古傷に棲む子供たち


 客の顔をまじまじと見て、ろくな目に遭った試しがあたいにはなかった。
 「生意気な目つきだ」って殴られるぐらいならまだマシなほうでさ、「自分に気があるのか」って勘違いされるのが、他に思いつくどんなことよりもいっちゃん最悪。ただただ惚れ込まれて金を落としてもらえるだけってンならいいけど、手綱捌きに下手を打って相手の男が馬鹿な真似をすれば、「くだらん足抜けを企てやがって」とこっちが店の男から厳しく折檻されちまう。
 自分に腹芸の才能はないとこれまで散々身に染みて思い知らされてきたから、あたいはもうその手の危ない橋は渡らないって決めてた。
 それにも拘わらず宿に足を踏み入れたその若い男につい目が釘付けになったのは、奴が場末の売春宿なんかには似つかわしくなく気品漂う御尊顔をぶらッ提げていたからだ。その下に繋がる肉体には、革鎧越しにも若く張りのある筋肉がぎっしり詰まっているのが見て取れる。
 もしや、どこぞのご子息が、なにかの冗談でこんな妙ちきな恰好をしていやがるのか。ぱっと浮かんだにしてはいかにもそれらしい思い付きに、顔を顰めた。あたいと同様、金のにおいを敏感に嗅ぎつけたらしい店の男たちがへらへら卑屈に遜って若者に躙り寄るのを物陰から見つめながら、堪えきれずに加えて舌を打つ。

 ——さてもさても、なんともご立派なもんだよな。けったくそ悪い。

 だって、そうだ。金があるなら、高級宿のほうがよっぽどいいに決まってるんだ。品揃えは最高だし、寝具も上等なんだろうから。
 それともなにか。よっぽど後ろ暗い事情でもおありなのか、そうでもなけりゃ、お綺麗なお宿じゃ到底受け入れられないような崇高な趣味でもお持ちなのか。
 なんにしても面倒ごとはごめんだ。自分の身が可愛いなら、ああいう客は相手をしないに限る。
 だがしかし、地下の部屋に引っ込もうとしたそのときにちょうど男共と目が合ってしまったのが運の尽きで、抵抗も虚しくあたいは強引に腕を引かれて客の前に引き摺り出されちまった。肌に痕がつかない程度の容赦をされたのが、無性に鼻につく。

「これはこれは、運のよろしいこって、オキャクサマ! なんでかって、普段は引っ張りだこの女の懐が、今夜はちょうど空いてるんですからね!」
「ええ、ええ! うちのナマエお嬢にかかりゃ、天国はすぐソコ! お嬢の寝技は、そんじょそこらの娼婦共たァ比べものになりゃしやせんぜ」

 男ふたりはそこまでひと息に言い切ると、揃って顔を見合わせて下卑た笑みをにんまりと浮かべた。それだけであたいはこのあとになにを言われるのかがわかって、ぐっと唇を噛む。客の前であからさまに嫌な顔をしたらまた無茶な折檻を受ける破目になるからだ。殴られ慣れた犬みたいな我慢をまんまと覚え込まされちまった自分に腹は立つけど、どうしようもないから遣る瀬ない。

「——なんたって、ねえ。愛情たっぷり、父親仕込みだもんで。〝年季〟が違うってもんでさ」

 ありふれた女の身体に付加価値をつけるために宛がわれた売り文句は醜悪で耳障りだ。だのにこれをとどめのひと言に持ってこられて、とうとうあたいを買う決心がつく客もいるってんだから、ほんと嫌になる。
 ぴくりと反応を示した若者に好感触を得られたと思ってか、男のひとりに背中を小突かれる。
 真意はわざわざ言葉にされないでもわかる。大方「せいぜいうまくやれ」ってとこだろう。

「……さ、オニイサン。こちらにいらして。ワタシと遊びましょ?」

 科を作って発情期の雌猫みたいに擦り寄るのも慣れたもの。誰の目にも、男の魔羅を咥え込むのがどんなにか嬉しくて堪らないように見えるはずだ。
 はず、だった。

「——ッ、触るな!!」

 だけどそいつはさあっと顔色を失うなり、あたいを思いっきり突き飛ばしやがった。

「てっ……てめえ! うちの商品になにしてくれやがんだ!」

 男たちの怒声と罵声が、受け身も取れないでへたり込んだ頭上からわあわあと降ってくる。見上げた先では騒ぎ立てる男たちのことなど眼中にもなく、あたいが触れた手をさも嫌そうにじっと見る若者の姿がある。
 それで、もう我慢の限界だった。

「——この野郎! ふざけやがって! あたいが汚いってか!?」

 胸座に掴みかかって、あたいは奴に全力で殴り掛かった。しかし奴は怯みもしない。殴った自分の手のほうがよっぽど痛むようなありさまだったが、もうそんなことには構っていられやしなかった。

