2017年3月[3件]
頭の良いキャラは頭の良い人にしか描写できないということには思うところがあって、それはあながち間違いではないけどまるっきり正解でもないと思う。何かを描くには本人がそれを体得している必要は必ずしもない。例えば運動できるキャラを運動できない人が描くことはできる(もちろんできるにこしたことはないけど)。
つまらない物言いにはなるけど頭の良さは一元的ではなく様々な次元がある。計算が速いとか知識があるとか判断力があるとか勘が鋭いとか思慮が深いとか勉強ができるとか論理的思考や理論的思考ができるとか、言い尽くせない程。その中に、自身が体得していないと描けない次元、自身が体得していなくても描ける次元、結果のみは描けるけどそれ以外が描けない(よって描写に信憑性が持たせられない)次元などがある。計算力や知識量は事前に計算したり調べたりすればよいので、自身に計算力や知識量がなくても描ける。判断力や勘の鋭さや思慮深さは創作においては辿り着くべき答えが描く人間に分かっている場合が多々あるので描ける場合がある。勉強については(テストの点数や成績などの目に見える数字や、問題とそれに対応する答えという)結果のみは描けるけどそれ以外(思考過程や学問の本質的な内容や本人の「勉強ができる」故の性質など)は描けない。論理的思考や理論的思考は「思考」と「表現」の間にギャップがない(言語化できる何かを介在する余地がない)のでそれを体得していないと描けない(すなわち、描けているなら体得できていることになる)。
要は結果ありきの頭の良さは誰にでも描けるけど過程ありきの頭の良さは過程を理解している人でないと描けない。終わり。
ちなみに賛否ありそうな「勉強ができる」という頭の良さの次元だけど本質的な理解の伴う「勉強ができる」だったら十分頭の良さの次元たりうると思う。だって学問ができているということだよ。人類の英知だよ。そりゃー頭良いよ。例えば数学について言うと数学は言語力・論理的理論的思考力・判断力・創造力・計算力(これはない人もいるけど)・記憶力(これはいらない人もいるけど)の総結集だからね。これができる人が頭が良くないわけがない。
まあ頭の良さの次元に関しては宗教的な部分もあるから次元の最適性については語るまい。ただ私個人としては「これができなければ本当に頭が良いとは言えない」と言って「頭の良さ」の必要条件を定めることはそれ自体頭が悪いことだと思う。過程を重視するので論理的理論的思考ができる人、数学ができる人が好き♡そして創作(アマチュアの作品とかいう意味合いではない。創作されたもの全般)でよくある、周囲の評価のみでその人の頭の良さを表現するのが嫌い。過程が表現されていなくてもいい、結果だって頭の良さの一つだ。でも周囲があの人は頭が良いともてはやす、それだけを頭の良さの根拠にするのはどう見ても頭の良さではないだろと…(周囲の評価がその人の本質ではないのは人間のどんな性質についても同じだけど)。周囲の評価とその人の本質を混同する、その人の表現を周囲の評価に依存する描写を見るとやだなーと思う。もちろん周囲の評価も、「その人が周囲にどう思われているか」という、その人を構成する要素の一つであるので、周囲の評価を描写することそのものを批判するわけではない。ただ混同する・依存するのが嫌いなだけ。頭の良い描写が伴っていないのに周囲からもてはやされている様子を見ると周囲全員が無能に見える。
頭が良い人は頭の悪い人の気持ちが分からないとよく言われるけどそれも一概に正しいとは思わない。もちろん頭の悪い人はおろか他人の気持ちに全く鈍感なタイプの頭の良い人、いわゆる天才肌みたいな人はいるだろうけど、頭の良い人がそういう人ばかりでないと思うのね。例えば教えるのが上手なタイプの頭の良い人もいる。そういう人の中には他人が、ひいては頭の悪い人がどのような思考をしていてどこでつまずいているのかを想像・理解して、課題の解決方法を指導できる人がいる。他にも、地頭が良くないからこそ、試行錯誤・創意工夫して「頭が良い」に辿り着いた人もいる。そういう人は自分の経験として「頭が悪い」を知っている。だから頭の良い人が必ずしも頭の悪い人のことが理解できないとは限らない。私個人は頭の悪い人の思考過程が理解できない人よりも理解できる人のほうが、理解できることが一つ多いという点ですげーと思う。あと単純に頭の良い人に対する「おまえには頭の悪い人のことは理解できない」という批判が好きじゃない。つまんないじゃんそれじゃ
頭が良いってとっても可能性の広い、素敵な、創作の対象としてとてもおもしろいことだと思うのね。頭の良いキャラ大好き。
余談1)世間では頭の良さに不必要な付加価値を付けがちだと思う。「本当に頭の良い人は他人に優しい」とか。それはただの人の良さであって頭の良さとは独立したものだろう。
