しかしそれ以来、ザルバッグに見える世界はがらりと変わってしまった。
 しかし幸いなことに、ザルバッグは、その理由を今度は明確に自認していた。
 それは複数ある。主に、兄が教会と、言葉から読みとれる部分以外で会話をしていたこと。教会がとある事柄をほのめかしていたこと。そしてクィンが教会と内通していたこと。
 本来ならばここで、ザルバッグは、クィンをすぐにでも裏切り者として制裁しなければならなかったろう。言葉どおりにとるならば、クィンは、騎士団の機密を外部に漏らしていたことになるからだ。
 だがザルバッグはそれをしようとは微塵も思わなかった。なぜか。これもザルバッグは自認していた。なぜなら彼は、彼女を、クィンを、信じているからだ。
 彼女自身の口から「内通していた」「情報を報告していた」と明言されようと、それは変わらない。それはあくまでもザルバッグにではなくダイスダーグに対し為されたものであったし、何よりも、そんな発言は関係がないのだ。彼女本人が何と言おうと、ザルバッグの見解は変わらなかった。
 彼は部下に対し、絶対的な信頼を寄せていた。と、いうのは単に、信用している、頼りにしている、という類のものではない。ザルバッグはいつだって、好き勝手動き回る彼らを放っておくことはできなかったし、彼らの前で安心して寝られることはなかった。寝ている間に顔に落書きをされたことを今でも根に持っているくらいだ。
 けれどもザルバッグは、部下達を信頼していた。信じていた。それと同じくらい疑ったり怪しんだり安からぬものを感じたりもしたが。
 今だって、クィンの挙動を疑い怪しみ不安に思いこそすれ、ザルバッグは彼女を「信じて」いたのだ。
 根拠はない。
 だが、見る世界のすっかり変わってしまった──すなわち変わってしまった彼にとって、それは唯一、何ら変わりないことだったのだ。
 だからザルバッグはゆくのだ。立ち上がるのだ。








 ザルバッグは誰にも告げずに城を出ようとした。すぐに戻るつもりでいたからだ。
 しかし、そこで、よりによってクィンに見つかってしまった。実際のところ、現在ここイグーロス城には、気軽に彼に声をかけられる人物は、彼女かエバンナか兄くらいしかいなかったのだから、おかしな話でもないのだが。とにかくにも、当然、問い詰められる。
「もーっ、たいちょってば! どこに行くつもりなのっ?」
 独特のイントネーションも感情を素直に表した表情も身体いっぱい使った身振り手振りも、いつものクィンのものだ。どこも違うところはない。
 これがいつものザルバッグだったら、相変わらずの振る舞いにはもう慣れたものなので、別段何も感じはしなかっただろう。しかし今は「いつもと違う」。彼は思った。クィンは嘘をつくのが実にうまいと。まるで兄ダイスダーグのようだ。
「(いや、違うか。兄上は嘘はついていないのだ。誰にもそうと悟られることはないし、たいていのことは『本当』にしてきた。)」
「少し用事があって、それを済ませてくるだけだ。おまえに詮索されるいわれはない。」
 少々突き放すようにザルバッグは言うが、「いつもと違う」彼の態度にも、クィンは表情を全く変えなかった。
 怒っている。そう形容するのが最も相応しい記号を顔に貼り付けて、クィンはきんきんと高い声をあげるのだ。いつもと同じように。
 ザルバッグはその様子を見て、それまで胸にあった気持ちがすうっと冷めていくのを感じた。代わりに芽生える哀れみにどこか似た感情を彼は蹴飛ばして、クィンに怒鳴った。
「この、馬鹿者!」
 くしゃりと表情が崩れる。そうしてクィンは、とても悲しそうな顔をした。ただ、とにかく、非常に、どこまでも、悲しそうな顔だった。丸くて大きくて赤い目が、どこかいつもよりも赤く、まるで泣いているように感じられる。
 ザルバッグは彼女が悲しむのを何度も見てきたが、まさかここで、クィンがここまで悲しむだなんて思ってもいなかったので、驚いた。予想外だった。
 そして内心では、慌てる。結局どこまでも彼女は気分屋な人物だったから、時折こうしてザルバッグの手に負えないことはあった。
 だが態度は崩さない。少しでも付け入る隙を見せたらおしまいなのだ。
「全くお前は、怪しい行動ばかりして……。」
 そして、何も言えない。ザルバッグが見たことも、見たということも。言うわけにはいかないのだ。
 クィンが隠そうとしている。それならばザルバッグはそのとおりにしてやらねばならなかった。なぜならザルバッグはクィンの上司だからだ。
 しかし、隠し事をしているそのことそのものには腹が立った。それは許すべからざることだと思った。だからザルバッグは、クィンを、「いつものように」叱りつけた。
「人間だから、やましいことのひとつやふたつもあるだろう。だが、お前のしていることはその域を出ているんだ。ザルバッグ隊の所属なら、堂々としろ、堂々と!」
 その言葉はクィンに何らかの衝撃を与えたようだった。彼女ははっと目を見開いて、次にぎゅっと唇を噛みしめる。悔しそうに。だが悲しそうな色は消えてなくなった。
「……わたしはね、」
