紅拭う拇


 山麓に佇む古式ゆかしき小旅館の一室、小座敷。ささやかな庭に面した障子戸のその細く開けられた隙間を、木葉に砕かれ散って僅か残った白い陽光が槍のごとく刺し貫き、惰けきった微温い風が吹き通す。
 部屋には、やや日焼けた畳の傷みを覆い隠すように深い色味をした風呂敷が広く敷かれている。
 その蒲葡色を埋め尽くして整然と並ぶは、色とりどりに鮮やかな扇子たちだ。いずれも図柄が一目瞭然となるよう、地紙をすっかり広げられて静かに横たえられている。華やかながらもひっそりとした佇まいは、長旅に疲れて翅を休める蝶の群れを思わせる。
 小座敷のほとんど閉じた空間には、白く霞むほど目映い陽光の下にあっては似つかわしくない静謐が、冥々として秘密裏に息衝いているようだった。
 極彩色の群れはそんなことなど素知らぬ顔で、己らの手前に座す人間たちをただただじっと見返している。
 暗がりに息を潜め続けた日々の恨みをとうとう打ち破って、使い手に選び取られる時を今か今かと待ち望む羽虫の群体は、目を背けたくなるほどに浅ましい。行燈に挙りて群がる蛾のほうが、いっそよっぽど清々しいというもの。
 ——贋ものの嫌悪感だ。物言わぬものに、いったいなにを重ね合わせて見たというのか。

「——さ、いかが?」

 土の下でなにかが蠢動しているかのごとく不完全な静寂を、女の声がひらりと割り裂く。

「なにか、お気に召すものはあって? エルガーくん」

 ナマエ女将がそう訊ねると、エルガー青年は暑気に汗ばんだ鼻っ面を彼女へ向けて、厚い唇を悩ましげに引き結んだ。

 エルガーは、流しの傭兵として各地を流離っていた年若き青年である。ひょんなことから、宿の力仕事を担ってもらう代わりにナマエが寝食の世話を見るという条件のもと、〝旅籠屋なごみ〟に滞在し始めるようになった。
 そんな彼や外から来る客たちの話を聞くに、外つ国に訪れる夏はここ〝なごみ〟が建つ土地で迎える夏とはまるで様相が違うと言う。

「彼の地の夏は、とにかくからりと暑い」

 誰もが口々に言うのは、その一点に限る。空に燦々と照る太陽は、それはそれは勢力が強く、大地にしがみつかんとする湿っぽさをすっかり焼き払ってしまうほどなのだと言う。
 だから、彼らが夏と呼ばわるものは至って爽やかであるそうだ。湿気で息が詰まる感覚などまるで覚えがなく、陽射しをどうにか凌ぐ術さえあれば、ふるさとの夏は比較的過ごしやすい季節だったと語る。
 その息のしやすい夏が全てであったエルガー青年にとって、〝なごみ〟での高温多湿の夏はどうやら酷い天敵であったらしい。
 そもそもが若く、なにをせずとも熱を溜め込みやすい身体であることも仇なしたに違いない。滞在するようになっていくらか経っても、エルガーは土地柄の気候にてんで太刀打ちができない様子でいた。
 殊ここ最近は、この湿気に慣れ親しんだはずのナマエですら寝苦しく感じるほどの熱帯夜が続いている。ただでさえへばっていたエルガー青年など言うに及ばず。先日など可哀想に、夜深の頃に汗水漬くになって起き出しまでしていたのである。
 これを、ナマエは哀れまずにはいられなかった。彼の面倒を見ている身として、責任を感じずにはおれなかった。
 身体が資本の傭兵稼業である。良質な睡眠の重要性など言うまでもない。なにより、自分よりも年下の男の子が顔色を悪くしているのは見ていて居た堪れなかった。その理由が寝不足だということが、より悲惨さを増す。
 それで「さて、どうしたものかしら」と考えを巡らせるうちに、彼女は私室にしまい込んでいるままになっていた、いくつかの扇子の存在をはたと思い出した。あの夜の散歩の最中、手持ちの扇子で以てエルガーを扇いでやった記憶が脳裏をつるりと過ったためだ。
 仮令気休め程度にしかならないとしても、ないよりはましというもの。
 結果、久方ぶりの扇子の虫干しがてらに気に入るものがあれば譲ってやろうということで、ナマエ女将はエルガー青年を小座敷へと呼び出したわけである。
 普段、ナマエとエルガーが共通の時間を過ごすときは、なにか特別な用がない限りは互いの私室には足を踏み入れないことになっていた。必要に応じて、どこか別の場所で機会を設けるというのが、彼らの間に横たわる暗黙の了解だった。
 この取り決めに、特に理由という理由はない。「そのようにしよう」という話し合いの時間を取った覚えもない。
 元よりふたりの中に隔絶された個人の時間を重要だとする考えがあったのかもしれない。はたまた、互いになにか余人には立ち入らせたくないと守らんとする領域があったからなのかもしれない。
 理由はなんにせよ、そのあれこれを口に出さずとも一緒に過ごすうち、いつの間にかそういうことになっていた。
 彼女がわざわざ「えんやこら」と扇子を私室から別室へ運び出したのも、その柔らかな規則のためである。
 エルガーもこの取り決めには慣れたもので、わざわざ「なぜ」を問わずとも素直に呼び出されてくれた。大変な湿度と温度にすっかり参ってしまって、余分な問答を交わす気力がないせいもあっただろうが。

