りきった頃になってまたナマエたちの元へ訪れたことだった。

 エルを出迎えたのは咳が止まらず寝付けずにいたナマエと、そんなナマエの世話をしていた兄のふたりだ。
 兄以外は皆すっかり寝入っているとばかり思っていたのだろう。兄を真っ先に見つけて強張った表情を仄かに和らがせたエルは、その次にナマエがまだ起きていることに気付くと取り繕うようにへらへら笑った。
 笑ってはいたが、明らかに普段とは様子が異なっていた。
 エルが染みひとつない美しいシルクのシャツを身に着けていたのも目についたが、それ以上に翠の瞳が暗く暗く澱んでいたのが気にかかった。思いつめた雰囲気を漂わせていた。今にも死んでしまいそうだった。
 エルの悲愴な面持ちに矢も楯も堪らず、ナマエは自身の不調も忘れて彼の傍へと駆け寄った。

「エル、どうしたの?」
「……ナマエ、」
「怖い夢を見たの? それとも誰かに虐められたりした? ナマエたちが、やっつけてあげようか?」

 寄り添ってどんなに言葉を尽くしても、エルがまともに口を開く気配はない。

「――ナマエ」

 焦れてなおも言葉を連ねようとしたナマエを、兄が静かに制した。
 彼女が素直に口を閉ざしたのを見ると兄は笑ってナマエの頭を撫でてくれる。そんなナマエの頭上でふたりは視線を交わし合うと、そのまま連れ立って天幕の外へと出ていった。少なくともナマエが一緒についていくことが許されるような雰囲気ではなかった。
 子供たちの静かな寝息に包まれながら、ナマエは床にぺたりと座る。じっと天幕の中で待つ彼女の耳に、兄たちの会話ははっきりとは聞こえてこない。ただぼそぼそとなにか囁き合う声の中に混ざるエルの鼻を啜るような音が、ナマエの胸を強く衝いて苦しい。
 ナマエの兄とエルは親しい。まだ知り合って何年も経っていないのに、産まれた頃からの付き合いだったみたいによく気が合っていた。
 そんなエルを、ナマエはもうひとりの兄のように思っていた。ともすれば親愛さえ超越した情を抱いていたかもしれないが、まだ幼いナマエに自身の心の内で起こっていることであろうともそういった感情の繊細な機微は理解できない。
 今のナマエにわかるのは、兄の次に大事なもうひとりの兄がなにかを深く嘆き苦しんでいるということだけだ。
 ずんと重石を乗せられたように痛む胸のせいで喉が詰まる。堪えかねてごぽごぽと咳き込むと、外の会話がぴたりと止む。
 ナマエが慌てて口を塞ぐのは間に合わず、ふたりが物憂げに垂幕を上げて顔を覗かせた。兄はナマエの傍に寄って彼女の骨の浮いた背を擦ってくれる。エルもまた彼女の傍にあった水差しを手に取って口元に添えようとしてくれた。
 そこでやっと気付いたが、エルの足元には彼が持ち込んだのだろう大荷物があった。

「……エル、どこかに行っちゃうの?」

 だからナマエはエルの厚意を手でそっと追いやって訊ねた。
 エルは気まずさから逃げるようにナマエから目を逸らして黙り込んだ。黙ったままで、水差しを床に置いた。

「いつか帰ってくる?」
「…………」

 やはり答えはない。そして、あまりに重たい沈黙だった。
 それで彼女は、エルがもうここには戻るつもりがないという決心でどこか遠くへ行こうとしているのがわかった。

「……じゃあ、いつかナマエたちがエルに会いに行くね」
「え……、」

 虚を突かれたようにエルが顔を上げて目を見張る。

「大きくなったら、いつかおにいと一緒にエルのいるとこに遊びに行く。だから、エルはそれまで元気でいて、ナマエたちのこと、忘れちゃだめよ」

 本当は「行かないで」と泣きついて縋りたかった。心を許した誰かとの別れはいつも身を裂かれるように辛く、止まらぬ咳よりも息苦しい。ナマエに甘いエルは恐らくそう言って泣きじゃくれば留まってくれたのではないかと思うと、なおさらそうしたかった。

 ――だけど、エルがもうここでは生きていかれないと思ってしまったのなら。

 親友の兄も、弟妹のように可愛がってくれたナマエたちのことも全て擲ってしまうことになったとしても、それでももうここにはいられないと思ってしまったのなら。
 それを無理に繋ぎ止めるのは、いったいどんなに残酷なことだろうか。

