「水門が開かれた。下流の村も含めてどこもかしこも水浸しだ。詳細は言うか?」
「いや、いい。いらない情報だ。それよりも、症状の出ている者……いや、症状の出ていない者は、どのくらいいる?」
「見る限り全滅だ。しかもこの風だと、あと半日は毒が消えないと思っていい。」
「進軍は無謀か……。」
「だろうな。おまけに戦場は水浸し。兵を進めるにも足場が危うい。
 だが、何もこちらばかりが不利な状況にあるわけじゃない。」
「と、言うと?」
「雷神シド、オルランドゥ公が死んだ。」
「!」
「細かいことは分からんが、雷神はオルランドゥ公を殺し、その場で何者かに殺されたらしい。結果あちらは大混乱だ。」
「…………。」
「どうする? こっちは、裏を返せば半日経って毒が消えれば、立て直すことも不可能ではない。幸いにも、アンタもダイスダーグ卿もご存命。毒による死者はゼロ。戦力自体は失っちゃいないんだ。
 けれどもあっちは、指導者に加え大切な将軍を失っている。相当混乱するから、今なら攻めてくることはないだろう。」
「…と、あちらも思っているだろうな。頭と腕が死んだだけで、まだ彼らには胴体も足も備わっている。」
「だよな。で、相手が攻めてこない今こそが、攻め入るチャンス。」
「……私が南軍の将ならば、あるいはそう思ったかもしれん。だが、」
「どうする?」
「ここは、退こう。戦いを続行するには不利な条件が多すぎる。相手側が方向性を取り戻す前に撤退だ。」
「了解。あ、それと、」
 カーティスは返した踵をまた返した。ザルバッグに向き直って言う。
「グレバドス教会から、こんなものが届いているんだが。」
「…………。」








 ラーグ公が死に、ダイスダーグが倒れた。こうして北天騎士団の命運は実質ザルバッグにかけられることとなる。
 ザルバッグは非常時には強い男だった。冷静に場を見、判断し、決断を下すことができる。彼が一声かければ、死んだ戦場も息を吹き返した。力の残る者がそうでない者を助け、看病し、徐々に騎士達は平時の状態を取り戻していった。その回復は一時の混乱を見ると、実に驚異的な速さだった。
 そうして、半日にはとうてい及ばない短い時間の経った後。ザルバッグ率いる北天騎士団はベスラより撤退した。目指すはルザリアだ。かつてオルランドゥ公が率いていた南天騎士団がやっと進むべき方向性を決めたとき、既にそこに敵の姿はなかった。
 敵の工作により陣地に毒が撒かれ、その混乱に乗じて総司令官が暗殺された。体勢を立て直すために撤退した。たったそれだけで説明が完了する状況が無事出来上がった。それはひとえにザルバッグの指導者としての手腕による功績である。
 けれども事実はそれとは異なる。当事者以外は本当は何が起こったのかを知らないし、本人以外は彼の心情を知り得ないのだった。




 ルザリア城執務室にて。ザルバッグはカーティスからの報告を聞いていた。
「南天の送り込んだ刺客というのが、ザルバッグ・ベオルブの副官ではないかという噂が流れている。」
「…………。」
「ま、当然の結果だろうな。どいつもこいつも疲れてやがんだ、何かしら理由がないとやってらんねえよ。」
 これで最後、と思われたベスラ戦線でも戦争は終わらなかった。各戦力はまだ十分に力を残しており、教会の調停にも当然のように応じなかった。
 ──戦争が長引いたのは、エバンナ・ミルフデットがラーグ公を暗殺したせいなのだ! 前代未聞の裏切りのせいなのだ! ──そんな声が、そこかしこであがっていた。
 現在エバンナに謹慎命令が下っているのはその結果だ。事の真偽は別として、彼女が今公の場に顔を出すのは問題である。
 「当然の結果だろうな」そんなカーティスの言葉に、ザルバッグは不愉快そうに顔をしかめる。
「こんなときなのに……こんなときだからこそ、か。」
 低く唸る。ねっとりとした、燃え上がるには熱の足りない憤りが彼の心を占めていた。そんな彼に対し、カーティスは今まで誰かがそうしてきたように、無表情にしれっと言った。
「噂は噂、今のところ実害はねーからほっておいてもいいんだが、ザルバッグ隊長。ひとつ気になることがある。
 火のないところに煙は立たない。何でこうも突然、副隊長が公を殺したって噂が広まるのか。公が死んだのを最初に発見したのは、アンタだそうだな。何かあったのか?」
「…お前は、エバンナを疑うつもりなのか!」
 無感情に言ったカーティスに対するザルバッグの返答がこれだった。彼は声を荒げた。
 カーティスは首を振る。
「いいや、そんなつもりは全くない。だが、噂の内容が内容なんでな。
 ラーグ公が死んでいるのを最初に発見したのはアンタ。そのアンタが、血に染まった短剣を手にした副隊長を見つけた。こっから先は知らない奴は知らないし、知っていてもさすがに信じきれてないようだが、…その血はラーグ公のもので、その短剣はラーグ公の胸を刺したもの。
 で、気になるんだ。何かあったのか?」
「……いい加減にしろ、カーティス!」
 ザルバッグは怒鳴った。信じるべき仲間を愚弄する相手への怒りがその目に現れて、油を得た炎はごうと燃え上がる。
 がたんと椅子を蹴立てて、彼はカーティスに掴みかかろうとした。が、しかしそれは実行はされない。ザルバッグはただ立ち上がるだけでそこに止まって、声だけが重く響く。
