陰翳来りて


 町をぐるりと囲む切り立った崖のごとき市壁を従えて屹立する、石造りの四つ足門。平原にでんと建つ人工物は遠目から見てもただでさえ迫力がある。ゆえに傍に寄りついてみたならば言わずもがなで、あまりの巨大さに視界が埋め尽くされてより一層凄みが増す。
 この古びた門は、ところによっては名所とも数えられているようだった。旅人らの多くは町へ出入しながら感心したように門を見上げて、門は口を開けた間抜け面の人間たちを仁王立ちに見下ろしては厳然として睨みをきかせている。
 鉄製の門扉を背にして足の根元にそれぞれ立つふたりの門番は、この見るからに強固な門をすっかり信頼しきっているらしい。通行料も取らないようだから、いよいよ仕事がなく暇をしているということもあるのだろう。至って呑気な様子で、示し合わされた機巧仕掛けの玩具のように交互に欠伸を噛み殺し続けている。
 町の顔とも言うべき門番がこれでは呆れた態度だが、無駄な手間暇をかけずに済むというのはありがたいばかりである。
 石積の門柱と木偶の坊の門番らの脇を素通りして町に入ると、黒髪の乙女剣士——獅子王あやめはすぐ後ろにいる仲間たちへ振り向いた。高く結い上げられた紫紺に艶めく黒髪がひらりと翻り、輪を生ず。
 道士然とした少女——美沈と、大剣を担いだ大男——エルガーもまた同じようにあやめを見返して、彼女の黒檀を帯びた菖蒲色の瞳を覗いて頷いてみせる。
 普段と変わらぬ態度のふたりに、あやめは名勝を堪能する余裕もなく強張っていた自身の表情が自然と解れていくのを感じた。
 彼女はふっと淡く息を吐いてから、彼らへ穏やかに微笑みかけて言う。

「それじゃあ、打合せ通りに。ふたりとも、くれぐれも用心してね」

 あやめの心にかかる暗雲を払うように、エルガーがにかりと笑う。大きな手が、鉄鎧越しの胸板を力強くどんと叩いてみせた。

「だァいじょうぶだって。おじさんにど~んと任しとけっ! それよりもあやめお嬢ちゃん、俺ァ、おまえさんのほうが心配——」
「あやめえッ! ワタシ、心配!」
「どわッ」

 なにごとか言いかけたエルガーを容赦なく押し退けて、美沈が飛びついてくる。小さな頭をあやめの胸に埋めてぐりぐりと押しつけた美沈はぱっと顔を上げると、その幼い行動に反して「イーイ? あやめ!」などとお姉さんぶって切り出した。なんのつもりか、目の前に突き出された手は固く握られている。

「ナニかアル、すぐ逃げるヨシ! ワカッタ? 約束! 指切りゲンコツ!」
「……、指切り拳万、ね」

 お馴染みの美沈の言い間違いに、緊張はすっかり融け消えた。あやめはくすくす笑いながら親友の間違いを訂正してやる。
 どちらにせよ、〝指切り拳万〟は〝約束を破る不届き者には拳を万回降らせる〟という意味なのだから〝拳骨〟でも間違いとは言い切れないのかもしれないが。

「あと——、メイ? それはこっちの台詞だよ」
「ウ?」

 あやめは美沈の小さな拳を解きほぐすと、その細い小指を自身の指先で絡め取りながらに釘を刺した。そんなあやめの言葉に、美沈はくりくりの目を瞬かせてきょとりと首を傾ぐ。
 本当にわかっていないのか、それともわかっていて惚けているだけなのか。こういうときの美沈はやや判別がつきにくい。

「メイこそ、無茶しないでね。あなたは自分の身を顧みないところがあるから……、特に心配なの」

 美沈は愛敬たっぷりににっこりすると、これといった言葉もなく元気よく頷いてみせた。その顔でようやく、これは多分惚けている顔だわ、とあやめは思う。
 然りとて、ここで長々問答を繰り返していても仕方がない。それ以上の追及はせず、代わりにちょっとした仕置きの意を込めて美沈の額をこつんと小突くだけで済ませてやった。しかし、美沈はそれでも嬉しそうに笑うから、これが本当に仕置きの体を為していたかはわからない。

 じゃれ合いも終わり、三人は再び互いの顔を見て視線を交わし合った。言葉の応酬はなくとも、眼差しにはありありと信頼の色が宿っている。三人はそのままくるりと背を向けて、ばらばらに雑踏の中へ紛れるように飛び込んだ。
 旅程の道中で行き着いたというだけの町である。元より長居するつもりはない。だが、今や彼らはその事情を差し置いても先を急がなければならなかった。
 なぜこうも慌ただしくしているのかといえば、無論それにはわけがある。

