女王はふと何かに気づいたように立ち上がった。男は何にも気づかなかった。
「お客様だわ!」
 窓へと駆け寄る。そこから見える屋外には最初、誰の姿も男には見えず、彼は女王の斜め後ろで拍子抜けした。
 ここに来てから様々のことが起こったが、「お客様」が来るのは初めてだった。この限られた空間に関わる人間はたった二人、女王と男だけだったのだ。
 それが今、初めて、二人以外の人間が来たと女王は言う。なかなか出現しない「お客様」を、男は知らずのうちに複雑な思いで待った。
「ほら。」
 女王は実に嬉しそうに、広場と森の境の一点を男に示した。彼が半信半疑でそこを凝視していると、するとすぐに、そこから二人の人間が姿を現した。
 どちらも男だった。一人は銀髪で中肉中背、もう一人も似たようなものだ。汚れた装いや表情や彼らを作るありとあらゆる全てから察するに、旅人らしい。
 旅人、というのは、単に何か特定の職業を連想させない彼らを形容するために無難に用意した言葉に過ぎなかった。それはあいまいにただ旅をする人、を表すこともできるし、また、
「(ケッ。同類かよ。)」
 つまるところ男にそう思わせるような人種、を表すこともできる、便利な言葉であった。  
 汚い見た目や表情で分かる、分かる人間には分かる。彼らが男と同郷の者である可能性は低いが、戦争か飢饉か、何らかの理由、およそ個人にはどうにもならない大きな理由のために国を捨て道を曲げた者であることは男には明白だった。
 男は思わず呟いた。
「何でここは、こうも、俺みたいなのばっかり来るんだ……」
 女王がその呟きを耳聡く拾って反応した今になって、ではあるが、それを会話のきっかけにする気などは毛頭なかったと男は高らかに言い訳したい。
「……あなたみたいなの? じゃあ、きっととても心の優しい良い人ね!」
 眩しい笑顔が満開になる。
「…………。」
「お出迎えしなくちゃ!」
 男が何も返せないでいる間はあったが男が女王を止める間はなかった。女王はぱたぱたとせわしない靴音を立て外へと出ていってしまった。
 彼がなぜ女王を止めようとしたかと言えば、それはひとえに、彼が感じた嫌な予感のためである。男は男にとっては初めての、女王にとっては生涯二回目の「お客様」が、彼ら二人ともにとって良い結果をもたらさないという予感をしていたのだ。


 果たしてそれは的中した。
「おい、女王!」
 男が慌てて外に出る、前に、女王を引きずる来訪者が家に入ってきた。
「(こうなるのが当然だったんだ!)」
 しかし男の感覚は、長きに渡る女王との生活によってどこか麻痺していた。
 なぜ自分があのとき女王をすぐに傷つけなかったのか。
 なぜ自分が今女王と共に暮らしているのか。
 なぜ自分がこれから、…。
 今ある状況は、小さな理由がひとつひとつ積み重なって出来上がったくだらない偶然に過ぎない。男が怪我をしていたということ、男が一人であったということ、男が孤独であったということ、男が煮え切らなかったということ、男が押し切られたということ。単に男が異質であったというだけで、彼が本来住む世界の人間であるならば、こうなっていて然るべきなのだ。
 「お客様」を迎えるため外に出た女王は、かつて男を出迎えたときのように、女王のようにふるまった。
 まるで元から用意でもされていたかのようなあのセリフ。やはり用意されていたのかと思わせるほどに正確に一字一句違えずに言ってのけたそのとき、来訪者の一人が女王を殴った。女王はそのまま動かなくなった。倒れた少女を来訪者は腕で掴み上げ、引きずり、今に至る。
 来訪者のうちの一人、今まさに女王の細い右腕を掴んでいる銀髪のほうが、無表情に男を見下ろして言った。
「金と、食料と、ありったけ用意しろ。」
「…………。」
 家の中は狭いから、それを利用すれば人数によるアドバンテージは無いに等しい。
 武器はないが、相手の持っているものを奪えば何とかなるだろう。
 問題は、女王が人質に取られていることだ。
「(いや、そんなことは問題じゃねえな。)」
 人質に屈する、それは即ち負けを認めるということである。
 ここまで考えるのは一瞬である。そして次の一瞬のうちに男は行動を開始しようとしていた。のだが。
「やめてっ!」
 死んだように動かなかった女王が叫んでいた。上げられた白い顔はかわいそうに汚れてしまっている。口でも切れたのか、端から血が出ていた。痛いだろうにまだ喋る。
「おねがい…いたいことしないで……」
「…………。」
 そのために男は動けなくなった。そこを見逃さなかった銀髪に腹を殴られる。
「二度とは言わねえ。はやくしろ。」
 男はせき込まないようにして言った。
