詰め綿の心臓


 いかにも繊細そうに白く小さな指先が、壁にこじんまりと構えられた窓の縦枠をそっと這う。締め金具を外す音が静かすぎる部屋にかちりと落ちる。
 純白の旗袍に、これまた純白の褲。なんとも病人然とした装いに身を包んだうら若き乙女は、そのまま窓を押し開いて外に広がる緑の平原の先、深く広大な森林を瑞々しい藍玉の瞳でじいっと見通した。
 木々たちがあまりにも密集して立つから遠目にはどす黒くさえ見える森の中へは、もうどんなに目を凝らしてもいくらか前に発った仲間たちの姿を捉えられることはない。少女は形のよい眉根を寄せ、小作りの下唇をぷりんと突き出してむくれた。ただひとりきり窓辺に身を預ける彼女の軽やかな猫っ毛を、冷涼な風が揶揄うようにふわふわ遊ぶ。

 ——本当ナラ、ついていきたかったノニ。

 美沈はいじけながら内心独り言つ。
 「あやめのあるところに我あり」と日々豪語して憚らない彼女にとっては、この現状が遣る瀬なくて仕方がない。自分の同行は断固として認められなかったのに、あのいけ好かない傭兵野郎はあやめの傍を許されたとなればなおさらだ。
 だけど、当のあやめにあんなふうに懇願されたとあっては。
 切り裂かれた肌に触れた震える指の感触は未だ鮮明にある。美沈は自らの肩口に神経質に巻かれた白い包帯の辺りを見下ろして、「ケッ」と毒づいた。
 包帯自体は、今はゆったりとして無駄に長い袖に覆われて見えはしない。しかし依然としてこちらを白々しく見返しているのだろう忌々しい布きれのせいで、自分はあやめについていくことができなかった。

「——お怪我に障りますよ」

 意識の間隙を縫うようにするり、と。

「この辺りの風は、冷たいですから」

 美沈の背後から長細い手が伸びたのは、そのときだった。
 窓の閉まる音を耳にしながら振り返れば、最早ここ二日ばかりですっかり見慣れてしまった女の姿がある。女は真白い顔に頼りなげに引っ付いた眉を気弱そうに下げて微笑んだ。笑みを浮かべ慣れた柔和な面に、やや笑い皺が目立つ。

「ごめんなさいね、美沈さん。お若いお嬢さんにとっては、随分窮屈な町でしょう。ろくなおもてなしもできませんで……」

 あからさまに退屈にしているところを見られたあとでこんなことを言われて、これが他の人間相手なら嫌味と取ったかもしれない。だが、この町に住む人々に限ってはなんの含みもなく本心から言っているのだと、美沈はいい加減に理解させられていた。
 女が胸の前に抱えていた、折り畳まれた布の塊を少し迷ってから文机の上へ置く。美沈の服だ。最後に見たときは袖が大きく裂けていた上に土だの血だのがついて薄汚れていたはずだが、頼みもしないのに進んで綺麗にしてくれたらしい。

