朽木のままごと


 じ。じじじじ、じ。じい。
 ————じ。

 途切れ途切れに蝉の声が響くは、川のせせらぎを彼方に聴く大地の裂け目の底。夏日の瑞々しい翠滴るふくよかな森。
 そんな鮮やかな木々の色合いとは一転、軒先に黒く影の焼きついた古民家の戸口と、陽光にあてられて輝く白らかな大地。
 闇と光のあわいをちょうど境目として、ふたりの男は正面から向き合い立ち尽くしていた。
 軒陰に身を潜めてなお熱した針で肌をちくちくと刺されるような空気に、彼の蟀谷から汗が滲む。見る間に透明の玉と変じて肌をするする伝う雫は両の爪先のあいだにぱたりと落ちて、土間の沈んだ土色をより暗く染め上げる。
 もう随分と長いあいだ、こうして互いの顔色を覗き込んだままでいるような気がした。糸を手繰る指に見捨てられた木偶のように、延々と無為を磨り潰しては蝉の叫喚に耳を穿たれている。そんな、気が。

 じい。じい。じ、じ……。

 飽き足らず蝉は鳴く。孤声は夏空に吸い込まれ虚しく消えゆく。残響が、立つふたりの身を滅多打ちにするだけしてあとはなにもない。
 あんなに小さく取るに足らない虫が、どうしてこうも喧しく耳に障る声を出せるものか。彼には常々不思議でならなかった。
 炎でものを炙っているのにも似た音だ。
 そう、思う。
 ちっぽけな、消えかけの命を少しずつ炭と灰に変えていく無慈悲な炎が、番を得られぬままの哀れな声の主をとうとう焼き尽くさんとしている。聴く者の憐れみと軽蔑を禁じ得ない、陰惨な音色——。

 煩い。
 悍ましい。
 いっそのこと憤ろしい。
 そしてやはり、烏滸がましくも惻隠の情が胸を衝くのだ。

 ————馬鹿な。

 黒々とした嘲りが喉許へそっと浮かび上がっては唇を醜く歪ませる。
 馬鹿な。
 馬鹿な。
 なんと愚かしい。
 いったい、なにを以てして己が身を未だ情けを垂れる御座のうえにあると思い誤っているのか。甚だ身の程を知らぬ空け者を、我が身こそが嗤っている。
 突っ張る面の皮に絞り出されるようにして、また肌に執拗く水気が差す。無色透明の軌跡は無為な思考を切り裂いて雫が地面を叩く。切実な声は茹だるような暑さを弥増しにする。
 余計に汗が噴き出して。
 ——ぽたり、と落つ。
 闇に息を潜めつつも、彼の膚には次から次へと玉汗が生ずる。
 反面、彼と相対して光のなかに立つ男の肌身はからからに渇ききっていた。汗のひとつも掻いていない。ぎらついた陽光に絶えず背を打たれながらにして、これは到底信じられないことだった。
 暑ければ汗を掻き、身を冷やす。そんな人としてあるべき生理現象を丸きり切って捨てたような姿は、男から人間味というものを喪わせていた。剰え、男の黒々と焼けた肌は悉く血の気を失せさせてまでいて、土塊染みた色をしているのだ。
 いよいよ生命が感じられなかった。まるで幼子が手慰みに拵えた不出来な土人形のようだった。
 土塊の男は己の口までもを塗り固めてしまったと見えて、いっそ不気味なほど無機質に黙している。それでいて、この小さな一軒家を外界から隔てんと地にべったりつけられた二枚の足裏には、生々しさをも匂わす確固たる意志が窺えた。
 なにか傷ましいものを見た心地がした。
 これ以上は見ておれず、顔を上げる。
 巨大な一枚岩のごとくに佇む男の背後には、今も冗談かと思うほど美しく澄んだ紺碧色が広がっている。
 息苦しくなるぐらいの青さが見開いた目を押し潰すように被さってきて、天地が引っくり返る錯覚にぐらりと眩む。
 これ以上ないというほどの青を味方につけて、妙な物々しささえ纏わせて。如何な申し立ても聞き入れぬとばかりに立ち開る土塊の男が——しかし彼の目には、道標を見失った子供よりも途方に暮れて見えた。

「——兄者、」

 逆光から闇を刷いて異様に平たく見える顔にとうとう穴を穿ちて、土塊が彼へ呼びかける。呼びかけるだけして、黙り込む。
 それで、彼は「そうか」とだけ思った。
 薄情だったかもしれない。
 だがそう思う以外に、いったいなにができたというのだろう。
 土塊は——弟は、震えていた。
 震える手で懐から小包を取り出すと、それをこちらへ差し出してきた。彼は視線だけを下げてそれを見る。
 包帯で包んだのだろうか。土か煤か、それとももっと別のものか——判然とはしないが、とにかくなにか薄汚れた布で包まれたそれはころんと小さい。弟の潰れた肉刺だらけの大きな手のうえにあっては、余計にちっぽけに見えた。
 だというのに、そんなものが彼にはとても恐ろしくて堪らない。自ら手を触れようという勇気が、どうあっても奮い立たないほど。
 照る日光のしたにあってなお青く細い彼の腕には一向に活力が漲ることはなく、だらりと垂れ下がっている。割れかけの薄い爪の張った指先はぴくりともしない。

「兄者、」

 息を吐くのとほとんど変わらずに弟が囁く。それはまるで神事を執り行う神官のようで、厳かですらあった。上がり性の弟がこんなにも落ち着き払った口を利けるのを、彼は今初めて知った。
 ——そんな、降って沸いた仄かな驚きを塗り潰して、彼は薄く自嘲する。
 これは紛うことなき現実逃避だ。頭蓋の内を取り留めのない考えで埋める醜態を、常ならば彼自身「臆病者」と呼ばわったに違いなかった。
 それでも今は。
 そうだとしても、今ばかりは。
 どんな謗りを受けようとも、背を向けて逃げ出したくて堪らない。年端もいかぬ幼子のように蹲り、頭を抱えて。ただ時の過ぎ去るのを願って待っていたい。
 喘ぐ胸を千々に引き裂かれるような悲しみも、地を踏む脚が膾切りにされて頽れるようなつらさも、そこにあると認めさえしなければ存在し得ない。彼が心身に受ける世のことはすべて、誰あろう彼の知覚を以てして初めて顕現し得るのだから。
 だから、見聞きさえしなければ。知りさえしなければ。
 ここにはもうなにもない。
 なにもないまま、赦されるはずだった。
 ——そのはずだったのに。
 歯噛みする。
 拳を握る。
 自分ひとつ傷つけることさえ満足にいかない不具の身は、なにを繋ぎ止めるにも足りはしない。
 そうして赦しを与えてくれるはずだったものさえ。
 もうここにありはしない。
 ここにはなにもないのだから。
 それならやはり、彼は眦を見開いて、あるがままの声に耳を傾けることしかできないのだった。

 下ろした手に、ぐっと引っ張り上げる力がかかる。とうとう焦れた弟が彼の手を引いたのだ。岩肌のようにごつごつと硬い手が、細く生白い手を力尽くで開かせて包みを握らせる。
 包みは、見た目以上にずっしりとしていた。ぞっとするような重みがあった。
 弟が低く言う。

