拠点はベスラ西。
 風は北西。北軍に都合の良いように吹いていた。
 しかし将軍であるザルバッグの元に入ってくる戦前の報告は、決して都合の良いものばかりではなかった。彼は逐一それを直接聞き、思案を巡らせ頭を悩ませた。
「雷神は?」
「はい、それが……」
 かねてより気にかけていたことを伝令の一人に尋ねると、伝令はすぐに言葉を濁してしまった。ザルバッグは追って尋ねる。
「どうした?」
「召喚士達の部隊に捜索させても、いったいどこにいるのか分からず、それを推測することもできないのです。
 さらに、南軍のほうでも何か怪しい動きがあるようでして……」
「…………。」
 ザルバッグは表情を険しくした。伝令を帰す。また別の伝令が来る。帰す。受け答える。悩む。考える。報告を受ける。報告をする。
 そんなことをしばらく繰り返していたら、その波がふいに途絶えた。周囲はしんと静まり返り、態勢が整うまでの待機時間が静かなものになる。
 岩場に腰掛けたウィリーが、何事か作業をする音だけが聞こえていた。
「カーティス。」
 ザルバッグはカーティスを呼び寄せる。彼はバンダナを頭に巻きながらとか、あくびをしながらとか、およそ戦場には似つかわしくない態度で呼び出しに応じた。
「なんでしょ、隊長。」
「出ろ。探って来い。」
 たった二言の指令にカーティスは二つ返事で頷いた。
「はい、りょーかい。」
 バンダナの結び目をきゅっときつくして、あくびを噛み殺してその場から立ち去る。姿はすぐに見えなくなった。
 まだ次の報告は入って来ない。またその場が静かになる。
 ウィリーが弓に矢をつがえて射る真似事をするのを、シェルディが感心したように見ていた。エバンナが吹く風の臭いを感じ取り、眉間にしわを寄せていた。本来ならばここに居るべきもう一人は、まだ合流できていなかった。
 落ち着かない様子で立っているザルバッグに、シェルディが声をかけた。
「ザルバッグ。あなたも少しは気を楽にしたら? まだ少し時間がある。それまで身を休めていてもいいはずよ。」
「オレはいい。そうしたいなら、お前がそうすればいい。」
「………私は、いいのよ。」
 シェルディはまだ言いたいことがあるようだった。「私はいいのよ」そう言ってからしばらくその続きを口内で転がすようだったが、ザルバッグが何も言わないでいると、しまいにはそれも飲み込んでしまった。
 変わりに彼女は別の言葉を用意する。
「あなたにとっては、久しぶりの前線になるのね。」
「そうだな。」
「腕がなまっていないか、私が確かめてあげましょうか?」
「いや、いい。」
 シェルディは表情を苦いものにした。ザルバッグは幸いにもすぐにそれに気が付いたので、慌てて言葉を付け足した。
「当然、剣の稽古は毎日欠かさなかったからな。おまえに負けない自信はある。何なら試してみるか? 準備が整うまで、だなどと言っていられないくらい、白熱してしまうだろうが。」
「…………。」
 取り繕うように言うザルバッグを、シェルディはうさんくさそうに見る。だがその目には底の知れない感情が込められていた。怒り、悲しみ、哀れみ。ザルバッグに列挙することができるのはその程度のものである。
「……いいわ。実際そのときになれば分かるもの。」
 そう言うと、シェルディはさっと長い髪を翻して立ち去ってしまった。今はナイフで体術の訓練をしているウィリーのところへ行って、それを見学する。しばらくザルバッグが見ていると、彼女もそのうちに身体を動かし始めた。
 ザルバッグは溜息をついた。
 確執、というのでもない。そうまで言うには現実は小さすぎた。交わす言葉はいつもどおり、例年どおりである。ただザルバッグの心に何か、しこりのようなものがあるだけだ。
