朝起きて(起きなかったときは起こされて)食事を摂って雑談をして(時には片付けを手伝って)たまには狩りへ行って夕食のおかずを増やしたりもして力仕事は担当しつつも梢に切り取られた空の色の移り変わるのを見つめて暗くなったらおやすみと言ってランプの日を吹き消す。
 ここには争いがなかった。妬みも憎しみもそしみも。およそ外の世界で三歩歩けば勝手についてくるような、今となってはくだらないものだとワーミンに思わせるようなものは何一つない。だから人は傷つかないし死なない。
 何もない。そんな世界での本日の夕食時の雑談はこんな内容についてだった。
「俺は、ただ生きていただけだった。生まれたから、しかたなく、目先の欲望を何とかしようとして走り続けてきただけだ。」
 学のないワーミンにも分かるくらいに、ラワーフィの理論は突飛であった。けれども、学のないワーミンにも分かるくらいに、ラワーフィの教養は豊かであった。いい加減それに触発されたのか、ワーミンは、会話の中でのラワーフィの御託を聞くのが好きになっていた(最初からそうであったのかもしれない)。時にはむしろ自分からきっかけを振るときもあった。
「それが、今、何でだろうな。考えちまうよ、ガラでもねぇ。俺は今どうすればいいんだろう。」
 どんなに中身のない話でも、ラワーフィは絶対にそれを軽んじない。真摯に受け止めて言葉を返す。だからこそワーミンはこうして話をしているのかもしれなかった。
「…どうもしなくても、いいと思います。」
 ラワーフィは言った。
「どうもしなくたって。ただここで、梢に切り取られた空を見て、日が上って落ちるのを眺めて生きるだけだって。その中でささやかな幸せをあなたが見つけられるのなら。」
 最後のフレーズにはどこか含意があった。そういう発言をするときのラワーフィの声はいやに冷たいことを、ワーミンはもう知っていた。だからあえて尋ね返した。
「見つけられないのなら?」
「……どうとでもすればいいと思います。ここにあなたの幸せがないのなら。だけど、」
 ラワーフィの碧の目が、ワーミンをじっと見た。
「だけど、私の幸せは、ここにあるわ、ワーミン。私の幸せはあなたと共にある。」
「…………。」
「……俺の、幸せは…」
 ワーミンはそんなものの在処は知らなかった。幸せになるだのならないだの、そんなことを考えたことは一度としてない。目の前に欲するものがあれば手に入れる。邪魔があれば最悪は殺す。ただそれだけの人生だった。ではそれに名前を付けるのならいったい何であるというのか、少なくともしあわせなどというご大層なものではないとしか思えない。
 そんな体たらくだったから、ワーミンは、ここに幸せというものが見つけられないのなら、というくだりを胸に刻んで、それならば外へ行くしかないと発想していた。望むものがなければそんな土地には用がない。すぐに引き払ってしまう。少し前まではそうしてきた。
 では肝心の幸せがいったいどこにあるのか。それがまるで分からないのである。
 ただ、感じる。私の幸せがここにあると言い張るラワーフィの言葉は間違いであると。そう言い切ることこそが実に哀れであると。幸せそうに微笑むラワーフィを見て、ワーミンは自分の胸に重い憐憫を抱かずにはいられないのだった。
 彼女は何も知らないだけなのだ。頭をおかしくしてからずっとこんなところで一人だったから、たくさんの知識や教養があっても、体に刻み込む経験としては何もない。彼女は、ラワーフィは、誰も近付かない世界の一番奥で、たった独りでお人形さん遊びをしている哀れな少女なのだ。
「…………。」
 しばらく沈黙を守っていたワーミンはやっと口を開いた。突然の思いつきなどではない。ずっと心のうちにあった決意を今このときやっと形にしただけだった。
「ここを出ようと思うんだ。」
 その瞬間にラワーフィが空の底から地の果てまで絶望したということが、彼女の反応を見ると同時にワーミンには分かった。話を最後まで聞けよと心中で舌打ちしつつ焦りながら、ワーミンは続ける。
「…だから、その。なあ。ラワーフィ。」
 ラワーフィは何かに縋るようにワーミンを見た。彼は整理できない心の中から必死に言葉を探そうとする。
「ええと。その。」
 それが中々見つからなかったのは、そもそも探す場所が間違っていたからだった。下手に気を遣って飾り立てようとしていたからだ。本当はその必要はなくて、答えはこんなにも近くにあったのだ。
「…一緒に来ねえか。」
 最初の一瞬は、ラワーフィは言葉の意味が飲み込めないみたいだった。しかしそれも一瞬で終わり、次第に彼女の頬が紅潮する。嬉しそうに、本当に嬉しそうに、そして幸せそうにラワーフィは笑う。そして何度も何度も頷いた、目の端に涙すら浮かべて。
「(…あーあ。バカじゃねーの。そんなに喜ぶことじゃねぇだろ。自分を一回犯した男だぞ、そんな奴とよく旅する気になれるな。)」
 ラワーフィが快諾することをよく分かっていて、何もかも承知で誘ったのは自分であるのだが。嬉し涙を前に自身も似たような気持ちになりながらも、自分を皮肉らずにはおれなかった。
 それでも、言葉にすると尚更、これでよかったのだと思う。
 ここでの暮らしは平和そのものだ。何かを傷つけ何かに傷つけられることもなく、日々の変わらない時間の中にちょっとした変化を見つけて笑うことが可能である。
 だが、ここでずっとこうしていることは、狂気の沙汰としか思えなかった。ラワーフィがそれでいいと言ったとしても、それはただ、他に何も知らないからである。確かにワーミンは何も考えない男だし何も知らないが、彼女より広い世界を見てきてはいる。たった独りのお人形さん遊びが楽しかった少女は、偶然にも真新しいおもちゃを見つけた。それが他でもないワーミンだったのだが、それがいったい何であろうとも、新しいものは無垢な世界には劇的な刺激なのである。無知な少女が魅せられないはずがない。
 だから、ワーミンは、外へ出ようと思った。自身の幸せ、あるべき姿の所在が分からないのなら、自分の足で探せばいいと判断したためだ。これまでにそうしてきたのだから、これからだってそうすればいい。
 そしてこの、幸せを知らないかわいそうな少女が本当の幸せとやらでも見つけてくれたらいいな、と、心の隅で願うのだった。
 それが自分自身のそれに擦り替わっているということに、彼は一生気付かない。