男は森で遭難した。
 彼は実に困難な状況に遭っていた。基本的には背の高い樹木ばかりが占める空間を、二十代半ばの彼は片足をずって歩く。ずられるほうの脚は骨でも折れているのだろうか、痛々しく腫れ上がりまるで借り物のように男の胴体に付属していた。骨折といえば脚だけでない。男は腕も同様に損傷していた。こちらもまた腫れ上がり既に痛覚も失っているからして、歩くのに必要のないそれを彼は他人のもののようにぞんざいに扱っていた。
 男の負傷は脚と腕の骨折のみに止まらない。まず一目で悲惨さを表すにはそれら最も程度の酷い骨折が挙げられたが、彼の困難な状況を説明する言葉は他にいくらでも用意することができた。身体中いたるところに擦り傷や切り傷が見られる。出血は既に止まっていたが、決して少ない量ではない血は固まりくすんだ色で彼の手足にこびりついていた。
 そして、彼の表情は疲労そのものだ。主観的に見ても決して端麗であるとはいえない顔つきが、持って生まれたもの以上に醜く崩れ歪んでいる。ただ本能的に酸素を求めるだけの息づかいは非効率的で意味を成さず、従って彼の足取りはおぼつかないものになり、連れて非効率性は悪化する。本人にはどうしようもない悪循環だった。
 この森の先に彼の目的地があるかは知れない。ただ、地面に足が着くから彼は歩くのであり、ただ、樹木で身体が支えられたから彼は前に進むのである。
 梢の間を埋める葉の向こうにかろうじて見える空は既に黒い。その黒がさらに濃くなるに足る時間が経過してついに、男は景色の変わるのを見た。
 決して彼はそこを目指して歩いていたわけではないが、目に見えた変化と同様に、彼の表情は満ち足りた笑みへと変わった。幅の広い口の角がゆっくりと上がり、細い目はそのままで笑顔が完成される。何か満たされたらしい思いを目ではなく口に浮かべ、男はそのとき隣にあった木を最後の支えにして、目の前に開けた広場へと躍り出た。
 広い場で着目すべきは全体と中心だった。
 森を構成していた木々がある範囲は生えておらず、見上げれば、漆黒の空が覗くための穴がぽっかりと開いている。まるでその空間だけが切り取られたように、というよりは取り残されたように、というよりは匿われたように、というよりはむしろ守られたように、独立した大気を保っていた。それはまるでほのかに碧色に色づいているようですらあった。
 そして、守られた中心にあるのは一本の倒れた大木。木、という名称をあてがってよいのかすら怪しいほどに大きい半径の円柱が、見たこともないような植物の豊かに茂る空間のど真ん中で、押しつけがましくはない存在感を放っていた。
 男はしばらく我知らず、その全てにただ何となく見とれたが、それに気付くことはついぞなく、まるで何かに引かれるように中心へと進んだ。折れた脚はいつしか彼自身のものとなる。
 これにもやはり男は気付かなかったが、彼は大木から一人の少女が現れたことでその歩みを止められた。神聖な広場に人が一人増え、しんと空気が静まり返る。 
 少女は大木の中腹に突然設置された扉から出てきたらしかった。その大木には不釣り合いにも扉が設置されており(しかしそれでかえって釣り合いがとれていた)、扉は少し大地からは高い位置にあって、そこから木製の段が2つ3つと続き外へと通じている。見ると少女の背後の大木には窓のように見えるものもある、それは家だということが男には分かった。
 するとその瞬間から神聖さは男に対して種類を少々変える。正面扉から続く階段を降りるとそこからまた道が続き(その道は人の通行によって自然に作られたものだ)、道の脇、点にして現在の男と少女の立ち位置の中間くらいに畑があった。畑だ、他の何物でもない。そこで瑞々しく実っている野菜か果物かそれ以外の何かかは確かに男にはとても知れないような不思議なものだったが、結局それはその地で人の手により育てられているのであり、耕された区域は畑に過ぎない。
 これはまさに家だ、それもこの狭い空間の中だけで全てが巡ることのできる。
 男は狐に摘まれたような気になった。不審が彼の心中を駆け回り彼の第一声第一行を妨げた。そして少女が口を開いた。少女はほほえんでいる。
「こんにちは。あなたは旅のお方?」
 声は、いかにも、な少女の声であった。それはけして典型的なそれということではなく、今現在このとき男の目の前に立っている「少女」のものである、彼女のためだけに用意された、この世で一番彼女にふさわしい、そういうことだった。
