血の中から腕が生えているのである。
 名前だけはそこら中に知れ渡っていたから、その腕の持ち主は腕と同じく血にまみれた顔に五つ開いた穴のうちの一つを動かして、恨みがましげに最後にこう言ったものだった。
「ワーミン。」


「ワーミン。」
「わーっ!」
 夢見心地だったのを急に現実から引っ張られて、ワーミンは驚いて飛び起きた。
 現実は静かなものである。柔らかな朝日が窓から差し込み、木で作られた家の中を照らしている。どこかで鳥のさえずる声がする。ワーミンはそんなところで布の服一枚着てハンモックで眠りこけていたのである。
「……ごめんね。」
 そのハンモックの脇に立っていたラワーフィは少しの間を置いてから謝った。「突然起こしちゃって。ワーミンがなかなか起きなかったから心配で」と後に続ける。
 男はそれに対しては短く「別にいい」と言っておいた。ラワーフィは嬉しそうに頷いて、そしてまるでただの少女のようにこう言った。
「ご飯ができてるから、いっしょに食べよう。」
「ん、ああ………ん?」
 言われるままに素直に寝床から出ようとして、ワーミンは見つからないものがあることに気付く。短剣である。彼はそれを昨日、頭の近くの棚に置いて寝た。
「ラワーフィ。ここにあった短剣を知らねえか。」
 この一瞬でラワーフィの表情は天から地まで大仰に落下した。名前を呼ばれた瞬間に嬉しそうな笑顔を花開かせて、用件を述べられた瞬間に花が散って固まる。
「短剣……」
「知ってるのか、知らねえのか。」
「……捨てました。」
 ラワーフィは機械的に言った。
「何だって!?」
 驚くワーミンにラワーフィが答える。その様子はまるでただの年相応の少女のようだ。
「だ、だって、あんなもの危ないでしょう? だから私は捨てました! 凶器なんてこの王国にはいりません!」
「ば、ばかやろう!」
 反射的にワーミンがそう言ってしまうと、ラワーフィは世にも恐ろしいものでも見たように表情をひきつらせて短く叫んだ。その様子にはワーミンが今までにもよく見た女王の気が見え隠れしていた。
「ばかやろう、だなんて…! ひどい!」
「ひどいったっておまえ…必要だと思って持ち帰ったもんを勝手に捨てられたら、俺だってそうも言いたくもなるぜ。」
 次のラワーフィの発言は両者がないまぜになっていた。
「それは確かに、そうですけど。でもでもだって、…ううん、それじゃあ、それについては謝るわ。あなたのものを勝手に捨ててしまって、ごめんなさい。私は先にあなたの了解を得るべきだった。それはその通りね。
 でも、じゃあ、結果についてはどう? 私はあの凶器をいらないと思うわ。ワーミン、あなたは? 私の考えに賛同してくれる? ぜったいにしてもらうわ。そしてあれは捨てさせる。結果は同じでしょう。」
「な、……」
 ワーミンは驚いた。ラワーフィが御託を並べ理屈をこね彼にもの申すことは今までにも何度もあったことだったが、それがこのようなときにこのような目的…ワーミンを説得し自身の言う通りに動かすため…使われるのはまるで初めてだったので、彼は驚いた。
「何だよ! 別に俺は、納得しねえぞ。悪いがあれは携帯させてもらう。」
「だめ、絶対にだめ! あんな危険なもの!」
「危険危険と言うが、じゃあ普段おまえの使ってる刃物はどうなんだ。はさみとか包丁とかは、この場にもあるだろうが。」
 ラワーフィは毅然として首を振った。
「用途が違うわ。みんなの枝葉を切ってあげるためのはさみと、食材をあなたの口に入りやすい大きさに切るための包丁と、人を傷つけて最後には殺すための短剣では全く比較にならない。」
「なにもそれだけが目的ってわけじゃねえだろうがよ。誰かを傷つけるのは、殺すためだけじゃない。」
 言いながら内心でワーミンは、自分の口からこんな言葉が出てきたことにも驚いていた。口げんかで相手に言い返すため、と理由をつけて片付ける。
「でもあなたの短剣は血にまみれていたわ。」
「…それだって、誰かを殺したわけじゃない。それに、血だって洗い流した。」
「ううん、私が言うのはそんなことじゃない。死んだ誰かの流した血があの刃にはこびりついている。それはいくら洗ったって落ちはしない。」
 ここで先程から募っていたワーミンの苛々はピークに達していた。彼はずっと言わまいとこらえてきたことをついに声に出して言った。
「てめえ、いい加減にしろよ! 誰があの本をどうやって取り返してきてやったと思ってんだ! 何も知らねえ奴がきれいごとばかりほざくな!」
 突然の大声にこそ身を竦ませたラワーフィだったが、すぐにまた言い返そうと口を開く。
 しかしワーミンがそれをさせなかった。彼は身体の向きを変えてもういいとだけ言って、相手の行動を封じる。
 家の正面入り口まで歩いて行って、建物を出る間際に、その場にずっと立ち尽くしていたラワーフィにワーミンは一言かけた。
「日暮れまでには帰る。」


 ワーミンは、ラワーフィが生活の中で出たごみをどこに捨てるかを知っていた。大木の家の裏手、少し高台になったところだ。
 主な生ごみは何か容器に入れられて、ここで肥料になるのを待っている。それ以外のもの、例えば服とか食器とか掃除道具とかは、実は野ざらしになっていた。
 以前ワーミンが聞いた話によると、この区画では、盛んに働く微生物により、物が自然へ還るのが非常に速いのだという。この王国ではたいていのものが自然の素材そのままに使われている。道具が役目を終えたら後は裏庭に放置して、自然に還すのだそうだ。
 だからワーミンはここに短剣が捨てられたのではないかと思い、来たのだ。すぐに探し始める。それと共に思案が始まる。
 あれは喧嘩ということになるのだろうか。互いが互いに互いの主張を通そうとして理屈を並べて声を荒げ、最終的には片方の拒絶で全てが終わる。こんなことは初めてだ。まさかあの、自分の言うこと何でもはいはいと聞いていたラワーフィが、あそこまで自分の意見を張るなどとは。
 それにしてもラワーフィの物言いは不自然だった。正にその表現が当てはまる。今までの女王としての面影は残しながらも全面に現れようとする影がある。それは何の変哲もないものだ。ただの、あの見かけに相応な年齢の、その年齢に相応な性質の、少女の面だ。
 まるで女王の着ぐるみを着た少女がその重さに耐えかねているようだった。
 あのとき、王国に部外者が入って来たときもおかしかった。理由を探せばすぐに、大切なものが奪われて混乱していたから、と片付けることはできる。しかし不自然さはここにも存在する。果たして女王が、ラワーフィが、大切なものなど持ち合わせているのだろうか?