 ともあれナマエにそんな経緯あって小座敷へと招かれたエルガーは、薄く汗ばんだ頬を手の内で乱雑に拭ってから、また畳の上へ目を向けた。
 しっとりとした蒲葡色の地に淡く籠目模様が入った上質な絹に、節榑立った太い指が物珍しげにつと触れる。

 この風呂敷はかつてナマエが生家から持ち出したもので、元は母から譲り受けたものだった。当の母親自身もまた自らの母親——つまりナマエの祖母から譲り受けたという年代ものである。それがため見た目には小綺麗ながらも、振り払いきれないほど堆く降り積もった埃のような、粉っぽく古びた臭いが相応に染みついている。
 一方で風呂敷の上に広げられた扇子たちといえば、それほど年季が入っているわけではない。実際、これらの扇子はどれもここへ来てから購入したものであった。着物の色味に合わせていくつか買い揃えた扇子たちは、ナマエの物持ちのよさが手伝って基本的にはかなり状態がいい。
 だが——。

 ——気に入るものがなかったのかしら。

 彼女は瑕のないつるりとした顎に人差し指をあてて、考え込むエルガーを横目にひっそり見た。拍子に、ひと筋の汗がうなじへするする滑り込んでいく。
 無用の施しほど気疲れするものもなかろう。それが見知った相手であるならば、なおさら。
 胸中を慮るナマエの心など露知らず。多種多様の扇子を前に未だ悩み込んでいる様子だったエルガーは一転、にやりと笑って口を開いた。

「……こんな綺麗な紫色見てると、葡萄酒が飲みたくなるな」

 明らかにこちらの笑いを誘った言動に思惑通りぷっと吹き出しかけて、ナマエは慌てて口元を抑えた。
 どうやらこの精悍な若者は花より団子、扇子より葡萄酒らしい。風呂敷を指で摘みながらに冗談粧して放たれたエルガーの言葉に、彼女はとうとう堪えきれずくすくす笑う。

「こっちのほうじゃ、酒屋さんも米だの芋だののお酒ばっかりで、葡萄はほとんど見かけませんものねえ。地酒贔屓なもんだから。今度、仕入れをお願いしてきてあげましょうか」
「本当か!」