 それではその少女はどのようだったかというと、花だ、という第一印象を男に抱かせるようだった。まさに少女は花だった。
 離弁花類の桃色の花の冠、大気の色に似た碧色の丸くて大きな瞳、ふわりと肩にかかるほのかに黄色に色づいた髪。花、男にそんな印象を抱かせる要素はここからで、首には蔓(首飾りのつもりだろうと男は思った)肩には葉(肩当てのつもりだろうと)腰には蔓(ベルトだろうかと)そして花弁(これはおそらくスカートだと)、白いタイツに包まれた脚の先の靴にはやはり葉が。上半身は薄い緑の衣服に包まれており、そうして少女の胴体を茎にして、まるで一人の人間が花そのものになっているようだった。
 男は感情を生み出すことに精一杯で、即座の返答はできなかった。一見した年齢は10代前半の少女(背は低くきゃしゃな体つきで、顔は幼い)は少女の声で続けて言った。
「私は花の女王、ラワーフィ。あなたのお名前は? お客様なんて珍しいわ、時間の許す限りゆっくりしていって。」
 そして少女は笑った。目を細め口の端を上げ、慈愛を表情に浮かべた。
 それに対して男は発言した。長身で痩せ身で猫背、猫のような目つき、ただ首のあたりまで伸びただけの黒髪の男は言った。
「お嬢ちゃん、アンタは何だ。どうしてこんな所にいる。」
「私は、花の女王です。女王は植物と共に暮らします。」
「ゆっくりしてけと言ったな。どういうことだ。」
「言葉どおりの意味です。植物は人を歓迎します。」
「俺はケガをしている。」
 言って、男は自身を指で示した。身体の特定の部位を指す必要はない、彼自身がもう既にケガそのものなのだから。
 その視認が不可能な程距離が空いていたわけではなかったが、少女はそのとき初めてそのことに気付き、はっと息を呑んで口を手で覆った。
「まあ! なんてひどいけが……」
 すぐに少女は階段を駆け降りる。とんとんとん、リズムに連れてスカートの花弁が揺れる。
 細い脚が自然の道を蹴って、自らを女王と名乗ったその少女は男の目前に立った。
 男は自身よりずいぶんと背の低い少女を見下し、抑揚のない声で尋ねる。
「治療するものはあるか。」
 少女はまるで男の怪我が自分のことであるかのように、ほんの少し前までは慈愛をそのまま絵に描いたような笑みを浮かべていた表情を、今は悲痛に歪めている。彼女は何度も頷いて、男を見上げて答えた。
「ええ。私にあなたの治療をさせてください。中に上がっていって。」
 優雅だったのは頷き答えるその動作までで、少女は一度は男を中へと促したものの、即座にそれを取りやめた。そして一人だけで中へと駆け、しばらく経ち、少女は戻る。手に何か棒のようなものを持って。
 すぐにそれは松葉杖だと知れた。脚の感覚なぞとうに失っていたが男はそれで身体を支え、大木の「家」の中へと入った。
 やはりそれは家だった。一般的な他の多くのもののような明確に区分けされた作りでこそないものの、入り口付近には水瓶が、その付近には灯りが、片方の奥にはいわゆるベッドと思われるこれも花が、もう片方の奥には木製の机や本棚があり、確かに少女がここで生活しているのだという証拠がある。
 屋外を満たしていた碧色の空気は屋内へと入ると同時に嘘のように掻き消えてしまった。生活感を示す証拠はあまりにも強くあまりにも男にとって近かったが、しかし同時に遠くもあった。屋内の植木鉢の数は数えきれないほどである。大木でできた家の中はおびただしい数の植物の鉢で満たされていた。
 壁には物を置けるような出っ張りが、それも何段も備え付けられていたが、その全てには所狭しと植木鉢が並んでいるのだった。これもやはり、男は名前も知らない、見たこともない。
 なるほど花の女王か、と、男は妙に納得をした。このように異常なほどの量の植物を所有する人間だ、そのような倒錯した思考に走っても不思議ではない。
 少女は男を片方の奥、人よりも大きな花弁を持つ花があるほうへと誘った。そして彼をそこへ座らせ、自身は立って家の中を歩き回る。
 少女は植木鉢を見て比べて悩んでいた。その様子は背中からでも男に感じ取れた。そして男は無言で立ち上がった、音もなく。
 男には最初から、少女の治療を黙って受ける気などなかった。こう、このように行動するつもりでいたのだ。ああでもないこうでもないと手に取った植木鉢を比べる少女のか細いうなじに、男はその節くれ立った指の細い手を伸ばした。