 あやめの弟の病状の快復、それに至る情報の獲得を目的として旅を続ける三人が一行をつけ狙うような気配を感じ始めたのは、ほんの数日前からのことであった。
 正直言ってあやめには、こうした不穏な気配が付き纏ってくることに対して心当たりがないわけではなかった。
 この三人旅にはなにかと敵が多い。一度として悶着を望んだことはないのに、行く先々で事あるごとに騒ぎを起こしてしまう。
 エルガーを売買していた人売りの組織、危険を承知で路銀のために一時身を寄せた女衒共……。つい最近も辺境の魔女・アニ=マ・ルフェを巡って、世界における三竦みのひとつに挙げられるアブシスカ教皇丁の手先と思しき兵とも事を荒立てたばかり。最早、心当たりが多すぎてかえって見当もつけられないほどである。
 山のように敵対者はおれども、頼れる伝手はろくにない。散々なありさまの彼らには迫る魔の手に真っ向から立ち向かうか、はたまた追っ手を撒くかしかまともな対抗策はない。
 無用な荒事などごめんである。今までの争いとて、避けて通れるものならばそうしていた。ぶった斬っちまうのが一番手っ取り早い方法だからって、好き好んで刀をぶん回していたわけでは断じてない。そうじゃないったらない。なぜなら、獅子王あやめは温厚篤実かつ純情可憐な乙女なので。
 なにはともあれ、「今回ばかりは騒ぎを起こさず穏便に」ということで満場一致した一行は、それぞれ手分けして必要物資を購入したのちに、所定の場所で落ち合ってから早々に町を発つことにした。
 追跡者の存在に気付いていながらわざわざ自ら戦力を分断させる愚行が孕む危険性を、彼らは当然理解している。
 だが、これまでの道中で追跡者が明らかに単独、または極少数であろうという確信があったし、なにより多少の危険を押してでも追っ手を振り切って先へ進みたい気持ちが今は勝った。
 そういうわけで、一行はほんの僅かな間、それぞれ単独行動を取ることと相成ったのである。

 さて、あやめが分担されたのは、それぞれが持つ武器の手入れや製作に用いる消耗品の買い足しだ。砥粉や丁子油、また霊札の原料となる紙や墨などが主である。
 細腕に荷物を抱え、買い忘れはないかと確かめながらに待ち合わせ場所までの路を辿るあやめ。そんな彼女の目が、ふと前方を往くある人物を捉えた。
 あやめの視線を惹きつけたのは、堂々たる体躯をしたひとりの男だ。
 歳の頃は三十に届くか届くまいかといったところか。煌々しい黄金の髪を戴いた男は、その立派な体格も相俟ってまるで知性を宿した獅子が孤高に独歩しているようだった。
 大通りを歩む後ろ姿は、特別なこともないのにやけに雄々しく美々しい。周囲にぎっしりいる旅人らしき者たちも、老若男女を問わず呆けたように目を遣っている。
 わたしもさっきはあんなふうに見えていたのかしら、と彼女は少し恥ずかしく思う。
 見たところ帯剣しているようであるが、冒険者らしくはない。足の運びからして気品溢るる所作は、さる名家の御子息のようにも名高い騎士のようにも思われた。
 人目を惹きつけながらも注がれる視線を自然に受け流す男には、どうやらはっきりとした目的地があるらしい。真っ直ぐに前を見据えて、入り組んだ路地横へと躊躇いなく曲がり込んでいった。

 ——あれだけ慣れたふうに道を歩いているということは、きっと地元の人か、それに近しい人なのね。

 あやめはひとり静かに納得して、ついと目を逸らす。そう当たりをつけてみれば、やはりあのきびきびとした動きは優雅を高貴さと弁えた貴族よりも誠実に実利を取る騎士らしく思えた。城砦も斯くやといった大門の下に立たせてみたならば、さぞや画になろう。不真面目な門番らとは比べるべくもない。
 騎士風の男の足取りを半ばなぞる形で通りを進んでいたあやめは、なんの気なしに路地のほうをちらりと見遣ってはたと足を留めた。
 真っ白いハンカチが落ちている。
 ちょうど、路地を曲がり込んだところで落としてしまったとでもいうような具合だ。
 あやめは思わず腰を屈めてそのハンカチを拾い上げた。
 縁に上等な刺繍の入ったハンカチは、傍目にもごみごみと見える路地には似つかわしくない。とても平民が持つようなものとは思えなかった。汚れも皺もほとんどないから、やはりこれは今さっき落としてしまったばかりなのだろう。
 細い路の奥へ目を向ければ、あの騎士風の男の背中がまだ見える。自らの落としものにも気付かずに、そのままより入り組んだ路地裏のほうへと今にも入っていこうとしている。どこかへ急いでいるのだろうか。
 自身も先を急ぐ身なれど、ここであやめの持ち前の親切心が顔を出した。落としものを拾ってやるぐらいそれほど時間を取られることもないだろうと判断を下した彼女は、足早に男の背中を追いかけた。
 もちろんこんな状況だから、無警戒に追いかけたわけではない。彼女の腰元には握り慣れた刀の他に、まだ傷ひとつない拳銃が拳銃嚢に収められてぶら下がっている。追っ手のかかる前々からエルガーが用意してくれていた、星弾を打ち上げるための装置である。これが、例の〝打合せ〟の内訳のひとつだった。
 星弾とは、弾頭部分に発光性の強い火薬を仕込んだ爆弾のようなものだ。あやめの手のうちに収まるほどの小さな拳銃で以て撃ちだして使用する。
 これを傭兵稼業で使う機会でもあったのか、エルガーは「うまく使えば狼煙代わりにも目眩ましにもなるから」と、ふと思い出したように人数分調達してきてあやめらに渡してくれた。これほど小さければ手荷物にもならないだろうとのことだ。