 ここにずっと謎は存在していた。やっと気付いた今それは途端に膨張する。言うなればラワーフィはあまりに人間味に乏しいのである。常に慈愛に満ちた笑みを浮かべて、今まで自分が抱いてきた常識とはどこか違う理屈を組み立てて、この閉鎖的な空間でひたすら植物を育て続ける。そう、この空間、花の女王の王国でさえも、ラワーフィという名前(それも本名かどうか怪しい)の少女のおままごとのための場所に思われてならない。
 もしかしたら、単に化けの皮が剥がれただけなのかもしれなかった。今まで繕ってきた女王としての面の皮が、あの男たちの侵入により見るも無惨に剥がされてしまっただけなのかもしれない。先程の不自然さは変化の余波だ。
 そう考えるならばラワーフィはここでやっと生きたことになる。柔らかな微笑みをずっと浮かべて変わらない、王国と共に瑞々しく死んでいた孤独の女王は、そこへやって来た自分という火種とあの男たちという引き金により、変化のもたらす生きる世界へど投げ出されたのである。
 などと、そこまで考えて、ワーミンは馬鹿らしさを感じてやめた。どんな謎の背後にも頭で考えた理由をこじつけることができたし、自分自身の抱く幻想など現実には関係のないものだ。いくら正論を並べ立てても現実は変わらずそこにある(だからワーミンは正論が嫌いなのである)、肝心なのは彼が必要と感じて持ち帰ったものが処分されてしまったこの現実だ。
 ワーミンはあまり広くはないこの区画を探し終えたが、目的のものは見つからなかった。目的不達成の事実に苛立ちを抱きながら振り返ると、ラワーフィの黄色い頭がこちらへ上がってくるのが見えた。
「ワーミン。」
 ラワーフィの碧い目が、不安げな色を湛えてワーミンを見る。それは年端もいかぬ少女のものに相違ない。
 そしてラワーフィは白手袋に包まれた細い両腕を伸ばして、短剣をワーミンに差し出した。
「これ。返す。」
「…………。」
「あなたが必要だと思ったんだものね。私も、いつまでも凶器がだめだという古い慣習に縛られていてはだめだと思ったの。変わらなくちゃ。
 だから、返すわ。ごめんなさい。」
 ワーミンは返す言葉が見つからずに押し黙った。まず先に短剣を受け取る。
「…なあ、」
 ワーミンはとりあえず言った。それは本人の意思に反して、いやに間抜けで平坦なものとなった。
「その口調……。今までの敬語はどうしたんだ。」
「あっ」
 その途端、ラワーフィは顔を赤くして両頬を手で押さえた。
「く、口調………やだ、そういえば、そうでしたわ。」
 碧い目を見開いて何度も瞬かせていたが、次にはそれがワーミンを見る。
「ごめんなさい、不快な思いをさせてしまっていましたね。」
「いや……」
 そのとき、ワーミンは性質の悪い詐欺師にでも騙されたような気分だった。これまで散々考えあぐねた結果が、女王の単なる失敗だとでも言うのか。少なくとも彼はかなり拍子抜けした。必死に考えていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。結局のところ何も解決されなかった現状…自分がいて目の前にラワーフィがいる…を見て、退くも戻るも叶わずに、心にもなかっただろうことを彼はべらべらとまくしたてた。
「別に。どっちでもいいんじゃないか。おまえがしゃべりやすいほうなら。」
「私の?」
 不安げに揺れていた碧の瞳に嬉しそうな色が入る。
「そっか、私の、かあ……。あなたって本当におもしろいこと言うのね、ワーミン。」
 ラワーフィは実におもしろそうに楽しそうに笑って、最後に一つワーミンの名前を口にした。そして不意に真顔に戻って言った。
「さっきは突然怒ってしまって、ごめんなさい。びっくりしたでしょ。ただね、あまり、ああいった凶器には良い思い出がないから…つい……」
「良い思い出がないって。」
 ワーミンはまるでラワーフィに次に発するべき言葉を誘導されているような気分だった。実際にそんなことはもちろんなく、ただ彼が勝手に誘われ導かれているだけなのだが。
「俺はおまえのことを何も知らねえ。いったい何なんだ、花の女王ってのは。おまえはいったい何者なんだ。」
「その答えは、」
 ラワーフィはこう答えた。小さく微笑みながら。
「また今度。ゆっくり話しましょう。」