 そして首根っこを捕まえて、床に押し倒す。確かにこのとき男はその動作を行おうとしていたし、そのために必要な力も体格差も十分あったのだが、しかし彼が次のまばたきをしたときには、床に倒れていたのは男のほうであった。
 事態が確かめられるまでに男は何度も目を瞬く。彼の右の頬のすぐ下に木製の床がある。身体は束縛されている、蔓に。そして男の左の頬に、ぴちゃ、と何か液体が落ちた。
 男を床に引き倒し、その身体を束縛しているのは植物だった。それは植物だというのに確かな意志を持って蔓を伸ばして男を拘束し、花を獲物の頭上へと垂らし、花弁を開いて大きな口を開けて、涎代わりの蜜を滴らせているのだった。
 そこまで認識してやっと、男自身ではなくその身体中の傷が悲鳴をあげる。彼は歯を食いしばって痛みに耐えた。
 少女は何にも気付かない、気付かずにただ治療の準備を進める。その背後で男は何とか蔦の束縛から逃げ出し、そして再度背中に襲いかかろうとしたところで別の植物から攻撃され妨害された。
「お待たせしました。それでは治療に入ります。」
 やっと準備が終えた少女が振り返ったときには、男は度重なる女王の護衛の妨害によって、腹の底でたくらんでいたことをすっかり諦めていた。
 少女は結局最後まで何にも気付かなかった。最初座らせたはずの位置から男がだいぶ移動しているのにも、彼の顔が蜜だらけになっているのにも反応しない。彼女は男が座った位置で治療を開始するが、すると不思議にも、そのときから植物達はすっかり静まり返るのだった。
 まずは骨折した腕と脚から。少女の治療は、およそ男の常識では計れないようなしろものだった。
 確かに最初に矯正はされたが、次には細い指が器用に動いて表面の損傷は特にない腕に薬を塗っていくのである。その上から植物の葉が巻かれ、次に添え木、それでやっと包帯が巻かれた。
 疑心にかられた男は、同様にして骨折した脚の治療を受けている間、腕を上げてそれをまじまじと眺めていた。本当にこれが子供のお遊戯でなく治療だという証拠を彼は持っていなかったが、彼の疑心は疑心で終わった。非常識をすんなり受け入れさせる、それはおかしな装いの少女とこの異質な空間そのものが原因だった。
 そしてここで彼は、少女を蹂躙しなくて得をした、と思った。この「家」にあるのがこのような治療用具ばかりなら、少女に自主的に進んで治療をさせるより他なかったからだ。
 いい加減彼の常識とはかけ離れたこの場では少女を思いのままにすることはできなかったが、それは自分がけがをしているから仕方がないことなのだ。治療を受けられただけでも儲けもの、何もないこんな空間からはすぐに立ち去ろう。
 ただ座ってぼんやりとそんなことを考えていたら、いつのまにか治療は終わっていた。長い1日を過ごした男の思考は取り留めがなく、実に長かった。
「ほんとうに、酷いけが……。とてもつらい思いをされてきたんですね。」
 少女が悲しげに呟くのに応えず、男は立ち上がる。このような場には用がない。
「治療は終わりだな。後は、水と、食料と、この森を抜けるのに必要な分だけもらいたい。用意しろ。」
 少女は純粋で愚鈍だと男には思われたから、彼はこのような物言いをすることができた。
 果たして少女は男の思ったとおりではあった。しかし碧色の目は、男の思った以上に強かった。
「それは、すぐにここを出ていってしまうということですか?
 …私のしたのは、あくまで応急処置だけ。あなたの酷いけがを完治させるにはほど遠いもの。
 そんな身体でこの森を歩くのは危険だわ。あなたに急ぎの用がなければ、もしもあなたさえよければ、ここで療養していってほしいのです。私に、あなたのけがの面倒をみさせてほしい。」
「…………。」
 強い目と優しい言葉で説得され、男は考え始める。冷静に思考を働かせれば、少女の言うことは実に理に適っているのだった。
 ここですぐに森を出たとして、命に関わる大怪我をした後では、すぐにまた前までと同様の活動ができるとは限らないのだ。それにそもそも実は、怪我とは異なる理由から、今すぐにこの森を出るに心が進まない理由が男にはあった。
「怪我が治るまでだ。」
 それだけ言って後は言わない。しかし純粋で愚鈍な少女はたったそれだけで表情を綻ばせて、満開の笑顔の花を咲かせるのだった。