 ——エルガーに教えてもらった拳銃の扱いかたは——大丈夫、きちんと覚えている。

 手袋に包まれた指先で銃の輪郭、その凹凸をなぞって、彼女は頭の中で何度も手順を反芻する。
 安全装置を外して、銃口を天に向けて撃ち出すだけ。星弾を込めていない状態で練習までした。扱い慣れぬ得物と雖も、難しいことはなにもないはず。

「もし……————もし、そちらの方、」

 思考は今踏み締める路地のようにごちゃついているが、あやめは気負った様子を噯にも出さずに騎士風の男へと呼び掛けた。
 その声を受けて男がぱっと振り返る。拾い上げたハンカチを差し出しながら、彼女は続けた。

「もしかして、これはあなたのもの?」
「おや、それは……」

 白魚の手が差し出す丁寧に折り畳まれたハンカチに驚いたように懐を探った彼は、それがまさしく自身の遺失物であることを認めたようである。眦をゆるりと和らげた。あやめの指先を束の間注視した男は、けれどもこれといってなにを言うでもなく恭しくハンカチを受け取った。
 その意味ありげな行動こそ気にかかったが、それよりも彼を目の前にしてどきりと跳ね上がった心臓に、彼女は落ち着かない気持ちになった。
 まだどぎまぎとする胸を密やかに撫で下ろしながら、あやめは金色の獅子のごとき風貌の男を上目遣いに見る。
 彼女の胸がほんの一瞬でも高鳴りを見せたのは、近付いてみてよりわかる彼の見上げるほどの長躯に今さら怖気づいたためでなければ、うっとりするような美貌のためでもない。
 対面して初めて間近に臨んだ彼が、どこかエルガーに似ていたからだ。澄み透った淡い翠の瞳など、特に——。
 だが、似ていると思ったのもほんの刹那のことだった。我に返って今また見上げてみても、いかにも上品で礼節のなんたるかを知る目の前の男と、快活ながらも粗野な面の目立つエルガーは似ても似つかない。なぜ動揺するほど似ていると思ったのかもわからない。
 ただの一瞬だけでも心を惑わされた瞳の色だって、エルガーがじゅわりと瑞々しい夏の木葉色だとするならば、彼は爽やかな春の木漏れ日のような風合をしている。

「やあ、確かにこれは私のものだ。ありがとう、親切なお嬢さん」

 少しの間ハンカチを検めていた男はそれを懐にしまい込むと、あやめの目を真っ直ぐに見て穏やかに微笑んだ。釣られて、あやめも混乱を押し殺して曖昧な笑みを返す。

「大事な人にもらった、大切なものなんだ。失くしてしまっては事だった。本当に助かったよ」
「……、もしかして……それは想い人から贈られたものなの?」

 動揺から立ち返りきれずにいる心が、つい口を滑らせたのだろう。男があんまり幸せそうに言うので、彼女はつい突っ込んだ質問をしてしまった。

 ——いやだ。いけない。なんてはしたない真似をしたのかしら——。

 咄嗟にあやめは自身の幅たい好奇心を恥じたが、それでも関心が勝って男へ黒々と大きな瞳をちらりと向けた。エルガーと中々想いを通じ合わせることのできない自身の境遇を顧みた羨ましさもあったかもしれない。

「——そんな、まさか」

 男は思ってもみぬことを言われたように目を丸くして、それからまた笑った。気品を滲ませていた先までの微笑みとは打って変わって、どこか稚い、無邪気な笑顔だ。

「誤解を受けるだけでも畏れ多いことだよ。そういう御方じゃあないんだ。私のご主人様からいただいたものでね」
「あ、ああ、それじゃあ、あなたはやっぱりどなたかにお仕えする騎士様なのね」

 あやめは自身の早合点に頬を赤らめて頭を下げた。

「滅多なことを言ってしまって、ごめんなさい。忠誠心を妙に履き違えるなんて」
「気にしないで。曖昧な物言いをしたのは私のほうだ」

 男は真実気にしたふうもない。終始穏やかに応対してくれる。だが、それが一層あやめの羞恥心を刺激して、とうとう彼女は俯いてしまった。

 ——その外貌から、刀を提げているにも拘らず「鉄の味も知らぬ手弱女よ」と侮られるあやめは、その実百戦錬磨の剣士でもある。
 そんな彼女がらしくもない隙を見せたのは、男があまりにも平素のさまで表情も気配も変えずに、そうすることが然も当然だとばかりに腰に提げた剣を抜いて振り上げたからだ。
 害意も敵意も殺意も、彼の内にはひと欠けさえなかった。その動作は日常の延長線上にあった。

