「父上…。」
 日が傾ぐ。赤い光だけがザルバッグの目に届く。
 他に彼の感覚に届くのは、水面の揺れる気配だけだった。あとは何もない、何も。
 過去を支える支柱が崩れ、もろともに立つことの不安定になったザルバッグは、それでも兄を信じ続けることを選んだ。しかし、不安定な中やっと掴みとったその道すらも、虚ろなものに過ぎなかったというのか。
 兄を疑わずに、盲目的になって積み重ねてきた彼の過去は、崩れて砂に変わった。全てが疑惑に塗り変えられたとき、それでも見つけ出した自分でさえもが嘘に終わった。
 今の彼に、いったい何が残るだろうか。何も残らない。
 絶望。その言葉すら失い、彼は、立ち尽くした。

















 日も傾いた頃。ザルバッグは薬師と連れ立ってベオルブ家の墓…ひいては、偉大なる天騎士バルバネスの眠る墓を訪れていた。
 広大に感じられる水辺を背景にして、それは立派な石が設置されている。この時間帯に墓石を正面に臨むと、ちょうど水面が夕日を跳ね返して、生々しい赤色の中で無機質な灰色が死んだように佇んでいた。
「…こっちだ。」
「旦那、待って下さいよ。」
 後ろに続く薬師の素性は知れない。格好も小汚く話し方もどこかわざとらしい。だが今は、それがかえって好都合だった。
 こういう者は、金さえ払えば約束は違えない。指示には必ず従うし、他言しないで秘密は絶対に守り抜く。
 薬師はわざとらしく息を切らせて、既に目的地点についていたザルバッグの間合いに入った。
 父の墓。ザルバッグがここを訪れるのは、実を言えばずいぶんと久しいことだった。その理由があるとしても、多すぎて絞れない。やむを得ない理由がなかったのならば、それは単に、ザルバッグの怠慢の賜だった。
「…父上。」
 実際に声に出して、父への思いを再度噛み締める。偉大な父。戦場ではないところで死んだ英雄。
 そうして何も行わずにしばらく時間が過ぎたが、後方で待機する薬師が何か唱えることはなかった。どれだけそうしていただろう、実際はほんの短い時間に過ぎなかったのかもしれないが、ザルバッグは前触れなく振り返って薬師に言った。
「こっちへ来てくれ。見てもらいたいものがある…。」
 ザルバッグは墓石の脇に回った。少し水辺に向かって降りたところ、おまけに日の当たる時間が短いために湿気の多いところにかがんで、そこに生えていた茸をちぎって取る。
「こいつだ…。」
 今までにも何度か目にしたことのあるその茸を、ザルバッグは、薬師に向けて放った。追って尋ねる。
「そいつが何だか、分かるか?」
 ちょうど墓のすぐ前あたりに立っていた薬師は、茸を受け取ってすぐに答えた。受け取ったものに一瞥すらくれた様子がない。
「わかるもなにも、こいつはモスフングスというキノコですよ。即死するほどの猛毒を持っているってわけじゃありませんがね…。」
 薬師は忌々しそうに語った。そんな様子を見て、ザルバッグは特に驚かない。やはり、と、口の中で呟くだけだ。
 見下ろすと、同種の茸は何本も何本もたくましく生えていた。暗く湿った中に、おびただしい生命の輝きが感じられる。
 なるほど、比較的入手が容易とは、このことだったのか。ザルバッグは部下に調達させた情報を省みてそう思った。
 静かな中、水の跳ねる音がしてザルバッグは意識を表に向けた。察するに、薬師が手の中の茸を湖に投げ捨てたらしい。
「ねぇ、旦那…、さっさと行きましょうや。」
 薬師のその言葉に、ザルバッグは頭の冷静な部分で違和感を抱く。これまでこちらのすることに何ら口出ししなかった彼が、どこか怯えているようにも取れた。
 ザルバッグはそれを見過ごすことはせずに尋ねた。するとすぐに答えが返ってきた。
「何をそんなに怯えている?」
「旦那は知らないンですかい? モスフングスってのは死体にしか生えないキノコなんですがね…、モスフングスの生えた死体が埋葬された墓ってのはたいそう縁起が悪ぃンですよ。そのキノコが生えた代で家が滅びちまうってぐらいでさぁ。」
 ザルバッグは言った。
「わかった…。もう行っていいぞ。」
 懐から金貨を一枚、取り出す。最初に約束した値だ。
 親指で弾いて見せると、金貨は空中で、まるでその輝きを見せつけるかのように、夕日を受けて白くきらめいた。
 上昇の最高点で瞬間だけ制止した円盤が、また手の中に戻る。そしてザルバッグはそれを薬師に放った。茸よりもよほど小さく受け取りづらい物体だったが、薬師はそれをきれいに受け取ってきれいに手の中に収めた。
「へへへ、毎度。」
 途端に垣間見える、それまで気弱で人のよさそうに見えた薬師の人間としての一面。彼は何か含めたかのようににやりと笑うと、受け取った金貨を大事そうに懐にしまった。
「よいか、この話は他言無用だぞ。」
 ザルバッグは最後に念を押す。わかってまさぁ。薬師はそう応えると、笑みを貼り付けたままそそくさと退場した。
 彼とはもうお別れだ。ザルバッグはその場に残る。周囲に人気はない。たった一人で、ザルバッグは父の墓脇に立ち尽くした。
「父上……。」
 一言が、ザルバッグの気持ちの全てを背負い込む。

















