男は迷わなかった。思うがままに走り、森を抜ける。
 そう、彼は、森を抜けたのだった。通称「迷いの森」、奥には魔女が住むという、人々からは忌み嫌われる広い森だ。
 それを抜けた。言い方を変えるなら、外に出た、脱出した、生還した。
 既にあの銀髪たちの姿は見えなかったのだから、もとより見えたとしても「迷いの森」の前にはそんなもの無力であるはずなのだが、男は無事に、生きて、外に出た。
 街道に足を乗せ梢に縁取られない空を目の当たりにしたとき、かえって男は現実味のなさに直面して愕然とした。光に照らされる大気に色がない。そんな光景が夢のようだ。
 しかしよくよく考えてみればこれこそが現実なのだった。20年と片手と少し、男が生きてきた世界がここにある。
 さて男は男から見て左右に伸びる街道を、右、左、と見回した。どちらに行こうか、選ぶ根拠が見つからない。
 そんな自分を自覚してしまったとき、彼はやっと途方に暮れた。迷うことを知らなかったから、彼は森を抜け出ることができたのだ。ひとたび知ってしまえば後はもうない。
 だから彼は考えた。自分とあの奴らとは同類だ、思考パターンにそうそう違いがあるはずもない。右か、左か、幸いにして選ぶ方向はたったのふたつである。与えられた選択肢の中から、正しいと思うほうをこそ選びとればいいだけだ。
 男が決断するのはすぐにであった。彼は向きを変えずにまっすぐ進んだ。街道を横切り、舗装されていない草地を走って、あるとも知れない目的地へと向かった。


 果たして男が辿り着いたと具体的に言えたのは、寂れた町であった。建造物こそ立派であったから、それなりには発達したことがあった町なのだろう。
 けれども人気がない。活気がない。真っ直ぐに整然と町のど真ん中を貫く大通りは大きな通りでしかない。
 このような町は、この時代に生きていればいたるところに見ることができた。土地ではなく、形式的な町ではなく、人に活気がない。
 それもこれも戦争のせいである。ただこちらは戦争に「勝った」側であったので、主には貧困などが原因なのではない。むしろその逆だ。
 人々は豊かだったからこそ町を捨て、より大きな街へと移り住んだ。結果ここに残るのはかつての繁栄の名残と、ごく一部の貧しい人々だけ。概形が豊かであるにしても、数がほんのわずかであろうとも、場所を問わずそのような人々というのは存在するものだ。
 自らがより富むために。彼らはここを「寂れた町」、ひとつの大きな貧困層にして立ち去った。じきには彼らの移り住んだ大きな街でも貧富の差が生まれ、豊かな者はより多くの富を手にし、貧しいものはより少なくのそれを手にすらできなくなるのだと思うと、男は苦い思いだった。自身の過去に重ねたからだった。
 男の地理に関する知識に照らし合わせると、どうやらここは、かつて男が森に迷い込んだ側とは反対側であるらしかった。それならそれで都合が良い、と彼は思う。元々彼が森に飛び込んだ経緯を考えれば、思考が自然とそうなった。
 思いは苦いが男には関係がない。彼は大きな通りを横にそれ、一段階薄暗い路地を歩いて進んだ。
 そして視界に入った店に入る。ドアベルが乾いた音を立て、その音に似通った店内の風景が男の目に飛び込んできた。
 広さも湿り気も賑やかさもない、そこに入る必要すら男にはないのだが、状況を進めるには他者の介入を許すほかなかったのだ。
「おい、そこの」
「……むにゃ、」
 何もないしけた店だが、客は居た。男の経験から言えば、こういった何もないところにこそ人(とは言っても、それは限られた種類の人間だが)は何かを求めて集まるものである。
 男は、入り口付近のテーブルに突っ伏して死んだように眠りこけていた者に声をかけた。初老の、潤いなど失って久しい声が呻いて返った。
「2人組の男を知らねえか。いや、それ以上でも以下でもいい。妙にがっついた顔の、まあ造形はそれなりには整った銀髪の男と、それと仲の良さそうな男を知らねえか。」
 男は果たして、この老人から意味のある答えが返ることを望んだ。
「知らんよ。」
 望みは叶えられた。けれども願いにはほど遠い。
 しかしそれでも老人は続けてこう言った。彼は具体的には男の探し人を知らないが、手がかりとなりそうなあてはあるらしい。
 時間が止まったようなこの町で、唯一動くものがある。かつて国の片側──そうだ、男が迷いの森へ飛び込んだ側だ──を騒がせた盗賊団の、成れの果てが、ここを拠点に活動しているのだという。
 それが男の探し人に関連しているかはともあれ、この町の住人でない男がここで何かを求めるのなら、その盗賊団もどきにする他はない。
 その理由を、この町は死んでいるからだ、と、老人はしわがれた声で言った。男はそれには考えることなく同意した。
 男は店を出た。入ったときと全く同じ音が鳴って、屋外で屋内と変わらない空気に晒された。


 しかし盗賊団もどきは現在町にはいなかった。先程と同じ手順で他人を捕まえて、また何かを求めて別の町へ行ったということ、どこそこへ行ったという情報を得る。
 情報を得たと同時にその町へ行くことを視野に入れる自分がそこにいて、男は町の寂れた門を出るときにそれをふと認識した。
 男は不愉快の念に唇を噛みしめた。
 女王の大切なものを取り戻すための旅に出る、正義の騎士にでもなったつもりか! 気持ちの上では力一杯自分を罵倒する。
 そんな夢があったのだとしても、そんなものはとうの昔に捨てた。何ら苦労せずに手に入るそれなりの身分・それなりの暮らしを前に、いともたやすく膝を屈するはずではないか。
 それが今、いったい何のつもりだというのだろう。あのとき、目の前にぶら下がった魅力的な事実に気をとられて何もできなかった自分を恥じてでもいるつもりか。そんなまともな人間の持つ良心のようなものが、自分にあるはずもない!
 男は自らを戒めることから逃げるために、今は遠く迷いの森できっと震えているだろう女王に、それはそれは意味のない言葉を投げた。

 見てみな、女王。あの、どいつもこいつも同じ顔したヤツラを。
 まるで死んでいるみたいだろう。
 俺は変わり続けることを選んだ。生きることを選んだのさ。変わることは生きることだ。
 それがどうだい、おまえの王国は。何もかもがきれいだった。そして何もかもが変わらない。まるで時間が止まっているようだった。
 おまえの王国は死んでいるのさ、「瑞々しく」な。

 常に変わり続けるのだから何もない。前も後も、今でさえも。
 今を見ることからただひたすら逃げ続けて前に進んで来た、よすがとなる後はない。汚い後をなかったことにしたくて今を求めた、光となる前はない。前に塞がる未知をおそれて後を振り返った、足場となる今はない。
 だから男は気付かなかった。自分に欠けているもの、根付いてしまったもの、そして誕生しようとしているものに。