「な——ッ!?」

 遅れは取ったものの、それでもあやめは咄嗟に心身を切り替える。荷物を投げ捨てると、鞘を掲げて斬撃を受け止めた。高く金属を打ち鳴らす音と鈍い音とが同時に響く。腕の筋肉と骨がぎしりと軋む。
 後方へ跳んで距離を取って鯉口を切った。透かさず、抜刀の音が鈴のごとく冴え渡って鳴る。

「いったいなにを……!」
「——おや。やはり、女だてらに武具を握ってはいないか」

 あやめは血相を変えて詰問するが、対する男はやはり平然として、未だ折り目正しい騎士の顔を崩さずにいる。それがかえって不気味で、彼女は背筋になにか冷たいものが伝うのを感じた。
 予備動作も言葉もない、男の二撃めがあやめへ重たく圧し掛かる。刀でなんとか受け流す。
 男の剣捌きはさながら修道騎士団のそれだった。お手本通りの美麗なる剣術には、ほとんど隙はない。
 すわ、なればやはり教皇丁の手先か——。あやめは思考する。
 だが、それにしては男の立ち居振る舞いには清貧の面影は見受けられない。どこか威厳があって、仰々しい。
 きんっ、きんっと金属と金属が搗ち合う音が威勢よく断続的に響く。音だけ聞けば互角の接戦を演じているようにも感じられただろうが、実際はあやめの防戦一方だ。
 正体を見破るまでもなく、力負けしてじり貧になるのは時間の問題である。
 ——清廉なる乙女剣士が、このまま穏和しく男の土俵に乗り続けるならば、の話だが。
 あやめは潔白な少女の面差しの裏に、深く濁った闇の側面も合せ持つ女だった。汚い戦術も、目的を果たすというためならば厭わないある種の潔さがある。
 あやめは刀を構えながらも拳銃嚢の口を弾いて開けると、銃口を素早く男の顔面へ向けた。

「——だが、甘い」

 男は、あやめの小手先の術を全て見抜いていたようだった。
 あやめはそのとき自身の内臓がぐちゃぐちゃに圧し潰されたのだと思った。予想だにしない、美しい手習い剣術には似つかわしくなく泥臭く重たい蹴り。
 痛烈な蹴撃に、あやめの意識は一瞬で刈り取られた。



 ——暗い。
 月光も射さぬ夜のように——とまでは言わねども、闇に慣れぬ目ではものの輪郭を捉えることも容易でない。
 顎と頬に刺さる細かな砂利が痛い。膚が擦り切れてしまっているのかもしれない。ずきずきと痛む腹に呻き声が漏れる。
 なんの気もなしに身動ぎしてみて不自由な身体に、あやめはようやく己が拘束されて地に転がされていることに気が付いた。

「あやめッ!」
「嬢ちゃん! 目が覚めたか!」

 仲間たちの悲鳴染みて切迫した呼び声に、まだどこか夢心地でいたあやめは一瞬にして覚醒した。躙るようにして身体を動かして首を擡げれば、自分と同じように縛られ地に伏している美沈の姿がある。
 一方でエルガーのほうはといえば、彼も同様に拘束されてはいるのだが、どことなく丁重に扱われているような気配を感じる。
 なにより、彼だけは無造作に地面に転がされるのではなく、椅子に座らされていた。

 ——わたしは大丈夫。
 ——あなたたちは無事なの。

 あやめが仲間たちの声にそう応えるよりも早く、低く籠ったような声が場にとんと落ちた。

「——ようやくお目覚めかな。御寝坊なお嬢さんだ」

 ここは地下なのだろうか。僅かに光の漏れる、上階に繋がっているのだろう石階段を転がり落ちてくる低く深い声があやめへ穏やかに訊ねる。
 声の主は、こんな状況にも拘らず実にゆったりとした歩調で階段を降りてくる。こつん、こつんと靴が石を打ち鳴らす音が不気味に反響する。音が近付くごとに揺らめき動く光に、あれは日の光ではなくなにか灯りの光なのだとあやめは悟る。
 そうして姿を現したのは、凛として美麗なる獅子であった。胸のあたりで掲げ持つ手燭に照らされるは、あの騎士風の男。あやめが意識を失う前の最後の記憶からしても、あの男が一行をここにこうして連れてきたのだろう。明らかにただ者ではない。

「——ナマエ、」

 そのとき、エルガーが耳慣れぬ名を呼んだ。疑問に思う間もなく、続けざまにエルガーは吐き捨てた。

「いい加減に聞かせろよ。イカレ女の飼犬がたった一匹で、いったいなんたってこんなところまでやってきたってんだ?」

 ナマエと呼ばれた男は、エルガーのあからさまに挑発的な嘲罵をものともせずにこにこしている。

「わからぬはずもありますまい。縄に繋がれた犬が、主人の意に反するとでも?」
「だからわざわざ訊いてるんだろうが。あの女が、いったいどんな魂胆でお前を差し向けたのかをよ」