 それはいったいいつ頃からか。五十年戦争が終わったとき? 骸旅団が倒れたとき? 獅子戦争が始まったとき? 可能性はたくさんあり過ぎてひとつに絞ることはとうてい不可能だった。
 戦いの準備はまだ続く。また別の伝令がやって来て、ザルバッグにベスラ周辺の様子を伝えた。




 そこへカーティスが戻って来たのは、そろそろ出撃をしようという頃になってだった。誰もがその再登場に驚きを隠せない。
「いや、なんか、その、」
 カーティスは短い言葉を連ねて、最終的には右手に持っていたものを放り出す。それは正しくは「人」。彼は人を右手で引きずってつれて来ていた。
 カーティスに放り出されたナイトの男は既に動く力も失っているようで、力なく地面に横たわる。その瞬間に周囲の空気は凍りついた。
「道すがら、怪しい者を見つけたんで、つれて来たんだが。」
 マントに施された白獅子の紋章は、確かにその者が北天騎士団所属であることを示すものだ。一見すれば誰しも、北軍の者であれば彼を味方と、南軍の者であれば彼を敵と、何ら疑問なくみなすだろう。
 客観的に見れば、どのような所属の者であろうとも誰しもが、「味方を痛めつけてつれて来た」カーティスの所業を諌めるべき場面と予測するところを、その場に居た4人の意識は、寸分も違わずにある一点に向かった。
「その者は、いったい何者だ?」
 ザルバッグが尋ねる。カーティスはザルバッグに向かって歩きながら説明した。
「知らん。だが味方じゃないことは確かだ。俺の見たところでは、北天騎士団に成りすましてこっちに乗り込もうとしてる敵勢力ちなみに南軍じゃない。他にも何人か居たんだが、それらは取り逃しちまった。」
 ザルバッグ隊は互いに信じあっており、決して疑うことをしない。そのことを「北天騎士団の」ナイトの男は知っていた。だから彼は、カーティスが地面に横たわる彼の脇を通り過ぎる間際に、短剣を手に立ち上がった。動く力は残っていた。
「バカだな、そこまで俺が自分の力を信じてるワケねーだろ。」
 自身に向かって突き出された短剣付きの腕を、カーティスは半身だけ振り返って引く。
「がッ!」
 その腕をしっかりと抱え込んで、嫌な音が続く。男の手から短剣が落ちた。
「バカはおまえだ。つれて来るならきちんと動きを封じてからつれて来い。」
 その様子を正面に見据えて、ザルバッグは言った。眉間に少ししわが寄っていた。
 カーティスは応える。片腕に他人の腕を抱えたまま。
「しょうがないでしょーよ。気絶しちまったら困りますもん。」
「そうならないようにくらい、できるだろう。」
「難しいっす。少なくとも俺は、魔法も変な技も使えないただの人間なんで。」
「…………。」
 ザルバッグが沈黙する。その次に発言したのはカーティスではなく、彼の腕の中の腕の持ち主だった。
「……バカは、お前達全員だ…! こうも簡単に潜り込めるとはなッ!」
 勝ち誇ったように笑う、腕の中の腕の男。手にはもう力は入らないし、他の部位も思い通りには動かせない。しかし彼は高らかに叫んだ。「お前達、今だ!」
 途端にその場に人間が増える。5人。皆が皆白獅子の紋章を頂いていた。
 カーティスが驚いた様子で腕を離してやると、ナイトの男はふらつきながらも駆け出し、新たに現れた5人に合流した。そして言う。
「後を付けさせたのさっ! 北天騎士団になりすますことには成功したが、上層部の人間の居場所までは掴めなかったからな! 特務部隊の人間に見つかったのは予想外だったが……結果として勝利は我々に向いたということだ。ここならば助けは呼ばせない。
 ザルバッグ・ベオルブならびにその部下達の命、ここで貰い受けるッ!」