 エルガーはぱっと目を輝かせてナマエを見つめた。扇子を目の前に並べてみせたときよりもよっぽど反応がいい。彼は暑気中りにおいても食欲が衰えぬ、健啖家の辛党なのだ。

「こんなことで女将さんに面倒をかけるわけには——と言いてぇところだが、お言葉に甘えて頼んでもいいか?」
「ええ、ええ。つまらない遠慮なんてしないで。このぐらい、お安い御用ですよ」
「ははっ、こいつァ嬉しいね。なによりの励みになる」

 今ばかりは暑さもなにもかも忘れてしまったように上機嫌になったエルガーは、ようやくまともに扇子に目を向けた。

「それにしてもよ、女将さん」

 エルガーは言いながら扇子をひとつ手に取って、開かれた図柄をまじまじと見た。
 瑠璃色の地紙に、はっとするほど若々しく晴れやかな色使いで大ぶりの花が散らされた意匠のそれは、ナマエが以前に常用していたものである。

「これとかは、女モンだろ? 俺みてぇなムサい男が持つもんじゃない」
「あら、そう? 男前が使いこなせば、粋ってもんですよ」

 つまらぬ美辞麗句を並べ立てたつもりは毛頭ないものの、彼にはそのように聞こえなかったのだろう。太い眉毛をよくぞこれほどと思うほど柔軟に動かして、訝しげにしている。

「美人が使ったほうが画になるだろ」

 今度は、ナマエが困った顔をする番だ。

「煽ててくれるのは嬉しいけれど、そうは言ってもねえ……」

 エルガーの手の中の扇子を見つめて、彼女はことりと首を傾いだ。

 本当に、美事に目を惹く意匠をしているのだ。
 瑠璃色は空と海を混ぜ溶かして刷いたように澄み透って鮮やかだし、大輪の花々は今が我が世の春と言わんばかりに誇らしげに咲いている。
 色使いばかりか、極めつけにはこってりと黒い骨を支える要、その尻に括りつけられてぶら下がった房飾りまである。先を金色で染めた朱色の房飾りはやけに御立派に存在感を放って、これがまた人目を惹く。
 愛らしい処女や初々しい新妻が持つならこれぐらい華やかでも可愛げがあろうが、年増が使うには些か過ぎて毳々しい。いっそ攻撃的まである。

「飾りッ気が多くて、意匠が若々しすぎるのよ。あたくしの年頃じゃ、もう恥ずかしくって使えませんよ、こんなの」

 ナマエは撥ねつけるように言う。そのままエルガーの手から扇子を抜き取ると、それで彼へ向かってはたはた扇いで風を送ってやった。
 エルガーが、少しだけ涼しげに目を細める。

「でも、こうして見てみると……意匠どうこうの話じゃなくって、単純にエルガーくんの手に女物は少し小さすぎるかもしれないわね」

 今やもう持ち歩けもしないが、かつてはさんざっぱら使い込んだ思い出の品。彼女の白く長細い手にはしっくり馴染むが、対してエルガーの大きくごつごつした手に握られると、なんだかちゃちなおもちゃのようにも見えてくる。

「そうねえ……。こっちのほうはどうです? これなら全部、男物だけれど」

 と、彼女は自分が過去に使っていた扇子はそっくり除けてしまって、残りのものを指し示した。〝なごみ〟の檀那であった、亡き夫が使っていた扇子たちだ。
 夫は手まめな性質なくせ、妙に大雑把なところもあったから、中には扇面に穴が空いてしまっているものもある。
 だがいずれも修繕自体は済ませており、使用感は遜色ない——と思われる。色味も、どの年代でも使いやすそうに落ち着いた、けれど渋みを抑えたものが多い。

