あれからラワーフィは眠った。無理もない、長い間ずっと泣き叫び続けていたのだから。ワーミンも疲れていたから寝た。ラワーフィが離そうとしなかったので、無理に引き剥がすことができないわけではなかったのだが、不本意ながらも一緒に寝た。
 目を覚ましたのはワーミンが先だった。実に珍しいことである。相当精神が追いつめられていたのだろうなとワーミンは結論付ける。彼は自分の膝を枕にして熟睡するラワーフィを起こさないように慎重に移動させてから立ち上がった。
 素っ裸の少女を床に放置するのは何だか気が引けた。が、寝床まで運ぶ途中で起こしてしまうのはもっと気が引けた。ので、ワーミンは寝床から一枚シーツを持ち出し、ラワーフィにかけてやった。起きなかった。
 さてどうしたものかと考え込む。ラワーフィは起きたらすぐに何をしていたのだろうというところにまで思考が及ぶ。そして答えが出るのにさして時間はかからなかった。
 そしてさほど遅くもない時間にラワーフィは起き出してきた。短く挨拶をすると、すぐに満面の笑顔が花開いた。

「ほら、食べろよ。数日は食べてねぇんだろ。」
 ワーミンは、皿に野菜だとか果物だとかを盛りつけて渡してやる。料理としての体を為しているかはともかくとして、どの食材がどの栄養素を持っていて、どの栄養素がどの身体のはたらきに影響するのかはよく知っていたから(知らない食材についてはラワーフィに聞いたのを覚えていた)、摂るべき食事としては申し分がない。はずである。
 自分の目の前に出された「料理」を見つめて、ラワーフィは喉が潰れているので声は出さないが目を丸くした。首を動かしてワーミンを見る。すぐにまた料理に目を戻す。ワーミンを見る。繰り返す。
「………何だよ。毒は入ってねぇぞ。」
 ラワーフィは首をぶんぶんぶんと振った。その動作はさながら年相応の平凡な少女のものだったが、ワーミンがそれにより心を波立たせることももうない。
 しばらくは身振り手振りを使ってでも何とか意思を伝えようとしていたらしいラワーフィだったが、言葉があっても今までうまくいかなかったものを、それなしにどうにかすることができるはずがない。むしろ言葉がなくても二回ほどどうにかなっていたのだから、まあ、いいかな、という気持ちを二人で共有し合って、ラワーフィは食事にとりかかった。
 餌を食べる小動物を観察するかのような気分で、ワーミンはぼんやりとラワーフィの食事風景を見守る。目が腫れぼったいのとその付近の青あざは一晩で消えるはずもなく相変わらずだったので、きちんと世話をしなければならないな、などと考える。打撲に効く薬はあっただろうか。冷やせば治りは速くなるだろうか。
 ただ、ただ。自分を見るワーミンを不思議そうな顔して見るラワーフィを見ながら考える。その傍らで、さっさと食べろと急かす。流れる時間があまりにのどかで平和であるために、そんなものに慣れていない彼は思わないではいられない。傷跡を何となく塞いで、互いに笑って話せる日がそのうちくるとして、そんな日々を永久に続ける。それでよいのだろうか。
 ワーミンには分からない。分からないから今まで何も考えずに走ってきたし、分からないから存在もしない今を満たそうとすることだけで生きてきた。それがこうして立ち止まることを余儀なくされた「今」、これで本当によいのだろうかと考える。考えるが分からない。分からないから考える。
「…なあ、ラワーフィ……おまえは…」
「………?」
 ワーミンは言葉の続きを引き出さなかった。これはどうしても言葉にして交わさねばならない思いで、けれども今の彼女の言葉を返すことができないのは分かっていたから、また後でなとだけ言って首を振った。

「いいえ、嫌いよ。」
 即答、ではなかった。熟考らしき仕草のあとでの言葉だった。
 単なる使い過ぎが原因であったから、数日間療養していたら声は出るようになった。青あざもすぐに引いた。ラワーフィがもう日常的な会話なら問題なくこなせるようになったことを察したワーミンは、改めて問いをぶつけていた。数日間の思考のうちに見つかった疑問だった。「おまえはここが好きか」と、ワーミンはラワーフィに聞いた。
 てっきりすぐに答えが返ってくるものだろうと予め想っていたワーミンは、それがそうではなかったときには少し面食らった。そして返ってきたのが否定の返事だったときには、あまりに驚いたために反応すらも出てこなかった。
「…驚いた?」
 ラワーフィはぽつりと呟いて首を傾げる。ワーミンは何とか頷くだけはした。
「理由、笑わないで聞いてくれる?」
「…ああ。」
 ワーミンはゆっくりと頷いた。
 ラワーフィは語り出す。
「私の父と母が亡くなったのってね、木を切り倒した直後だったんです。この木。今はこの家になっている木。これを切り倒したのは私の父だったの。」
「…………。」
「その翌日だったわ。父が、森の倒れた木の下敷きになっていたの。……母はすぐに、私を連れてこの森を出ようとしました。だけどその途中で、母も…」
「…………。」
「高台になっていたところの足場が崩れて、落下地点にあった折れた木に串刺しにされました。私は今でも覚えている、数え切れない夜を明かした今でも。」
「…………。」
「私は怖くなって、すぐに引き返しました。不思議なものね。母と私があれだけさまよっても出口を見つけることはできなかったのに、私がちょっと出ることを考えなくなっただけで、この広場はすぐに姿を現したの。」
「…………。」
「あなたも知ってのとおり、ここは、この広場は、ここだけで全てが循環できています。そうなるようにしたのは私の父なのだけれどね。そのやり方を近くで見ていてよく知っていた私は、今まで一人で生きてきました。」
「…………。」
「全てを、復讐だと思ってしまうのも、無理からぬことじゃない? 大切な森のあるじを切り倒された森の、私達への、復讐。だから私はこの森が嫌いです。」
「……復讐、か。」
 ワーミンはひとつ溜め息をついた。復讐。その言葉には思い入れが深い。
 生を持たない森が復讐などという人間のみがするようなことを本当にしたのかどうかはさて置いて、ラワーフィの語りと思いはワーミンの心に深い納得をもたらした。だからこうして言葉を返す。
「…だとするなら、どうしておまえは殺されなかったんだろうな、森に。」
 ラワーフィは薄く笑って言った。
「それもまた、復讐よ。たった一人で永い時を生きながらえることはそれだけで過酷だわ。」
 その口調は、聖女のものとするにはあまりに冷酷で、庶民のものとするにはあまりに平坦で、現実離れし過ぎていた。
「だけど、あなたが来てくれたから。」
 言いながら、ラワーフィはワーミンの手を取る。
「あなたが、数ある逃げ道のうちからこの森を選んでくれたから、私はあなたに出会えたの。だから私は今とても幸せよ。ありがとう。本当にありがとう。」
「…………。」
 礼を言われるようなことでは決してないと、ワーミンは思う。なぜなら自分は彼女に本当に酷い仕打ちをして、泣かせて、傷つけたのだから。それまでにしてもそれからにしても、自分の彼女にしてきたことは人として誉められたものではない。
 ただ少女は孤独に心を病んでいたから、それを癒す他人の存在が偶然にも自分であったというだけなのだ。それは別の誰かで構わなかったし、むしろそのほうが彼女も傷つかなくて済んだかもしれない。
 けれども現実は自分だ。ここに来てラワーフィと出会ったのはワーミンだった。幸か不幸かは分からない。