 クィンは囁くように呟く。言葉は全部ザルバッグに向けられていた。
「本当はね。堂々と、とか、誇り、とか、どうでもいいの。ずるくたって何だって、みんながいればそれでいい。ただ、わたしはたいちょのことが好きだから、たいちょの好きなその考え方が好きだっただけ……。堂々と、自分の信じたこと目指して、誇り高く戦うたいちょはすごくかっこいい。
 でも、たいちょの好きな考えが、たいちょを殺すなんて絶対にいや! だったらそんなのいらない! 思想も、誇りも、意地も。だから、だから、……」
 クィンの赤い目が揺れた。ザルバッグは彼女が泣き出すかと思ったがそうはならない。
「だから、…」
「いい加減にしろ、クィン!」
「!」
「自分の行いを人のせいにするな。お前自身で選んだ道だろう。最後まで責任を持て。
 オレのザルバッグ隊の仲間は、たったひとつの価値観に縛られるほど単純だったか? ザルバッグ隊は、価値観を縛り付けるほど強引なものだったか? 違うだろう。どいつもこいつも、各自が好き勝手に、てんでバラバラなほうを向いていたはずだ。」
「でも、たいちょのおかげでみんな仲良しだったよね!」
 そう言い放つクィンがどこか嬉しそうなのは、ザルバッグの気のせいではない。
「そうだ。だが今のおまえの行動は、隊内の規律を乱している。」
「…………。」
「オレが言いたいのは、オレの価値観に沿えということではない。ただ、みんな仲良しがいいんだったら、そのみんなにちゃんと、本当のことを言え。話はそれからだ。それを言いたいんだ。」
「…………。」
 クィンはぎゅっと押し黙った。ザルバッグはずっと彼女の赤い目を見つめていたが、それが揺らいで、俯いて、逸らされる。
 ザルバッグはそんな彼女をさらに追って斬りつけるということはしなかった。できなかった。彼に言えるのはここまでだ。
 あくまでも、ザルバッグ隊の、彼女らの、隊長として。そしてここでの「隊長」は、何も知らない。先程目の当たりにしたようなことは一切知らないのだ。知らないのだから、これ以上は何も言えなかったのだ。
「……わ、わたしは、」
 クィンは絞り出すように言った。
「わたしは、なにも、隠してなんかないよ! こそこそだってしてない。いつもだってそうじゃん。わたしがなにかやってると、たいちょが怒って駆けつけてくるの! こーんな怖い顔して、さ! そーいうときは、いちいち隊長に言わないこともあったし。それと同じだよ!」
「なるほど。お前の答えは、それか──」
「え?」
 ザルバッグはぽつりと呟いた。その内容は耳に届いたのだろうが、クィンは頓狂な声をあげて疑問を露わにする。
「ど、ど…いう、こと?」
「こういうことだ。」
 そう言ったザルバッグのおそらく表情を見て、クィンの顔がびくりと強ばる。「こーんな怖い顔」したザルバッグは、かつてそうしてきたように声をあげた。
「クィン! いい加減にしろっ!」
 そうして小柄な身体を捕まえようと、手を伸ばす。しかしこの時点で捕まえられたことなど滅多にない。たいていは小柄かつすばしこいクィンが、するりとザルバッグの腕を抜け、自分にヘイストでもかけて逃げ出してしまうのだ。
 実際今回も、そうだった。ザルバッグはそんな彼女をしばらく追いかけはしたが、深追いはせずに止まった。
 クィンの姿はすぐに見えなくなった。おそらくバニシュか何かで、文字通り「見えなくなった」のだろう。
 しかしまあそんな手段にもいい加減慣れているので、ザルバッグには彼女を見つけ出すことができた。見えなくなっても存在が消えたわけではない。足音や気配などで察することはできるし掴むこともできる。クィンの逃げそうなところの予想だって可能だ。
 けれども彼はそれをしなかった。城の入り口からまだそんなに遠くない地点で立ち止まった。
「(お互い、嘘はつけないな──。)」
 ザルバッグはこんなときだというに、どこかほほえましい気持ちになって笑った。
 クィンが何を考えているのか、なんて、おそらくきっと絶対にザルバッグには分からない。けれどもこれだけは彼には分かった。クィンは嘘をつけるが、つきたくない。できる限りは本当のことでザルバッグに接そうとしている。
 ザルバッグはそのことをよく知っていた。クィンはそういう人物だったからだ。
「(あくまでも、嘘はついていない。その姿勢を保つことが、クィン、お前の答えならば、
 これがオレの答えだ。)」
 ザルバッグは、脳裏に浮かぶ小さな魔道士の姿を彼方へと追いやる。代わりに現れるのは、仲間達の居ないところ、彼がこれまで生きてきた世界の一面だ。
 常にその輝きを胸に抱き、支えとしてきた父や兄。守るべき、血の繋がっていない弟や妹。誇りである血筋、名前。思い出を刻む暇なく他界してしまった母。
 あの衝撃的な場面を見、言葉を聞き、して、全てが嘘か、偽りかと思われた。全てに疑いの目がゆき、ザルバッグは立っていることができなくなった。
 疑わないのではなく、信じるために。ザルバッグは真実から目を逸らしてはならない。
 だからザルバッグはゆくのだ。兄の無実を確かめるために──。