ラーグ公のいると思われる所に急ぐ。
 未だ毒霧の充満する中を走っていても、身体の不良はもう感じなかった。クィンから飲まされた薬が効いているのだと分かる。どうやらあれには、そもそも毒を予防する効果すらあるらしかった。
 最も体調不良を訴えていたエバンナの分を貰い損ねたのは痛かったが、モスフングスの毒は致死性は低い。最悪の事態にだけはならないはずだ。
 道すがら、毒に苦しむ仲間を何度も見つける。その度にザルバッグは、彼らに声をかけて肩を叩いた。
 目的の人だけが見つからない状況の中、まさか起こってほしくはないことが起こってしまったのではないかと心だけが焦る。目が、せわしなくあたりを見回す。何人もの仲間を目が捉えて、最終的にそれは、片膝をついてうずくまる金髪の女騎士に向いた。
「エバンナ!」
 探していた第二の人物である。エバンナは顔を上げてザルバッグの呼びかけに応えた。
 ザルバッグはそちらに駆け寄る。
「大丈夫か! しっかりするんだッ!!」
 エバンナは二度、苦しそうに咳き込んだ。そして言った。
「だ…大丈夫です……。」
 その、ただ弱々しい声を聞いて、ザルバッグは事態の非常に切迫していることを思い知る。
 そして、心配することすら許そうとしない部下を怒鳴りつけたい衝動を必死に抑えた。その口から出てくるのは、低く捻り出すような声。
「症状はどうだ? 呼吸は苦しくないか?」
「…頭が痛い…だけ……です。」
 それからエバンナは浅く長い呼吸を繰り返して、ついには倒れてしまった。
「おいッ、しっかりしろッ!」
 ここにきてザルバッグの焦りはいっきょに膨れ上がった。思わず喚いて、具合が悪くて倒れた部下の身体を揺さぶる。それは何にもならない。
 ザルバッグは焦った。意識無意識関係なく信頼していた部下が倒れた。
 助けなければ。そんな意識が生まれる。仲間を助けなければ。
 では、そのための手段は? すぐにクィン探し出して、あの薬を受け取ればいい。見つからなければ、ウィリーに任せればいい。彼ならたとえほんの少しでも毒を緩和する方法を知っているはずだ。
 ザルバッグは起こすためではなく、抱き上げるためにエバンナに触れた。そしてそのとき、
「モスフングスの胞子から抽出した毒を空気中に散布したのだ…。」
 このとき、ちょうど彼の兄ダイスダーグが姿を現したのは実に幸いなことだった。そのおかげで彼は当初の目的、彼の上司を捜索するということを、たった一瞬失念するだけで済んだのだ。
 ザルバッグの手は何ら迷いなくエバンナを放した。そして、彼は兄の元へと駆け寄った。
「兄上ッ!」
 ダイスダーグも毒に身体を蝕まれているらしい。顔色は悪く声にも覇気がない。ザルバッグは彼を心配した。
「心配するな、私は大丈夫だ…。」
 ザルバッグは兄を心配することをやめた。そして黙って兄に肩を貸そうとしたが、本人に断られた。ダイスダーグは自身の足で立つ。
「それより閣下はどこだ…?」
「先程から捜しているのですが…」
 見回しても、見つかるのは、いたる所に横たわる騎士達の姿。ザルバッグは焦ったが、どこか冷静で落ち着いた気持ちでラーグ公を捜した。
「…ここだ、ザルバッグ……ダイスダーグ…」
 声が聞こえたのでザルバッグは駆け寄った。小高い丘の上、もはや石の屑と化した砦のなれの果てが転がる荒れた地点にラーグ公はいた。
 彼も毒に侵されているらしい。
「閣下、大丈夫ですか!!」
 そう言って、ザルバッグは誰も動く者のいない周囲を見回した。そして累々と横たわる者達に向けて叫ぶ。
「誰かッ! 薬師を呼べッ!!」
 当然、動く者はいない。ザルバッグは特に落胆はせずに、再度ラーグ公に振り返った。ちょうどそのときが、ダイスダーグがラーグ公の前に膝をつくところだった。
 ダイスダーグはラーグ公に語りかける。彼自身毒に苛まれているのが現状だったために、その声もどこかひ弱なものだった。
「…ご気分はいかがですか?」
「…頭が割れそうだ。胸がムカムカする……。」
 ザルバッグは2人のやりとりを立って見守る。
「だが、大丈夫だ……。しばらくすれば…、気分もよくなるだろう……。」
「…それでは困るのですよ。」
 ダイスダーグは言った。ラーグ公はその言葉にちらりと目を上げ、ダイスダーグを見た。
「…なに?」
 ダイスダーグは、目の前の男の腰から短剣を引き抜く。すぐにそれを持ち主に刺した。
 急所を刺された男が悲痛な声をあげる。実際に刃は男の心臓を貫いているらしかった。刺されたところから血が出ていた。
「……な、…なんのマネだ?」
「兄上ッ!!」
 刃が人体にいっそう深く差し込まれるのと、ザルバッグが声をあげるのとは同時だった。
