鍋を破ったのは、


 血のごとき斜陽が鬱蒼と茂る老木の葉を伝って、雪化粧を施された真白い軒先に紅い光線が雨のように垂れ落ちる。
 金色の髪に緑の瞳をした精悍な青年――エルガーは、屈めていた腰を真っ直ぐに伸ばすと雪掻き用の木製の円匙を地面に突き刺した。空いた手を庇代わりに目元へやって、目蓋を二度三度と強く瞬かせる。雪からの反射でさらに勢力を増した強い西日は彼の色素の薄い瞳には大層な毒で、目を閉ざしてもなお目蓋の裏には赤い残像が強かに焼き付いている。

 山麓に建つ小さな宿、〝旅籠屋なごみ〟。
 傭兵として身を立てるエルガー青年がこの宿を仮住まいとするようになったのは、〝なごみ〟の女主人であるナマエ女将をたちの悪い悪漢から救い出したことが切っ掛けだ。
 偶然居合わせただけにも関わらずエルガーが迷いなく救いの手を差し伸べたことに、彼女は深い謝意を示した。そうして図らずも売り付けてしまった恩を彼女の厚意に甘えて一宿一飯で返してもらうというだけの話だったはずだが。あれよあれよという間にこの関係は幾らかの力仕事をこなす代わりに宿で暫く厄介になるというちょっとした契約に様変わりしていた。
 思いがけない話の運びではあったものの、傭兵としてはまだ駆け出しの身である彼にとっては、多少の労働力を提供するだけで寝食が保証されるというのはありがたい限りであった。
 「こちらこそぜひに」とその手を取ってから、やがていくつの月を跨いだことだろうか。気が付けば年の暮れる頃にまでなっていて、それでも彼に未だここを発つ算段は立っていなかった。

 吐いた息が白く形を成して立ち上っては、跡形もなく掻き消える。
 エルガーは今、女将から頼まれて宿の周辺の雪掻きに勤しんでいる真っ最中だった。
 散々外作業で身体を冷やした甲斐もあって、周囲の雪景色とは裏腹に山道から正面玄関への道は巨大な芋虫がのたくりながら這ったように黒い土が長く太く覗いている。あとはもう少し軒先の雪を広く除けてやれば、今はもういいだろう。
 自然からの恩寵を浴するということは、それと同時に自然から猛威を振るわれるということでもある。春から秋にかけては放っておけばすぐに落葉の海ができあがるし、冬には屋根がへし折れるのではないかと思うほどの雪が積もるというのが女将の談だ。彼の奮闘の跡も下手をすれば明朝には消え失せてしまうような儚いものかもしれないが、それが仕事の手を抜く言い訳にはなり得ない。
 厳しい寒さに突っ張ったような違和感を発し始めた頬を手の甲で強く擦ってから、彼はまた円匙をぐっと握った。

 人の好い女将が営む〝なごみ〟で過ごす時は、静かで穏やかだ。それでいて案外と遠慮のない女将は日毎になすべき仕事を次から次へとエルガーに放ってくるものだから、余計な考えが浮かびかけては打ち消される程度には暇がない。本業と雑用の二足の草鞋を履いた足が擦り潰す日々は驚くほどに早く過ぎる。
 そんな毎日が、彼の気性には合っていたらしかった。妙に呼吸がしやすかった。美しい女将を目当てに下衆な企みを胸中に宿を訪れる連中を悉く追い払ってやって客層がまともになってからは、特にそうだ。

 一心に力いっぱい雪を放り捨てる最中、背後で玄関引戸が横に引かれるからからという音がして、彼は再び手を止めて後ろを振り返る。
 客もない今、宿から出てきたのはもちろん女将しかいない。凍みるような寒気に美しい瓜実顔をびゃっと顰めた彼女は、しかし大いに雪が払われた玄関先の様子を目の当たりにするとすぐさま機嫌がよさそうににこにことした。
 小紋の上になにも羽織らない寒々しい薄着のままでエルガーの隣に並んだ女将は、軒先をぐるりと見回してから満足げにウンウン頷く。

