イグーロス、ベオルブ邸。ザルバッグの私室にて。
兄の居るだろう城に戻ることは、ザルバッグにはできなかった。日の傾きも完了しつつある時分、灯りも点けずにある室内は暗い。
ザルバッグにはこれしかなかったのだ。他にとるべき、とるはず、とれる、とりたい手段がなかった。
常に共に戦場を駆け抜けてきた、刀身に古代文字が刻まれた剣。ザルバッグの唯一無二の相棒。それを手にとり、彼は、その切っ先を自身に向け、
頸動脈を切り裂くように頸元で引くことが、すぐにはできなかった。
しかしやるしかない。これが彼に残された唯一の道なのだ。
その思いと命令に従わない身体とに挟まれて、ザルバッグは苦しむ。しかし実際は、何よりも忠実に主の思いを実現しようとするのは身体で、それに命令を下す心のほうがいかれてしまっているのだった。
だからザルバッグの頭は、この期に及んであることを思い出した。手紙を書かねば。
こういうときには周囲の者を戸惑わせないために言葉を書くのがふつうだし、まず何よりも、ザルバッグは部下達をこれからも導いてやらねばならなかった。
「…………。」
部屋に灯りを点け、机に向いて筆を取る。
まず最初に、ザルバッグは、理由を書こうとした。理由を。
しかしそれは彼には書けなかった。分からなかったからだ。理由が分からなかったからだ。理由は分からない。
ザルバッグが今から為そうとしているこの行為は、彼の知っているどんな義にも反する行為だった。それなのに、なぜ、自分はこんなことをしようとしている?
考えても、分からないものは分からない。理由も分からない。仕方がないので、それは後回しにすることにした。必要な情報をまとめるのが目的である文書なのだから、この際順番はどうでもいい。
時間は一刻を争うのだ、先にできることからやっていかなければならない。
ザルバッグは先に、後、ザルバッグが事を為した後のことを伝えておく。これからどうすべきか、何をすべきか。ザルバッグの知識に基づきその指針を明確にする。
しかし、最後にはこう記した。『私の虚言に惑わされるな、必ず自身の意志のみに従え。』
それは紛れもなく、ザルバッグが、ザルバッグの仲間達に向けて与えた言葉だった。
ザルバッグはそれをどうと思うこともなく、続けて筆を走らせる。
『これはあくまでも私の意見だ。真実を見ろ、自分の頭で考えろ。
お前達にならそれができると信じている。』
そこでザルバッグはふと気がついて、何の気なしにこうも付け足した。
『いや、もう既にできていたか。いつだってお前達には私にできないことができた。お前達にできないことは、私にはできた。』
書き始めてしまったら、もう止まらない。
『これを読むときには、お前達はどんな気持ちになるだろうか。不謹慎ではあるが、それを考えるのが少し楽しい。
驚くか? それとも、本当は最初から全て分かっていて、それを受け止めるか?
分からない。いつだってお前達は、私の思った通りに、思った以上の活躍をしてくれたからな。
だが、これだけは言いたい。泣くな、悲しむな、怒れるな。これは私が得編んだことだ、全ては私の責任だ。
誰かを恨むなら、私を恨め。他の誰のせいでも、時代のせいでもない。』
ザルバッグは一人で、室内で、これを書いていた。灯りを点けたとはいえそれが切り取ることのできるのは机周囲の空間くらいのもので、結局ザルバッグは薄暗い室内の中で黙々と紙面に筆を走らせているのだ。
なのに、なぜか、不思議と、気持ちが落ち着きつつあった。ザルバッグには他のことに思考を巡らせる心の余裕(それも穏やかなものである)が、生まれていた。
ここで、それを好機とばかりに利用して、事に及んだ理由をまた考える。
やはり分からない。ただ、確実に、これしかないということは分かった。
なので、なぜこれしかないのか、その点に及んで考えを巡らせる。
これもザルバッグは自分で分かっていた。それは、そうでもしなければ、彼は自分を保つことができないからだ。
だから、一見後ろ向きで破滅以外の何者をももたらさないようなこの行動にも、一応の意味はある。自分を守るためだ。
しかしザルバッグの思考は、そんな「自分」に疑問を投げかけるくらいには冷静で賢明あった。彼は素直に不思議に思った。そうでもしなければ、自分を保つことができない? 今し方自分が心の中で呟いた台詞をそのまま繰り返す。
そして「ザルバッグ」の視界は、目の前の、机に広げられる、紙とか筆記具とかを明確に捕らえた。これらは彼が使用していた、しているものだ。紙には文章がつづられている、ザルバッグの字だ。
彼の字は、気付けば、部下達に向けた言葉をたくさん形成していた。
ザルバッグは思った。では、今書いているこの手紙はいったい何だ。部下達に宛てた、この手紙は……
「(私はここにいるではないか!)」
そうと知った途端に彼は、夢中になって筆を走らせた。その認知は、いかにも輝かしく彼の胸中で煌めいた。そして美しく尊い煌めきは、彼の心を一瞬にして照らす。
元より大雑把で力ばかり強い彼の字は、読み易さとは程遠い次元にあった。それが夢中になって彼に書かれていったものだから、尚更汚い読みづらい。
だが彼はそのことに気付かない程に夢中で、我を忘れて手紙を書いた。事に及ぶに至ったいきさつ、理由、思い。彼の全てを文章にする。
これからどうすべきか、どうしたらいいか、どうしてほしいか、を、何かにとり憑かれたように書き付ける。
『エバンナへ』
『シェルディへ』
『ウィリーへ』
『カーティスへ』
『クィンへ』
今まで共に戦ってきた、愛すべき戦友、仲間達に向けて、思いの丈をぶちまける。今まで恥ずかしくて面と向かっては言えなかったようなことさえも、最後だからと言わんばかりに。
仲間達に向けた部分はたいそう長く、かつ練られた、それでいて最も素直で単純できれいな思いのこもった文章になってしまった。彼は途中何度も紙を付け足し、増やし、減らし、書き直したりして、やっとその部分を書き終えた。
そして長い長い手紙の最後には、ザルバッグ、とだけ自分の名を記して、そして何者の名前も書かれていなかった宛名部分にやっと部下達の名前を記して、
ザルバッグは完成した遺書を破り捨てた。
「(そうだ、まだやるべきことがある……)」