余談2)「××でないならば頭が良いとはいえない」とて、頭の良さの必要条件を定めることはそれ自体が頭が悪いことだと思う。前述の通り自分は頭が良いことを広い可能性だと思っているので。十分条件ならありだと。
つまらない物言いにはなるけど頭の良さは一元的ではなく様々な次元がある。計算が速いとか知識があるとか判断力があるとか勘が鋭いとか思慮が深いとか勉強ができるとか論理的思考や理論的思考ができるとか、言い尽くせない程。その中に、自身が体得していないと描けない次元、自身が体得していなくても描ける次元、結果のみは描けるけどそれ以外が描けない(よって描写に信憑性が持たせられない)次元などがある。計算力や知識量は事前に計算したり調べたりすればよいので、自身に計算力や知識量がなくても描ける。判断力や勘の鋭さや思慮深さは創作においては辿り着くべき答えが描く人間に分かっている場合が多々あるので描ける場合がある。勉強については(テストの点数や成績などの目に見える数字や、問題とそれに対応する答えという)結果のみは描けるけどそれ以外(思考過程や学問の本質的な内容や本人の「勉強ができる」故の性質など)は描けない。論理的思考や理論的思考は「思考」と「表現」の間にギャップがない(言語化できる何かを介在する余地がない)のでそれを体得していないと描けない(すなわち、描けているなら体得できていることになる)。
要は結果ありきの頭の良さは誰にでも描けるけど過程ありきの頭の良さは過程を理解している人でないと描けない。終わり。
ちなみに賛否ありそうな「勉強ができる」という頭の良さの次元だけど本質的な理解の伴う「勉強ができる」だったら十分頭の良さの次元たりうると思う。だって学問ができているということだよ。人類の英知だよ。そりゃー頭良いよ。例えば数学について言うと数学は言語力・論理的理論的思考力・判断力・創造力・計算力(これはない人もいるけど)・記憶力(これはいらない人もいるけど)の総結集だからね。これができる人が頭が良くないわけがない。
まあ頭の良さの次元に関しては宗教的な部分もあるから次元の最適性については語るまい。ただ私個人としては「これができなければ本当に頭が良いとは言えない」と言って「頭の良さ」の必要条件を定めることはそれ自体頭が悪いことだと思う。過程を重視するので論理的理論的思考ができる人、数学ができる人が好き♡そして創作(アマチュアの作品とかいう意味合いではない。創作されたもの全般)でよくある、周囲の評価のみでその人の頭の良さを表現するのが嫌い。過程が表現されていなくてもいい、結果だって頭の良さの一つだ。でも周囲があの人は頭が良いともてはやす、それだけを頭の良さの根拠にするのはどう見ても頭の良さではないだろと…(周囲の評価がその人の本質ではないのは人間のどんな性質についても同じだけど)。周囲の評価とその人の本質を混同する、その人の表現を周囲の評価に依存する描写を見るとやだなーと思う。もちろん周囲の評価も、「その人が周囲にどう思われているか」という、その人を構成する要素の一つであるので、周囲の評価を描写することそのものを批判するわけではない。ただ混同する・依存するのが嫌いなだけ。頭の良い描写が伴っていないのに周囲からもてはやされている様子を見ると周囲全員が無能に見える。
頭が良い人は頭の悪い人の気持ちが分からないとよく言われるけどそれも一概に正しいとは思わない。もちろん頭の悪い人はおろか他人の気持ちに全く鈍感なタイプの頭の良い人、いわゆる天才肌みたいな人はいるだろうけど、頭の良い人がそういう人ばかりでないと思うのね。例えば教えるのが上手なタイプの頭の良い人もいる。そういう人の中には他人が、ひいては頭の悪い人がどのような思考をしていてどこでつまずいているのかを想像・理解して、課題の解決方法を指導できる人がいる。他にも、地頭が良くないからこそ、試行錯誤・創意工夫して「頭が良い」に辿り着いた人もいる。そういう人は自分の経験として「頭が悪い」を知っている。だから頭の良い人が必ずしも頭の悪い人のことが理解できないとは限らない。私個人は頭の悪い人の思考過程が理解できない人よりも理解できる人のほうが、理解できることが一つ多いという点ですげーと思う。あと単純に頭の良い人に対する「おまえには頭の悪い人のことは理解できない」という批判が好きじゃない。つまんないじゃんそれじゃ
頭が良いってとっても可能性の広い、素敵な、創作の対象としてとてもおもしろいことだと思うのね。頭の良いキャラ大好き。
余談1)世間では頭の良さに不必要な付加価値を付けがちだと思う。「本当に頭の良い人は他人に優しい」とか。それはただの人の良さであって頭の良さとは独立したものだろう。
余談2)「××でないならば頭が良いとはいえない」とて、頭の良さの必要条件を定めることはそれ自体が頭が悪いことだと思う。前述の通り自分は頭が良いことを広い可能性だと思っているので。十分条件ならありだと。