「…………。」
 ザルバッグを始めザルバッグ隊の5人が言葉を失う。ザルバッグは隊員達を振り返り、誰かその失った続きを言わないかと促したが、誰もが首を振るだけだったのでしかたなく、再度振り返って代表して言った。
「言葉を借りて繰り返すようで悪いが、バカはお前達全員だ。」
「は?」
「………つけさせた、のよ。」
 シェルディが溜息をつく。真っ先にザルバッグが、剣を抜き、走り出した。
 剣を大きく縦に振る。敵は避ける。そしていくつかの刃がザルバッグの背中を狙ったが、ひとつは剣に、ひとつは拳に、ひとつは矢に、それぞれ阻まれた。
 ザルバッグが雄叫びをあげて剣を再度薙ぎ、迫力と剣そのものに圧されて敵の陣形が崩れる。そしてエバンナ、シェルディ、ウィリー、カーティス、ザルバッグ隊隊員がそれぞれ走り出し、一人ひとりが敵と応戦した。
 この程度の敵は敵ではないと、誰もが思っていた。実際戦闘はこちら側に有利に進んだ。
 けれども事態は変化した。風の臭いの変化が、ついに誰にも明確に分かるほどになった。
「!?」
「そろそろか……」
 敵の誰かが呟いて、それと同時にどこかで誰かが膝をつく音がする。ザルバッグの視界の端にエバンナと、彼女と対峙する敵の姿が映った。
「エバンナ!?」
 ザルバッグは素直にぎょっとする。一瞬だけ彼女を助けに行こうと思い動いたが、本人が首を振るのを見てすぐにやめた。
 エバンナが大丈夫と言うときは実際に大丈夫なときだ。だから誰も助けに行かずに自分の戦いに集中した。
 しかしザルバッグの見ている前で、味方の動きが目に見えて鈍くなっていく。特にそれが顕著だったのがエバンナで、だから彼女は一度膝をついたのだ。
 風の臭いが変わった。おそらく今大気を流れる何かが、原因なのだろう。
 ザルバッグは剣を振った。相手のそれと打ち合わされる。ぎりぎりと交錯して動かなくなる。
 悪い状況をもどかしく思いながら、ザルバッグは歯を食い縛って剣を持つ手に力を込める。するとそんな彼を見てか、目と鼻の先の敵の顔がにやりと笑った。
「我々の目的を忘れたか?」
 敵はそう言った。ザルバッグが、そのたった一言からあらゆる危険の可能性を頭に浮かべるのは一瞬の出来事だった。
 判断は速くなければならない。彼は押し合うのを中止し、剣を弾く。間髪居れずに剣を振り、敵との距離を取り、エバンナに指示を出した。
「エバンナ! ここはいい、お前は兄上達を探せッ!」
 エバンナはためらわずに了承した。そしてマントを翻して踵を返し、駆け出す。背中を追う者は、シェルディが引き止める。
 おかげで味方が一人減った。負担が増える。苦い気持ちで剣を振る。
 しかしそのとき味方が一人増えた。いつもの速さで狭い歩幅で歩いて来ていた少女然とした魔道士は、現在進行形で皆が必死に戦うすぐ傍に立つと、あらんばかりの大声で叫んだ。
「待てっ!!」
 魔法の呪文を紡ぎ出し炎や氷や雷を呼び出す口は大気を震わせ、その場に居た全ての者の動きを止める。そう、彼女の味方のザルバッグ達だけでなく、敵である襲撃者達さえも。
「クィン……?」
「待っていなさい。止まっていなさい。動いたら怒る。」
 クィンは誰にともなくそう言うと、つかつかと歩いて進み出て、一番近くに居たザルバッグの目の前に立った。
「クィ……」
 そして戸惑うザルバッグの口に何かを突っ込む。それはそれは良い勢いで張り手をした。
 何か錠剤のようなものだ。「噛まずに飲み込んで。」言われたとおりに噛まずに飲み下す。
「みんなも。モスフングスの毒はこれで中和できるから。」
 言いながらクィンは、ザルバッグに飲ませたものと同様の薬を仲間達にせっせと渡していった。渡された全員が全員不思議そうな顔をして、それでも全員が全員、クィンの言うとおりにして服用する。