「ふざけやがって、ふざけやがって! オンナ買いに来たくせ、お高く止まってんじゃねえよ!!」

 無礼な客とのひと悶着ならまだしも、商品に店頭で喚き散らされるのは不味いと思ったんだろう。羽交い絞めにしようとする男共の手を、だけどあたいは力いっぱい噛み締めてやった。

「ぐあっ! コノヤロ! てめえ、また噛みつきやがったな! 次やったら殴り殺すって言っただろうが!」
「殺したきゃ殺せよ! 何度も言ってるだろ!」

 歪にごつごつ大きくてささくれ立った手指が、あたいの肩だの腕だの腹だのにむんずと掴みかかってくるのにも構わず、めちゃくちゃに暴れてやる。これで本当に殺されても、もうよかった。どうだってよかった。

「こんな場所に来てオンナ品定めしてるお前も同じ穴の狢だ! あたいもお前も、同じ肥溜めで生きてんだよ! 死んじまえ! 死んじまえッ!!」

 男も女も、こんな場所にいる以上誰だってみんなおんなじだ。子宮が潰れるまで散々ハメ倒した挙句に明日の酒代と引き換えにあたいを売っ払った糞親父も、あたいを売り買いする男共も、死んだような濁った目で気持ちいいふりして喘いでる女共も、——あたいだって。
 みんなみんな塵なんだ。死んじまったほうがよっぽどいいんだ。生きてる価値なんて誰にもないんだ。


「——やっぱりいい、この女を買う」

 これだけ誰もが騒いでいるのに、奴の静かなひと言が正確に聞きわけられた理由は思いつかなかった。

「こういう、舐めた態度を取る女を躾けるのが好きなんだ」

 冷徹な目つきであたいを見下しながらにそいつは言う。その手のひら返しに男たちは興奮で脂の浮いた肌に青筋を浮かび上がらせて一層奮い立った。

「おうおう、笑わせてくれンじゃねえか。まだオキャクサマ気取りかい? そもそも、てめえがうちの女を突き飛ばしやがったのが事の発端だって、忘れたわけじゃねえだろうな?」

 それを見越したように、奴は一瞥さえ寄越さずなにかを床へ投げつける。

「まだ足りねぇか?」

 床にばら撒かれたのは、こんな安宿じゃお目にかかることもないような大金だ。
 店の男たちは顔を見合わせて黙り込んだ。



「——さぞや御立派な躾を施してくださるんだろうなあ? ええ? 拳か? 脚か? それとも鞭か?」

 盛大に金を溝に投げ込んで自分に逆らう生意気な女をまんまと部屋に連れ込んだってのに、奴はあたいを乱暴に扱うでもなく、ばねのイカれたベッドにただただ腰を落ち着けていた。あの革鎧もすっかり脱ぎ去って寛ぎきっているが、一向に性の臭いは漂ってこない。堪えかねてこっちから切り出すと、奴は静かに凪いだ翠の眼差しをあたいに向けた。
 そこには嗜虐の色も侮蔑の色も、なにもなかった。
 不思議に、澄んだ色をしていた。

「……自分が、この世にあるどんなものよりも汚い気がするんだよな。わかるよ」

 心からの共感だった。毒気が抜かれて力も抜けた。
 もうこの男があたいを虐めることも抱くこともないんだと、どうしてかわかった。

「突き飛ばしたりして悪かったな。言い訳にもならねぇが、そんなつもりじゃなかった」

 俯いて、悔やむように拳を握り込む姿に呆れのような感情が込み上げる。

「……別にいいよ、もう。あんなのより、もっと酷いことされたことだってあるんだ」
「そうか」
「もう寝るの?」
「……寝る。ベッド、借りるぞ」

 わざわざ律義に空けられたベッド上の空間は、同じ布団に入っても構わないという意思表示なんだろう。こっちへ向けられた壁みたいに広々とした背中は、「決して手出しはしない」というわかりやすい表明だ。洋燈の火を落としてから、あたいも倣って背中を向けてベッドに潜り込む。
 小さく狭く触れ合った背中から、人肌の温もりが流れ込んでくる。

「……お前さ、もうこんなとこ、来ないほうがいいんじゃないの」

 その温かさのぶんだけ、こいつに思いやりを向けてやってもいい気になって、あたいは独り言みたいに呟いた。

「なんにもならないよ、こんなこと。余計に自分が塵みたいに思えてくるだけだろ」

 ものを言うたび震える背中の振動が、そっくりそのまま奴に伝わっていくのがわかる。その震えを弾き返すようにして、そいつもまた孤独っぽく囁き返してきた。

「……それで正気のふりして生きられるンなら、とっくに真っ当に生きてるよ」
「……ふうん、あっそ」


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23/04/21