私はミルフデット家の第一子として生まれた。母は中々第二子を身ごもらなかった。私は次期当主の看板を背負ったまま大きくなった。いつかその看板を弟に明け渡すために日々自身を磨いた。
 ミルフデットはイグーロスに古くから存在する貴族の家系である。古いながらに伝統と威厳はあるようで、その長女として生まれた私も当然、その名に恥じぬような立ち振る舞いを求められた。
 そう、それは当然だった。ミルフデットという名を頂くことと、剣や教養を身につけ騎士として名を立て立身出世することは同義だった。ミルフデットの女は何もかもができなくてはならなかった。騎士の家系として武術はもちろん、女性としての知識教養礼儀は、自身のものとして備えるべき技能だった。
 だから疑問はなかった。苦痛もなかった。
 私はアカデミーへ入学した。成績は常に首席を保ち、そうあるべき模範生として私は学生生活を送った。
 彼に出会ったのは、入学から2年経ってのことである。ベオルブ家次男は私より2つも年下だったのかと、そこで初めて自覚した。
 背丈は同じくらい。体格はあちらのほうが良い。精悍な顔つきや真面目な風貌は見る者に好印象を与えた。
 私はあるとき、業後に一人でひそかに剣の練習をする彼の姿を発見した。私も同じことをしていたために見つけた。
 そのとき私は、その姿を、馬鹿馬鹿しく思いながら見つめた。
 そう、私の彼を見る目線は、いわゆる、蔑みに近いものだったのだ。
 砂にまみれて汗を流して汚い姿になりながら、必死になって剣を振る。そのときの私にとってその姿は、身も蓋もない言い方をすれば、実に滑稽に映った。幼少期の私はずいぶんをひねくれた性質をしていたものだと今では思う。
 果たして彼が何のために剣を振っているのか、その理由は私には分かりっこなかったというのに。外面的なものだけをもって私は彼を見つめた。ただ純粋に、馬鹿だと感じた。そんな努力は全くの無意味であると思った。
 私がはっとそれに気付かされたのは、しばらく経ってからのことだった。意味があるのかないのかも分からない素振りをずっと続けている彼を見続けてずっと棒立ちになっていたために、いつのまにか何もしなくなった私の足が少し疲れてくたびれた頃だった。私はしばらくしてから気が付いた。私の彼を見る目は、全て私自身に向いていたのだということに。
 私は誰よりも、私自身を、馬鹿だと思っていたのだ。私は本来は利己的な人間だ。他よりも自の利益を優先し、全ての理由を自分に根付かせて生きてきた。――「ミルフデットのため」、その理由に続けて。
 家のため。名前のため。血筋のため。それらのために自分を殺して盲目的に徹することの、いったい何と愚かなことだったろう。
 私はただ一心に剣の練習をする――もしかしたら彼は、何も考えていないのかもしれない。家のために自身を殺しているのかもしれない。夢を持っていないのかもしれない。ただ強くなりたいだけなのかもしれない――彼を見た。そして思った。
 誰のためでもなく、何のためでもなく、ただ自身を磨き上げるその目的だけを胸に、盲目的になりたいものだと。


 ザルバッグ・ベオルブは剣を持つ手に違和感を抱き、片方の手の平を自分に向けた。そして顔をしかめた。
 しばらく躊躇するように首を振った後、彼は両手で剣を握り直す。だがすぐにうっと呻いて剣を離した。
 私はそれを見て、今自分は何か手に巻けるようなものを持ってはいなかったかと身の回りを探す。ポケットにハンカチがあった。
 ザルバッグ・ベオルブに視認できる位置に立ち、それを差し出して言う。これをどうそ。
 彼はまだ純粋な顔に怪訝そうな色を浮かべた。
「…………あなたは…?」
「貴方と同じ候補生ですわ、ザルバッグ様。」




 だから私は自ら望んであの人の部下になったのだ。
 私は彼より2年早く卒業し、士官になった。部下は気の良い者ばかりで、不満のない日々を送った。
 しかし私は、迷わず名乗りをあげたのだ。彼が身分を問わず部下を募ると聞いて、いてもたってもいられなくなった。
 何の因果かスウィージの森で力を合わせることとなったとき、私は実は、この上なく嬉しかったのだ。ずっと見つめていた……まるで恋でもしていたかのように、熱いまなざしを向けていた相手と、直に手を組んで戦うことができる。未だかつて、私の心をあんなにも動かしたことがあっただろうか!
 私はこのとき、彼が私の予想に収まる程度の人物ではないことを知った。私が勝手にしていた想像はことごとくぶち壊され、彼本来の姿が私の前に晒け出された。
 けれどもそれがいったい何だというのだ。私が見続けてきた彼の本質は何ら変わっていない。不安定でかんしゃくを起こしやすい性格や、当時の場慣れしていない様子なんて、どうでもよかった。
 私はザルバッグ隊長のことを好いていて、彼の下で戦いたかったから、自ら望んであの人の部下になったのだ。理由はたったそれだけだ。
 ずっと家のために生きてきた私の人生の、私の初めての、私自身のためだけの望み。それが、ザルバッグ隊長の下で剣を振るうこと。
 そのためなら何もいらない。そう、いらないのだ! 喜びも悲しみも憎しみも痛みも意地もプライドも当主の座も。
 命だっていらない。だから、動け、私の身体。今動かなくていつ動く。今死ななくていつ死ぬ。
 私が動かなければ。私が。他に誰が、あの人を押してやれる。
「…………。」
 私は腕で身体を支えて起こした。重力がこんなに重く感じられたのは実に久しぶりのことだ。そのようにして、本題には関係ない思考を挟む余地を意識に生み出す。
 呼吸が苦しいために、何度も咳き込む。誰にもこんな姿は見せられない。けれども私は歩ける。震える足でも歩くことはできる。だから私は歩いた。