 しかしザルバッグがそこで何をするでもない。ただ刃の肉を抉り、ラーグ公が苦しみ喘ぐのを見守るだけだった。それというのも、
「騒ぐな、ザルバッグ!」
 兄ダイスダーグがそのように指示したからである。ただ見守るザルバッグは、ラーグ公が呻くように言うのを確かに聞いた。
「き…貴様……、裏切るつもりか……? バルバネスを殺したのは……ベオルブ家の……家督を………継ぐ…ためだけでなく……
 こ…この私を………」
 事切れた。
 あとには死体と兄弟が残される。
 現在のダイスダーグには、人ひとりを刺し殺すのも大変な重労働だったらしい。短剣を人の胸から引き抜き、事を終えてしばらくも肩で息をしてた。
 ザルバッグはその場に立ち尽くした。騒ぐな。兄がそう指示したから、彼は静かに兄に質問した。
「兄上……、まさか、この『毒』も兄上が……?」
 ダイスダーグが息を調えているあいだ、ザルバッグは黙って待っていた。はあ、はあ、とまるで野生の獣か何かのような呼吸音だけがしばらく辺りに満ちて、それから、ダイスダーグは背筋をゆっくりと伸ばし、直立し、ザルバッグの質問に答えた。
「……私ではない。ベオルブが表舞台に立つことを望む協力者たちの仕業だ……」
 その説明は不思議とザルバッグの心にぴたりと収まった。それでももちろん彼の中には謎しか残らない。わからないことは多すぎる。だがそれこそが今のこの状況には似つかわしい。彼にはそんな気がしたかもしれなかった。
 また尋ねる。
「なぜ、このようなことを…!」
「ラーグ公は戦死された…。その意思を我々ベオルブが継ぐのだ…。」
「しかし…、このような謀略が…。」
 全ての言葉を最後まで言い切ることができない。ザルバッグは相手に遮られたというのでもなく言葉の尻を消滅させる。
 ダイスダーグはザルバッグを見る。強い目だ。
「いいから、この短剣をその辺りに転がっている奴に握らせろ…そいつが、南天騎士団の放った刺客なのだ…。い…いいな……?」
 ダイスダーグは倒れた。しかし彼はモスフングスの毒で倒れたのだから、今すぐどうこうということはない。しかしダイスダーグは倒れた。声をかけても応えてくれなくなった。
「兄上ッ!!」
 そしてザルバッグは考えねばならなくなった。上司は息絶え兄は倒れた。ザルバッグだけがこの場に立っている。流れる血が足下までやってくる。
 「言われたとおりに」ザルバッグは、ダイスダーグが意識と共に手放した短剣を手に取った。持ち手は生温かく、刃は先端からべったりと血溜まりを被っていた。人の血だ。
 この剣を、「その辺りに転がっている奴ら」、「南天騎士団の放った刺客」に、持たせる。兄の指示はこうだ。
 ザルバッグはその人、倒れているダイスダーグを見やった。演技でも何でもなく本当に倒れているようで、顔は青白く呼吸は浅い。
 浅く短く繰り返される兄の呼吸に、ザルバッグのものが重なった。はっ、はっ。ザルバッグは自分でもそうと分からないほどに焦っていたし戸惑っていた。
 その行動は意識か無意識か。ザルバッグは握った短剣をまるで初心者がそうするように不格好に構え、ダイスダーグを見下ろした。たった今仕えるべき主を謀り殺めた反逆の徒を。
 はっ、はっ。耳元で聞こえる呼吸の音はそれこそ野獣のもののようだ。ザルバッグは短剣を振りかぶった。そして相手を見据えて、その短剣を、
 ダイスダーグに向けて振り下ろし、彼を殺める前に、ザルバッグは我に返った。短剣が彼の手から滑り落ちて、がらんがらんと石の床を鳴らす。
 ザルバッグは立っていられなくなって膝をついた。先程からずっと笑いっぱなしだった膝が、それでもまだ力が入らずにがくがくと震える。床についた手も。肩も。唇も。可能な限りの全ての身体の部位が何かの感情によって震えた。
 何をするべきなのか、何かをするべきなのか。
 もしもこのとき彼に強い心があったのならば、それでも兄ダイスダーグを疑わないでい続けることができたろうに。兄のすることは決して間違っていない。兄を疑わない自身を疑わないでい続けることができたろうに。
 不幸なことに、そんな力はもう彼にはなかった。理由は至る所に転がっていたが、最も大きなものは彼の弟の発言である。ただ彼にはもはやそれを反芻するだけの余裕すら残されておらず、ただ、どうすることもできずにその場で固まった。
 この日彼の信念は死んだ。疑わないでい続けることを強みにしていた者が、たった刹那でもそれをしてしまったらいとも弱い。簡単に崩れてしまう。
 しきりに床に、床についた彼の手元に視線を注ぐザルバッグは、その手が流れてきた死者の血に触れるのを見た。それはもうただの赤い液体だった。冷たい。
 そしてそれと同時に彼は、自身の背後に足音が迫って来たのを感じた。その気配は彼のすぐ後ろで立ち止まり、無音で、彼に剣を向けた。