 ナマエが示すのに興味深そうに目を瞬かせて、エルガーはそのうちひとつを手に取った。
 白んだような、旭光を迎えた空を想起させる沈んだ淡藤と白練の合わさる暈し摺。そこへ黒く描き込まれた影のごとき枝差の傍らを掠め飛ぶ、花で仄かに染めた飾り紙の不格好な渡り鳥。
 扇子の鳥には、空を往く鳥を頭に思い浮かべて通常連想されるような優雅さや雄々しさ、それからなにもかもの柵を捨て去ったような解放感は欠片もない。地紙の篭に囲われた狭き空をさも洋々たるものかのように思って、己を天空の覇者のごとく信じ込んで飛ぶ、滑稽で惨めな鳥だ。
 されど、今は亡き夫はこの扇子を最も好んで使っていた。

「——ほお。この扇子、洒落てんなあ。筆で描いたんじゃなくて、紙をあとから貼ッ付けてるのか。綺麗なもんだ」
「……ああ、それ……」

 エルガーの感嘆の声に、在りし日の記憶が目蓋の裏にさまざまと蘇るようだった。今さら帰る故郷もないのに、郷愁染みた残り香が目に沁みる。彼女はそれを長い睫毛で圧し潰して黙殺した。

「それね、穴が空いちゃってね」
「穴? ……どこに?」

 思ってもみないことを言われたような表情だった。きょとんと顔を上げたエルガーは矯めつ眇めつ扇子を覗き見る。

「——ここ」

 その顔が離れた隙を見計らって、ナマエは渡り鳥をちょんとつついた。

「ここに穴が空いちゃったもんで、千代紙を買ってきてね、お花の汁で染めてから鳥の形に切って……貼ッ付けたんです」

 飾り紙の鳥は元からこの空を飛んでいたわけではなかった。この鳥は、ナマエの努力の修繕跡だ。当時丹念に糊付けをした甲斐あって、今も剥がれることなくぴったりくっついている。

「へえ! そいつは魂消た」

 翠の瞳が、好意的な驚きに染まる。

「日頃から飾り切りの人参だの蕪だの……器用だ器用だとばかり思っちゃいたが、まるで魔法みたいな腕前だな」
「マ……、調子のいいこと。お褒めに与り光栄ですわね」
「御世辞だと思ってんな? 女将さん。こんなことで俺はくだらねぇ嘘なんざつかねぇよ。本心だ」

 あんまり大袈裟に褒める姿に、喪われた日々に見た夫の屈託ない笑顔がじわりと滲んで重なる。
 こういった工作ごとは、夫のほうがずっと器用だった。あのとき、彼が地紙を破いてしょぼしょぼ悄気返っていたときも、それをあてにしたから「飾り紙で穴を塞いではどうか」と提案したのだ。
 それなのに、夫はその修繕をなぜかナマエにやらせたがった。
 いつもはあれこれナマエの我が儘を聞くのを生き甲斐にしていたような男なのに、そのときは珍しく長々渋って執拗く食い下がった。
 それで結局、強引に押し切られた彼女は花染めの渡り鳥をあしらってやったのだった。
 今にしてみれば、お世辞にも素晴らしい出来映えであるようには到底見えない。
 悠々と広げてみせたつもりの両翼は先が妙に折れ曲がっているし、鳥は上方を見据えすぎていてなんだか斜めの方向に滑り飛んでいるようにも見える。
 だから、滑稽なのである。
 堪え難く、惨めなのである。
 当時は苦労したなりの達成感はあったものの、それだけであった。自分のほうがよほど器用にこなせるくせ大層喜ぶ夫の態度が、紛れもない彼の本心とはわかりつつもどこか鼻についたものだった。
 彼の素直な喜びを額面通りに受け取れず、拗ねていじける程度の出来だったのだ。自分自身、真実大したことでないと思っていたものなのに。

 胸がじんと熱くなった。途端、固く冷えていった。

 もう戻りはしない吉夢だ。
 最早逃げられもせぬ、凶夢だ。
 ナマエはふるさとの華であった己を手折った男の手を取ってからというもの、きっとずっと夢の中にいる。
 そうやって、逃げられもしないとわかっているものからどうにか逃げてゆこうと、躍起になって醜く足掻き続けている。