「あらあら! 随分と綺麗にしていただけたようで。ありがとう、エルガーくん。とっても助かりました」
「これぐらい、どうってことねぇよ」
「まあ、頼もしいこと。エルガーくんがいてくれれば、うちの宿も安泰ね」

 あんまり女将が他意なく持ち上げるので、エルガーは僅かな気恥ずかしさを覚えてさりげなく目線を地面へ散らす。
 彼にとってのこの宿の居心地の好さは、なんと言っても女将の為人のためであるというところも大きいだろう。
 商売人の性が寝食にかかる負担を取り戻そうと躍起にさせるのか、それともエルガーが大抵のことはそつなくこなしては「次の仕事は」と顔を覗きに行くのが悪いのか、女将は力仕事とくれば本当になんでもかんでもを彼に投げて寄越す。そうしてそれらの仕事が終わったとなると、いちいち大袈裟なくらいに「ありがとう、ありがとう」と喜んでエルガーをたっぷり褒めそやした。

 これが、存外胸に沁みた。
 散々傷付けられてきたエルガーの人としての尊厳が優しく宥められているようで、これまでになく心穏やかになれた。
 身から漂う腐臭もここにいれば少しは薄らいでいくような錯覚に陥った。
 この場において、彼は生きた肉人形などではなかった。貴重な働き手として実に重宝されていたし、その意思を尊重されていた。

 故郷の国を出てからというもの、エルガーは定住する地を持たなかった。最も大きな理由としてはある事情から長く一箇所に留まることに気が進まなかったためなのだが、そもそも各地を流離って生きるのが傭兵としての定めだと理解していたということもある。元々親しみある帰る家などあってないに等しいようなものだったから、身も心もどこにも置かずに放浪するだけの人生にさほど抵抗はなかった。
 だけど、ここにはどうしても留まりたくなる。
 所詮一時の止まり木でしかない。エルガーがこれまでいくつもの地を通り過ぎてきたように、ここをも踏み越えていく日がいつかはやってくるのだろう。
 それでも「今暫くは、もう暫くは」とその日を能動的に先延ばしにし続けていることを、エルガーは認めざるを得なかった。

「――ね、お寒かったでしょ。面倒をかけてごめんなさいね」

 清き血の通った温かな手が、彼の手を子供にするように優しくついと引く。

「もうそろ上がって、ゆっくり温泉にでもどうぞ」
「あと少しだけでも雪を除けておいたほうが、いいんじゃねぇかと思うんだが」
「いいのよ、頑張り屋さん。お客様も、もういらっしゃらないだろうし」
「……それなら、ありがたくお言葉に甘えさせてもらうとするよ。それにしても――」

 「いくら雪深いとはいえ、驚くほど客が来ないものだ」とはさすがに言えなかった。唐突に言葉を切って黙り込んだ彼に、女将は小さく笑って続きを継いだ。

「――閑古鳥でしょう?」

 エルガーの失言染みた言葉を女将は気にも留めていないようだった。

「ここ数年、年末年始はいつもこんな調子なんです。年が明ければ、もう少しお客様も来てくださるでしょうけれど」

 あっけらかんとしたさまで語られる傍らでやや気まずく箒の先で地面をちろちろ削るエルガーの背を、女将がぱんと叩く。

「まったく、しょうのない子だこと。妙な気を回していないで、お湯に浸かっていらっしゃいな。お疲れでしょうに」
「……おう」
「それとお饅頭を蒸してあるから、忘れずにちょいとつまんでからお行きなさいね」
「空きっ腹で風呂に入るのはよくないってんだろ。あんたは俺の母親か」
「あたくしにこんなにおっきな子供はいません。お姉さんとお呼び」
「へえへえ、ナマエオネーサン」
「よろしくってよ、坊や」

 調子よくあれこれ口を出す女将に押しやられるまま、エルガーは冬眠から早くも目覚めてしまった熊のように背を丸っこくしてすごすごと上がり框を跨いだ。
 冷たい風を阻む宿の中は、それだけでじんと染み渡るほど温かかった。