「それに……助けていただいた挙句、女の子にこんな傷まで負わせてしまうなんて……」

 ふと物憂げに注がれる女の眼差しに気付いて、その視線の生温さに堪えかねた彼女は誤魔化すように肩を竦めた。

「気にするコトないネ。冒険者に怪我はツキモノ。コレぐらい慣れっこヨ」

 実際大した怪我ではない。だというのに誰も彼もが彼女を重症患者のように扱うのだから辟易としてしまう。美沈は町に再び戻ってからというもの、牀榻から起き上がることすらろくろく許されなかった。これが全くの善意からなる仕業なのだから、どうにも突っ撥ねにくい。
 美沈がこうしていくら重ねて聞かせても枯れ花のような面持ちを崩さない目の前の女は、存外頑固だ。なにもこの女に傷付けられたわけではない。それにも拘わらず美沈の負傷を自分の罪のように思って縮こまって、難儀なものである。
 しかもこれは眼前の女だけに限ったことではない。この町に住まう誰もが美沈を含めた一行を大仰にありがたがって、そして過剰に労わった。
 呆れ返るほど善良な町民たち。退屈しか懐けるようなもののない長閑な町並み。いざ平穏が舞い戻れば、遅々として異様に長い町での一日。
 まるで見晴らしのよい草原に放置された、羊の群れのような町だった。
 羊飼いも牧羊犬もいない。いるのは気弱な羊たちだけ。孅い被食者たちが寄り集まって「めえめえ」と鳴きながら、慎ましく鈍間に暮らしているだけ。
 だが彼らがなんの後ろ暗いところもない善人の類いであることは確かに紛れもなく。ゆえにあやめにとっては見過ごせない、守るべき弱者であったのだろう。



 始まりは心許なくなった手持ちを潤わせるべく訪れた酒場で、あやめがひとつの依頼を見つけたことだった。
 特に当てという当てがあったわけではない。〝冒険者歓迎!!〟と打ち出された毳々しい看板に釣られるがままにふらりと訪れた酒場は、冒険者向けに依頼受付所も兼ねている極ありふれたものだった。入口のスイングドアに手をかけるとまだ店に入りもしないのに安っぽいアルコールの刺激臭が鼻をつんとついて、それがいやに不愉快だったのを美沈は強く記憶している。
 経験則から言って、こういう安酒を出す店は総じて客層の質が悪い。女ふたりと見て下品な絡まれかたをした経験は両手と両足の指を合わせても足りないほどだ。今はその旅路にエルガーが加わっただけいくらかましにはなったものの、それでも下卑た視線が肌を掠めるのは変わらない。
 大袈裟に嫌がっても下衆共を喜ばせるだけとわかっているあやめは酒浸りの男たちには目もくれず、桜唇を気丈に引き結び前だけを見て、真っ直ぐに依頼掲示板へと向かう。美沈はできる限りあやめへ注がれる男たちの視線を自らの身で遮りながら後を追った。そのまた後ろから、エルガーが周囲へ隙なく睨みをきかせつつもついてくる。
 やがて辿り着いた飾り気のない木製の掲示板。例の依頼書は貼り出された数々の依頼の中でもひと際悪目立ちして、図らずも真っ先に視界に飛び込んできた。
 皺が寄ったいくつもの依頼書が雑然と並んでいる、お世辞にも整理されているとは言い難い他の掲示物たちと比べても、その紙は一層草臥れて端が千切れてさえいた。それは依頼書が貼り出されてからというもの誰かの手に渡ることもなく、ただただ無為に時間という毒を浴びせかけられ続けてきたことの証に他ならない。
 それもそのはず。

 ——町を脅かす賊の討伐。コンナものを、コンナ安い報酬金で。……アリエナイ。

 依頼書に記された文面を胸中で読み上げ、美沈は白けた目を向けた。危険度に対しての利得が割に合わなさすぎる。あまりの馬鹿馬鹿しさについ感情の灯らない渇いた一笑が漏れる。
 依頼者——町側の事情を推し量ることはできる。なにもぼったくろうという気持ちがあるわけでもなかろう。恐らく、不逞の輩に搾取され続けた町ではこれが支払える精いっぱいの金なのだ。この依頼書も賊の目を盗んで命からがら貼り出したに違いない。
 事情も心情もわからないでもない。が、理解できるというだけだ。美沈がそうであるように、こんな端金で命を張る愚か者などいはしない。
 彼女は意図的に視線を逸らした。しかし隣に並ぶ友人の眼差しは、未だよれよれの紙きれに釘付けだ。

