街道を抜け草むらを抜け木々の間を抜け森に入り、鬱蒼とした景色にも目も暮れずに再深部まで辿り着くと、そこは数日前と寸分違わぬ美しさを保っていた。 男はその不変を疎ましく思ったものだったが、今ではそうとも限らない。少なくとも不愉快にはならずに、いかにも戻った、帰った、帰還したような気になって(生まれた地を捨て、ただ各地を転々としていた男には、帰るべき場などなかった)、それはどちらかといえば気分の良いものである。 そんな自分自身の変化から目をそらすために、帰着点の存在とはかくも安定感のあるものだ、などと男が取り繕って考えていると、彼の目に見える景色に一つ変化が起きた。 男の真正面に広がる女王の広場。その真ん中に位置する大木の家に取り付けられた扉が開いた。 中から姿を現したのは、花のような装いをした、薄い金髪に碧い目の、花の女王、ラワーフィである。 少女は花の女王として広場に君臨し、いつものように来客を、いつもの言葉で出迎えるのだ。 しかしその定型は最後までは遂行されなかった。不自然なまでに予め用意されきった動作の途中で女王は男の姿をその目に留め、碧い瞳を揺るがしたのだった。そして次には表情を。 転ぶか落ちるかという程の勢いで女王は、少女は階段を駆け降りる。そして彼女は地面に足がついたときにはもう走り出していて、実はこの数日間で怪我もしたし体力も消耗しきって歩くのがつらい男はその場に突っ立って彼女を待ち受けた。用意すべき表情に心当たりがなかったために、ただ手に持った本を掲げて示す。 しかし女王は本には目もくれなかった。男がそれに気付くよりもまず先に彼女は彼に飛びつき抱きつき抱き締める。その衝撃で厚みのある重い本は角から大地に落ちた。 「お、おい、女王。本…」 「いいの、そんなの、いいの。あなたが戻ってきてくれた…それだけでいいの…」 男のすぐ目の前の黄色い頭が揺れる。花の冠も先程の衝撃で落ちた。 「あなたはもう帰ってきてくれないかと思った。よかった、無事で…。ずっと待ってた。あなたをずっと待っていたの。」 「ワーミンだ。」 「え?」 涙さえ湛える碧の目が男を見て瞬いた。男は言った。 「俺の名前。まだ教えてなかったろ。」 あなたあなたと連呼していた口は、静かに開いて、そのたった四文字を発した。 「ワーミン…」 静かな響きはだがしかし、あの野暮な男達が口にしたものとは全く異なる味をもって確かにワーミンの心に訴えかける。 男はここでさりげなく女王の身体を遠ざける。けれどもそれは結果的に事実として、お互いにしっかりと見つめあうことを可能にした。 「そう。」 遅すぎる名乗りを咎めることはせず、むしろ女王はいとも幸せそうに笑った。 「ワーミン。」 呼ぶ。ワーミンはそれに対して軽く小さく返事をしたが、女王は呼ぶことを再度した。 「ワーミン。ワーミン。」 「ラワーフィ。」 笑顔で何度もその単語を口にする彼女に、今度はワーミンから呼びかける。するとラワーフィは何ともかわいらしい笑みを顔に浮かべて、ワーミンに応えた。 「なあに?」 「けが、しちまったんだよ。悪いがまた世話になる。よろしく頼む。」 「………!」 かわいらしかった笑みがすぐに崩れて遠ざかる。ラワーフィはこみ上げた何かをこらえるように手を口元に持っていくが、それは特に意味を成さずにたださまようだけである。 結局、ラワーフィは頷くということをした。何度も何度も何度も。 ワーミンはそんなラワーフィをこれまでにない程に安らかな気持ちで見た。そう、これ程までに気持ちが凪いでいたのは、ワーミンの二十と片手と少しで数え得る生涯において初めてのことだった。まるで聖者か勇者にでもなった気分で、自身の成した偉業を胸に、か弱い少女の前に立っていた。 これでもう、いい加減苦しくなってきていた口実作りもしないで済む。小さなけがをわざとらしく作っては、へらへら笑って絆創膏を貼ってもらっていた頃が既に懐かしい。 しかしけれどもワーミンは元来の性質として素直にものが言えなかったから、ラワーフィの顔は見ずに小さく呟いた。 「……この傷は、もしかしたら一生治らないかもしれねえな。」 言い終わった後は言葉は存在が残らない。だからその記憶だけを引きずってワーミンがラワーフィを見ると、彼女は笑っていた。頬を赤らめて眉が少し下がっている、照れたような、初めて見る笑い方だった。しかし紛れもない彼女の笑い方だった。 そのときラワーフィはいつものように不可思議な御託を並べることはしなかったが、言葉なくとも、互いに通じ合う認識があったとワーミンは思う。 |