 平時、宿に宿泊客が滞在しているときの女将はその世話でくるくると忙しくしているし、エルガー自身も宿にいるよりは傭兵として外に出向くことが多いから、ふたりが一緒に過ごす時間はそう多いわけではない。
 だが、今日のように宿に客がおらず、かつエルガーの都合がつくときには、座卓と座布団があるだけの小座敷で共に食事を摂るのがふたりの習慣となっていた。
 それを見越したエルガーが身から湯気を立たせたまま与えられた私室ではなく小座敷のほうへ真っ直ぐに向かうと、やはりそこにはふたりぶんの夕食の用意がなされているところだった。まだ夕飯時にはやや早い時間ではあったが、今日も今日とて暇なく力仕事に精を出していた彼にはありがたい。蒸し饅頭のひとつやふたつで彼の大きな胃は満たされない。
 見たところメインの料理はまだお目見えでないようだが、それでもすでに青菜の和えものやお新香等々多種多様な小皿料理の他、おかずとしてなんとも食い出がありそうな芋のそぼろ煮までもが並んでいる。
 中でも彼をなにより喜ばせたのは清楚に蓋を閉じられた長細い茶碗の存在だ。あれはきっと茶碗蒸しに違いない。エルガーが「桶いっぱいに食いたい」と大絶賛してからは、あれがよく食卓に並ぶようになった。
 味付けはがつんと濃いもの、食材で言えば野菜よりも魚、魚よりも肉と食い応えのあるものを好む彼だったが、女将手製の茶碗蒸しについては話が別である。
 新鮮な卵と上質の出汁を合わせて作る茶碗蒸しは、舌の上に乗せればふるふると蕩けて自然由来の旨味ばかりが後を引く最高の一品だ。〝なごみ〟の名物料理のひとつとして数えられているのも納得がいく。
 ほくほく顔でエルガーが座布団に尻を落とすと、ちょうどそこへ盆に丼鉢をふたつと小山のような天麩羅を載せた女将が座敷に入ってきた。

「簡単なものでごめんなさいね」

 言いながら、女将は丼鉢をことことと卓上に置く。

「とんでもねぇさ。ご馳走だよ」
「まあ、お口がお上手ね。そんなおべっかを使わないでも、おかわりはたくさんありますよ」

 微笑む彼女はエルガーの言うことを軽い世辞と受け流したようだが、彼の言葉に嘘偽りはない。「簡単なもの」などと卑下するが、それは客に商品として出す料理と比べたらという話であって、エルガーにとってはじゅうぶんすぎるほど豪勢だ。

 数々の小皿小鉢が見守る中に満を持して姿を現した丼鉢の中身を覗いて、エルガーは破顔する。

「おお、ソバか……!」

 出汁がふうわりと香るつゆに身を沈める鈍い艶を湛えた蕎麦は、たっぷりの葱と大きな油揚げに彩られて目にも美味だ。その脇ではいかにも歯触りのよさそうな衣をした山菜や海老の天麩羅が平皿に積まれ、黄金の輝きを放っている。これを熱々の出汁つゆにたっぷりとくぐらせて食うのが、天にも昇るように旨いのである。
 想像だけで溢れ返らんばかりにエルガーの咥内に涎が満ちる。

「ええ、お蕎麦です。やっぱり、年越しにはこれがなくっちゃね」

 エルガーには馴染みのない文化だが、彼女の故郷では年の暮れに長寿や無病息災、それから災厄を断ち切れるようにという祈りを込めて蕎麦を食べるのが習わしだそうだ。

「年越し蕎麦って中々縁起がいいもんでね、お蕎麦だけでなく丼に入っている具材でも色々と意味があるんですよ」
「へえ? 例えば?」
「そうですねえ。例えばお葱には、〝一年の労をネギらう〟なんて意味がありますよ。あとはそうね、海老は腰の曲がったご老人みたいに見えるから、〝長寿〟の象徴だとかね」

 女将という職業柄か、食材ひとつとっても込められた意味合いがぽんぽん飛び出す彼女との会話はエルガーの知識欲を満たして面白い。しかし、話だけで腹が膨れるなら世話がないわけで。