「食料はいいが、金はない。ないものは渡せねえな。」
「何だって?」
 銀髪は眉をひそめる。
「言ったとおりの意味だ。金はここにはない、一文たりとも。」
「………使えねえな。」
 銀髪は呟いてから、仲間のほうに振り返って言った。
「おい、家捜しするぞ。」
「これはいいのか?」
 これ、とは、死んだように引きずられる女王のことである。
「いいさ、人質をとるまでもない。行き過ぎた用心だったようだ。」
 そして銀髪は腕を離す。ただ手を開いて離しただけだったから、それが支えだった女王はあとは物のように崩れ落ちた。
 来客二人が家の者に対する興味を完全に失ったところで、男はやっと女王に近づいた。見たところ、ただ一発殴られていただけであるようだったが、それにしては様子が酷い。床に腕をついて上半身を支えてはいたから、それで生きているとかろうじて分かる程度である。
 男はつとめて平静を装って言った。
「おい、女王。無事か?」
「…………。」
 返事がない。
「おい。」
「…………。」
「おい。」
 そうして何度か呼びかけを繰り返したときだった。やっと女王が顔を上げて、その碧色の双眸に男を映した。
「あ……」
 男は少しほっとした。それには気付かないふりをした。
「とんだお客様だったな。」
 言葉が自然に出てきていた。それは心のどこかで最初から男が思っていたが、言う機会がなかっただけのことであった。そしてそのうち言う気がなくなったことであった。それが今このとき、反射的に口から出た。
「どうだ、現実が見えただろう。俺のときは、…何というか、運が良かっただけなんだ。俺がおかしかったんだよ。
 こうなるのがふつうだったんだ。」
 何のためにこんなことを言っているのか、分からない。何が目的で喋っているのか、分からない。
 斜めの角度から言葉を捉えたらそれはまるで女王を慰めようとしているようでもあったから、男はついにはわけが分からなくなって、分からないまま、ただべらべらとまくし立てたのだった。
「…ううん。」
 しかしてここで女王は首を振った。それで男にわずかに冷静さが戻った。
「ううん。そんなの、関係ない。関係ないの。
 だって私は、外の世界を知らないんだから。ずっとここに引きこもっていて、一人で暮らしていて、そのあいだに『ふつう』はきっと変わったでしょう。
 私の知っているのは、あなただけ。ほかには何も、知らない。知っているというには、あまりに時間が経ちすぎてしまった。」
 こんなときまで女王はよく喋る。
「確かにあなたに出会えたことは幸運だったけれど、自分がおかしい、なんて言わないで。私はそんなあなたが好き。自分を悪く言わないでもいいのよ。」
 こんなときまで女王はよく喋る。男は思った。こんなときまで、よくも、女王はこんなことを言えるものだと。
 こんなとき、というのは、二人の部外者が略奪するためのものを探しているときである。先ほどから彼らは狭い家の中を歩き回り、そこらじゅうを引っかき回していた。
 男は女王から注意を離して彼らに声をかけた。
「おい、いい加減、金がないのが分かっただろう。食べ物ならあるから、適当にそれを持っていけ。」
 結局彼は先ほどから同じことを言っているわけだが、来訪者たちの反応はここでやっと切り替わった。それもそのはず、彼らは男の言うことが事実であることをその目で確認したからである。
「ちっ、しかたねえな。」
 銀髪が舌打ちする。そしてこのとき降ろされた彼の左手が、偶然、彼の背後にあった扉の取っ手にぶつかった。
「あっ…」
 総員にそれを気づかせたのは、女王の「あっ」である。銀髪は振り返り、その仲間は扉に歩み寄り、男はただそれを見つめていたが、彼らは全員、やっと、その扉の存在に気がついたのであった。
 それまでずっと、ただ、背景のようにそこに位置していた扉。それはいわば壁であった。女王が皆に気づかせない限り、壁は壁のまま、たとえ扉であってさえも、開かない大前提を崩さないはずであった。
「…扉……」
 この家でずっと暮らしていた男にさえも、その扉は扉として認識されていなかった。だから彼は、そのようにして呟いていた。
 男がその扉の開くのを見たのは、初期の一度だけであった。彼がたった今着ている布の服は、その扉の向こうから、女王によってもたらされた。
「こんなところに扉があったとはな。」
 遅すぎる認識に違和感を抱くこともなく、銀髪は扉の取っ手に手をかける。そしてその行動を促進したのは、他でもない、女王自身の悲痛な懇願であった。
「だめ、そこは開けないで!」