 ナマエは笑みの質を変えずに答えた。

「精魂込めて磨き上げた珠玉のお戻りを、陛下がお望みゆえにございます」
「……はッ……」

 エルガーが反抗的に鼻を鳴らす。ナマエは困ったように形よく整えられた眉を下げた。目と口は相変わらず笑んでいる。

「そう撥ねっ返らないで。皇女殿下も、首を長くしてお帰りをお待ちですよ」

 まるで小さな子供の我儘を、愛らしく思いながらも諌めるがごとき口振りである。
 そこでとうとう黙っておれずに、あやめはエルガーへ訊ねた。

「え、エルガー、彼とは知り合い……なの?」

 エルガーがわかりやすい渋面で、ナマエが感情の読めぬ微笑みで以てあやめを見返す。
 まただ、と彼女は思う。
 正反対の表情でいるくせ、なぜか似ているような気がする。似通っているところといえば、せいぜいが髪色と体格ぐらいだというのに。
 ナマエはあやめからふいと視線を外すと、手燭を持ったままで部屋の四隅をゆったりと渡り歩いていった。灯りを燈しているらしい。
 手燭の小さな炎に照らされる淡い影が手燭をゆうらりと寄せるごと、順繰りに燭台へ火が燈っていく。地下室全体が、ぼんやりと浮かび上がるように明るくなる。

「しかし、随分とまあ汚れ果てて……」

 ナマエが最後の燭台に火を燈しながら、背を向けたままで言う。表情は窺えないが、声音といえば困ったような響きがあった。

「私が飼犬ならば、貴方様はまるで野犬のごときありさまではないですか」

 ナマエは手燭の蝋を壁掛けの蝋燭立てに移して振り返った。やはり困ったような微笑が、瞬きののちに見る者の心を和ませるような耀かんばかりの笑顔に変わる。

「しかし、御案じ召されませんよう。陛下の御前に参上される前には、きちんとお湯やお召替えをご用意いたしますゆえ」

 手燭を置いたナマエが、今度はゆっくりとエルガーへ歩み寄る。そして、慈しむように手の甲でエルガーの頬をそうっと撫でた。

「昔のように、襯衣の釦ひとつに至るまで私がお世話させていただきますよ、殿下」

 エルガーは鬱陶しそうに頭を振ってナマエの手を払い除けた。ナマエは変わらず笑顔のまま、素直にエルガーから退くと淀みない動作で剣を抜いた。

「さて……、その前に所用を済ませなくては」

 白銀の輝きに、場に緊張が走る。
 ナマエは少女ふたりに向き直ると、まず美沈の首元に剣を差し向けた。
 生来の気性もあってか普段は底抜けに陽気でいる美沈もこれにはさすがに危機感を覚えたようで、藍玉の瞳は瞬きもない。蟀谷に冷や汗が垂れている。
 親友の危機に、あやめは胸を引き絞られるような恐怖を覚えた。

「メイ!」
「おい、やめろ!」

 エルガーも揃って声を荒げる。これまで見たことがないぐらいに苛ついた様子だ。

「お前が、無抵抗でいれば嬢ちゃんらには手出ししねぇと言うから俺は従ったんだぜ! 約束は違えるなよ!」
「大丈夫、殺しはしません。他領の民とはいえ、謂れなく無辜の血を流させては陛下の帝冠が穢れを負ってしまう」

 やり取りから察するに、恐らくエルガーはこうした拘束なども全て含めて「あやめと美沈には手出しをしないこと」という条件のつもりで従ったのだろう。その顛末がこれでは、エルガーの激情も納得ができようというもの。
 だが、彼は話が通じない。ナマエは美沈に向けていた剣の切っ先を、続けてあやめの喉元に当てた。
 ここで、エルガーが我慢の限界を迎えた。

「い、いい加減にしろよ、てめぇ……! 俺たちを弄んでんのか!」

 エルガーは激しい怒りのために、全身がぶるぶると震えてまでいた。声は戦慄いている。ぎちぎちに身を戒める拘束具さえなければ、今にも飛びかかっていただろう。
 あまりにも温度差のある態度でエルガーの様子を具に観察していたナマエは、なにかに納得したように二度三度と小さく頷いた。

「なるほど、こちらか」

 冷ややかな呟きが落ちる。
 ナマエは剣を鞘に収めると美沈に轡を噛ませたのちに、あやめの腹を一切の手心なしに蹴りつけた。

「————……ッ!!」

 足の甲が寸分違わず先の戦闘で抉られた腹にめり込んで、あやめは声も出ない。

「あやめッ!」
「むぐっ! むむうッ!」

 エルガーが叫ぶ。美沈はくぐもった悲鳴を上げる。恐らくは彼女もあやめの名を呼んだのだろう。
 安心させてやりたいが、今は呼吸さえ儘ならない。はくはくと浅く早く息を繰り返すあやめの顔の傍へ座り込んだナマエは、少女の華奢な顎を掴んで持ち上げた。
 こちらを覗く春の木漏れ日の瞳は一切の濁りがない。美しい色をしている。

