ザルバッグがルザリアを発った日。
 目指す先は兄の待つイグーロスであるのだが、彼は、エバンナだけを連れて行くことにしていた。理由があるとすれば、これが常であったことだ。彼はたいてい、何か公的な用事のある際にはエバンナを同伴させた。だから今回もそうしたに過ぎない。
 ザルバッグがチョコボに跨り、律儀に見送りに出ていた3人に振り返ったとき、カーティスもウィリーもいつもと変わりなかったのに、ただ一人、シェルディだけ、むすっと唇を噛みしめて仏頂面をしていたのをザルバッグは見た。
 見たが何とも言わなかった。ザルバッグは手を振った。このときカーティスが何か呟いたのを、彼は残念ながら聞き取ることができなかった。








 イグーロスにて。
 ザルバッグは入城するなり兄の所在を尋ねた。何と今まさに教会の者と会談をしているようで、彼は驚くと共にほっと胸を撫で下ろす。間に合ってよかったと思った。
 現在あまり印象のよくないエバンナに待機を命じ、ザルバッグは、応接室へと急いだ。
 城の階段を上りながら、段取りを頭の中で組み立てる。まずは途中入室を詫び、自分も話し合いに参加したい旨を述べ、そしてまずは現段階での話の状態を聞く。
 しかし、階段を上がりきり、目的の部屋から細く漏れる光の筋をまたぐ直前に、組み立てられたものは全て崩れさった。
 内容を聞き取ったのではなかった。ただ、彼をそうさせる何かがあった。ザルバッグは気がつけば、息を殺し気配を潜め、部屋の中に全神経を集中させていた。体悪く言えば盗み聞きを始めていた。