「確と——」

 「渡した」と。
 そう言いたいのだろうか。
 目だけで弟を見上げる。弟も彼を見つめていた。
 こんなことを頼んだ覚えはない。そうは思いつつも、これを受け取るのは弟の他には己以外にあるまいという遣る瀬なさもまたあった。
 弟はもうなにも口を利かなかった。黙ったまま踵を返すと、重たそうな足取りで振り返ることなく立ち去っていった。
 ひとり取り残された彼はいたしかたなく、手のうちに視線を落とす。青ざめた不健康な手のひらには包みがごろりとある。弟の手にあったときはあんなに小さく思えたのに、今は怖じ気づくほど大きい。
 包みを緩く手のうちに収めたままで家のなかへ取って返す。然して広くもない空間を、まるで産まれて初めて足を踏み入れたかのように今さらぐるりと見渡す。
 集落の外れに構えられた、いくつかの部屋があるだけのつまらぬ平屋。澱んだ空気が滞ってうんざりするほど暗く湿っぽい、終の栖と決めたはずの愛しき我が家。
 どれだけ待ち惚けを食っても、ここはがらんどうだ。打ち捨てられてしまったあとの空木みたいに、鼠の気配ひとつすらない。今や真の諦めを飲み下した身で、これまでに懐いていた絶望なぞ全て安易に脱ぎ着できる皮衣に過ぎなかったのだと、彼はとうとう思い知らされた。
 のろのろとした動作で包みをそっと開いていく。開ききって、淡く息を吐いた。あまりに軽薄な吐息は身中を埋めて溜まりきった鬱屈の汚泥を浚うには到底足りぬ。
 包帯で包まれていたのはほとんど乾きかけの肉だ。水分を失って特有の、茶色がかって筋の入った肉の塊。
 これを、弟がどうせよというつもりで渡してきたのかはわからない。だが彼は包みの中身に対してとある予感があったし、そうであるならば最早迷いはせぬと肚に決めていた。
 彼は囲炉裏の前、板間に脚つきの俎板を設えるとそこへ肉を置いた。灰のなかから炭を掘り起こして、鉄鍋で湯を沸かす。
 幼き時分には想像もしなかったことだが、簡単な調理なら今ではわけもない。もう誰の手解きを受けずとも、火も包丁も、ある程度までの扱いなら慣れたものだった。
 炭がぱちぱちと弾ける音を聞きながら、肉へ慎重に刃を立てる。乾いた肉は殊の外刃の入りがよい。驚くほどすんなり骨と身に切りわけられた。
 身から取り外した骨は擂鉢に全て入れ込んで砕いていく。これも、随分簡単に粉々になった。もっと根気のいる作業だと思っていたのに。脆くなっていたのかもしれない。それが悲しかった。
 沸々と噴く鉄鍋のなかに小さく切った肉と砕いた骨を諸共入れて、常備している味噌玉を沈める。ぐらぐら煮込むうちに味噌と固めた葉野菜がゆるゆる解け出して、湯が見る間に茶色に染まっていく。手にした大ぶりの匙で二度三度ぐるりぐると掻き混ぜれば、普段食べ慣れた味噌鍋のような具合になる。
 肉も野菜も柔らかく戻された頃合いを見て、彼はそれを椀に五分ほどよそってみた。見た目はやはりさほど悪くない。すんと鼻を鳴らせば、味噌のこくと深みのある風味が鼻腔を通る。
 では、味は?
 匙を持ち上げる。丸みを帯びた、木目の鮮やかな匙の背。そこから髄を滴らせるかのごとく茶褐色の露が垂れている。
 恐る恐る唇に押しあててみてから、ひと口含む。
 ——その瞬間だった。

「ぐ——、」

 重い呻きが漏れる。
 咽頭を突き刺す違和。
 ばちばちと味蕾が弾けて。
 喉は生きた魚を呑んだがごとく。
 彼は咄嗟に口を押さえた。顔を俯けた。押さえた指の隙間からは鼻息が激しくふうふうと漏れる。

 信じられないほど、酷い味がした。

 腐った砂利と泥を煮詰めたものを啜ったら似た味がするのかもしれない。地獄の底に至ってさえ、こんな食事が供されることはなかろう。
 身体は今にも吐き出してしまいたいと訴える。だが、彼はそれを許すつもりは毛頭なかった。口から吹き零れた汁の一滴まで指で詰め込んで飲み下す。どろどろした熱が口から喉へ、喉から胃の腑へと真っ直ぐに駆け下りていくのが触感としてわかる。
 匙のひと掬い、たったのこれしきを腹におさめるだけで額はじっとりと汗ばんで、呼吸は乱れたまま正常に戻ることはない。震える手が声なき声で「こんなものを食らうのはよせ」と叫んでいる。
 けれども。
 本能に逆らって、彼はまた匙を噛んだ。



「——兄者、おはよう。いい天気だ。鳥も、鳴いてて」

 外から、弟の声がする。

「兄者、今日も日射しが強い。もしも御出になるなら、日除けになにか一枚羽織ったほうがいい」

 空になった丸底の椀に弟の声が放られて、うるんと滑っては部屋じゅうに転び出る。

「兄者、——頼むよ」

 もう幾日経ったか知れないし、そのあいだに弟が幾度足を運んではこちらへ呼びかけていたかも知れない。

「ほんの少しでも俺を哀れんでくれるなら……どうか御声を聞かせちゃあくれねえか」

 張った虚勢がために溌溂としていた弟の音声は、彼がほんの一昼夜黙り込んでいるうち聞く影もなく萎れた。それから絶えず、ずっと、今も啜り泣きのような請願が切々と零されるばかりでいる。
 鍵もかからぬ戸の前で兄を恋しがって泣く弟を哀れんだわけではなかった。それでも飽きるほど聞いた呼びかけのひとつにとうとう従って、彼は外へ歩み出た。
 久方ぶりの陽光は、眩しいを通り越して最早痛みさえ覚える。白熱した極彩色が網膜に焼きついて、視界に疎らな虫食い模様を作っている。
 そんな目でも、打ちひしがれて、額と地べたを水平にして這い蹲る弟が怯えるように肩を揺らしたのはわかった。背後からはなにか重みのあるものが倒れたような鈍い音がしていて、恐らく弟はこれに驚いたのだろうと思う。
 短く髪を刈り上げた黒頭がのろのろと上向く。眩しげに細められた両目、そこから溢れる涙が痩けた土色の頬を伝い、硬く立った無精髭からつと垂れる。光のなかで平べったくなった弟は、踏まれた挙げ句に太陽に焼かれ消えゆく虫のようだ。
 彼はほつれた袖の先でその涙を拭ってやろうと手を伸ばして、思い留まった。もうそんなことをしてやれるような身ではないのだと、誰よりわかっていたから。
 腕を下ろし、天を見上げる。
 ふたりの頭上にある空は変わらず青い。
 どこまでも、天井知らずに青い。

 だが蝉は。
 あれほど喚いていた、虫螻共は。

 いつの間にか、鳴き止んでいたようだ。


***


 血管の淡く浮いた白く薄い目蓋。それを縁取る濡れた黒百合の睫毛が、極微か羽撃くようにふるりと震える。
 音がする。
 あやめがその物音に気がついたのは、あまりに突然のことだった。
 まるで霜を砕くような——いや、もっと乾いた音だ。枯れた小枝を踏み折る音にも似ている。

 ——なんの音かしら。

 視界のすべてを闇に浸したままで、彼女は虚ろに耳を澄ませる。
 背筋がぞっと粟立つ、怖気を震う音だ。それでいて赤黒い炎に巻かれているかのような錯覚を呼び覚ます、息苦しいぐらいの熱を感じる。

 ——熱い。

 はく、と彼女の唇が空を食む。小さな白い貝殻のような歯が下唇を圧し潰す。全身はじわりと汗ばみ、豊かな胸の谷間を汗水の川がしとどに濡らす。
 そうだ、熱いのだ。
 これは——火だ。
 思い出を、情愛を、そして命を燃やし尽くす——炎だ。
 そう思い至ってからは一瞬の出来事だった。真っ暗闇の視界が突然毒々しいまでの紅一色に染め上げられる。業火に巻かれたあやめは自身を掻き抱き、激しい恐怖と怒りに身を強張らせた。
 しかし悲しい哉、受け入れ難きに抗わんとす処女の細腕ごときを、炎はものともしない。
 紅が膚を舐める。肉を燃やす。骨を溶かす。少女の無垢に柔い身を暴き、めちゃくちゃにする。
 燃える。燃えていく。すべてが。
 あやめに託された使命。定められた命の使い道。肢体につけられた売値。愛する家族のためと謳うなら斯くあるべしと均された道程。
 なにもかもが余さず灰燼と化していく。
 夢も、空想も、誰かの辿った道筋も、自ら刻んだ足跡も。
 すべてが綯交ぜになる。
 灰になる。
 同じ灰。
 同じ色。
 同一のもの。
 そうして境もなにもなくなって——いずれ灰の山から生まれ出でた芽が、一輪の花を咲かせるのだろう。
 ただ、一輪の花。
 一輪の。

 ————菖蒲?