「…………。」
 エバンナは、剣を向けてもびくともしないそれどころか本当に斬られてしまいそうなザルバッグを見て、目を細めた。
 剣を収める。音はしない。
 そしてエバンナはザルバッグを蹴った。足で頭を蹴り付けた。
 するとザルバッグは目を白黒させて振り返った。口を大きく開け閉めして何事か、主に、何だ突然お前はこんなときに!ということを口走った。要約すると、兄が主人暗殺をしでかしてショックを受けているときに、水を差すなということを述べた。
 エバンナはここでいつものようにしれっと言ってやりたいところだったが、あいにくとそれだけの余裕は今の彼女にはなかった。顔面は蒼白なままで、放っておけば歯の根は合わなくなりそうだったし、そもそも立っていることが大変な重労働だった。
 ザルバッグもすぐにそれに気がついたのか、表情を元に戻す。
「お、おいエバンナ……」
 それはたとえるならまるで、両親を見失った子供のようだった。単なる迷子だ。
「ザルバッグ隊長……」
 ザルバッグとエバンナは、立って、向かい合う。時間がない。エバンナは急いだ。
「率直に申し上げます。その、短剣を、」
 示すのはその辺に転がる短剣だ。たった今ラーグ公を刺し殺した武器である。
 エバンナは知っていた。それはダイスダーグがザルバッグに、誰か人に預けろと命じたものだ。捨てろとは誰も言っていない。
 ザルバッグはエバンナの目線の動くのに合わせてその短剣を見やった。するとすぐに、慌てて、それをおぼつかない手つきで拾い上げた。
 エバンナはその様子を見届けてから言った。
「私にお渡し下さい。私がそれをお持ち致します。」
「何だって……!?」
「意味のないお返事はしなさらないで。私がそれを持つと言っているの。」
 エバンナは表情を、毒にだけではなくしかめた。彼女の苛立ちの表れだった。
 ぴしゃりと言い放って、それから、ところどころをどもったり、つっかえたり、ひっかけたりしながら、エバンナは言いたいことを言う。
「私がお持ち致します。貴方にはその剣を、捨てることも、誰かに持たせることもできない。私に、」
 ここで咳2つ。こらえることができなかった。気を取り直して言い直す。
「私にお任せ下さい。」
 そしてエバンナは手を伸ばした。ザルバッグの持つ短剣に、それを持つ手ごと触れる。驚いたように彼がその手を引いたので、彼女の手には短剣のみが残った。
 ザルバッグは何もなくなった手の平を見て、歯を噛み締めた。そして言った。その一方でエバンナは尚も冷静に対応する。
「だ、だめだ、それは」
「何か問題でも? 卿は、その辺に転がっている奴に持たせろと仰ったのでしょう。私も毒に侵され気を失っていた一人です。」
「そんなことをしたら、どうなるか分かっているのか!」
「ええもちろん。少なくとも今の貴方よりは。」
 そしてエバンナは逆に問い返した。
「貴方こそ現状を分かっておいでで? このようなところでのんびりしているわけにはいかないでしょう。」
「そうだ、オレは早く、皆を導かなければ……」
「仰る通りです。そのためにこれは邪魔なものでしょう。」
「そのナイフは!」
 ザルバッグが声をあげた。エバンナがその続きを待つ。ザルバッグはしばらく口をもごもごとさせて、少しの間ためらってから続きを吐き出した。
「そのナイフは、ラーグ公を殺めたものなのだ! それをお前が手にしていたら、他の者に何と言われるか。どんな疑いをかけられるか。そんなことはあってはならない、あってはならないんだ。
 そんなもの!」
 手が、エバンナの手から短剣を奪い取る。ザルバッグはその手を振り上げたが振り下ろすことはできなかった。先程のように取り落とすこともせずただ腕が固まる。ゆっくりと下がった。
 エバンナはその手から短剣を奪還した。やはり抵抗もされずにいとも簡単に手に入る。
 エバンナは言った。
「貴方には、その剣を捨てることも、誰かに持たせることもできない。自分を裏切ることも、誇りを捨てることもできない。自分を曲げないことも、誇りを疑わないこともできない。
 でも、それでいいんです。」
 エバンナは諭すように言った。
「できないことは、私が代わりに致します。私には、貴方のために何でもできますから。」
 エバンナは、まっすぐにザルバッグの目を見て言った。
「私に、貴方の誇りを預けて下さい。守らせて下さい。」
「…エバンナ……」
「貴方の誇りは大きくて、私が持つには重すぎるかもしれませんが、だからこそ。お手伝い致します。
 ですから、貴方は、立ち止…ま…らないで………」
 先程からずっと不安定だった視界がついに安定した。エバンナに見える世界は真っ暗になる。
 力が抜けて地面に崩れ落ちる。せめて最後まで言い切ろうともがくが、結局口からは空の息しか漏れない。それでも短剣を握る手は離さない。
 ザルバッグが心底心配そうに彼女の名前を呼ぶのを意識の最後で聞いて、エバンナは、率直に言えば少し残念だった。
 それとは裏腹に嬉しかった。そしてエバンナは思った。彼が、せめて死ぬときくらいまでには、自身のために戦えるようになればいいと。