「…なるほど、我々の調停に応じる気はないというのですな。」
「さよう、我々は閣下の悲願であった畏国王の統一…すなわち、彼らにオリナス王子を真の畏国王として認めさせるまで、我々は戦いをやめるつもりはない。
 ベオルブの名がこの地にある限り、貴公らの好きにはさせぬ…。」
 どうやら部屋に居るのは2名だけらしかった。兄ダイスダーグと何者か、男性。おそらく神殿騎士だろう。
「誰のおかげでラーグ公を暗殺できたとお思いか?」
「これは異なことを…。ラーグ公暗殺は南天騎士団が送り込んだ刺客の手によるはず…。
 それとも、刺客を送り込んだのは貴公らだと言うのかな…?」
 とんとんと順序よく成される会話は、まるで、桶いっぱいに溜められた水の表面だけをかき混ぜているかのようだ。水には不溶性の何かが含まれていて、どす黒いそれは桶の底に沈殿している。水の表面はきれいだ。表面だけを撫でたとしても、沈殿には何ら影響ないから溶液にも変化がない。ザルバッグはそんな印象を抱いた。
「…あくまでも我々に協力しないというわけですか…。」
「我々が本気になれば神殿騎士団など簡単に潰せるのだ。それを忘れてほしくないものだな…。」
「我々…、ですか。」
 神殿騎士の声が、何か含みのあるものに変わった。傍で盗み聞いているだけのザルバッグがはっとする。
「クィン。」
 神殿騎士の、口が、ザルバッグのよく聞き知った名前を呼ぶ。すると突然、部屋の中の気配がひとつ増えた。ダイスダーグがそれに対しては息を呑むのが分かった。
「クィンです。」
 増えた気配はそうとだけ名乗る。それはクィンの声だった。ザルバッグのよく聞き知った、あの、甲高い、滑舌のよい、独特のイントネーションを含むもの、ではない。
 ただの女性のものだった。しかし彼女のあの少女然とした外見にだけはよく合致するような、少し声音の高いものではあった。
 そんなクィンの声は淡々と言った。
「ベスラ戦線では貴方の補佐をさせて頂きました。これからもさせて頂きます。このガリオンヌで貴方が動きやすいよう、いかなる助力も致します。必要なことがありましたら、何でもお申し付けください。」
「……驚いた。こいつは…」
 ダイスダーグの驚いた声。それに神殿騎士の声が、まるで演劇のように被さった。
「…ところで、ベスラで北天騎士団の陣地を襲った『毒』がなんであったか覚えていますか?」
 ここで、しばしの間。果たしてダイスダーグは記憶を漁っていたのだろうか、目の前の現実に驚いていただけだったのだろうか、それともザルバッグにはとても想像もつかないようなことをしていたのだろうか。表情が見えたとしても彼には分からない。
「…モスフングスの胞子から抽出した毒素だったと思うが…。」
「そのとおり。この毒は大量に飲まない限り、命を失うことはありません。しかし、微量といえども、長期間に渡って服用を続けると、中毒死することがある…。」
「…………。」
 ダイスダーグは応えない。
「中毒死といっても風邪に似たような症状を起こすだけのため、本人の自覚症状は極めて薄く、気付いたときには手遅れになっている場合がほとんどです…。」
「…………。」
 応えない。神殿騎士は話す。
「確か、亡きお父上は風邪をこじらせてお亡くなりになったそうですな。」
「何が言いたい…?」
 ダイスダーグは応えた。低く凄みを含んだ声で問いを投げかける。
「ダイスダーグ殿は『毒』についても詳しい知識をお持ちと聞きます…。」
 間。
「…だから、何が言いたいのだ。」
 間。神殿騎士は構わずに続けた。
「モスフングスの毒に侵された死体を埋葬すると、モスフングスそのものが生えてくるそうですね。ご存じでしたかな?」
「…………。」
 間。これが最後の空白だった。神殿騎士は何らためらいなく空気を塗り変える。
「…つまらぬ話でしたな。そうそう、教皇猊下よりお預かりしたものがあります…。」
 足音が動く。机に何か固いものが置かれる音で足音が止まる。
 ダイスダーグが一瞬息を呑んだ後で言った。 
「これは…?」
「ミュロンドに伝わる聖なるクリスタルゾディアックストーンです。信頼の証として、教皇猊下よりお預かり致しました。どうかお納めください。」
 するとどうやら、神殿騎士はそこで話を切り上げたらしかった。それ以上の続行を諦めたのか、それとも最初からそのつもりだったのか。どちらにせよ神殿騎士が唐突に部屋を出て来たために、扉付近で聞き耳を立てていたザルバッグは愕然とした。
 目が合ってしまった。青いフードを被った男の目が、何も映さずにザルバッグをただ見る。
 その瞬間からザルバッグには、何か罪悪感にも似た感情が生まれて、それが彼に何か話そうとすることを止めさせる。ザルバッグは無言でただ音を立てずにその場に立っていた。
「(気付かれた…!)」
 そんな思いがひたすらに彼の頭の中の警鐘を鳴らす。かといってこの場を打開する良い手立てなどは誰も教えてはくれないのだ、そう、あの兄でさえも。
 しかし、ザルバッグの拍子抜けしたことには、神殿騎士はそのまま立ち去ってしまった。そう、何も言わずに。その目に何も映さずに。
 だからザルバッグは盗み聞きを、兄に気付かれなかった。神殿騎士は何事もなかったかのように歩き去る。背中が廊下のほの暗い闇に紛れる。
 ザルバッグは呆然とした。しかしすぐに部屋の中から声が聞こえた。だから、すぐにまた、先程のように立ち振るまうことを再開した。
「………驚いた。よもや貴公が、まだ教会と接触を続けていたとは。とっくに離籍したものと思っていたよ。」
「そうですか。しかし私は現在教会に所属しています。グレバドス教会所属の魔道士、クィン・グラウスです。」
「内通していたのか。」
「そうですね。私は逐次、ガリオンヌで起こったこと、私のような立場の者でしか知り得ないようなことまでもを、教会に報告してきましたから。」
「あいつを……ザルバッグを騙していたのか。」
「そうなりますね。」
 ザルバッグは頭が混乱するのを感じた。クィンが、かつて教会から派遣され騎士団に入団したクィンが、実はまだ教会と繋がっていて、いわゆるスパイ活動をしていたと?
 ザルバッグは考える。それなら、ベスラでの彼女のあの不可解な行動にも納得がいく。しかし現状はますますわけが分からなくなるばかりだ。
「やはり、驚いた。貴公はもっと、とりわけ、あの愚弟に対しては正直を貫く者だと思っていたが。それどころか、あいつに嘘偽りを重ねていたとは。」
「何とでも仰って下さい。やっていることに変わりはありませんから。」
「で、奴は貴公をここに置いていって、何をさせるつもりなのだ?」
「少なくとも神殿騎士団は、貴方達を和平に導くつもりなどありません。彼がここに来たのは別の目的のためです。それがその石です。」
「これが?」
「そうです。そして私は貴方の補佐をするためにここに呼ばれました。彼らは貴方が彼らの味方になることを確信いています。だから私はここに残されました。貴方のガリオンヌにおける行動の補佐をするのがこの私の役目です。」
「奴らの目的はいったい何だ?」
「……。それは言えません、少なくとも、今はまだ。その話をするにはまだ急です。順を追って、貴方がまず今の状況を飲み込んでから話させて下さい。」
「…ではまず、今の状況を説明しろ。話はそれからだ。」
「はい。私は貴方に、──」








 ザルバッグは尚も混乱していた。全てが複雑に絡み合っていて、彼にはそれらをたぐり寄せることができない。
 しかし彼がそのことに気付いたのは突然だった。彼のその「わけが分からない」という気持ちは、あくまでいつものそれと変わりがないということに。
 クィンという小さな魔道士が、自由奔放に振る舞って、怒ったり泣いたり笑ったりする。その度にザルバッグは、彼女を不可解であると実感し納得し時には痛感し彼女を叱りつけてきたのだ。
 確かに彼女のいつも見ないような振る舞い──ずっと平坦な口調などに驚いたのは事実だが、それだけだった。結局ザルバッグの頭には、「何をやっているんだあいつは…」という、いつものあの呆れの混ざった怒りが沸いてきたのだ。
 それはとても懐かしいものだった。そしてザルバッグはやっとその気持ちを自認し、意識して、その次にとあることに気が付いた。
「(……クィン……。おまえが何をたくらんでいるのかは知らんが、面倒事は起こすんじゃないぞ。尻拭いをするのはいつも誰だと思っているんだ。)」
 だからザルバッグは、話を最後まで聞かずに部屋を立ち去った。彼はクィンを信じているのだ、このようなことがあっても尚。だからこれ以上の盗み聞きの必要はない。
 代わりに彼にはすべきことがある。ザルバッグは自分を信じてくれているであろう部下達にきっと報いなければならなかった。
 なぜなら、彼は、──