 最後に薬を手渡されたウィリーが、それを飲む。その段階になってやっと、襲撃者達の一人が動き出した。
「いったいどういうつもりだっ!? それは我々の飲んだものと同じ――飲めば毒が中和されてしまう。」
「それわたしが今説明したのとほとんど同じだよね。繰り返さなくてもいいよ。」
「質問に答えろ!」
 クィンは激昂する男を無表情に見た。赤い目が冷たく細められている。冷ややかな表情のままその口が動いて、「ファイガ。」告げられた魔法が発動した。たった一人に標的を絞って濃縮された火炎魔法が、標的にされた男の肉体を骨も残さず焼き尽くす。
 一人が死んで、止まっていた全てがやっと動き出した。常時の動きを取り戻したザルバッグ達は、味方が一人増えたことと目に見えて敵の動きが悪くなったことを武器に、先程までよりずっと簡単に敵を倒す。
「一人は殺すな。話を聞きたい。」
 しかし、ザルバッグがそう言うのと、クィンが最後の一人にファイガを撃つのとはほぼ同時だった。
「あっ…」
 クィンが、まるで取ろうとした皿を誤って落としてしまったときのような反応をする。そのおかげで威力の弱められた魔法は、男を即死には至らせなかった。
「……クィン…ど…」
 彼は死ぬ間際に自らを死に至らしめた女性の名を呼びかけ、息絶える。その場に気まずい沈黙が流れ始めた。
「……クィン…」
 ウィリーが何もかもが飲み込めない様子で呟く。クィンは彼に目を向けた。冷たくはないが赤はいつもとは違った色を湛えていた。
「よくやったな、クィン。」
 しかしザルバッグはいつものように言った。
「お前が来なかったらオレ達はもっと苦戦を強いられていただろう。お前のおかげだ。」
 クィンの表情がぱっと明るくなる。いつもの表情だ。
「そうね、クィン。ありがとう。悔しいけど助けられちゃった。」
「まったく、早く来いっての。のんびりしてやがって。」
「なんですって!?」
 カーティスのいつもの軽口に、クィンが怒って声を荒くする。そしてそのまま杖でカーティスに殴りかかろうとしたところで、彼女は気付いたようにはたと固まった。「そうだっ」
「のんびりはしてられないの! わたし行かなくちゃ……」
 のんびり、していられないのは事実だった。ザルバッグもすぐに気持ちを切り換える。
 突然の襲撃者、陣地に漂い始めた風。おそらく騎士団員は皆混乱に陥っているだろう。
 クィンがきょろきょろと辺りを見回してから走り出そうとするのに、ザルバッグは声をかける。
「クィン、戻るなら早めにしろよ!」
「あいあいさっ! 急ぐからねっ!」
「ちょっと、クィン!」
 ヘイストでもかけているのだろうか、クィンはとんでもない速さで迷いなく駆け出してしまった。それを追おうとするウィリーには迷いしかないのだから、追いつけるはずがない。
「クィン……いったいどういうつもりなんだ。」
「…知らないけど、今はあの子をどうこうしている暇はないわ。私達を助けてくれたのは事実なんだから、放っておきましょう。」
 そう言うシェルディは実に思い切りがよかった。あれこれ事前に気を回していたというのに、いざとなったらこれである。ウィリーは全くその逆だ。
 ザルバッグは仲間達を見回して、努めて冷静に指示を出した。
「オレはエバンナを追う。ウィリーとシェルディは皆の様子を見て来てくれ。カーティスは戦場の偵察だ。我らがこのような状態であるというのに、南軍が攻めてこないのはおかしい。あちらでも何かが起きているはずだ。すぐにオレに報告するように。」
「了解。」
「了解。」
「了解です。」
 三者が三様に頷く。そしてザルバッグ自身も走り出した。