男には何もすることがなかった。
 食事を終え、何を言われるでもなく女王はそれをせっせと片づけることを始める。あまりにすることがないために、男は自分でも動こうかとすら思ったが、女王の片づけは他の介入を許さないほど徹底していたし、彼は怪我をしていたし、何よりも彼自身がものぐさな性格だったためにその場は流れた。ただ女王だけがてきぱきと動く。
 片づけが終わると小振りのテーブルの上には何もなくなった。男はぼんやりと座ったまま、女王が外へ出て行くのを見た。
 見てから、はっとする。男は一人になってしまった。けして一人が寂しいのではないが、単独で楽しみを生み出せるほどの心の余裕は彼にはなかった。
 松葉杖を使わないなりに窓際まで動き、外を見る。この広場には家の正面に通路を挟んで畑(花も野菜も植わっているようである)があったが、女王はそれの世話をしているようだった。
 しばらくはぼーっとしてそれを見るが、あまりに変化のないその活動に男はすぐに飽きた。
 そう、ここは変化に乏しいのだ。辛うじて空や大気の色が変わりはするが、それだって1日の決まった時間に決まった変化をするだけで、周期的なものだ。2日目には飽きる。
 女王の1日は常に順序正しく過ぎていた。そして男の1日はその順序正しさにわずかに触れつつも、基本的には無意味に過ぎていた。
 男が床に座って手持ちぶさたにしていると、女王が話しかけてきた。こういうことは初めてではなかった。作業の合間に女王は家に戻り、今日は晴れていますねとか、今日は雨が降っていますねとか、当たり障りのない話題を男に振るのだった。
 そういった話題は男には興味のないものだったから、そのたびに彼は女王の碧の目を見て、「そうだな」とは応えていた。
「私は、王国から外へ出たことがないのです。あなたは旅の方ですよね。よかったら、外の話を聞かせてほしいの。」
 しかしこのときの話題は初めてのものだった。これまでとは異色の内容に、いわば女王の控えめなお願いを聞いた男は目を丸くして首だけ振り返って女王を見た。女王はただの年端もいかない少女のように突っ立っている。
 それが細い手足で歩いてきて、男の隣にちょこんと座った。
「だめでしょうか。」
 男は反射的に応えた。
「いやだ。」
「そうですか。」
 男は即座に拒否をしたが、それに女王が頷くのも即座だった。
 そしてそのまま立ち上がり、おそらく日課の何かを再開しようとし始めてしまったのを、男は少し慌てて止める。
「おい、おい。待てよ。」
「なんでしょう。」
 女王は振り返った。そこには悲しい表情が貼り付いていた。
 男は、こう言ったらおそらく悲しみは喜びにすぐに塗り変わるのだろうな、と予想しながら言った。
「話してやる。何が聞きたい。」
 果たして予想通りであった。女王はお礼の言葉と共にその場で大きくお辞儀をする。
「ありがとうございます!」
 顔を上げて、女王はずれた花の冠を直しながら早口に言った。
「何でもいいです。私の知らないことを知りたいです。」
「何でも、って。それだと困る。」
「そうですか…。」
 話しながら女王は再度男の隣に戻って来て座った。そして言った。
「じゃあ、あなたの国のことが知りたいです。あなたの生まれた国のことを聞かせて。」
「…………。」
 男はしばらく考えてから発言した。
 なぜ彼がそうまでして女王などと会話をしているかと言えば、単に彼は暇だったのだ。娯楽というものにいっさい欠けているこの王国で、怪我をしている彼にできることはないに等しい。やっと舞い込んできた暇を潰す好機を逃す手はなかった。
「…俺は、ずっと南の国で生まれた。そこでは長く戦争が続いていた。」
 男は過去を思い出しながら語る。
「まあ、戦争……。」
「戦争だ。知ってるか?」
「知っています。人と人とが武器を持って戦うことです。本で読んだことがあります。」
「そう。それで、俺の国は戦争に勝った。戦争は終わった。」
「よかった、もうこれで傷つけ合わずに済むんですね。」
「…………。」
 あまりに出来すぎたその反応に男はしばらく閉口した。
「…まあ、そうだな。それで俺は、戦争中偉大な功績をあげたってんで、周囲からもてはやされるようになった。」
「勇敢な戦士として、祖国を守ったのですね。」
「それはそうだが、ちょっと違う。当時、国では不作が続いていた。俺はそれに終止符を打ったんだ。
 作物が実らない原因を突き止めて、それの発生を食い止めた。よって兵士達の栄養不足は解消、すぐに戦況は立ち直って、戦争は俺達の勝利に終わった。」
「へえ……。すごい。そんなことが。」
「それからの俺は英雄だな。道を歩けばサインを求められ、たくさんの女に囲まれない日がない。
 ただ、そんな毎日にはすぐに飽きちまった。だから俺は国を捨て、旅に出た。」
「飽きてしまったのですか。」
「ああ。つまんねーもんだよ、英雄なんてな。ただ周りが俺の向こうに偶像見てキャーキャー言ってるだけだ。