「時にお嬢さん——、君はもう、殿下の閨門の衛は務めたのかな?」
「え……」

 聞き馴染みのない言葉だ。あやめの思考が停止する。
 ナマエはそれを軽蔑することもない。ただ、穏やかに微笑んでいる。

「——『寝たのか』と訊いている」

 言いながらに、男はあやめの襟刳りを鷲掴みにしてひと息に割ってみせた。

「——ッ!? きゃあっ!」
「あ、あやめッ!」

 釦が弾け飛んで、さらしを巻いた水も弾くような若く瑞々しい女体が露わになる。あやめは一瞬状況も忘れて、柔らかい頬をかあっと紅潮させた。エルガーも同様に顔を赤らめて、即座に鼻先を逸らす。
 その様子をやはりじっと見ていたナマエが、心からの笑みを「にこ!」と浮かべる。

「偉いですよ、殿下! 賢明なご判断でございます。よもや、以前にナマエがお教えしたことを覚えておいでだったのですか?」

 あの寸隙のやり取りでナマエはふたりの間で事が起きたことはないと正しく理解したようだった。晴れやかな表情で、恭しくエルガーを褒めちぎった。

「アクシニミリアの青き血を徒に荒れ野へ垂れ流すことだけは、罷り間違っても許されることではありませんからね。今後も、お遊びはナマエの目の届くところまでにお留め置きくださいませ」

 あやめはナマエが流暢に紡ぐ言葉で、腹部への執拗な攻撃は万が一のことを考えてのことだったのだとようやく思い至った。

 あまりにも邪悪で、歪んでいる。

 常人には理解し得ない思考を持った狂人が平然と自らの前に存在する悍ましい事実に、あやめは背筋を粟立てた。

「しかし、見たところ、彼女には下心がある様子。畏れ多くも殿下の玉体に手をかけようとは……命知らずの女狐もいたものだ」

 言いながらに、ナマエは笑みを崩さずながらも冷淡にあやめを見下し睨めつける。
 その冷え冷えとした眼差しに己の肉欲混じりの慕情の全てを見透かされた気がして、あやめは激しい羞恥に身悶える思いで唇を噛んだ。

「一応、確認を。殿下、ナマエの言う通りに皇城へお戻りになる気は?」
「…………」

 エルガーは答えなかった。だがその沈黙にはふんだんに否が込められている。次いで自身へ流された視線に、あやめは痛みを堪えながらに毅然として言ってのけた。

「あ、あなたに……指図を受ける筋合いはないわ」
「なるほど……」

 ナマエは手袋に包まれた両手を高く掲げると、ぱんと小気味よく打ち鳴らす。すると間を置かずして、なにものかが一斉に上階から地下室へ降りてくる気配が近付いてきた。複数の足音は続々と折り重なり、異様な厚みを増してどんどん大きくなる。
 不吉な予感に、彼女はぞっとした。

「決断を押し通すには、いつでも犠牲が伴うもの。だが、私はでき得る限り無血に努めたい。平和主義なものでね。
 ——だから、ありとあらゆる方法で君を辱めよう。君が『もういやだ』と音を上げるまで嬲り、痛めつけよう」

 ひとり、またひとりと男たちが地下室へと降り立つ。薄汚い浮浪者のごとき出で立ちの男たちは、誰もがぎらついた目で為す術もなく地に伏す少女たちを見据えている。

「それでも強情にも意地を張るというのならば致し方なし、皇族を拉致しようなどという不届き者の首は刎ねるまで。正義のために積み上げる死で、皇位は穢れない」

 総勢五、六人の男たちが下卑た笑みを湛えながらにナマエの後ろへ居並ぶ。そのうちのひとりが卑屈っぽくへらへらしながら声を上げた。

「ほ、ほんとにいいんですかい、お坊ちゃま。金までいただいた上、この女、好きにしちまっても」

 にこりとして頷くナマエに、男たちがわあっと沸き立つ。怖気立つような光景だ。

「最初はなんの冗談かと思ったが……へへ……、どっちも別嬪じゃねえか。こっちのちんまいのなんて、人形みてえに綺麗な顔してらあ」

 破落戸のうちのひとりの言葉で「ああ、」とナマエが思い出したように声を上げる。

「そちらの少女には手を触れるなよ」

 ナマエの視線は轡を嵌められたまま、地面をむぐむぐとのたうつ美沈に向けられている。

「彼女はこの件に関しては関係ない。ただの一般市民だ」
「で、でもよう、お坊ちゃま。俺ァ、こういう色の薄くって小さい娘っ子のが——」

 ナマエは微笑みを絶やさず、滑らかに剣を振り抜いた。未練がましい口答えを募る口はそのままに、びゅくっと噴き上がった血で男の首が胴からぽんと跳ね上がり、血に塗れた頭が石床をころころりんと転げてゆく。