 そう言われて言われたままにする同類などいない。そのことは男が一番よく分かっていた。彼はだから確かに女王を止めようとしたが、気付かれなかった扉の中身の気になるのと女王の豹変に驚いたのと半々ずつで、実行までに至らなかった。
「……あ?」
 しかしそこは当然のように施錠されていた。銀髪の取っ手を降ろす手が錠に阻まれたことによって、場の進行も一時的に止められる。
「やめて! お願い!」
 施錠と、女王の懇願。本来部屋の中にある何かを守るためのそれらは、悲しいかな、銀髪の行動に拍車をかける結果に終わった。
 銀髪に蹴られた木製の扉は、ちょうつがいを弾き出して簡単に壊れた。
 それを見ていた男はごくりと唾を飲んだ。今まで、気にするともしていなかった、あるとも知れなかった、このような森の最深部に居を構える少女の秘密──それこそが、こんなときだというのに、ここぞとばかりに男の前に立ちふさがった。
 それは扉が開けられたからである。扉を認識できなかったのは、女王の秘密を気にしなかったのと同義。扉が開いたのは、女王の秘密が気になるのと同義なのである。
 銀髪が、仲間は外に待たせて部屋の中へ足を踏み入れる。そしてその後を、女王が、男の手を振り切って追った。
 部屋の中で物体のぶつかる音がする。男はそれにはもちろんはらはらとしたが、それ以上に胸をはらはらさせる物事に意識は釘付けだった。
 しかし彼はその場からは動かない。彼はこの狭い空間において彼が望まれているであろう役割を遂行せねばならなかったからだ。
 さして長い時間もかからずに2人が出てくる。銀髪が先で、女王が後だ。
 銀髪の仲間が尋ねて確かめる。
「おい、何か金目のものはあったか?」
「いや、何もだ。どうやらそいつの言ってることは本当だったらしい。」
「お願い、やめて! それは持っていかないで、それだけは!」
 男2人と女王1人の様子は全く噛み合わない。
「……それは?」
 追っての問いかけに、銀髪は、手に持った分厚い装丁の本について説明した。
「このお嬢さんが、見てのとおりなんでな。こうしないわけにはいくまい。」
「ああ……」
 その説明には、銀髪の仲間も、男も、納得せざるを得なかった。
 男は嫌というほど分かっていた、自分も同じであるから、彼らが「こういう人種」であるということを。
「女王、やめろ!」
 男は、意に介す価値もない弱者に対するかんしゃくを男が起こす前に、女王を止めた。これが頃合いであるということも彼にはよく分かる。
 やめてお願い持っていかないでと嘘のように喚き散らす女王は、男の声は耳に入ったようで、その途端に声を途切れさせた。ただ、心配そうな碧の瞳はそのままにして、だ。
 それを目にした銀髪は意味もないだろうに鼻で笑った。
 以降の展開は早いものだった。平たく言えば王国は略奪者の侵入を受けたのである、彼らは典型的に食べ物を奪うだけ奪って、嵐のように去っていた。
「……チッ。」
 他人のいなくなった家を見回して、男はやりきれない思いで舌打ちした。ともあれ女王の元へ寄る。
「大丈夫か。」
「うん。」
 女王は少女の瞳で男を見上げ、子供のように頷いた。
「私は、だいじょうぶよ。」
 だいじょうぶじゃないと瞳が言っていた。だからすぐに嘘が崩れて、少女は力なくうなだれた。
「…怖かった……」
「…………。」
「ほんとうは、知っているの。どんな時代にだってああいう類の人がいる。知っていたのだから、警戒しなければならないはずだったのに。」
 少女はまた顔を上げて男を見た。
「私にはそんなことできないわ。だってあなたがいるから。」
「…………。」
 男はどう返せばよいか分からなかった。ただ漫然とした罪悪感が胸を覆い、そんな自分やそれそのものからも目をそらしたくて、話をそらした。
「何か盗られたんじゃないのか、大切なものが。」
「…………。」
 しかし女王は優雅に首を振った。そしてほほえんだ。
「いいの、あなたが無事なら。気にしないで。」
「何が盗られたんだ?」
「…………。」
 女王は答えない。しかしそれこそが答えだった。質問は最初から物の何かを問うてはいない。
「まだ、追いかければ間に合うな。」
 罪悪感から逃げるための思いつきの一言は、女王の意地を簡単に弾き飛ばした。
「いいよ、そんなの! お願い行かないで!」
 手の平のように態度が返る。しかし男は今このときに酷似した女王のあの切羽詰まった様子を見ていたから、盗まれたものが「そんなの」であるとはとても思えなかった。
 今度は男に意地が宿る。彼は女王のか細い手を乱暴に振りきって出ていった。

 女王は家の建物から外に出てまで彼を止めようとしたが、開けた口で呼ぶべき名が見あたらなかった。
 絶望して立ち尽くす彼女は、大好きな彼を止めるための名前すら、知らないのだった。