 ——イヤなヨカン。

 彼女は自身の背中になにか冷たいものが伝うような錯覚を覚えた。
 半ば祈り染みた気持ちを裏切るように、あやめの白い手袋に覆われた指先が掲示板から依頼書を掠め取る。

「店主さん、少しよろしい? この依頼の、詳しい話をお聞きしたいんだけれど」

 そう、こんな端金で命を張る愚か者はいない。
 ——そしてあやめは、そもそも金のために命を張るような人間ではない。

「あ、あやめ~……」

 無駄とわかって、なおも美沈はあやめの裾を引いて甘ったれた声で呼びかける。こちらを見下ろすあやめの面持ちは笑みらしきものを模りながらも、なんとも申し訳なさげだ。そんな顔をしてくれるほど美沈の気持ちを慮ってくれるなら、手にした依頼書を今すぐ放ってくれさえすればそれでいいのに、あやめはそうはしない。
 美沈がしゅんとして裾を手放すと、あやめは颯爽と酒場の店主の元へ赴いた。

 ——コノ、ノーリスクでもっと割のイイ依頼があるのに……。

 諦めきれない彼女は掲示板へちらりと視線を送った。穢れを知らぬ宝石のごとき瞳には、鏡のように一枚の依頼書が映り込む。
 ——『大男とマッチョ限定! ガチムチ♡ストリップショー!』の求人貼紙。給金はひと晩でなんと二万R。〝特別なヒミツのお仕事〟をこなせば、そこからさらに上乗せで三万R。美味しい話過ぎてかえって隠す気もないような腐臭が漂ってくるものの、その甘い汁を啜るべく身を張るのはあやめでも美沈でもないから、彼女には関係ない。

 ——これデ、暫くは金に困らナイと思ったノニ。

 未練がましくいじいじと視線を送りながらも、美沈は仕方なくあやめの背を追った。
 ちなみにこれは補足なのだが、彼女の言うリスクに〝エルガーのありとあらゆる身の安全の保障の有無〟は含まれないとだけは添えておこう。

 さて、恙なく町に到着し、依頼を貼り出した張本人だという町長からさらに仔細を聞き出して、そうして向かった賊共の塒が位置する森の中。対峙してみればなんてことはない、町を散々苦しめているという賊の正体は職にありつけず落魄れた傭兵崩れ——つまらぬ破落戸共だった。
 あやめ、美沈、おまけにエルガー。腕利き揃いとは雖も、たった三人で容易に精圧できる程度のならず者たちである。しかし僻地も僻地、細々と暮らしを営む税収の見込めない羊たちには、これだけの害を退けるための手さえ公からは差し伸べられなかったのだ。
 同情心は——美沈とて覚えなくも、多少はない。薄っぺらな紙面に心を寄せるほどの道徳心は生憎持ち合わせがないが、理不尽に害されてなお善良であろうとする町民らと直接言葉を交わしてしまえば、少なからず募る心もあろうというものである。件の仕事が、思いの外労なく済みそうだったからということもある。
 だが国から見捨てられた町をわざわざ選んで巧妙に根を張るだけあって、賊共もさすがに小狡かった。悪知恵だけははたらいたようで、奴らの仕掛けた罠により道中で美沈は負傷したのだ。
 頭取を務めていたらしい男を捕縛したのち、逃げていく残党をひとまずは深追いすることなく、一行は美沈の治療を最優先に町へ引き返さざるを得なかった。
 町に戻ったあとは、町にある倉庫のうちひとつを空けてもらって、そこへ頭取を押し込んだ。依頼には所定の機関への賊の引き渡しも含まれている。そこらへんに放しておくわけにもいかず、間に合わせの処置だった。
 一行には然して手応えのない輩でも、頭取を失ってなお徒党を組まれでもすれば戦う術を持たない町民たちにとっては大いに脅威であろう。相談の結果、あやめらは日を改めて残党狩りに繰り出すことと相成った。
 ……怪我をした美沈に、町の警護という体のいい留守番を押しつけて。