「……はいはい。身に余る賛辞ですもの、ありがたく受け取っときましょ」

 面映ゆいような気もしたし、哀しいような気もした。
 いずれにせよ自らを純粋に慕ってくれる青年に差し向けるには謂れのない感情だったから、彼女は平気なふりで笑って話題を流した。

「それよりも、気に入ったンならどうぞもらってやって。寝苦しい夜も、なにか扇げるものがあれば、多少は楽になるでしょ」
「ありがたい話だが、本当にもらっちまってもいいのか?」

 エルガーがそう訊ねたのは、ありふれた建前だけの遠慮ではなかったのだろう。本当に自らが亡き夫の私物を譲り受けてもよいのかという確認だったに違いない。
 敢えて多くは追窮しないエルガーの気遣いに、彼女は今度こそ本心から微笑んで首肯した。

「ええ、もちろん。モノは使ってなんぼ。しまい込んで埃を被らせておくよか、ずっといいでしょ」
「それなら、ありがたく。ただ、こんな上等なもんをただで受け取るわけにはいかねぇな」
「いやだ、気にしないでいいのよ、そんなの。普段でじゅうぶんお返ししてくれてるでしょうに」
「それを言うなら、俺こそ女将さんに普段なにかと世話してもらってんだ。こんな扇子まで受け取っちゃ、もらいすぎだぜ」

 女将がどんなに重ねて言っても、エルガーは「こればかりは」と譲らない。
 誓って、恩着せがましくなにかを強請ろうと思って親切をはたらいたわけではないのに。
 困り果ててつい口を噤んだ彼女が再びなにごとか言い出す隙を許さず、エルガーは言った。

「なあ、もしこれから時間があるならさ、町に行かねぇか? 入用のもんひとつでも贈らせてくれよ」

 ナマエは、こくんと頷いた。



 背伸びをして尤もらしい誘い文句を吐いたものだと驚きはしたものの、実際エルガーはナマエを先導して歩けるほど町のことを知っているわけではないと、彼女はすぐに思い出した。
 普段のエルガーは本業の傭兵稼業に精を出すか、もしくは宿の仕事を手伝ってくれるかばかりで、ほとんど町を出歩く暇はない。たまにナマエに頼まれた買いもののために町へ出向いていったとしても、働きぶりが存外真面目な彼は決まった店から店へと渡り歩くばかり。然したる道草も食わないものだから、町のことには無知と言っても大方差し支えない。
 多分エルガーも、町に辿り着いてみてからそのことを思い出した。

「……さ、どこへ連れていってくださるのかしら。とりあえず、通りのほうでも覗いてみましょうか?」

 隣で固まる青年の袖をついと引く。商店がぎっしり集まる通りのほうを指差すと、エルガーはぎこちなく頷いて歩き出した。ナマエも、その横に並んでついて歩く。
 見慣れた町だ。だけど、少しだけ心が躍った。
 住み着いた年月なりの親しみはもちろんあって、臨む町並みに今さら真新しさなどない。しかし、もういくらも覚えがない自分のためだけの買いものに訪れたのだと思うと、やはり感触が違った。

 さて、居並ぶ商店の軒先に立って高々と声を張り上げるのは、やはり大概が見知った顔だ。だが、ところどころの店と店の間には、路地の口にへばりついて塞ぐように茣蓙や筵を敷いたり屋台を立てたりしている、あまり見慣れない流しの行商人の姿もある。この通りは外からやってきた者の商売が認可されている区画でもあるからして、いつでも人とものが山ほど飛び交ってかなりの賑わいを見せる。
 エルガーとふたり、片っ端から店を冷やかしていたところで、ふとひとりの行商人の姿が目についた彼女はぴたりと足を留めた。少し遅れて、エルガーも立ち止まる。
 見慣れないとは言っても一度二度程度顔を見たことのある流しの者が多い中で、その行商人の男は本当に見覚えがなかった。
 どうやら売りものを並べているところらしい件の行商人は、背の細い小男である。
 身の丈はさほど長身というわけでもないナマエのせいぜい肩ほどまでしかない。だが目玉がぎょろりと仰々しく、唇は蛙のように薄べったく大きく、身体の小ささのわりに妙な威圧感を覚えさせる男だった。
 細工物や、眉墨に紅といった化粧道具を売っていると見える男の筵には、だいたい余所にも置いてあるような道具ばかりが並んでいる。面白みがない。
 しかし、ひとつだけ珍しい品があった。小さな蛤が、折り目正しくころころと並んでいるのである。