「————ちがう!」

 ばっと目を開ける。
 勢いのまま飛び起きる。
 誰が叫んだ?
 誰が否定した?
 目まぐるしく動き続ける思考は、やがてひとつの解に辿り着いて足を止める。
 全て、自分自身である、と。
 恐ろしいほどの脱力感を覚えていた。その一方で胸の内に収まる心臓は勤勉だ。全身が脈打っているのではあるまいかと思うほど鼓動が速い。握れもしない拳は激しい感情を持て余してぶるぶると震えているし、息は、肩が大きく上下するほど荒かった。
 呼吸を落ち着けるうちにじっとり濡れた額を自覚して、あやめは手の甲で乱暴に汗を拭い去った。水気を纏った前髪が未練がましく肌にへばりつくのが鬱陶しい。
 だがその煩わしさとは反面、すっきりと明瞭になって現実を取り戻した視界で以て彼女ははたと思う。
 ここはどこだろうか?
 あやめが目を覚ましたのは板張りの小さな部屋のなかだった。彼女は、ちょうどその中央に敷かれた薄い布団に横たえられていたのだ。
 ここは、どこだろう?
 細い首を捻り辺りを見回しながら、また思う。すぐそこに見える戸は恐らく外に直接繋がったものではない。一見して生活のための家財道具が少なすぎることからも、きっとここは寝室としての用を為している部屋なのだろう。加えて、ひと部屋辺りの大きさや建材の質素な雰囲気を考慮するに、この建造物が小ぢんまりとした家屋であろうことは容易に知れる。
 でも、それだけだ。
 この家そのものに、彼女は一切の心当たりがない、と思う。
 あやめという少女を成す起源とも呼ぶべき東洋の郷。独特の文化を残すその気風を色濃く反映した家であることは知識としてわかっても、こんな場所で目を覚まさなければならない謂れに彼女はとんと思いあたらなかった。

 旅を、していた。
 独り言ちて、あやめは密やかに頷く。
 そう。そのはずだ。
 ——いや、正確には今だって旅の途上にあるはずなのだ。
 だってその証拠に、戻っていない。

 あやめは緩く首を振って、震える息を全て慎重に吐ききった。常以上に薄くなった胎のうちで孕んだ不穏は産声すら枯らして幾久しい。
 記憶の始まりはいつも同じだ。寸分違わず、一度として変わらない。
 ここがあの忌まわしい寝台のうえでないのなら、あやめの今回の旅はまだ終わりを迎えていないはずだ。
 なればこそ。尽きぬ疑問が彼女の脆い胸のうちを揺り動かす。
 幾度となく重ねた繰り返しのなかにも見覚えのない場所と出来事。それは同一の事象に慣れきったあやめの心を必要以上に不安で苛んだ。
 とにかく気持ちを落ち着けたくて手を握る。少ししてから、開く。また握って——開く。そうするうちに白い手のひらに巻きつけられた包帯を見つけて、彼女は暫し目を見張った。

「これは……」

 見れば、手のひらだけではない。腕にも脚にも、身体じゅうの至るところに治療の跡がある。のみならず、装いまでもが変わっていた。
 今のあやめが身を包むのは、褪せたような生成色をした長襦袢。まるで重病人のごとき出で立ちである。唯一、髪を纏めていた結紐だけはほどかれて傍らに置かれていたのを見つけたから、あやめは慌ててそれを手のうちに握り込んだ。
 異変をひとつまたひとつと数える毎、記憶を閉じ込める蝶番がかえって堅固になっていく感覚がある。
 そして、少女は小さく呻いた。

「……思い出せない」

なにか大事なことを忘れている。そんな飲み込みきれない気持ちの悪さがあった。
 乳を溢したほどの深い霧のなかを標もなしに無策のまま突き進んでいるようなものだ。考えれば考えるほどに不安は募る。

 ——このままじゃ、駄目だわ。

 とうとういても立ってもいられず、あやめは布団から完全に脱け出した。
 立ち上がって、軽く手足を動かす。幸いにして骨は折れていないようだった。怪我自体は全身に及んでいるものの、どこか深い傷を負っているということも恐らくない。足を捻っているようだし腕も関節が変に痛むけれども、なにがなんでも動けないというほどの具合ではない。
 ならば、僥倖というより外はなかろう。
 彼女はそう折り合いをつけると、つんと通った鼻先をさっと横向けた。視線の先には一枚の板戸。その向こうからは、淡く火の爆ぜる音が絶えずぱちぱちと聞こえてくる。多分、悪夢の原因はこれだったのだ。
 部屋には誰かいるのだろう。耳を澄ませば、爆跳の音に紛れて居住まいを正すような衣擦れと身動きの気配を感じる。
 それにも拘らず、戸の向こうの主からは奇妙なほどこちらに対するはたらきかけがなかった。なにもなかったように日常を営んでいる様子だ。
 もう少しだけでも相手からの接触を待ってみるべきかと思って、すぐに思い直した。
 起き抜け、彼女は勢いよく掛け布団を跳ね上げた。今だってこうしてなにかと慌ただしくしてしまってもいる。あやめが目を覚ましたことに、戸の向こうの人物は疾うに気がついているはずだった。
 それなのにこうまで反応がないということは、このまま待っていても相手からの接触は望めまい。家主は、あやめが彼女自身の手で薄い戸を引き開けるその時こそを待っているに違いなかった。
 ひとつ、瞬く。
 吐いた息を再び吸う。

「——よし……」

 意を決して、板戸に手をかける。
 ぎし、と。手に固い感触が伝わってくる。経年劣化のためだろう、滑りは随分とぎこちない。
 やがて開ききった戸の向こうに広がっていたのは、やはり東洋風の建築様式だった。
 あやめが横になっていた部屋と同じく、真壁に板張りの床を敷いた部屋。その中央には囲炉裏があり、赤々とした火が採光部のやや乏しい薄闇の部屋を照らす。
 そしてその傍ら、土間を対面にする横座にはひとりの男の姿がある。
 それを目にして寸の間、あやめは言うべき言葉を見失ってぼうっと立ち尽くした。
 囲炉裏の四方に敷かれた竹で編んだ筵のうえで足を揃え、火の世話をする真っ直ぐな背中——。その背筋の美しさは彼女の幾重にも積み重なった記憶の全てを貫いて、世にも激しい衝撃を与えた。

「おはよう」

 あやめがなにごとか言うよりも先に彼が言う。女性的でさえある染み入るような穏やかな声つきは、かえって後ろめたさを増長させる。あやめは空気を塊ごと呑んで、ごくっと喉を鳴らした。

「気分はどうだね」

 元より返事を期待していたわけでもないのか。黙り込むあやめを気にした様子もなく、彼はなおも振り返らぬまま続ける。
 むしろ、そんな己の非礼を激しく恥じたのはあやめのほうだった。あやめは咥内で硬く縮こまる舌を必死に持ち上げると、ようやく口を開いた。

「お、おはようございます」

 どうして、この人のことをすっかり忘れてしまっていたのかしら。
 あやめは己の恥知らずさを戒めて、その頬の内側に強かに噛みついた。

「ごめんなさい。わたし……お世話になりながら、すっかり寝過ごしてしまって……」

 ここへ身を置かせてもらうようになってから、もういくらも経つというのに。これほどの不義理もない。
 だが、あやめの胸に重く圧し掛かる礼も、彼の手にかかっては形なしだ。

「いいのさ、別に。寝る子はよく育つと言うだろう? 好きなだけ、眠れるだけよく眠ったらいい」

 それはうんと小さな子供に向ける台詞であって、あやめのような酒も飲める齢の娘に言うべき言葉ではない。
 胸の裏側を羽毛でなぞられているような感じがする。こそばゆさに、彼女は視線をうろりと泳がせた。