 ——そして、今に至る。
 気が気でなかった。ようやく出会えたあの日から自身の存在意義が愛する友人にしかない美沈にとって、あやめとの別行動は落ち着かない。
 なにかしていなければ、いてもたってもいられない。いつの間にか女の姿は消えていたから、部屋を出るというそれだけのことなら容易に達成できる。しかしそのまま不用意に彷徨こうものならすぐさま見咎められて部屋まで逆戻りさせられてしまう。
 それを三度ばかり繰り返した辺りで彼女はとうとう無駄な抵抗を諦めたのだが、あやめらと別行動を取るにあたって任ぜられた〝警護〟とはいったいなんだったのかと文句のひとつも言いたくなるというものである。
 手持無沙汰を少しでも紛らわせるために、美沈は女が置いていった服を手に取る。
 検めてみれば、服は汚れひとつなかった。返しのついた弓矢で無残に切り裂かれたはずの袖も、ほつれが随分目立たないようになっている。さすがに顔を近付けてまじまじと見れば繕った跡が窺えるものの、でき得る限り近い色の糸をわざわざ選んでくれたのだろう、遠目からにはほとんどわからない。
 目の前へ広げて持ち上げ、矯めつ眇めつしていたところで、ふと服越しにひとりの童女が扉の隙間からこちらを覗いていることに気が付いた。
 自身の手のひらに、薄っすらと汗が滲むのを感じる。
 あの幼い娘は、町長の孫娘だ。町についてからというもの、なにかと遠巻きにこちらをじろじろと見てくるのだ。多少気にはなりつつも、こんな小さな町だから外部の人間が珍しいのだろうと、初めこそ美沈も自身の中でそう理由をつけて納得した。
 しかしひとたび気付いてみたならば、あの白くて小さな顔にふたつばかしついた円らな瞳は、いついかなるときも美沈に向いているのだ。あやめやエルガーにはせいぜい物珍しげにちらりと視線を送るのみ。こんなにもまじまじと見つめられ続けているのは美沈だけだ。
 他者から熱い視線を送られる経験がないわけではない。むしろ人並み以上には慣れがあると言えよう。だがあの大きく真ん丸の瞳に見つめられていると思うだけで、美沈にはいつも頭の奥深くをずくずくと穿たれるような激しい違和感が生じた。謂わばすっかり忘れ去って脳の奥深くへと封じ込めていた記憶を無理矢理に抉じ開けられようとしている、そんな奇妙な感覚だ。
 できれば童女を遠ざけておきたいような気持ちが、美沈にはあった。それと同時に仮にも町の権力者の親類を邪険にするのは賢くないという打算が感情の裏側ではたらいていた。——そのはずだ。そうでないと、説明がつかなかった。
 童女へ真っ直ぐに向く美沈の顔が、思いがけずうっとりと柔らかな笑みを形作った、そのわけが。
 町民からのさらなる見返りを期待したわけではない。どれだけ媚びても揺すっても稼ぎの薄い町から今与えられている以上の好待遇は期待できない。
 報復を警戒したわけでもない。なんせこの町の人間は善良が過ぎる。あれほど苦しめられてきた賊でさえ、初めは飢えに苦しんでいるようだからと自分たちから無警戒に招き入れたというのだ。
 思考は支離滅裂でぐちゃぐちゃだ。自ら「そうであれ」と見出した可能性を自らの手で叩き潰して、美沈は内心混乱を極めていたが、それでもこちらを覗く小さな可愛い娘を驚かせてはならないとにこにこ笑い続けた。
 震える唇では言葉もなかったが、ただ笑ったままで美沈は手招きした。彼女の見目は整っている。黙ってにこにことしていれば、大概の人間はなにをせずとも美沈に勝手に好感を懐いてくれる。
 童女もまた、ぱあっと顔を明るくして嬉しげに駆け寄ってきた。
 小さく短い脚でぴったり二歩ぶんの距離を保って立ち止まった童女は、美沈をもじもじと見上げて口を開く。

「……お姉ちゃん。あのね、私ね、ナマエっていうの」

 言ってからナマエは瞬間幼い警戒心を迸らせて、ナマエなりの精いっぱいの素早さで周囲へ視線を巡らせた。辺りに人の気配がないのを確かめて安堵したか、表情を綻ばせたナマエはとことこと距離を詰めて、小さく背伸びをする。
 美沈は牀榻に腰かけたまま、自然と上体をナマエのほうに傾けてやっていた。