「祝詞をあげたンでも御神酒をぶっかけたンでもなし、結局はただの食べものなわけですけど、ただなんとはなしに口に入れてくのと、こういうちょっとしたことを知ってから召し上がるのとでは、少しばかし心持ちが違って面白いでしょう」
「ああ、まったくもってその通りだ。さすが、女将さんは博識だな」
「――ぐぎゅるるるる」
「あら? 今のは?」
「すまん、俺の腹の虫が女将さんの博識っぷりに感動の声を上げちまったみてぇだ」

 いっそ白目を血走らせながらも蘊蓄にしっかり耳を傾ける彼に、女将は珍しく声を上げてからから笑った。

「ふふ、ああ、可笑しい……。ごめんあそばせ。お話は食事中にもできますものね。
 ――それじゃ、たんと召し上がって」

 女将のひと声が早いか否かエルガーは合掌を一打し、すかさず箸を手に取って蕎麦を勢いよく啜り上げた。
 つゆをふんだんに纏った麺が咥内を支配する、と同時に透明感のある上品な出汁の風味と蕎麦粉の香ばしさがふうっと鼻腔を突き抜ける。葱は丼の中にあっても食感を失わずしゃきしゃきとしていて、青々しい食感と爽やかな味わいが小気味いい。つゆをたっぷり吸った油揚げは至ってジューシーで、噛めば噛むほどにじゅわじゅわと旨味そのものが染み出してくる。
 旨い。空腹という最高の調味料も合わさってまさしく極上だ。惜しむらくはエルガーの箸の扱いの不慣れさゆえに麺をぶつぶつと断ち切ってしまうということだ。ひと口めこそ景気よく掻っ込むことができたものの、以降はどうにも力加減が上手くいかずに屑を量産してしまう。

「お箸の扱いにも、随分慣れたようで」

 と、今まさにエルガーの惨状を目の当たりにしているはずの女将が事もなげにころりと言う。

「これを見て言うか」
「まあ、そんなふうに悪く取らないで。皮肉なんかじゃありませんよ。実際、お蕎麦以外はお上手に食べられてますでしょ」

 眉間に浅く皺を刻むエルガーに対して、女将は心外だと言わんばかりに目を丸くする。
 言われてみれば、確かにそうだ。
 この宿に滞在する以前の彼にとっての食事と言えば、息苦しい食堂に縮こまるように座して無数の銀食器を手繰って摂る七面倒なものか、はたまた野を流離いながらフォークのひとつもなく手掴みで食らいつく野蛮的なもののふたつしかなかった。だというのに初めてこの宿で食事をするときになって〝ハシ〟とか言う二本の棒きれを渡されたときには、いったいなんの冗談かと思ったものだ。そんな彼の箸遣いは当然散々なものだったわけだが、それが今は中々どうしてこなれている。
 他意なき言葉に必要以上に突っかかるのも器の小さな話だ。むぐ……と唇を曲げたエルガーに、彼女はこてりと小首を傾いで花唇を開く。

「――お芋の煮っ転がしを、いつまでもお皿の上でころころしてた姿が懐かしいわ」
「……やっぱり、俺をからかってるな? あんた」
「あらあ、いやだわあ。可愛らしかったって、褒めてるんじゃありませんか。ねえ?」
「まったく……」

 女将はくすくすと少女のように笑っている。それがあんまり楽しげなものだから、ついエルガーも毒気を抜かれて口元の力が抜ける。
 ふたりぶんの声と、箸だの食器だのがぶつかる音だけが鳴る、静かな小座敷。
 ふと彼の胸には己がここにやってくるまで、彼女は自分ひとりでの食事をどのように済ませていたのだろうかという疑問が降って湧いた。
 箸の先で滑らせることもなく容易に捕まえた芋と共に、その疑問は腹の底へと飲み込まれていった。