 ——まあ、今になって、まだこんなものが売っているのね。

 ナマエはぱちくり目を瞬いた。
 いっそ野暮ったいほど金ぴかに塗りたてられ、おまけ程度に赤の小花がひとつふたつと描き足された二枚貝は、恐らく紅入れであろう。彼女の少女時代にも、こういう容れものが流行ったものだった。

 懐かしさについまじまじ紅入れを眺めてしまった彼女に稼ぎ時と思ってか、蛙顔の行商人が真っ二つに搗ち割れた鴉のような声でけたたましく喚く。

「ややっ、そこのお綺麗なお姉さん——いや、奥さんかな? なんにせよ、ちょいと見てってくんなよ! あんたみたいな別嬪さんに似合いの品がたんまりあるよ!」

 行商人はそう言って蛤の紅入れを手に取ると、彼女へ向かって蓋を開けて見せた。言うだけあって中の紅は朱色とも韓紅ともつかぬような、ぱっと目を惹く美しい明色だ。
 紅を見せられたナマエよりも、エルガーが関心を持って行商人へ応える。

「へえ、中々綺麗な色じゃねぇか。こういうのはどうだい?」
「ええ……?」

 乗り気な様子のエルガーに、ナマエは口許を袖でそっと押さえてささやかに難色を示す。

「いやですよ、年甲斐のない。こんなに鮮やかで明るい色……若向きじゃないのよ」

 ナマエとて華々しい装いを特段嫌っているわけではない。それどころか、美容や服飾には人並み以上に関心が強いほうだ。少女の時分こそ、こういう色を好んで身に着けもした。
 けれども、それも過去の話である。今は自分の好みよりも他人の目のほうが気になって、ここまで華美なものはすっかり気後れしてしまうようになった。
 ナマエは柳眉を顰めて、続けて言う。

「『年増が浮き足立って』って……笑われちゃうわ」
「誰も笑いやしねぇよ、こんな綺麗な人」
「そうだよ、姐さん! それによ、女に贈りものがしたいってェ男に、恥を掻かせちゃあいかんよ」

 明らかに下卑た勘違いをしているらしい言動である。エルガーは少しだけ妙な顔つきをしたが、行商人が話すのをわざわざ遮ってまで訂正はしなかった。むしろナマエのほうが、我慢の限界が近付いていた。
 かあかあとがなる行商人に周囲の耳目が集まり始めているのを肌で感じる。それと同時に、彼女は沸々と沸き上がるような怒りにも似た恥じらいを覚え始めてもいた。
 蛙顔の行商人は赤ん坊みたいにころころ笑いながら、紅と小筆を差し出して言う。

「せっかくだ、ここはひとつお試しってことにしてやるからさ。自分の女だろ、兄さん。今ここで塗っておあげよ」

 彼女の懐いた恥じらいが明確な敵意へと変じるのに、これ以上時間は要さなかった。

 流しの行商人なんぞの前で足を留めるのではなかった。そうすれば、少なくともこんな思いを味わうことはなかった。
 年増の女が若い愛人を連れ歩いているとでもいうような、こんな辱めは、決して。
 馴染みの商店の者らであったならば、皆エルガーの男衆としての素性を知っているのだから。