「あのね、メイお姉ちゃんって……、」

 耳元でこしょこしょと吹きかけられる息がこそばゆい。

「……もしかして、〝かんふーますたー〟なの?」

 なにを言っているのか。思わず憮然として、しかしそれを極力表情に出さないように努めて美沈はナマエを見返した。
 これまで以上に自身の中のなにかが激しく刺激されるのを彼女は感じていた。
 瞬いた美沈の透き通った藍玉の瞳に極彩色の光が一挙に飛び込んで、雷よりも目映く、痛いほどに煌めいている。脳が焼き付くようにじりじりと、じりじりと、熱が。

 ——ああ、これは、既視感なのだ。

 呆然と瞬くことしかできないでいる美沈に、ナマエは期待に満ちた顔に緊迫感を交えて慌てて言う。

「——あっ! 大丈夫。私ね、ちゃんとナイショにできるよ。だって、みんなにメイお姉ちゃんがそうだってバレちゃったら、大騒ぎになっちゃうもんね?」

 三つ編みにしたふたつのおさげ髪を揺らして、童女はにっこりする。

 ——凡そ十年前にもなるだろうか。『闘拳武伝』というタイトルの、ひとつの映像作品があった。
 作中の主人公たる少女は〝かんふーますたー〟と呼ばれる強くて格好いい、そしてとびきり可愛い戦う女の子だ。映写機から放たれる光が見るも鮮やかに映し出す彼女の華々しい活躍に、当時の女の子たちは誰もが夢中になった。
 ——そんな輝かしい彼女の影に隠れるようにひとりの少女が存在していたことを、いったいどれだけの人間が覚えているだろうか。強くて格好いい、そしてとびきり可愛い〝かんふーますたー〟が最も愛した、幼馴染の少女の存在を。

 ナマエは、その幼馴染によく似ている。

「あのね、ほんとはね、ママに『メイお姉ちゃんはお怪我をしてるから、会いに行ったら駄目よ』って言われてたの。でもね、メイお姉ちゃんがイヤじゃなかったら……、明日も会いにきていい?」

 美沈は、無意識に頷いていた。



 日を追うごと残党の捕縛は進みつつはあるものの、未だ少数は巧妙に身を隠し続けているようである。

「メイお姉ちゃん! あそぼ!」

 お嫁に行ったお姉さんのお下がりの映写機で、同じくお下がりの薄膜が切れるほど何度も見返すまでに『闘拳武伝』が好きだというナマエは、今日も〝かんふーますたー〟の少女の幼馴染によく似ている。

 あれからというもの、ナマエは暇さえあれば美沈の元に通い詰めるようになった。最初こそ美沈を気遣ってナマエを叱っていた家の者も、寛容な客が幼い娘を心から受け入れてくれているらしいと知ってからは、ふたりが仲睦まじく戯れるのを見守るようになったようだった。
 どうにかこじつけようとした腹黒い下心など最早ちらとも浮かばず、美沈はただただ本心からの甘い笑みを浮かべてナマエを日々歓迎した。

「イイヨ。なにシテ遊ブ? ナマエのスキなコト、シヨウ!」

 ナマエが丸みのある白っぽい頬をふんわり赤らめて、嬉しそうに腕の中へ縋りついてくる。
 華奢で柔らかく、生命の熱が宿った肢体。
 あやめ以外の幼い少女を腕に抱くのは初めてのことだったのに、美沈の脳髄に楔のように突き刺さるなにかは「それは違う」といつでも声を張り上げた。
 そしてそれに流されるように、美沈は思うのだ。
 ナマエは抱き締めると焼き上げたばかりのミルククッキーみたいな甘ったるいにおいがすることを、ずっと前から知っていたような気がする。
 ——錯覚だ。その、はずだ。
 おばさんが蒸してくれた饅頭をわけっこするのがふたりの日課。知らないはずの顔はいとも簡単に鮮明に浮かび上がる。
 厳しい修行の合間を縫っては、今みたいにいつもこんなふうに遊んでいたのだ。こうしてお腹が痛くなるまで笑い合って、それで、それで——。
 ——違う、これは。これは、美沈の記憶ではないはずだ。
 身に馴染んで再生される記憶たちに入り乱れて顔を出す仄かな違和感だけが、彼女の正気を取り戻させてくれる。
 当然こんなもの、年を取ることもない人形を依代としてこの世に顕現した美沈にはあるはずもない記憶で、そして恐らくはナマエにとっても謂れのない記憶であるのだろう。
 しかしそのあるべきはずの違和感と懐くべきはずの確信が段々と薄れゆくのを、彼女ははっきりと感じていた。
 無垢に美沈を慕うナマエと、血も通わなかったはずの人形の肉体に引き摺られて、美沈の意識は日毎に混濁し始めていたのだ。