「……もう。わたし、そんなふうに言われるほど、子供じゃありません」
「おませな子だね。私にとってはほんの小さな子供だよ」

 男は笑みを含んだ声音で茶目っ気たっぷりに言う。そして静かに腕を上げて、左手にある客座を示した。火に煌々と炙られる手のひらはなおも白い。

「そら、いつまでも立っていないで。そこへお掛けなさいな、お嬢さん」

 柔らかな声色。彼の声つきやそこに宿る温もりには、人が胸に押し込めた申し訳なさや遣る瀬なさを隅々までときほぐしてしまうような不思議な魅力がある。
 あやめは先までの後ろ暗さをすっかり忘れて床板を踏んだ。影を背負う細い背中を擦り抜けるようにして、客座の前まで至る。
 彼はそこでようやくあやめを見た。あやめもまた、赤い炎に照らされる彼の姿を間近に見る。
 彼と顔を合わせるたび、あやめは新鮮に思う。
 この人はまるで柳の樹。
 しゃなりと枝を垂らした、一本の柳のようだわ、と。
線は細く、色は白く。うなじを隠すようにして一本に束ねられた髪は艶と品がある。こんな小さな——よく言えば温かみがある、明け透けに言うならば所帯染みた——家で暮らしているようには 到底見えない。
 年嵩の多さを感じさせないほどの、世にも美々しく貴公子然とした男。
 柳の佳人は、名をナマエと言った。
 この暫く、あやめの世話を手厚く見てくれている、親切な男だ。
 彼はとても若々しいのだが、実際の歳の頃といえば、あやめの目にはよくわからなかった。ただ言動は老成しているし、「君が想像するよりもずっと爺だ」と笑って言われたことがある。

「今、お茶を淹れてあげよう」

 厚意にこくんと頷いたあやめに、ナマエはにこりとした。火にかけていた鉄瓶をゆるりと持ち上げる。
 その何気ない所作のひとつひとつまでもが洗練されているのだ。なにも知らぬ者に精巧な機巧人形だと言ってみせても、きっと一縷の疑いも懐かれることはなかろう。極端に整えられた佇まいは、人から生命の重みをも奪い去るのだと知る。
 何度目にしても惚れ惚れするほどの美貌に半ば茫然としながら、あやめは膝を折り畳む。と、途端足首にちりつく鋭い痛みで、自らが万全の状態でないことをようやっと思い出した。

「——脚は崩していい」

 言って、ナマエが薄く微笑みかける。
 地平に旭光を迎える頃に人知れず咲く花があるならば、それはきっとこんな彩りをしていた。
 あまりに甘く、美しい。
 苦しみも柵も、幸福さえも全て置き去りにしたように現実感が薄い。

「まだ治りきっていないのに、無茶をしないものだよ。礼儀だなんだのは、君の身以上に大切なものじゃないんだ」

 そうして吐き出す言葉さえも、まるで正体がないように柔いのだ。なんとも浮世離れして掴みどころがなく、いっそなにか据わりの悪い心地がした。

「……それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 まごつきながらも座り直したあやめにナマエは笑みを深めて、その前に湯気を立てる湯呑を置いた。
 湯呑は見るからに古い。一見して使い込まれていることがわかる風体の一方で、しかしそこにはひとつの欠けも罅もない。所有者の日々の手入れの賜物だろう。
 火を受けて太陽を飲み込んだようにぎらつく茶色い水面を見つめながら、あやめは切り出す。

「あの……ナマエさん」
「なんだい」
「わたし……、」

 言いつつ急激な目眩を覚えて、あやめは二度三度とぎゅっと目蓋に力を籠めた。
 燃える火が宿る水面をあんまり熱心に眺めていたせいだろうか。あやめは一瞬、陽炎に吸い込まれたのだと錯覚した。ぐにゃりと歪められた景色のなかに閉じ込められたかと思うほど、あまりに深く視界が眩んだ。

「……わ、たし、……?」

 この口は、なにをどうして問おうとしていたのか?
 つい先までしっかり咥内に含めていたはずの言の葉をすっかり失って、あやめはもごもごと口を閉ざす。
 平静を装いながらも、胸中は酷くざわついていた。忙しなく視線を泳がせるなかで飛び込んできた白い布きれに救いを見つけたような気になって、あやめは咄嗟に頭に浮かんだ急造の話題をそのまま放り出した。

「わたし、……わたし、どうしてこんな怪我をしているんだったかしら」
「……怪我?」

 ナマエは暫し考え込んでからきょとりと首を傾ぐ。

「忘れてしまったのかい?」

 窘められたわけでも叱られたわけでもないのに、あやめは縮み上がるような思いで目を伏せた。ナマエの実際の意図がそうあるかないかにも拘らず、なぜだか責められているような気持ちになった。
 だけども、彼の目があんまり美しく、磨き抜かれた硝子玉のようだったからかもしれない。自分から目を逸らしたくせ、なにやら惜しくなって、あやめはまたナマエの顔をちらりと見る。
 深みのある色合いながらも透明のようにも思える、真っ直ぐな瞳。この色彩を覗いていると、その奥からもうひとりのあやめがあやめ自身を見返しているかのようだ。

「咎めているんじゃないさ」

 ナマエが穏やかに言う。あやめの手を取り、巻かれた包帯のうえをそうっと撫ぜた。血も通わぬごとくの肌の白さに見合わず、ナマエの手はとても温い。
 ただただ白く、ひとつの瑕もないものだとばかり思っていた彼の手。それがその実大小さまざまな傷痕に塗れていることに、あやめは初めて気がついた。

「酷い目に遭ったことも、つらい思いをしたことも、忘れられるものならば忘れてしまったほうがずっといいだろう。
 それとも、あやめさんはどうしても思い出したいのかね?」

 今度はあやめが考える番だった。ほんの少しだけ思い悩む。

「……いいえ」

 そうしてから、首を横にふるりと振った。

「ナマエさんの言う通りね。気を遣ってくださって、どうもありがとう」

 言われてもみればその通りで、苦痛の記憶を追体験する必要はどこにもない。
 あやめは唇に間に合わせの笑みを小さく刻むと、前にある湯呑をそうっと取った。
 雑穀かなにかを煮出したものなのだろう、芳ばしい香りがする。こくりと口に含むと、起き抜けで芯まで渇ききっていたらしい身体には随分沁みた。
 あやめの細い喉が小さく上下したのを見計らって、ナマエが口を開かんとする。
 だが——。

「——っ、え……」

 ナマエの言いかけた言葉が音と変ずるよりもずっと早く、両者のあいだを低く重い音が鈍く突き抜けた。
 桜色の唇から思わずの驚愕の声が漏れる。
 音の余韻に耳を犯されながらも、あやめははっとして顔を上げた。
 それは、なんとも言い難い音だった。
 「ごうん」と「うわん」の中間をいくような、聞いたこともない音だ。何十もの男と女が一斉に異なる音を発したときの声のようにも聞こえたし、いくつもの銅鑼をめちゃくちゃに打ち鳴らした音にも聞こえる。酷く歪な地鳴りのようですらあった。
 とにかく、どうにも耳慣れない異音があやめの身にずんと響いたのである。
 「さっきの音が聞こえたか」とナマエに訊ねようとして、そんな彼女の問いもまた遮られる。

「——ところで、」

 しかし、今度の音は出処がはっきりしていた。ナマエだった。ナマエは、あやめの手のうちをじっと見ながらさらに続けた。

「さっきから握っているそれは、いったいなんだい?」
「え?」

 あやめは反射的に視線を落とした。
 見れば、痛々しく包帯の巻かれた手のなかには赤い紐が握られている。
 恐らくは結紐であろう。いったい全体なにがあったのか、土汚れのついたそれは酷くぼろぼろで、どうにも使いものになりそうにない。どうしたってこんなものを後生大事に握り締めていたのか、我ながらわけがわからなかった。

「これは……」

 俯く眉間に静かに注がれる穏やかな眼差しを感じていた。その視線に「答えを急かされているのだ」などという思い違いはよもやしない。

「な……」

 それなのに、言葉が出ない。喉がひりつく。灼けつくような焦燥が、額の裏をちりちりと焦がしていた。

「なんだった、かしら……」

 ——結局、わからなかった。
 ついさっきまでは確かにその正体を確と掴んでいたはずだったのに、風に煙が流されるように瞬く間に見失ってしまった。
 ただそれだけ言って、黙り込むことしかできなかった。

「そうかい」

 言い淀むあやめに、ナマエはそれ以上の言及はしなかった。下手な慰めも叱咤もなく、冷めたお茶を淹れ直してくれた。
 鉄瓶からとぽとぽと湯が注がれる毎、独特の香りが辺りに花の開くようにふわりと広がって、あやめの思考は光も射さぬ深間に沈んで一層曖昧になっていく。
 耳にはあのおかしな音がいつまでも谺して、こびりつくようだった。

 ————。

 ————————?