 水面が、小さな音を立てて揺れる。風が出てきた。
 風がザルバッグの髪を撫で、肌を撫で、それまで静かだったザルバッグの心の変化が、ここにきて、急激なものへと急激に変化した。
 積み重ねてきたものが、見るも無惨に、あっけなく、崩れ去った。その瓦礫の山を、ザルバッグは見つけてしまった。
 その場に立っていることはおろか、存在していることさえおぼつかなくなる。
 けれども実際は消えはしない。立つことのできなくなるほど足腰が弱ってもいない。だからザルバッグは立ち尽くした、呆然と、その場に。




 しかし、時間の経過による変化は生まれる。何もかもを失って時間を過ごしたザルバッグの心に、まるで種から芽吹くように、思考が生まれた。
 初めまりは問いかけから。全ては自分自身に。
 どうして、今、自分は、こんな気持ちになっている?
 思えば不思議だった。父の墓にモスフングスが生えていることなど、ザルバッグはずっと知っていた。あんな茸、何度も何度も見たことがあった。それでも、こんな気持ちになったのは、今回が初めてだ。なぜだ。
 また時間が経過する。ザルバッグはもう少し色々なものを取り戻す。
「(そうだ、どうしてオレは絶望すらできないでいるのだ。こんな茸が、いったい何の証明になる!)」
 しかし、そんな台詞を心の中で唱えたが最後だった。ザルバッグは自分で自分の心の臓を串刺しにしてしまった。
「(……いったい、何の、証明…)」
 このときザルバッグは、既に、一度自分を失った状態だった。そうして一度、取り戻した。だから、事実から目をそらすことができるほど、無知ではなくなっていた。
 しかし、だからこそ、彼にはまだ大切なものが多すぎた。
「(そうだ、証拠になんてならないんだ。モスフングスで死んだ者の死体にはモスフングスそのものが生える。だが、モスフングスそのものが生えた死体が、モスフングスで死んだ者であるとは限らない。
 仮に父上がモスフングスで死んだのだとしても、それが、誰の仕業であるのかなど、誰にも分からないのだ。オレにも、兄上にも、ラーグ公にも。
 ……しかしラーグ公は兄上の手によって死んだ。それをオレは見た。ラーグ公は死ぬ間際に言った。…)」
 そして心の中でたくさん喋って、大切なものを見る見る消費していく。
 それらは有限だ。だからいつかは消費し尽くして、本当に消えてなくなってしまう。
「(…………。)」
 ザルバッグは心底から無言になった。








 そうしてまた時間が経って、ザルバッグの心の中に、ぽっ、と、ある疑問が生まれる。
 誕生した疑問は健やかに成長した。疑問は質問に、質問は詰問に変わってゆく。
 今、自分は、どうすればいい?
 疑問はザルバッグの心の中を静かに跳ね回った。耐えきれなくなって、彼は、何度も何度も、問いを、自分に投げかける。しかし疑問を生むのは自分であるのだから、それに自分が答えられるはずがない。
 だから、問いかけが止まらない。どうすればいい、どうすれば、どう、どうすれば。どうすればいいのだ。
 しかしザルバッグには、成長を止めない疑問に浸されながら、ひとつだけ分かることがあった。
 こういうときに頼れる兄には、もう頼ることができない。
 分かる、というよりは、それは認識だった。ザルバッグはそれをやっと自認した。