どうしよう忘れてた。




 とてつもなく焦り始める脳内を馬鹿にするかように、そんなフレーズが突然浮かぶ。ザルバッグは自身の正当性を取り戻すために頭を左右に振りたくった。
「……何してるのよ。」
「!」
 すると突然、背後から声をかけられる。普段ならその気配で無意識的にでも他人の存在には気付いているはずなのだが、どうにもこのときはそれができていなかったようで、みっともなくも肩をびくりと震わせて恐る恐る振り返ってしまった。
 部下だ。ただの部下だ。
「い、いや…あはは、なんでもない。」
 意味の全くない3文字が言葉の途中に乱入してくる。話した自身でさえ意味が全くわからない。
 しかし呆れに目を細める部下の戦士の女性、シェルディは、やはり呆れたような表情を変えることはせずに、けれども幸いにもただそれだけでその場に立っていた。
「あ、そ。相変わらずなのね。」
 厳しい言葉は相変わらずである。もう慣れた。だから冷や汗で風邪を引いてしまいそうな心理状態でも、平気だ。
「で、何してるの。」
 そして目ざとく様子の変化に気付くことができるのも相変わらずだった。もう慣れた。だから冷や汗で風邪を引いてしまいそうな心理状態でも、……いや、そんな様子だったから、怪しまれるのは当然か。
 ザルバッグは諦めたようにため息をついて(ここでどんなに言い逃れをしたところで、意味がないことはもう既に知っている)、事情の説明を始めた。
「忘れていたんだ。すっかり。」
「何を?」
「…今日は何日だ?」
「天蝎の月、1日。」
「…………。」
 言葉にすればする程自身が情けない。ザルバッグは肝心のことを言うまでに至ることができずに、頭を抱えてため息をついた。
 そんな様子に腹を立てることもせず、シェルディは毅然として言葉の続きを待っている。
「………忘れていたんだ…。」
 もう一度繰り返す。
「いったい、何を?ハロウィンの催しはまだ先よ?」
「…お前は覚えていないのか…?」
 言うべきことを言うに言えず、ザルバッグはこの際シェルディに自分から気付いてもらうことにした。早く思い出してくれることを祈って、それとなくほのめかす。
 シェルディは細い指を口元に当てて、うーんと唸って考えるそぶりを見せる。
「…日付に関係すること、なのよね。何かの記念日?」
 こくこく。言葉はなしに頷く。
「国民の休日……なんて、今は関係がないことだし………――ごめんなさい、わからないわ。」
 シェルディの言葉の隙間に頷きを突っ込んでいたザルバッグは、最後の五文字に完全に打ちのめされてしまった。
「……兄上の誕生日…」
 涙目で呟く。ああ、できればこんなこと、自分の口から言葉にしたくなかった。
 シェルディは一瞬だけきょとんとした後、案の定、口を大きく「あ」の形に開けて、慌ててその前に片手を添えて隠す。心底驚いている。
 肉親である自分が忘れていたくらいだ。その部下である彼女が覚えているはずもない。
 そう判断したザルバッグは情けないながらも、少しだけ安堵してしまった。
 しかしそのすぐ後の、シェルディの発言。それによって安直な判断は覆されることとなる。
「ちょっと、あなた……。まさか、他でもないあなた自身が、ダイスダーグ卿の誕生日を忘れていたって言うの!?」
 ザルバッグは今度こそ完全に打ちのめされてしまった。さすがは戦士、肉弾攻撃を得意とする者だ。言葉から既に凶器である。








「…呆れた……卿の誕生日くらい、私だって覚えてるわよ。まさかあなたが忘れていたなんて…驚いた……」
「全くだ。自分でも、そう思う。間抜けな自分に腹が立つ。」
「ま、あなたらしいって言えばあなたらしい、か。最近は慌しかったものね、無理もないわ。…それに、当日にでも、思い出せてよかったじゃない。誕生日を祝う気持ちがあるのなら、手遅れではないわ。」
 シェルディはそう言って笑った。彼女にしてみれば3つ上のザルバッグに対して、まるで母親みたいな笑い方だ。
「…そうは思うんだが、今更何ができる?残念ながらオレには、兄上に何をして差し上げたらいいのか皆目見当もつかないんだよ。」
 全く、今のザルバッグを悩ませている原因といえば、正にそれだった。何をして差し上げたらいいのか、わからない。
 弟として、本当に情けないことだった。数少ない、大切な血縁者、そして尊敬すべき人が何を求めているのか、その人のために何をすればいいのか、そんな判断もつかないなんて。
 これが戦いの中だったら、自身が何をすべきか、自ずと見えてくる。
 しかし、兄上への生誕祝となると……これが、全く、何も浮かんでこないのだった。いっそのこと、あのやかましい魔道士にレビテトでもかけてもらいたいくらいである。
「そういえば、卿の生誕パーティはいつ行われるの?話をとんと聞かないけれど。」
「いや、兄上のものは開催されないんだ。元々そういった催し物が苦手な人でな。」
「なるほど。」
 シェルディは納得したふうに頷いた。そして今度はその暗い色の瞳でザルバッグをきっと睨んで、毅然とした態度で告げる。
「…いい?これは、あくまでも、“私の”意見よ。それを履き違えないで聞いてちょうだい。
 私はあなたに何かを助言することはできない。だってこれは、あなたが卿の生誕を祝うってことだから。きっと今、私があなたに何か提案をしても、この状況の中ではあなたはきっとただ真似をしてしまう。“あなた”の誕生日祝にはならないわ。
 …今日という日が終わるまで、後数時間。その間に、しっかり考えて、そして“あなた”自身の方法で、卿を祝って差し上げなさい。」
「…………。」
 ザルバッグはすっかり意気消沈してしまった。まさかここまで突き放されるとは思っていなかったのだ。
 いちいち面倒見のいい彼女のことだから、今回もまたどこまでも関わってきてくれると思っていたのに。
「…でもね。」
 言葉が続く。
「あなたには卿の欲するものはわからないのかもしれない。でも、誕生日を祝うのは、品物じゃない。値段じゃない。時間じゃない。気持ちよ。
 あなたが必死に考えて、そして行動に移したその何かは、紛れも無く、卿のお誕生日祝だわ。
 気にすることなく、あなたの思うままにやればいいと思う。」
 シェルディは笑っていた。あの母親みたいな笑顔だ。今度も優しい。
 ザルバッグは頷いた。そうだ、部下に甘えているわけにはいかない。これは自分で考えなければいけないことなのだ。
「ありがとう。」
 ザルバッグはお礼を言って、そして部屋を出ようと歩き出した。兄の、ダイスダーグの誕生日を祝うために。
 その背中に言葉が届く。
「お構いなく。――これはあくまでも“私の”意見だってこと。それだけは忘れないでね。」








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