 ——果たしてそれは、本当に谺であったのか?



 ——異音が轟く。
 はっと、顔を上げた。

 今この場に彼女以外の人の目があったとすれば、一面の緑のなかに咲く艶やかな黒は強烈に目を惹いたことだろう。
 だがここに他者の目はあらず、当の本人も自らの外貌など今や意識の埒外にある。そんなわけであやめはひとり、ただただ黙して切株に腰を下ろしていた。
 紫紺を帯びた黒髪は束髪崩しに。そこへ淡く彩りを添える質素な簪が、葉擦れに紛れて慎ましくしゃらりと揺れる。
 あやめはその涼やかな音にどきりとして、思わず後ろ頭へ手を伸ばした。指の腹で花を模した小さな飾りの感触をそうっと確かめて、輪郭をつるりと撫でる。
 なんとはなしに、妙にそわそわした。黙って座っていても心はずっとざわついていた。ついつい手持ち無沙汰に簪を延々撫で回しては、我に返って腕を下ろす。と、腕を覆ってとろりと流れる袖の感触にまたぎくりとする。
 今身につけている小袖同様、この簪もまた借りものなのだ。なにかあっては事である。雑な扱いはできない。
 あやめは努めて気を紛れさせようと周囲に目を遣った。
 だが、なにを見ても情景が目を素通りしていくような感覚がする。そこいらじゅうに植わる木を見て「木だ」と思う以上のことが、まるで心に浮かんでこない。
 結局、余計に気分が乱れたから視線を落とす。投げ出した足を包むのは、やはり借りものの白足袋と草履だ。

 ——ひと様から借り受けたものをぬけぬけと着込んでいるから、こうも落ち着かないのかしら。

 そうも思ったが、それだけと済ませるにはなにか違うような気がする。
 だが、自分の気持ちの正体を確かめるべく着替えようにも、今は手元に自分の服がない。どこへやってしまったのかどころか、どんな服を着ていたかも覚えていない。まさか、ここまで裸で流れ着いたわけでもあるまいに。

「——あやめさんや」

 ふと、背後から呼びかけられ、あやめは肩を揺らして振り返った。自分でも大袈裟に思うほど、あまりに激しい反応だった。
 素早い視点移動にぶれる視界は、中央に捉えた人影を起点として、的を絞るがごとく急速に焦点を定めていく。
 飾り気のない黒い着流し。男性にしては長く艶のある髪。気品匂わす、流麗なる柳の佳人。

「ナマエ、さん……」

 譫言のように名を口にしたきり、なにを言うでもなく視線を注ぎ続けるあやめに、彼もまた彼女をじっと見返す。柔く閉ざされた唇には温かみのある笑みが淡く湛えられている。

「どうしたね。なにか……気になるものでも?」
「あ、いいえ……。なんでもないわ」
「そう」

 なんと言って誤魔化せばいいのかもわからない。言い訳すらろくに口をつかなかった。
 我ながら、人付き合いは得意なほうだと思っていたのに。
 あやめは目の前の男を上目遣いに見る。
 この家に間借りさせてもらうことになってから、どれほど経っただろう。たった数度ばかりしか日を跨いでいないような気がするし、もう何年ものあいだ、ここでふたり、顔を突き合わせて生きているような気もする。
 そんな感慨を懐くほどには世話になっているのに、自分がどうしてここにいるのかも、あやめにはもうわからない。
 ただ、あやめがそうやって自らの正体を見失えば見失うほどに、ナマエは熱心に面倒を見てくれた。
 何度でも言うが、人当たりのよさには自負があった。彼のように優しい人が相手なら、それはなおさら。なのに、ナマエの前では妙に肩に力が入った。
 ぎこちなく不格好に笑うあやめに、しかしナマエはいつでも誤魔化されてくれた。あやめの内側へ無理に立ち入るようなことは決してしなかった。
 ナマエには微温湯のような優しさがある。それはあやめの傷を癒しこそしないが、傷口の穢れを優しく洗い落としてくれた。
 その温かさがこそばゆかった。
 むず痒かった。
 けれども——嫌いではなかった。
 むしろ、その温かさを今か今かと期待し始めている自分がいることに、あやめは気がついていた。
 この期待は友愛ではない。恋であろうはずが、もちろんない。
 地面に落として、汚く砂塗れになった飴玉のようなそれだ。
 自ら砂を払うでも起き上がるでもなく、ただただ誰かの手に拾い上げられることをじっと待つこの感情をなんと呼ぶのか——あやめは、知らない。知るべきでない。

「それで……ナマエさん。どうかしたの? わたしになにか、ご用が?」
「ああ、忘れるところだった」

 考えを振り払い訊ねるあやめに、ナマエがぽんと手を打ち鳴らす。その手が、あやめへ優しく差し伸べられた。

「食事の用意ができたから、呼びにきたのだった。さ、おいで。夕餉にしよう」
「え? 夕餉……?」

 あやめは大きな目をぱちくりと瞬かせた。
 まだ、こんなに明るいのに?
 驚き空を振り仰げば辺りはもうとっぷり暮れていて、天も地もほとんど見わけがつかぬほどになっていた。

 ——ついさっきまで、あれほど日が照っていたのに。

 そうは思えど、そう思うことこそがまるで見当違いの錯覚なような気がしてくる。現実的に考えれば朝が瞬きのうちに夜へ切り替わってしまうことなどあり得ないのだから、やはりこれはあやめの勘違いだったのだろう。
 どこか釈然としないながらも、あやめは素直にナマエの背を追った。黒く小さな手にも似た木々の下生えを踏みつけて、家へと帰りつく。

 火の焚かれた部屋のなかは、薄ぼんやりと明るい。
 囲炉裏を囲むようにしてあるのは、食事を載せるための粗末な折敷がふたりぶん。そこに湯気をほこほこ立てる汁物や少しの糒、それから形のいい黄金色の卵焼きがぽってりと並んでいるのがわかる。
 一汁三菜には程遠い献立ながら、あやめにはこれがとても豪華な御馳走に見えた。
 実際、森の奥深くで暮らすナマエにとって、味噌も糒も新鮮な卵も、果てには綺麗な水さえ、全て御馳走なのには違いない。
 それにも拘らず、ナマエはいつだって惜しげもなく心から尽くしてくれた。
 日々供される食事。言動の節々。日常のありとあらゆる場所から己に対する気遣いが垣間見えるほど、あやめは嬉しくも気まずくなった。せめてその気遣いに気づかぬふりをするのが、ある種の酬いというものであろうかと思うほどには。
 勧められるまま座して、箸を取る。やはりぱっと目を惹く卵焼きに視線をついとやると、ナマエは眉尻を下げて笑う。

「いつもと味つけを変えてみたんだよ。若いお嬢さんだから、甘いほうが好きかと思って。気に入ってもらえたらいいが」

 その言葉に促されるようにして、箸で黄金の身を切りわけて口に運ぶ。
 卵焼きはまだ温かい。舌のうえに、温もりがじんわりとへばりつく。

「……甘い」

 あやめは思わず呟いた。あやめの反応を具に窺う顔が、その感想でぱあっと明るくなる。

「とっても甘くて、まるで、まるで……——布顚、みたいな……」
「えっ」

 その明るい顔のまま、ナマエの表情がぴしりと固まった。
 びっくり顔のナマエが、一拍置いて卵焼きをひと切れ頬張る。面持ちが見る見るうちに妙な具合になって、次いであやめのほうをちらりと見た。
 いつも泰然としてにこやかでいるナマエが今ばかりはいかにも気まずげなのが可笑しく、あやめはとうとう堪えきれずぷっと噴き出した。
 けたころ笑うあやめに絆されてか、随分居心地の悪そうだったナマエもそこでようやくてれてれ笑った。