「言っていいことと悪いことがあるぞ。お前のその発言はあいつの名誉を汚しているも同然だ。たとえお前でも、無実のあいつを疑うようなことなど許さない。」
「疑うわけねえだろうが!!」
 声に声が重なった。さらにこちらは言った本人も足を踏み出して、相手へと詰め寄る。カーティスはザルバッグの胸元を引いて顔を寄せた。
 ザルバッグが腕で腕を跳ね除け、すぐにその体勢は解かれる。だがカーティスは表情に怒りを露わにして言った。
「疑うわけないだろ。仲間なんだぞ。俺が疑うのはアンタの気だぜ、ザルバッグ隊長。アンタがどうかしちまってんだ。」
「オレは何も変わりない。」
 カーティスはそれを聞かずに続ける。
「本当に疑うことをしたいのは、アンタ自身だ。アンタは本当は疑いたいんだ。そうだろ? なのにそれができないから、そうなっちまったんだ。」
 ザルバッグは再度反論しようと口を開く。しかしカーティスは先手を打ってそれをさせなかった。
「俺はただ、何があったのかを聞きたいだけなんだ。あったんだろう、アンタをそうさせる何かが。あのとき…アンタが一人になったとき。」
 相手の表情が一段と険しくなるが、カーティスは話し続ける。
「ダイスダーグ卿とラーグ公を探しに行ったアンタが背負って連れて帰って来たのは、毒に倒れたダイスダーグ卿と副隊長だけだった。この時点でラーグ公はもう死んでる。
 俺はアンタも副隊長も無実だってことを知っている。何が起きたか想像できないほどバカでもねえ。大方、……」
 しかしカーティスはこの続きだけは口にしなかった。少し言葉を溜めて、打ち消し、次に言うことを言う。
 ザルバッグはここで現れた間には言及することができなかった。カーティスは言った。
「……そういうわけだから、気になるんだよ。なあ、もう、隠すことはないだろ。」
「そこまで把握できているのなら、今更オレに尋ねることもあるまい。」
「ある。何があったんだ?」
「何もない。今お前が言った以上のことは。」
 ザルバッグは断言した。
 断言した後で、思い出す。問題にされている当時の出来事を。しかし、事実、何もなかった。カーティスが問題にするようなことは、確かになかった。
 なかったのだ。それなのにカーティスはまた声を張り上げた。
「本当に何もなかったんなら、アンタがそんなに迷うはずがねえ!
 今までのアンタだったら、アンタの言うようなことが起きたって、平気で見て見ぬふりをすることができたはずだ! アンタは大義のためにいろんなものを捨てられたはずだ。
 何もない、だって? あくまでもそう言い張るつもりなら、さっさと次の予定を決めろや。できるはずだろう。常勝無敗の聖将軍、ザルバッグ・ベオルブになら。」
 ベオルブになら。最後のフレーズが頭に残る。ザルバッグの中を延々とエコーする。しかしそれも徐々に小さくなって消えた。
 それだけに足りる間があった後、カーティスは何らためらわずに顔を背けた。身体を反転させて、部屋の入り口まで歩く。
 足音が扉まで続いて止まる。カーティスは振り返らずに言った。
「……指示を待ってるぜ。俺も、俺以外の奴らも、みんなアンタを頼りにしてる。
 それから、俺は何だってやる。アンタにできないことが、俺の仕事だ。」
 ここで少しだけ空白があった。ザルバッグには表情の見えないカーティスは、視線を上げるように、頭をわずかに傾ける。
「そうだろ?」
「…………。」
 カーティスはザルバッグの返答を聞かずに出て行った。結果としてカーティスは、始終ザルバッグの返事を待たなかったことになる。
 しかしザルバッグは、このとき、どこかで確信していた。彼は、カーティスは、ザルバッグの言葉を待ち望んでいたのだと。
 その言葉が何なのかは、ザルバッグは知らない。だが彼は待っていたし彼は待たれていたのだ。しかし待たれていたザルバッグは結局その言葉をかけてやることができなかった。
 その理由はここにもあると思う。カーティスはひとつ、決定的な間違いをしていたのだ。
 だからこそザルバッグは言うべきことを言わなかったのだし、あれ以上カーティスを咎めなかった。
「(カーティス。お前の読みは、いつだって当たっていたが……ひとつだけ、違うことがある。
 オレは、疑いたいのに疑えないんじゃない。疑いたくないのに、疑えないのに、疑わずにはおれないんだ。
 愚かなものだな。オレは今、周囲の誰をも──自分自身でさえも、疑わずにはいられないのだ。
 だが、今このとき、もしも何かを疑わないでいるならば……オレは、いったい、どうしたらいい?)」
 ベスラ戦線で毒を散布した者、ザルバッグらを襲撃した者、水門を故意に開いた者。全てがひとつの事実の下作意的に動いているようでいて、また、全てがてんでばらばらに、ただザルバッグらの妨害をしているようにも思われた。
 しかしそんな中でも霞まずに、常に存在感を放ち続ける思いがあった。敵がまだ他にもいる。それも、このイヴァリースを根底から揺るがそうとしているような強大な敵が。あまりに発想が突飛過ぎると分かっていても、ザルバッグはそう疑わずにはいられなかった。
 水門の水はついには止まった。だが、彼の胸にある延々と疑問を吐き出し続ける泉は、ついぞ枯れることを知らなかった。