「――エルガーくん」

 ナマエ女将が部屋の前までやってきて彼にそう呼びかけてきたのは、食事も終えて夜が深まった頃のことだ。
 なにかやり残した仕事でもあったかと襖戸から顔を出す。と、湯上りなのだろう、頬を艶々と上気させた女将が上目遣いにエルガーを見上げてにこりと笑いかけた。手燭もないのに、彼女の白い顔は闇に暈けることなく浮き立って華やかだ。

「ね、お酒は嗜まれます? よろしかったら、お付き合いくださらない? 今夜はお月様がよくよく顔を出して、綺麗ですよ」

 女将に誘われるまま廊下へ出て、全面に張られた硝子戸にめいっぱい顔を寄せて目だけで空を見上げてみる。ひんやりと冷たい寒気が硝子越しに染み入って鼻がつんとするようだ。吐息で硝子が曇ってどうにも外が見通せない。
 それでも辛抱強く顔を硝子にびったり寄せていると、確かに夜空には鎚で穴を空けたように見事に丸っこい月が窺えた。その周囲へは無数の星々が冷えて澄んだ空気に燦然と耀いており、なるほど、これは寒さに閉じ籠るには些か勿体ない眺めであろう。

「――ね……、いかが?」

 声に振り返れば白雪が照り返す月光を浴びてぼんやりと明るい襖戸の傍で、女将が黒々とした瞳をしてじいっと彼を見ている。明かりという明かりを持っている様子もないのに彼女がやけにくっきりと見えたのはあの月のためだったのだろうと、エルガーはようやく思い至った。

「俺みてぇなガキンチョであんたのような別嬪の晩酌相手が務まるなら、光栄だな」

 ただでさえ世話になっているというのに、美女からのささやかなる酒宴の誘いとあらばそれを断る謂れはエルガーにはない。私室から自前の綿入れの上着を引っ掴んだ彼がそう答えると、女将は白い頬をきゅっと持ち上げて微笑んだ。

「……マ、お上手だこと」

 「お客様もいらっしゃらないから、今だけ贅沢しちゃいましょ」と悪戯っぽく笑う女将に客室から通じる濡縁へ通されると、そこにはすでに酒も酒器もつまみもふたりぶんの用意があるようだった。熱燗にでもしようというのか水を張った小さな鉄鍋まで設えてある。
 あんなふうに頼りなげに甘えた声を出しておいて、元よりエルガーが誘いに乗ると踏んでいたらしい。隣に並ぶ女将をじとりと見下ろしても彼女はどこ吹く風で、「お座りになったら?」などとけろりかんとして言うのだから敵わない。
 エルガーは結局なにも言うことはなく、ふたつ並んだ座布団のうちひとつに腰を下ろした。



「傭兵さんのお仕事のほうはどうです。順調ですか」

 伏し目がちに、温めた徳利を傾けてくれる女将をぼんやりと眺めているところへ彼女が独り言のような調子で言葉を放つから、エルガーは一瞬反応が遅れた。
 続けざまに訊ねるように長い睫毛か被さった瞳に見上げられて、それでやっと彼女のあれはぼやきではなく問いだったのだと思ったほどだ。

「あ、ああ、……ぼちぼちな」
「ぼちぼち?」

 女将が目を細めて可笑しそうに笑う。子供が大人の物言いを真似て「微笑ましい」と生温かい目を向けられているような、そんな居た堪れなさを覚えた彼は酒で湿った唇をもう一度開いた。

「……悪かねぇ、と思う。少しは顔も知れてきて、大きな仕事にも関わらせてもらえるようにはなってきたぜ」
「まあま、本当に? それはようございましたねえ」

 思えば、こうして誰かに親しみを持って近況を訊ねられた記憶が彼にはない。
 「なにをしているのか」と問う声があれば、それは彼にとって監視や叱咤の始まりに他ならなかった。生まれついてからというもの団欒を知らない彼は、会ってたかが数か月足らずの女とこうして過去に得られなかった温かさを取り戻さんとしている己の厚かましさや押しつけがましさが面映ゆくて仕方がない。
 母のような、姉のような、――そして間違いなく縁もゆかりもない他人。近すぎず、かといって遠ざけられているわけでもないこの距離感になんとも言い表しようのない安心感があった。