 ちなみにこんとき、俺の偉業のおかげで、国には産業革命が起きた。自動で畑を耕す機械とか、水をやる機械とか。人のまねごとをする機械とか、いろんなものが機械でできるようになった。もう数年経ってるから知らないが、今頃は道路を人が歩かなくても済むようになってるんじゃないか?」
「へえ…。すごいんですね、外の人々は。」
 女王は目を輝かせて男の話に聞き入っている。男の一字一句一単語にうんうんと頷き、少し間が開けば「すごい」だの「すてき」だの相づちを打ってくる。それらはたいてい感嘆や誉め言葉だ。
 男はある程度までは調子に乗ってべらべらとまくし立てていたが、あるときふと糸が切れたように飽きた。「英雄としての毎日」に飽きるよりもそれは速くそれは突然だった。男は飽きたのでこう言った。
「嘘だよばーか。」
「えっ」
 女王はその場で固まった。少しの間が開いたが、そこからはもう感嘆も賞賛も出てこない。
 男はこちらのほうがおもしろそうだと思い直し、方針を変えて話し始めることにした。にやりと口角を上げ、女王に顔を寄せて低い声で語る。
「全部嘘だよ、おまえに今言ったことはな。本当は戦争に勝ってなんかいない。確かに終わりはしたが俺の国は負けた。だからといって人死には止まらないしこれからも続くだろう。不作だって止まっちゃないさ。ほとんどの国民は貧困にぜいぜい喘いでる。
 そんな現状に諦めを抱いて、多くの人間が国から逃げ出した、この俺みたいにな。だが全部が全部そうできるもんじゃない。力のない奴は今でもあの地獄に残って、ごく一部の偉い奴らの玩具になってんだろうな。」
「…………。」
 女王は目を見開いて男の話に聞き入っていた。男はその碧の中に自分の姿の映っているのを見つけたが、きれいな瞳を抉り出すことはできなかったのでただ話を続けた。
「国から逃げ出した俺は、生きるために何でもやった。金も女も命も、奪えるものは人から全部奪った。おまえが何度も治療で触ったこの手は、数え切れない人間を殺した手なんだよ。」
「…………。」
 男は碧の瞳に語る。
「じゃあ何で、俺が満身創痍の状態でこんな所に来たかって?」
 自分に問いかけ自分で答える。
「騙されたんだよ、部下だと思ってた奴にな。あいつは俺を身代わりに自分だけ逃げやがった。他の誰も俺を助けに来ない。まあそんなもんだったってことだな、金で繋いだ絆なんて。
 俺は俺を追ってきた奴らに攻撃されて、この森に飛び込んだ。誰もが恐れる迷いの森だからな、誰も追ってこなかった。そうしておまえに会ったわけよ。」
「…………。」
 男は女王から視線を外し、窓から王国を覗いて、大きく鼻で笑った。
「迷いの森、だって。笑っちまうよ。一国の騎士団さえもが大勢で逃げ出すその一番奥にあったのが、おまえみたいなガキとその遊び場だったなんてな。」
 そして男が女王に向き直ったとき、彼女は碧の瞳から涙をこぼして泣いていた。
 男は満足したわけではないが、最初よりはよほど良い気分になってそれを眺める。
 すると女王が泣きながら言った。
「かわいそう……。」
「は?」
 女王のきれいな涙は、男の少々行き過ぎた「は?」には汚されない。
「仲間に騙された、なんて。それであんなにひどいけがをしてしまったなんて。とてもつらかったでしょうね、とても悲しかったでしょうね…。」
 男は驚いた、というよりは、鳩が豆鉄砲でも食らったような軽い気持ちで戸惑った。目の前の少女が実際に玉座でふんぞり返って座っているような気にさえなる。
 しかし目をこらしてよく見てみれば、彼の目の前で泣いているのはただの花の女王なのだった。木張りの床に膝を折って座って、ぼろぼろこぼれる大粒の涙を持て余す、花の格好をした女王だ。
「ひどいです。あなたはただ生きようとしていただけなのに。それを誰かがじゃましていいはずがありません。誰かが誰かの生をじゃましていいはずがありません。かわいそうに、かわいそうに…。」
「…………。」
 今度は男が言葉を失う番だった。彼はいちおうは自分のために泣いているであろう女王を、ただ、こいつは馬鹿なのか、と思って見つめた。実際馬鹿なのだろう。
「でも、だいじょうぶです。」
 女王は涙を何とかしようとするのをやめて、その手を男の手にそっと重ねた。碧の瞳が涙で光る。
「ここにはあなたを傷つける存在はどこにもいません。ゆっくりと傷を治して、心も癒していってくださいね。」
 そして女王は笑った。
「数ある逃げ道のうちから、この森を選んでくれてありがとう。私は、あなたに出会えてとても嬉しいわ。」
「……う、うるせえな。」
 男は何とかそれだけ言って、女王の手を振り払った。彼女はそれに対して嫌な顔ひとつせずに、目尻のしずくを指でそっと払う。
 男はこれも嘘だと言いたかった。しかし言えなかった。それをしたら少女がどのような顔をするのかその予想を立ててはいたが、それを確かめる勇気が彼にはなかったのだ。