「何度も言わせるな」

 〝無血〟と宣ったその舌の根の乾かぬうちに、ナマエは躊躇いなく男を手にかけた。自分たちを雇った人間の異常性を今さら知ってか、若く美しい女の柔肌に浮き立っていた男たちもこれにはさすがに押し黙る。
 だが、ナマエは恐怖に慄く男たちに容赦なく詰め寄った。

「どうした? 金を受け取った以上、今さら役目が果たせないとは言わせぬぞ」

 この期に及んで手を引くことが許されないことぐらいは理解しているのだろう。男共は一様に青褪めて、何度もこくこくと頷いてみせた。少しでも美沈の傍へいた者は皆腫れものを扱うみたいにして、大袈裟なほどびょんと飛び退いて離れていく。
 呆気に取られた様子でいたエルガーが、はっとしてナマエを振り仰いだ。

「こんなこと、冗談じゃあ済まされねぇぞ! おい、やめろ!」
「無論、冗談でこんなことはいたしませんとも。私をなんだと思っておいでか」

 鷹揚に構えて笑うナマエは、エルガーの怒声にもどこ吹く風だ。飄々としている。

 ——どうしよう。
 ——どうすればいい?

 最早剥き出しになった膚のことはちらりとも頭を過らない。あやめは必死に考える。
 慰み者になって、それで奴らの気が済むならあやめは一向に構わない。美沈とエルガーのためなら、彼女は己の身を切り売りすることも苦にならない。
 だが、今はそんな話ではないのだ。
 ナマエは恐らくその場凌ぎの甘言では納得しないし、中途半端な始末で誤魔化されてもくれないだろう。あやめが散々犯されたところで、結局自分の思い通りにならないなら殺すとまで明言されているのだ。
 あやめの思考が纏まるのを待ってくれる人間はどこにもいない。汚らしい毛むくじゃらの手が、少女の豊かな双丘の片割れをぎゅむりと掴み上げる。胸に食い込む長く伸びた爪に、あやめはぎゅっと眉根を寄せた。

「メイ、エルガー、わたしなら大丈夫だから」

 そう、大丈夫。——大丈夫。あなたたちのためなら、どんな辱めにも堪え忍んでみせるとも。
 だからわたしの代わりに、あなたたちはどうか活路を見出してほしい。
 あやめの瞳は光を失わない。強く射抜くような眼差しで美沈とエルガーを順に見つめる。

「……でも、お願い」

 ——だけれども。
 獅子王あやめは、まだたった十八の女の子なのである。

「——せめて、見ないで」

 苦痛と恥辱を割り切れるわけがない。
 見も知らぬけだものたちに身体を暴かれて平気でいられるはずもない。
 あやめは仲間たちに潤んだ瞳を見られまいと目を固く瞑って、細い首筋をぐいと捩った。
 男たちの、馬の嘶きのような興奮しきった笑声が横たわる少女の身に降り落ちる。幾本もの腕が競ってさらしを引き千切る。胸を鷲掴みにして揉みくちゃにする。乳頭を捩り摘む。生温かい舌が柔肌を這いずり回る。桜色の唇は無理矢理に開かされ、生臭い唾液が流し込まれる。
 そして——醜く浅ましい陰茎が女壷にひと息に突き込まれた。

「おほおッ! いい具合だあ! こんなまんこ、売り女にも滅多にいねえぞ!」

 男が歓喜の声を上げる。それがあのときナマエの後ろに並んでいた男のうち誰なのかもあやめはわからない。知りたくもない。
 そのまま、ざらついた手は少女の細腰を両手で締め上げるように掴んで、めちゃくちゃに腰を振りたくり始める。

「うぐッ……く、うぅ……うっ、うっ……」
「んんうっ! むうっ! むーッ! ぐずっ……ふぐ、んむ、ぐううっ……!」
「やめろッ! やめろおおッ!!」

 男たちの狂乱の声の最中にも負けじと耳に突き刺さる友の啜り泣きと恋い慕う男の絶叫が、なによりあやめの胸を衝いて痛い。
 心に染まぬ行為であろうと、刺激を与えられれば身体は自己防衛のために反応を示すもの。そうとわかっていて濡れそぼつ秘裂にあやめは嫌悪感を懐き、ものを知らぬ男は「好き者め」と舌舐りをした。
 調子づいた破落戸は、退屈そうに傍に立つナマエを振り仰いで言う。

