ダイスダーグは何も語らなかった。
 いつだってそうだ。ザルバッグは兄のおよそ公には言えたものではない所行をいくつも知っていたが、ダイスダーグはそれをザルバッグに隠さない代わりに語らなかった。
 ザルバッグはそれを見て、何の説明もなしにただ、そういうものかと納得するだけだ。疑問も何もない。
 そういうものなのだ。かつてはそう思ったし今も思う。
 だが、ダイスダーグは必要なことはよく話す人であった。だからザルバッグは彼の望むままに剣を取り、ベオルブの名の下にそれを振った。そのうち名が諸侯に知れ渡るようになり、最終的には「英雄」ともてはやされるようになった。
 ダイスダーグはただ一言だけ言った。「それで正解だ」と。
 正解だ。当たりだ。間違っていない。これが筆記試験なら丸印を頂くことができる。ザルバッグは満足し、誇りに思った。
 ダイスダーグはやはりラーグ公の件についても一切語らなかったが、以前城の廊下ですれ違ったときに小さく言われた。すれ違いざまにぼそっと囁かれたものだったために、自分に言われたと気付くのに時間がかかり、危うく記憶から消えてしまうところだった。
 ダイスダーグはこう言った。
『まさかお前があの女に持たせるとは……私は驚いたよ。』
 ザルバッグが立ち止まり振り返ったのは、しばらく進んでからだった。やっとのことで言葉の示す内容に思い当たり、彼が振り返ると、廊下の少し離れた先にダイスダーグが立ち止まって、同じくこちらを見ていた。
『兄上……?』
『死んだ者に持たせていれば、こうも騒ぎにはならなかったものを。お前は頭の悪い決断をした。』
『ですが兄上。死者にあの短剣を渡していては、その者の名誉を傷つけることになります。その家族はどうなりましょう。』
 ザルバッグは気付かないうちにこう言っていた。言った本人が驚いた。
 ダイスダーグは目を細めて言った。
『確かにお前の言うとおりだな。だが、それだけだ。』
 続いてこうも言った。
『お前の判断は、ある意味では軍人らしいものだったということか。だが、政に関わる者としては最も望ましくない、最低のものだ。』
 ダイスダーグは、言うだけ言うとさっさと立ち去ってしまった。それを止めることはザルバッグには許されていなかったのでできなかった。
 ザルバッグはしばらくその場に立ち尽くした。呆然と立ち尽くした。








「あっ、ザルバッグ隊長!」
 そして今、ザルバッグは何者かに呼び止められた。ウィリーだ。ザルバッグは立ち止まって応えた。
「どうした、ウィリー。」
「ベスラで散布されていた毒について、調べた結果が出たんです。これ。」
 差し出された書類をザルバッグは受け取りその場で開く。ウィリーが少し驚いた様子を見せたが何も言わない。
 そこには何かの図鑑から引っ張ってきたような毒々しい茸の絵と、同じく引用されたような説明の文章、さらにウィリー本人が書いたのだろうメモ書きが掲載されていた。
「やはりモスフングスだったか…」
 ザルバッグは呟く。現在廊下には一帯人通りがなく、静かだ。ウィリーは二、三度首を振って周囲の様子を確認して、口を開いた。
「あの男の言ったとおりでした。モスフングスは特別珍しいものでもなく、探せば誰にでも手に入るものです。精製方法も簡単ですね。あ、一応載せておいたので参考にしてください。
 モスフングスの毒は致死性も速効性も低いことから、汎用性にも実用性にも乏しくて、そこかしこに出回っているっていうわけでもないんですけど…。」
「逆に、その特徴に足を掬われたな……」
 ザルバッグは当時を思い出しながら言った。毒霧がすっかり充満するまで気付かず、異変を知った頃には毒が回りきっていた。
 ウィリーは大きく頷いた。
「はい。この毒は、自覚症状も薄いんです。気付いたときにはもう手遅れです。でも、短期間の服用では死ぬことはないので、それだけが唯一の救いでした。」
 ほっと安心したような、けれども険しい表情で言い切って、そこで一転。次に顔を上げたウィリーはその表情に、彼にしては珍しい、どこかいたずらげな笑みを浮かべていた。
「僕は、あの毒でだけは死にたくないですからね……。知ってます? モスフングスで死ぬとどうなるかって話。」
「いや、知らないな。どうなるんだ?」
 ザルバッグが答えて追って尋ねると、途端にウィリーが神妙な顔になるものだから、ザルバッグもついそれにつられてしまう。お互い心なしか顔を寄せ合って、ウィリーは声を潜めて言った。