 それから暫く。ぽつぽつひらひらと気紛れな言の葉を互いに吹かし合うような応酬は、前触れもなくぴたりと止む。

 女将が酒の香を纏った息を「ほう」と吐いた。

「……昔はねえ、こんなふうにのんびりとした年越しなんて、考えられないもんでした」

 覗き見た彼女の横顔は、月よりも雪よりも白く目映い。それでいて溜まる一方の池の底みたいになんだか暗く澱んでいた。

「今は寂れちゃいますが、あたくしとあの人のふたりッきりで切り盛りしてたときはね、こんなでも随分繁盛してたんですよ。ご贔屓くださるお客様も、たくさんいらしてねえ」

 気付けば酒も随分空いてきた。自分はそんなに飲んでもいないのに、すでに女将の背には空になった酒瓶がふたつも三つも転がっている。それを見たエルガーは湯呑みに水を注いで彼女へと差し出してやった。

「ちょいとばかしペースが早くねぇか、女将さん。少し、水も飲んだほうがいいぜ」
「え? ……ああ、」

 一瞬なにを言われたのかわからないような顔で、女将は艶のある目をぱちぱちとさせる。自分よりいくらも年を経た女だというのに、そのときばかりはエルガーの目には彼女がまるで無垢な少女であるかのように映った。

「うふ、心配なさらないで。あたくしね、これで結構イケる口なんです」

 言葉通り、瞳はやや潤んでいるもののその声つきや所作はぴんしゃんとしている。
 と思いきや、女将は突如としてくらりと頭を大きくよろめかせた。泡を食ったエルガーが抱き留めてやるよりも早く、彼女は縁柱に手をやってそこへ凭れかかる。
 細く深く吐く息は、濃く白い。

「……でも、そうね。思っていたよりも、ずっと酔いが深くなっていたみたい」

 はらりと落ちた髪を耳にかけて、女将はエルガーが手渡した水をようやくひと口こくりと含んだ。

「ね、聞いてくださる?」

 彼女の微笑みにエルガーは黙って頷いた。静かな語り口を邪魔しないように猪口も置かずに疾うに微温くなった酒をいつまでも口の中で転がしていると、米の匂いが鼻をつーっと抜けて脳まで酒に浸されるようだった。
 女の声が、夢で聞く歌みたいに輪郭もなくゆらゆらと揺蕩う。

「昔ね、あの人と一緒にふるさとを後にしたときは、あの人が一緒なら仮令世の中にある全部から虐められたって、へいちゃらなような気がしてたんです」

 女将の言う〝あの人〟とは彼女の夫のことだろう。なにか思うところがあってのことか、女将自身は一度もエルガーにその男の話を聞かせなかった。だが、エルガーは宿に泊まりや食事で訪れる常連たちから彼の男の話を飽きるほど耳に流し込まれていた。
 気品溢るる美しい嫁ひとりだけを手荷物にどこからかやってきて、見る見るうちに人里に馴染んであっという間に宿を立ち上げた若き檀那。働き者で、人好きのする男で、そうして相思相愛の女を置いてひとり死んだ――大馬鹿者。

「若気の至りというやつね」

 彼女が落としたその呟きは、恥じ入るようだというには冷徹な響きをしていて、嘲るようだというには情感が熱く籠りすぎていた。

「そんなもの、堪えられるはずもないし、あの人があたくしを置いてどこかへ行ってしまうなんて、全然、ちっとも、考えもしなくて。だって、あの人があたくしを連れ出したのよ。だのに、そんなこと……」

 白い手が遊ぶように湯呑みをくるりくるりと回す。まだ少し中に残った水はその動きに合わせて内で渦を巻いて、水面に映した月を粉々に砕き割る。

「――そんな、非道いこと」

 力なく震える声に、エルガーは女将が泣いているのだと思った。だが再び覗いた彼女の横顔には涙のひとつも流れてはおらず、つるりとした頬はまったく渇ききっていた。

「死んでしまうンなら、あたくしのことも忘れず殺してくんなくっちゃ、駄目じゃないの。――ねえ」

 さすがに酔いが回ったか、舌足らずに放られたそのひと言をエルガーは聞き取れない。だがたったひと言に込められた万感の悲しみだけは切々と彼の胸に訴えかけて、エルガーはただただ彼女を哀れんだ。