 エルガーは戸惑いつつも行商人が差し出す手から紅を受け取って、ナマエに向き合った。
 エルガーは思いやりのある優しい子である。己の戸惑いを差し置いて、申し出を断ることでナマエに恥を搔かせる事態をより重く見たのだろう。
 ナマエ自身これ以上嫌がって延々と店の前に居座り続けるのも気が引けて、黙って懐紙を取り出すとそれを浅く食んだ。口許から離した懐紙に、自身の口唇の形を写し取った重い色味の紅が乗る。

「……それじゃあ、ちょいと失礼するぜ、女将さん」
「……ええ」

 些か緊張したような面持ちで、エルガーがナマエの顎のあたりを透かし気味に見やる。
 日々渾身の力で剣を握っているためだろうか。やや歪な形をした爪の張り付いた太長い指が、ぎこちなく二枚貝を押し開ける。水を含んだ小筆を構えて、筆先に紅を絡ませる。
 ——そして、柔い毛筆がナマエの唇をそうっと撫ぜた。
 思いの外繊細かつ丁寧な手つきがこそばゆく、肩がぴくんと震える。小筆は構わず、ふっくらとした彼女の唇を一度往き、一度戻り、また二度往く。つう、つうと紅が塗り重ねられていくのが、徐々に重たくなる唇でわかる。
 順調に紅を引いていた、そのときであった。
 女の膚を飾り立てるのはさすがに経験がなかったのか。慣れぬ作業に、矢庭にエルガーの手許が油を注し忘れた絡繰りみたいにぎしりと強張った。狂った指で繰る小筆が、唇の端をふっと掠める。

「——あ、」

 思わず上げた声。
 短く跳ねた音は向き合うふたりの間でぶつかり合ってぱんと弾けた。

「——と、わ、悪い。女将さん、はみ出しちまった」
「ああ、」

 「いいのよ、気にしないで」とは、彼女は続けられなかった。

 ざり……——と。

 燃えるように熱いゆびさき。
 硬く荒れたおやゆびが、彼女のやわらかな唇を拭って通りすぎる。
 過ぎ去った指の腹についた紅はあまりにも鮮烈で、強すぎる陽光のように彼女の目に紅く紅く焼きついて。

 触れた膚は、どうしようもなく男の手をしていた。

 瞬間、ナマエは自己への激しい嫌悪感を懐いた。憎しみにも似たどす黒い怒りが胃を引っ繰り返して、嘔吐くように込み上げた。

 男だ。
 ——男だとも、当然だ。
 生まれ持った彼の性別だ。初めて会ったときからずっとそうだったはずだった。
 それを、なにを今さら。
 初めて視線を交えたあの日。すでに滅多打ちにされていたはずのナマエの尊厳を、まるで瑕ひとつない珠のように掬い上げてくれたあの日から、彼はずっと男だ。

 ナマエは崖の上から真っ逆さまに暗闇へと突き落とされたような心地がした。本当は自分から飛び込んでいったもののようなくせして、誰かから酷く酷く痛めつけられたような気持ちがしていた。

 そうだ。エルガーは男だった。
 見て見ぬふりをしていただけだ。
 気付かないようにしていただけだ。
 雄の情にすがろうとする、浅ましき雌の性に。

「……ん、よし。これで国一番の別嬪さんだ」

 筆を収めたエルガーが笑う。
 煌々として。
 翠の眼差しを細めて。
 親しみを宿した瞳で。
 彼女も笑った。
 努めて笑ってみせた。
 紅を上乗せた唇を引き上げて。
 いかにも嬉しげに。

 ——いやだわ、こんな。

 素膚の唇に緩く溶いた紅が染みゆくように。誠意と厚意でしかない指遣いは、ナマエの罅割れた心に柔く生温かいなにかをぐしゃりと塗り込め埋め立てた。
 埋め立てて、しまった。

 ——年甲斐も、なく。


 彼女は、笑うことでしか場を誤魔化す方法を知らなかった。


————
23/09/09