「い、いやはや……おかしいな。こんなはずじゃなかったんだが……」
「ふふ。もう、ナマエさんったら……」

 いつも通りに深いこくのある味噌汁とそこに添えられた乾きもの。そして、いつもと違う、歯に穴が開きそうなほどに甘い甘い卵焼き。
 妙な食事だった。
 でも、それでよかった。
 ナマエがあやめのことを考えて、慣れない味つけを試してみようと思ってくれたことが、擽ったくなるほど嬉しかった。

「案外不器用なのね、ナマエさん。もしナマエさんさえよければなんだけれど、明日はわたしが作りましょうか?」

 あやめの提案に、ナマエはいっそ大袈裟なほど喜んでにこにこと頷く。それがまたなんとも嬉しく、あやめも自らの頬が蕩けるように緩むのを感じる。

 穏やかだ。
 実に、穏やかな時間だった。
 やわらかな時が、ただあるがままに流れていく。
 ここはまろい空間だ。
 世には悪意も辛苦も存在しないのだと言わんばかりに、やわらかい。
 あやめに安寧を与えるためだけに存在するかのような温かな日常だけが、ここには在った。

 そんな甘ったるい幻想を打ち砕かんと、また、あの耳障りな異音があやめの耳を劈いて——。



 ——今まで、なにをしていたのだっけ。

 はっとして、あやめは顔を上げた。

  惑いながら横を見ればナマエとばちりと目が合う。ナマエは少女染みた所作で小首を傾ぐと、眦をうっとりと和らげた。

「妻はね、私などにはそれはそれは勿体ない、素晴らしい人だったんだよ」
「え……?」

 その言葉があやめの戸惑いに急速な答えを与えて、彼女は突如として正気に立ち返った。

 ——就寝の支度を、整えていたところだった。
 小袖から掻巻に着替えて、貸し与えられた部屋に布団を敷いて。あとはもう、そこへ横たわるだけだったのに。
 今夜はどうにも目が冴えていた。きっと空の色の移り変わりを延々目に映し続けて夜を明かす破目になるのだろうという予感が、彼女にはあった。
 そんなあやめの鬱屈をナマエは感じ取っていたのだろうか。いつもは日が落ちると決して自分からはあやめのもとを訪れない彼が、珍しく戸板越しに声をかけてきた。

「あやめさんや。よければ、一服つき合ってやもらえないかね」

 もちろん、あやめはその厚意をありがたく受け取った。そして茶請けとしてナマエに彼の家族の話を強請ったのだ。
 そうだ。そうだった。
 頭のなかで何度も納得を繰り返しては、混乱を宥めていく。
 今まで当然のように享受していたナマエの優しさ。真心の籠った食事と、小さく質素な家に完璧に揃えられた色違いの食器たち。そして、それら全てにじっとりと焼きついた、かつてこの場にいたのであろう誰かの影——。
 それに気づかずにいられるほどあやめは無邪気ではなく、また、それを無視し続けられるほど厚顔でもなかった。
 だからあやめは、彼の愛著のその源を知りたくなったのだ。

「あやめさん?」
「あ、……」

 怪訝そうにこちらを窺い見るナマエに、あやめは慌てて頷き笑みを形作る。

「え、ええ、そう……そうだったの。ナマエさんがそれほど言うんだもの。きっと、とても素敵な人だったのね」

 その笑顔に不審はないと見てか、ナマエもまた穏やかに笑みを模った。躍る炎に照らされて、すべらかな白面を鼻梁の落とす影がゆらゆらと這っている。

「この集落が金物稼業で成り立っていたという話は、もうしてあげたのだったかな」

 ナマエがほとんど確信を持ったように訊ねる。こうも堂々と言われては、確かに聞いたことがあるような気がした。
 ただ、それがいつ、どんな機会で耳にしたのかはとんと思い出せない。こうして語り明かしたいつかの眠れぬ夜にでも話題にのぼったことがあっただろうか——。
 それに集落とは言うが、彼女はナマエ以外の住人を見たことがない。
 さまざま疑問はあれど、わざわざ話の腰を折るほどのことではないと思ったから、彼女は違和感を押し込めて曖昧に首肯する。望む答えを得たナマエはそのまま、思い出の続きを滔々と紡ぎ始めた。

「ここでは男も女も関係なく鍛冶場の神は加護をお授けになってね、なかでも妻は名うての刀工であり、腕扱きの砥師でもあったんだ。
 そのせいで、とでも言おうか。戦好きの御領主からも大層重宝されてね。忙しくしていたんだ。一年を通して、家よりも鍛冶場に籠っている時間のほうがよほど長かったぐらいさ」

 妻のかつての多忙さを内心では厭わしく思っていたのだろう。彼は嫋やかな笑みに微かな苦々しさを滲ませ、手に持つ湯呑をくるんと揺らした。茶色の水面にはほんの浅く渦が穿たれ、少しもせずにゆるゆるほどける。

「でもね、」

 微笑む白い美貌から苦味が抜け落ちる。

「刀に対して真摯に、一心不乱に打ち込む姿は誰よりも輝いていた」

 舌の根が腐り落ちんほどの甘さがどろりと蕩けて顔を出す。

「あの子の情熱的な横顔を、私は愛していたんだ」

 ——ことん。
 湯呑の底が床を打つ音が高く響いた。あやめは、思わず肩を竦めていた。

「本当に、言葉では言い尽くせないほど素晴らしい人だった」

 言いながらにナマエが虚空を見上げる。
 無論、そこにはなにもない。
 囲炉裏の炎にも打ち払えないほどに重い、夜の闇に閉ざされた暗がり。それが果てもないように深々と広がっているばかりである。少なくとも、あやめの目にはそうとしか見えなかった。
 だが他ならぬ彼の目には、そこに最愛の妻の姿が見えていたのかもしれない。

「才能に満ち溢れていた」

 闇を映して黒々と深い瞳が熱く揺らめく。それこそ、硬い鉄を熱して打つ焔がごとく。
 対して、白い喉を震わす声は恋する処女が恋人の腕を夢見るように甘く上擦っていた。ふわふわと浮足立って、愛の名の許に闇夜を切り裂いてどこまでも高く飛んでいかんとする翼を有した、その声音が。

「————あんなふうに」

 突如として、ずんと低く落ちた。

「あんなふうに死んでいい人では、なかったんだ」

 気高く白い両翼が無残にも引き千切られる。そうして地になすられ穢され潰える幻を、あやめは見た。

「え、」

 驚嘆に眦を裂く。震え強張った手が思いがけず湯呑を取り落として、その中身ごと床にごろりと転がる。

「おや、」

 目を丸くしたナマエが透かさず手拭いを手にあやめへ寄り添う。闇夜に張り詰めた緊迫感が、途端に霧散する。

「大丈夫かね。火傷はしていない?」
「だ、大丈夫。もう随分、微温くなっていたから」
「それならいいけども。まったく、仕方のない子だ」

 膝のうえに広がった微温湯は瞬時に冷えて、いっそ寒々しいぐらいだった。ぺったり張りついた掻巻の薄い布地へ、ナマエが口ぶりだけは面倒臭がるようなふりで嬉しげに手拭いをぱたぱた押しつける。
 一方のあやめは恐縮しきりで小さくなることしかできない。
 男のひとり暮らしには不要な女物の衣類の数々。そのかつての持ち主はもちろん、彼の妻であったに違いない。
 彼の心裡をあまりに軽々しく打ち明けさせたばかりか、こんな失態を演じてしまうなんて。平伏せんばかりに謝罪を重ねるあやめに、ナマエは至って穏やかだ。

「服なんて、着ているうち自然と汚れるものだよ。そう縮こまることはない」

 「それにね、」とナマエは続ける。

「こんなふうにしていると弟の小さい頃を思い出して、なんだか心が和むんだよ」
「弟さん?」
「うん。ああ、いや……」

 頷いてから、すぐに首が横に振られる。

「正しくは〝義弟〟と呼ぶべきか。妻の些か歳の離れたきょうだいでね、私にもよく懐いてくれていた。可愛い子なんだ」

 過去の情景を目蓋の裏に透かし見ているのか、ナマエは目を細めた。それはまるで決して戻れない過去を懐かしんでいるようにも見えた。

「あやめさんは、あの子に似ている。見た目の話じゃないよ。普段はしゃんとしているくせ、妙なところで手のかかる子でね。でも、その面倒を見てやれるのがなんだか嬉しいんだよ」