「——この女、かなり具合がいいですぜ! お坊ちゃまもお楽しみになっちゃあいかがですかい?」
「ははは、そうか、そうか」

 目を瞑っていたあやめにはなにが起こったのかわからなかった。
 温い水が音を立ててぶしゃりと噴き出したかと思えば、顔へ胸へと降りかかる。はっとして目を見開けば、自らの身体を穢す男の身に首がない。その消えた首の先から真っ赤な血液がぶしゃぶしゃとだらしなく噴き出ては、あやめを汚しているのだ。
 あやめは唇を噛んで悲鳴を押し殺した。首もないのに腰ばかりが動く男の肉棒が、自らの身体のうちで急速に冷えて萎えていくのが鮮明にわかる。最期の断末魔のように中へびゅくりと出された精液は生温かい。気持ちが悪い。とうとう力尽きて身体に圧し掛かる重たい身体はどれだけの期間を風呂に入らずにいたのか、つんと鼻につく、酷く饐えた臭いがする。

「陛下の御側に侍る身を婢で瀆せと申すか。——不敬な」

 ナマエは吐き捨てると再び冷えた空気にも構わず、今度は自らあやめへ触れた。
 手袋越しにもわかるほどにきんと冷たい人間味のない指先が、汗で額に張り付いた彼女の前髪を払う。

「長く美しい髪だな」

 ナマエが低く囁く。

「黒々として、艶やかで——……さぞ丹念に手入れをしてきたのだろうな。旅先でこれほどの艶を保ち続けるには苦労も多かったことだろう」

 すう、すう、とナマエの大きな手が慈しむようにあやめの頭を優しく撫でる。
 そういえば、と、今になってはもうどうでもいいひとつの事実と気付きがあやめの脳裏に閃く。
 この男が手のひらを使うときは必ずあやめや美沈に触れるときで、エルガーへ触れるときは決まって手の甲だった。明確な使いわけがあった。

「なに、案ずるな。その苦労も——今日限りで終わる」

 ナマエはあやめの小さな頭の下へ手のひらを差し入れると、艶のあるポニーテールを鷲掴みにして、その結われた根元からをざんと切り取った。
 髪を結い纏めていた紐がはらりと落ちて、ざんばら髪が彼女の頬と首をさらさら擽る。物心ついた頃にも、こんなに髪が短かったことはない。
 ナマエに怯えていた破落戸は、それを見て思わずといったふうに声を上げた。

「お、お坊ちゃま。どうか、それをお恵みでくれねえか」
「ああ、構わないとも。好きにしろ」

 ナマエは景気よく頷いて、その髪の束を破落戸へ手渡してやる。破落戸はいかにも嬉しげに頬を緩めると、あやめの髪を自身の陰部へ巻きつけた。

「よ、よく手入れされた女の髪ってのはよ、へへ、上等な絹みてえでよう、こうして扱くと滅法気持ちいいんだよなあ。へ、へへへ……」

 椿油を塗って丁寧に櫛を通してきた自慢の黒髪。それが薄汚い手の中で、我慢汁に塗れて揉みくちゃにされていく。
 つらいことには当然つらいはずだった。だけれど嫌悪感なら無理矢理に犯されていた先までのほうがずっと勝っていたはずで。
 ——それが、いったいどうしてここまで心が堪えたのだろう。あまりに追い詰められきった精神は、つまらぬことを切っ掛けに瓦解してしまうものなのかもしれない。

 虚ろな瞳に涙膜が張る。ひと筋の涙が、少女の精に塗れてなお穢れなき頬をつうと流れる。

「——頼むから、もうやめてくれ……」

 無垢なる少女の惨憺たる涙に弱々しく懇願したのは、エルガーのほうだった。散々に叫び通したせいで嗄れてまでいる声は痛々しい。ナマエはぴくりと肩を揺らしてエルガーの顔を覗き込んだ。

「……と、仰ると?」
「お前の言う通りに、国に帰る……」
「…………」
「だから……だから、もう、これ以上あやめに乱暴するのは、もうよしてくれ……」
「——よろしい」

 待ち侘びたひとことに、悪魔のごとき男がにっこりと笑う。

「よくぞご決断なされた。ナマエは、素直でよい子な殿下が好きですよ」

 ナマエは機嫌よく言うと、力なく転がるふたりの少女へ呼び掛けた。

「お嬢さんがた、皇族拉致の疑いが晴れた今、君たちは罪なき一般市民だ」

 血に塗れた紅刃が一切の躊躇いなく振り抜かれる。男たちが己の末路を悟って逃げ出そうとしたときには、すでに遅かった。男たちは悲鳴を上げることさえ許されずにひとり残らず斬り捨てられた。

「——婦女を辱めた罪人への罰には、死が相応しい」

 血を振り払い剣を鞘に収めると、ナマエはエルガーの身を恭しく支えながらに椅子から立たせた。憔悴しきったエルガーを見つめる眼差しには慈愛が溢れている。

「拘束具がご窮屈ではありましょうが、今暫くはこのままで。ご無礼をお許しください。では、参りましょうか、殿下。馬車の手配は万端ですよ」

 ナマエとエルガーが連れ立って地下室の階段を登っていく。ふたりぶんの硬い足音がこつこつと響いては遠ざかっていく。
 断ち切られ、ぐしゃぐしゃにされて、塵のように床に散らばる自身の髪だったものを見つめるあやめの耳には、もう美沈の啜り泣きしか聞こえなかった。


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24/01/08