 ――可哀想な女だ。

 猪口に僅かに残った透明の雫を飲み干してから、彼は嘆息した。
 あの吸い込まれそうなほどに深い寂寥を湛えた瞳にじっと見つめられた男が身を持ち崩すのは、わからないでもない。だからといってそれが彼女の尊厳を嬲ってもよいという免罪符にはならないし、心身や立場の弱みにつけ込んで望まぬ行為を強いる者は邪悪以外のなにものでもない。

 いつしか彼女の月光で青褪めた唇から漏れ出る言葉は少しも形を結ぶことはなく、ただぼたぼたと垂れ落ちて冷たい木板に砕け散るだけになっていた。細い首筋がとうとう力を失ってかくんと傾いたのを見て、エルガーは今度こそ彼女の身体を支えてやれた。
 悲哀の双眸は深い眠りに固く閉じられたが、眦にはようやく一滴の涙が浮かんでいる。
 エルガーは反射的にそれを指で拭ってやろうとして、思い留まり拳を握り込んだ。
 彼女にこうしてやれる唯一の男がかつてはきっといたはずで、彼女の柔い肌を擦る権利を有するのもまたその男だけであるべきだと思ったから。夫を想う女の傍から男がひとり消えたくらいで、彼女の肌を我がものと思うような恥知らずには、エルガーはなれない。
 瓜実が弾く露はそのままに、エルガーはぐったりと脱力した柔らかい身体を抱き上げる。そうしてそのまま、彼女の私室まで運び入れてやった。
 風邪を引かないように嫋やかな身体をしっかり布団で包んでやってから部屋を出る頃には、いつの間にか空は白み始めていて、雪景色に目を焼き切るほどに目映い日の出を迎えていた。

 年が、明けたようだ。



***


 我が身に糊着した、血と膣液を織り交ぜて粘ついた穢れが忌々しくてならなかった。
 この悍ましい穢れを全て忘れ去りたくて仕方なかった。
 皮膚が剥げるほど擦り洗ってもどうやら己の望みは叶わないようだと知ったから、彼はそれを近すぎる血から漂う饐えた臭気を知らぬ女の柔らかな肌で刮げ落とすように流離ってきた。
 自らの体躯を指先から少しずつ切り捨てていくような自傷に効果があったとは、彼は思ってもいない。むしろ呪われた血への忌避感は強まるばかりで、国を離れてさえ纏わりつく生々しい悪夢に幾度眠れぬ夜を過ごしたことだろう。売女さえ彼の前には無垢に等しく、白い肌を味わえば味わうほどに自らの穢れの出自が浮き彫りになるようだった。
 なんとかその日を食い繋ぐためと女を買うためだけの金を稼ぎつつ、当てもなく足の裏を擦り減らすだけの無為な日々。
 そこへ行きついたのは、偶然だ。

 ――母が犯されている、と思った。

 山麓にひっそりと建つ寂れた宿。世にも醜く浅ましい下男に組み敷かれて、高貴なる膣に薄汚れた肉棒を無理矢理に押しつけられて苦悶している、ように見えた。
 その光景を目の当たりにした彼が覚えたのは卑屈に塗れた仄暗いよろこびだった。
 歪んだ血統主義の許において青き血を宿さぬ者は寄せつけもしなかったその堅固なる処女性を、由緒も知れないたかが下男ごときに暴かれる苦痛は如何ばかりであろうか。
 考えただけで笑いが止まらなかった。可笑しくて可笑しくて堪らなかった。
 死んでしまえと思った。
 母も、己も、皆。

 歪な笑みを唇に薄く刻んだままで喜々と覗いた先に垣間見えたその女は、母とは似ても似つかぬ罪なき哀れな寡婦であったのに。


――――
23/02/01