「死体に、モスフングスが生えてくるんです。」
「…………。」
 ザルバッグは、何となく、返す言葉が見つからなかった。
 お互いの顔が離れる。そしてウィリーはすぐに、いつものあのさっぱりした明るい彼らしい表情に戻って、ふと思い出したように尋ねた。
「あ、そういえば、副隊長の体調はどうですか?」
 確かにモスフングスですぐに死ぬことはないが、元々身体の弱い者、基礎疾患のある者はまた別だ。エバンナはあれ以来体調が優れないでいて、謹慎命令をいいことにザルバッグは彼女を療養させている。
「良くはないな。だが体調の悪い本人があいつだから、どうにも手がつけられない。命令でも出さなければ休んでくれないよ。」
「はは……。副隊長らしいや。」
 そう言うウィリーは相変わらずだった。どこか少年くささの残る苦笑いと物言いは、ザルバッグのずっと見知ってきたものと何ら変わらない。ザルバッグは久しぶりに、自分から発言した。
「お前こそ、体調はどうだ。ベスラのときは、無理に働かせてしまったが…」
 医療の心得のあるウィリーには、ベスラ戦線では働かせっぱなしだった。
「僕は問題ありませんよ。むしろ、力が有り余っているくらいです。次の出撃はいつになりそうですか? いつでも指示を下さいね。」
「頼もしいな。しばらくは待っていてくれ。すぐに結論を出す。」
「はい。」
 ウィリーは力強いほほえみを残して、「それでは失礼します」と言って、来た方向に戻って行く。
 またもザルバッグはその場に一人で残された。自分で言ったことが、不思議と、ずっと頭に残っていた。
『すぐに結論を出す』








 執務室にて、ザルバッグは文書を片手に固まった。頭だけが働いて考えごとをする。
 そのままな言い方をしてしまえばそれは手紙だった。差出人はグレバドス教会、さらに言えばグレバドス教会所有の神殿騎士団、もう少し言えば神殿騎士団団長ヴォルマルフ・ティンジェル。要するにこれは、ベスラ戦線に両軍がまだ滞在していた際調停を名乗り出てきたグレバドス教会が、再度両軍を和平に落ち着かせようともくろんで送ってきた手紙なのだ。
 ザルバッグは疲れた思いでその封を切った。中身を読む。内容はほとんど予想通りだ。
 ただ一点違っていたのは、教会からの使者が直接こちらを訪ねてくるということだった。これにはザルバッグはぎょっとした。
 教会の使者が訪ねてくる。これは敬遠なグレバドス教信者でもあるザルバッグにとって一大事だった。
 彼はしばらく悩んで部屋を行ったり来たりした。訪ねてくるのがあのグレバドス教会ならば、それ相応のもてなしをしなければならない。時間と場所を用意して、万全の対応で臨まねば!
 しかし相手の主張は現在こちらとは食い違っている。和平か戦いの続行か。相反する目的を主張しぶつけ合うことになるのは明白だった。
 よってザルバッグの考えごとは、訪問に応じるべきか否か、という段階に到達した。
 ザルバッグは考え続ける。しかし結論を出すのに、あまり時間はかからなかった。
「(迷うことはない。兄上に任せればいい。)」
 ザルバッグはいつものように、心の中でそう思った。それが正解だ。彼は部屋を出る。
 そしてその気持ちが起こったのは部屋を出た直後だった。ザルバッグは今さっき自身が心の中で思った内容に愕然とした。
 足が震える。ザルバッグは結局こうなのだ。染み着いた癖は一生消えない。だから彼はその事実に愕然とした。戦慄した。恐怖までもを覚えた。
 しかしその気持ちは、今現在ザルバッグが忌む類のものであった。彼は何も疑ってはならないし、疑いたくもないのだ。そのことくらいはザルバッグは明確に自認していた。
 だのに恐怖は止まらない。何も考えず、明瞭な気持ちで部屋を出ようとしたときの自分に浮かんでいたであろう、清々しい笑顔──それを想像すると、ザルバッグはただひたすらに恐ろしくなるのだ。
 今までに感じたことのないような、自分への恐怖と、それを忌む自分自身。それらに挟まれて、進むも戻るも叶わずに、ザルバッグはその場に立ち竦んだ。
 しかしそれまでだった。彼は例え足が竦もうと、その先が地獄であろうと、剣を手に前へ進まねばならない。
 彼の今持つものは単なる業務上の書類に過ぎなかったが、ザルバッグは再度歩きだした。兄の待つところへと。