「怪我も病気も、しちゃだめよ。誓ってくれる?」
「……ああ」
「ナマエたちとエルは、仲間なんだよ。仲間同士の誓いは絶対破っちゃいけないの。本当に本当に、約束してね。元気でいてね」
「ッ、ああ……!」

 ナマエがにこにこ笑って小指を差し出すと、エルは今にも泣き出しそうにくしゃくしゃな顔をした。彼女の華奢過ぎる指にエルの太い小指が絡む。そしてその勢いのまま、エルはナマエをぎゅっと抱き寄せてくれた。

「約束だ。お前らにまた会える日まで、俺はずっと元気でいる。元気で、外の世界でお前らを待ってるよ。そう誓う」

 着心地のよさそうなシルクのシャツに包まれたエルの身体は氷のように冷たい。
 ナマエは目を閉じて、エルの身体をぎゅうっと抱き返した。彼の孤独な旅路に、少しの間だけでも自身の温もりを道連れにしてもらえることを祈って。



 白み始めた空の下、遠ざかりゆく少年の背を、兄妹は天幕の外で寄り添いながらに見守る。エルの前では懸命に堪えていた涙が、ナマエの頬をぼろぼろと伝い落ちていく。
 じっとエルの後ろ姿を見つめながらに、兄が呟く。

「お前は良い女だよ、ナマエ」
「……ほんと?」
「本当だ。俺が嘘ついたことあったかよ?」
「何度か」
「……今度は嘘じゃねえよ」

 兄はぶっきらぼうに言い捨てて、ナマエの頬を手の甲でぐしぐし擦った。

「男の旅出を笑って見送れる女は良い女だ。きっと良い嫁さんになるぞ。兄ちゃんが保証してやるよ」
「ナマエ、結婚するならエルやおにいよりも素敵な人じゃないとイヤ」
「んじゃ、難しいな。ただでさえエルは人並み以上に良い男だし、俺はあいつのさらに上をいく良い男だ」
「……うふふ、知ってる」

 笑みを象るナマエの小さな口からまた咳が零れ出て、止まらない。
 ぐんぐん遠ざかっていくエルが、ふとなにか思い留まったように足を止めたのを見て、ナマエは咄嗟に兄の胸に顔を押しつけた。兄はそんなナマエを拒むことなく、むしろ彼女の意を汲むように小さな頭の後ろをぐっと抱き寄せてくれた。
 もうナマエの視界にエルの姿はちらとも映らないが、彼は振り返ってしまっただろうか。そうでないといいと思う。
 濁った水音混じりの咳は優しい兄の胸でくぐもって、もう辺りに響くことはない。赤黒く濡れた兄の胸の中で、ナマエはきゅっと目を閉じた。
 咳が止まらない。息が苦しい。喉の奥まで黒い血に染まっている。この濁った喘鳴が、彼の耳に届いていないといい。
 エルが初めて薬を持ってきてくれたのはナマエのためだった。さすがにあのときばかりは、ナマエたちはみんなエルがどこからか薬を盗んできたのだと思った。
 あのときの自身も含めたみんなの慌てふためきようを思い出して、ナマエはくすくす笑う。そしてまた血を吐いた。ナマエの咳に黒ずんだ血が混じるようになったことを、兄以外は誰も知らない。それがナマエが兄に誓わせた約束だからだ。

 直に、日が昇る。世界に朝が訪れる。
 頭の後ろに朝日を浴びながら、ナマエは祈らずにはいられない。
 後ろを振り向かないで。躓かないで。
 行ってしまうというのなら、痛みも苦しみも全部ここに置いていって。
 そうしてどこまででも旅立つといい。優しいエルの居場所は、きっとここじゃないどこかにある。それを見つけられたなら、今度こそナマエとの誓いも捨て去ってしまっていい。誓いを破るのは、きっとナマエのほうが先になるだろうから。
 喉に風穴を明けたように、ナマエの口からひゅうひゅうとか細い呼気が漏れ出す。後頭部と背中に当てられた兄の手が怯えに戦慄いているのを感じ取ったから、彼女は笑いながら兄の大きな背を撫でてやる。
 そして薄い目蓋の裏にエルの背中を思い浮かべた。

 どうか、どうか。なにかに苦しめられながら生きてきた彼のこれから往く道が、少しでも明るいものであらんことを。

 ナマエはずっと、ここで祈っている。


――――
22/12/13