 ナマエの微笑みが周囲の空間に滲み、混ざり、なにもかもが綯交ぜになっていく。

「君たちと過ごしていると、きっとどちらでも可愛くて堪らなかったろうなと思うんだ」

 笑みに塗れた声は悲しくなるほどに歪み罅割れている。
 笑い声が、異音に掻き消されていく。

「男の子でも女の子でも、どちらでもよかったんだよ。——無事に産まれてきてさえ、くれるなら」

 そうして音が。
 耳鳴りのように。



 ——はっと、顔を上げた。

 今この場に彼女以外の人の目があったとすれば、一面の緑のなかに咲く艶やかな黒は強烈に目を惹いたことだろう。
 だがここに他者の目はあらず、当の本人も自らの外貌など今や意識の埒外にある。そんなわけであやめはひとり、ただただ黙して切株に腰を下ろしていた。
 紫紺を帯びた黒髪は束髪崩しにして。そこへ淡く彩りを添える質素な簪が、葉擦れに紛れて慎ましくしゃらりと揺れる。
 借りものの簪だ。だけど、今ばかりはこうであるべきだと言わんばかりの顔つきであやめの髪を飾っている。
 眼前には明々とした緑の洪水が広がっていて、そればかりだ。他にはなにもなく、誰もいない。
 果てのないような深く広大な森のなかにも、陽光はぎんぎらと照りつけて明るい。
 鳥や虫の声ひとつしない静かな空間で、あの異音の余韻があやめの耳のなかで永遠に谺して——いや、違う。
 延々と、まだ、鳴り響いている。



 ——音がする。
 はっと、顔を上げた。

 今この場に彼女以外の人の目があったとすれば、一面の緑のなかに咲く艶やかな黒は強烈に目を惹いたことだろう。
 だがここに他者の目はあらず、当の本人も自らの外貌など今や意識の埒外にある。そんなわけであやめはひとり、ただただ黙して切株に腰を下ろしていた。
 紫紺を帯びた黒髪は束髪崩しにして。そこへ淡く彩りを添える質素な簪が、葉擦れに紛れて慎ましくしゃらりと揺れる。慎ましい素振りで、存在を主張するかのように厚かましい。 
 眼前に変わらず在る緑の洪水。他にはなにもない。なにもない。
 簪の涼やかな音を掻き消すように、なにか——。



 ————異音がする。
 はっと、顔を上げた。
 真緑の視界。目が痛い。
 借りものの簪。耳障りだ。



 音がする。
 はっと、顔を上げた。
 音がする。



 音がする。
 顔を上げても。
 音が鳴り止まない。
 音が。
 音が。
 音が——。

 ————なにかが、おかしい。

 あやめは、はっと、顔を。


***


「さあ、可愛くできたよ。御姫様」

 ——はっと、顔を上げた。

 鏡越しにナマエと目が合う。ナマエがにこりとして櫛を置く。
 客座に崩した自分の脚が目に映る。手には包帯が巻かれている。
 細い格子窓越しに差し込む、白っぽく靄がかった朝日。薄ぼんやりと明るい部屋のなか。ナマエが心配そうにあやめを見つめている。

「怪我が痛むのかね」

 美しい憂い顔が白光に照らされている。白く温い手があやめの手を強く強く、一分の隙もなく握ってくれる。

 うんと昔の話のことだ。
 どうして自分には、と思ったことが何度もある。
 どうしてあの子にするように、髪を梳いてくれないのだろう。
 どうしてあの子は強請らずとも歌ってもらえる子守唄が、自分には聴かせてもらえないのだろう。
 どうしてつらい思いをしているときに、ずっと隣で慰めてはくれないのだろう。
 あの子が二対の大きな腕に抱き締められているとき、あやめを抱き締めてくれる手がいつまで経っても現れないのは、どうしてだろう。
 何度も何度も。羨ましさが擦り切れ尽きてなくなってしまうほど。幾度と知れず思ったのだ。
 だけど、ようやく気がついた。
 切り株に腰掛け森に身を委ねるあやめの髪を結ってくれたのは、ナマエだった。
 地面に落として、汚く砂塗れになった飴玉のようなそれ。自ら砂を払うでも起き上がるでもなく、ただただ誰かの手に拾い上げられることをじっと待つこの感情を、人はきっと〝甘え〟と呼ぶのだ。
 あやめにその味を覚えさせたのは、櫛を握るナマエの優しい手つきだった。

 それを、もういったい何度繰り返し与えてもらっているのだろう。

「わたし、どうして怪我をしているの?」

 長旅の幻に惑わされる旅人のように、あやめは頼りなく呟いた。ナマエはその問いには答えず、困り顔でただ笑う。それに無性に腹が立った。望まずとも溢れんばかりのなにかを与えてくれる彼が唯一与えてくれないものがあると明確にわかって、怒りが沸いて仕方がなかった。

「どうしてかって、訊いているのに!」

 怒鳴り声で空気がびりびりと震える。
 こんなに大きな声を出したことがあっただろうか。それも融通の利かない苛立たしさに堪えかねて、子供のように駄々を捏ねて叫ぶだなんてことが。
 そうしてがなり立てたあとにやってきたのは、心臓を引き千切られるような惨い悲しみだった。

「おねがい。はぐらかさないで……」

 声が震える。くしゃりと歪んだあやめの顔。大きな瞳が潤み、揺れて、花弁が朝露を垂れるように大粒の涙が頬をいくつも滑り落ちる。
 遣る瀬なさに震えるあやめの肩を、ナマエはぎゅっと抱き締めてくれた。目に見えずとも、白く傷だらけの手が最大限の慈しみを以て背を撫でてくれているのがよくわかる。

「……地滑りに、巻き込まれてしまったんだよ」

 声音に躊躇いを乗せながらも、彼はとうとう詰問に対する答えを静かに明かした。

「川に落ちて、流されて……下流に打ち上げられたのは本当に運がよかった」
「——わたしは、どうしてわざわざあんな足許の悪い道を?」

 ひとつの答えを得たとしても、あやめの疑問はなおも尽きない。
 ナマエは面持ちに苦しみを忍ばせて、力なく首を横に振った。

「さあ……。私にはわからないが、それが君の旅路だったのだろう?」

 そうだ。それがあやめの旅路だったのだ。
 それなら、ならばどうしてあやめは。

「わたしは……どうして旅をしていたの?」

 ナマエは、もう応えない。ただ怯えるように息を呑んだ。
 濡れた頬にナマエの胸の温かさを感じながら、あやめは呟く。

「もう、戻らなくちゃ」

 ほとんど反射的に出た言葉だった。
 〝行く〟のではない。
 〝戻らねば〟と思った。

「どこへ?」

 間髪入れず、ナマエは否定的に問う。

「君がこれ以上の痛苦を識る必要が、いったいどこにあると言うんだ」
「それでも、戻らなくちゃいけないの」

 あやめは優しくナマエを突き放して立ち上がった。ナマエの手があやめへ追い縋ろうとして、力なく床に落ちる。

「ならば行く前に、朝餉を用意しようか」
「ううん、いらないわ」
「お腹が空いていない? それなら、茶の一杯だけでも飲んでおいき」
「ありがとう。でも、もういらないの」
「……傷の舐め合いを、浅ましいと思うかい?」

 暗い目が、あやめだけを見つめながら訊ねる。

「なんとも押しつけがましい、愚かな行いだと?」

 なんとなく、その答えはすでにナマエのなかにあるのだろうとあやめは思った。あやめがどんなに言葉を尽くそうとも、ナマエは依然変わらず己を浅ましく愚かしい存在と思い続けるに違いないのだと。

「微温湯に浸り続ける日々は、醜悪かな」

 ナマエは、さらに自傷の言葉を吐く。
 それを殊更否定するのも違うと思った。

「……ありがとう」

 だから、あやめはただそれだけを告げた。
 ナマエが目を見開く。
 黒々とした夜の闇のような瞳に、あやめの姿がくっきり映り込んでから溶け消えた。

「聞いて、ナマエさん。わたしね、好きな人がいるの」

 燃えるように頬が熱い。胸が震えて、眦は恋に直濡れる。想い人に心を打ち明けたわけでもあるまいに、どうしてこんなに恥じらいを覚えるのか。その答えをあやめはすでに掴んでいるような感触があった。
 頬の熱もそのままに、あやめはさらに言い募る。