 危険だった。
 あやめと共に在る限り、美沈はあやめのためだけの美沈でいられる。
 それなのに、ナマエと一緒にいるとどうしても駄目だった。ナマエと一緒に過ごしていると、美沈は『闘拳武伝』のヒロイン——いや、それですらない、ただ懐かしき友との再会を喜ぶ生身の少女であるかのような錯覚を覚えてしまう。
 甘ったるく、そして抗いがたい愛という名前の他我の支配が、少しずつ、しかし着実に美沈を蝕みつつあった。

「——あ、そうだ。私ね、メイお姉ちゃんに見せたいものがあったの」

 安っぽい盤上遊戯の駒を手にしていたナマエは言うなり立ち上がって、部屋を後にする。それから少しも経たずに戻ってきたナマエはなんだかにこにこてれてれとしていて、後ろ手になにかを隠し持っているようだった。

「ナアニ? 気ニナル。持ってるノ、ワタシにも見せてヨ」
「うふふ……、これ!」

 美沈の呼び掛けに応じて、ナマエはご機嫌に後ろに回していた両手のうち、右手を前に突き出した。その手には人形が握られている。愛らしい戦うヒロイン、〝かんふーますたー〟の人形が。

「あのね、お人形持ってきたの。見て。昔に私のお姉ちゃんがくれたんだけどね、『闘拳武伝』の……」
「————」

 ——ワタシがいるノニ、ナンデこんなの持ってル?

 瞬間美沈の胸中を覆い尽くしたのはどす黒い嫉妬と深い怒りだった。その苛烈な感情に任せて、美沈は考えるよりも前にナマエの手を強く打って人形を叩き落としていた。
 ナマエが唖然として美沈を見る。背中に隠されたままだった左手がだらりと垂れ下がって、〝かんふーますたー〟の幼馴染みの人形が場違いに明朗な笑みを浮かべて顔を覗かせる。
 ひくり、と。ナマエの喉が鳴る。激しい罪悪感に美沈の胸もぎしりと鳴く。

「……メイお姉ちゃんと、私にそっくりで……見せたらメイお姉ちゃん、喜んでくれるかなって……」

 もう今しかないと思った。
 これに乗じる外ないと思った。
 今ここでナマエを拒まねば、美沈は人でも人形でもない異形と化してしまうという確信が強くあった。
 手加減をする余裕など今の美沈には一切ない。美沈はナマエの小さな肩を両手でどんと押して思いきり突き飛ばした。両手が塞がっていたナマエは、それこそ人形のように呆気なく重心を崩してどたんと尻餅をついて倒れ込んだ。
 突然上がった大きな物音に驚いたのだろう。視野の隅で部屋の扉が素早く開くのがわかった。

「メイ、どうしたの!? 大丈夫!?」

 入ってきたのはあやめだ。どうやらいつの間にか町まで戻ってきていたらしい。不用心にも留守にしているのか、家の者はひとりも来ない。あやめはまず真っ先に美沈を見て、へたり込むナマエを見て、驚いたように再び美沈を振り返った。
 ナマエはへたり込んだままで、どこかぼんやりとした面持ちで美沈を見上げている。

「ア……アッチに、行くヨシ」

 声が震えた。誤魔化すように頬の内側を噛んだ。

「オマエと遊ぶノ、……もう飽きタヨ」

 美沈のひとことを切っ掛けにして大きな目にじわじわと透明な水が溜まって、大粒の雫がまろやかな頬をいくつも転げ落ちる。小さな唇を強く噛み締めて、眦が裂けるほど目を見張ったナマエは声ひとつ上げはしない。
 だけど、泣いている。
 泣かせた。
 こんなに悲しそうに。
 ナマエを、自分が。
 心臓がばくばくと脈打つ。表情は殺したつもりだが、激しく動揺する美沈の心境にあやめは気付いたらしい。訝るように美沈へちらりと目をやってから、ナマエを助け起こして優しく声をかけた。

「……ごめんね、ナマエちゃん。メイお姉ちゃんは少し具合が悪いみたいなの。また今度遊びましょう?」

 ナマエは無言でこくりと頷いた。頷いて、黙って背を向けた。
 力なく肩を落としてしょぼしょぼと立ち去っていくナマエの壊れそうな背中に、胸がぎしぎしと軋んでいるのがわかる。嘔吐きそうなほどに息が苦しい。
 「嘘だヨ」と言ってあげたかった。「こんな酷いコト、ゼンブ嘘っぱちで、本当は大好きだヨ」と追い縋って抱き締めてあげたかった。今すぐにでもそうするべきだと、身体も心も訴えかけていた。
 その全てを必死に抑え込んで、美沈はあやめに抱きついた。

「あやめ……、ダメ。コワイ」

 あやめはなにも言わずに、美沈を受け止める。

「ワタシ、あの子と一緒にいるノ、怖いヨ。ナマエと一緒にいるト、〝美沈〟じゃなくナル。〝美沈〟が、いなくなるヨ……」

 美沈の背中に穏やかに当てられたあやめの手にぎゅうと力がこもる。頬を濡らしながら見上げた唯一無二であるべきの友は、凪いだ眼差しをして美沈を見下ろしていた。

「残党もだいたいは片付いたはずよ。——明日にも、もう発ちましょう」

 あやめの提案のような決定に、美沈は声もなく首肯した。



 昨夜のうちに、あやめは町長らに話を通してくれていたらしい。まだ日も昇りきらないうちに倉庫に詰めていた賊共を叩き起こし、出立の準備を整え終えていた一行に驚くこともなく、町の出口まで見送りに来てくれた。そこに並ぶのは町長とその息子夫婦だ。ナマエの姿はない。まだ眠っているのかもしれない。

「それでは、お世話になりました。あとのことは、どうぞわたしたちに任せてください」

 深々と頭を下げたあやめに倣って、美沈とエルガーも小さく頭を下げる。旅の荷しか持たない美沈とは違って、縄縛りにした賊を引っ立てるエルガーは身動きが取りにくそうにしている。
 一行が背を向けて歩き出しても頭を下げたままの町長一家を一瞥した美沈は、薄い目蓋を伏せて想起する。
 ナマエの痩せてはいるものの痩けてはいない、まろやかな頬。同じ人間を相手に、武器を手に取り抗う術を知らぬ善良すぎる町人たち。
 あやめは金のために命を張る人間ではない。それと同時に、彼女は自らの善なる心を殺してまでなにかを取捨選択する術を知っている。
 天秤に乗せられた唯一無二の友と、罪なき群衆。自惚れでもなんでもなく、あやめは美沈を迷いなく手に取ることだろう。そうしてもし再びこの町でありふれた悲劇の幕が上がったとしても、英雄が救けに来ることはもう二度とないのだ。

 ——痛イ。

 傷などないはずの胸に痛痒を覚えて、美沈は手を当てた。
 胸が、心臓が痛くて堪らない。
 ずきずきと軋んで、今にも引き千切れてしまうのではないかと思うほどに。

 ——馬鹿ミタイ。

 感傷的な自身に思わず薄ら笑う。嘲りを込めて、ただ冷酷に。
 心臓を模した詰め綿ごときが、一丁前にヒトの心を覚えたつもりか——と。


————
23/03/17