「わたしがそうやって彼を好きでいるためには、成し遂げなくてはならないことがあるの」

 「彼のために」だなんて、口が裂けても言えはしない。
 これは、どこまでいっても我欲でしかない。ただその我欲からなる一念のみが、今の今まであやめを衝き動かしてきた。

「あの人への恋がこの胸に燃えている限り、どんな苦しみにだってわたしの刀を折ることはできないわ」

 手にはいつの間にか刀を携えていた。度重なる苦難を共に斬り捨ててきた、あやめの愛刀。
 これを揮うには愛らしい小袖は些か難があると思えば、袖はきゅっと窄まり、先を巻き上げて手首に密着する。
 薄い錆鼠色の上衣に、襞のはためく灰青の裳。これこそは借りものでない、あやめのための戦袍だった。

「だから、もう、戻らなきゃ」

 無垢な娘たれと抜かれていた牙が、今一度彼女のなかに芽生えてくる。
 鍛え打ち上げられた黒鉄のように、強く、鋭く、堅く。然りとて脆い、鋼の牙が。

「それでも、ありがとう」

 鋼牙を携えてなお、彼女の仁義を識る心にはナマエへの情が溢れて止むことはない。
 ナマエは食事を用意してくれた。
 寝かしつけてくれた。
 髪を結ってくれた。
 涙に暮れる身を抱き締めてくれた。
 あやめのために。
 ただ、あやめのためだけに。

「わたし、こんなにやさしい気持ちになったことはないわ」

 唯一無二の友から受ける愛ともどこか違う、無償の親愛。
 ただの代替であろうとも、見せかけのものであろうとも。それがどれほどあやめの心を甘さで満たしたことか。言葉ではとても言い尽くせはしない。

「……戻ってしまうのかい」
「戻るわ」
「どうしても?」
「どうしても」

 おずおずと切り出したナマエに対し、あやめはきっぱりと告げた。
 この仮初の家がなんなのか、ナマエの正体がなんであるのか、あやめには結局わからない。どうやってここへ来たのかも、どうやって戻ることができるのかも、なにも。
 でも、わからなくともいいと思った。
 この背に翼はなくとも、あやめには自分が行きたい場所へ行くことのできる脚が備わっている。それに、わからぬものをわからぬままにしたからといって、あやめとナマエのあいだにあった想いまでもが正体を失くすわけではないから。
 凛として立つ彼女を、ナマエの朧げな眼差しが見上げる。閉じ込め繋ぎ止めるものを失った傷のある手のひらを撫でて、彼は力なく微笑んだ。

「えるがあくんというのが、君の好い人なのだね?」
「えるがあ……」

 鸚鵡のように、今の今まで影も形も掴めぬままでいた慕う男の名を呟く。
 エルガー。
 そう、——エルガー。
 胸中で繰り返すほど、心の臓にその名が刻まれる。
 あやめの心を奪った男。
 星よりも月よりも、太陽よりも目映い、あやめの愛の形を成す男。

「いくら忘れさせてやろうとしても、寝言で何度も呼ぶのだもの。憶えてしまったよ」

 ナマエは言いながら膝に手をあて重々しく立ち上がった。呆れを滲ませる彼の微笑みに、あやめはただ小さく照れ笑う。
 いつになく清々しく、エルガーへの想いがあやめの胸には在った。

「いい子だね。そして、強い子だ。君のように素敵なお嬢さんはふたりといない」

 あやめの艶のある髪を梳るようにして、しなやかな手が二度三度と行き来する。

「さあ、後ろを向いて。髪を結い直してあげよう。こうして後ろへ流すのは、戦いには不向きだろうからね」

 先ほど置いたばかりの櫛を手に、ナマエは寂しそうに言う。あやめはこくんと頷いて、いつの間にか手のなかに握り込んでいた赤い結紐を彼に手渡した。
 器用に動く手があやめの髪をさらさらと整えていく。
 そして、異音がした。


***


 ——声がする。
 はっと、目を開けた。

 横たわる少女の目を、あまりに青い空の色と強すぎる陽光がざくざくと刺し貫く。
 あやめは重い全身をぼんやりと脱力させたまま、辺りに視線を巡らせた。
 傷み腐った床板に、ぼろぼろに崩れた壁。そこになにかがあったという痕跡だけを残す乱れた木枠。それを囲んである、枯れた藁草のように萎れきった竹の欠片。そしてその合間合間をびっしりと覆い尽くす青草たち。谷底から溢れんばかりに生す翠の洪水に埋もれた、朽木の家——。
 目に映るもの全てが違和感に満ち満ちていた。意識を失うまでは知らないはずだった光景が、確かな既視感に覆い尽くされていた。
 ——それはこの、目の前の彼に対しても。

「——あやめ!」

 虚ろに周囲の自然の音に灌がれるばかりでいた彼女の耳を、聞き慣れたふたりの声が異口同音に劈く。首だけで声のするほうへ向けば、美沈とエルガーが決死の表情でこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。

 ——道中だった。
 あの日。あやめたちは、確かに旅の道中にいた。
 彼方此方でなにかと騒ぎを起こしがちな一行は人目を避けるべく、涼やかな川の流れる谷底を臨みながらでこぼことした山道をひたすらに進んでいた。
 そこで、地震があったのだ。そして、それに伴う地滑りが。
 記憶をなぞるあやめの蟀谷に、突き抜くような痛みがずきんと走る。
 崩れる地面で足許は覚束ない。揺れる視界で真っ先に捉えたのはなにより大切なふたりの姿。どちらかだけなんて選べないからこそ、犠牲にできるものなんてひとつしかなかった。
 いつぞやのように取捨選択に惑う隙はない。今度こそあやめの判断は素早かった。胸中に躊躇いの居座る余地などなかった。
 彼女は迷いなく美沈とエルガーを突き飛ばすと、崖下へ真っ逆さまに落ちた。
 死ぬつもりではもちろんなかった。下手に抵抗して岩肌に叩きつけられるよりも、潔く川面に飛び込むことを選んだのだ。
 なんの因果かあやめを掴んで決して離さない忌まわしき輪廻は、物語の終焉を彼女の死などという生半なもので迎えることは許さないだろうという根拠のない確信もあった。
 白濁の激流へ驀地に落ちて、落ちて、落ちて————そこで記憶はふっつりと途切れて、今に至る。
 あやめが最後目にしたものが確かであるなら、山道にへたり込んで呆然としていた彼らは礫のひとつも受けずに済んだはず。その記憶の正確さを示すように、一見してふたりに怪我はないようだった。ただ全身の至るところに土やら草の汁やらの汚れがどっさりと窺える。
 きっとふたりは落ちたあやめを追って、すぐにも山を下ろうと試みたのだ。直に日も暮れようかという頃だったのに、準備という準備もない強行軍で無理をしてはいなかっただろうか。
 ……いや、無理をしたに違いないのだ。あやめは思い直して内心首を振る。
 彼らの疲労と汚れに塗れた身体がそれをありありと物語っている。そのことが無性に嬉しくて、あやめは湿り気のある笑みをうっそりと漏らす。そうして自身のうえに覆い被さる軽い身体を優しく撫でた。それになにか思い違いをしたのか、こちらへ向かってくる足音が一層荒々しさを増す。
 目を覚ましたあやめのうえには、すでに息絶えて久しい干乾びた骸が被さっていた。まるであやめのことを引き倒すようにうえに乗り上げた骸の顔は窺い知れない。
 なぜならその頭を、あやめの顔よりもひと回りもふた回りも大きい岩が潰していたからだ。
 よくも無事だったものだと辺りを見れば、それだけに留まらず、地滑りの影響であろうか、あやめの周囲には大小いくつもの岩が転がり落ちた形跡があることに気づく。そしてそのいずれもが、彼女の身ただひとつのみを避けるようにしてあった。反面、骸のほうはといえば、酷い有様だ。腕も脚も圧し潰されている。
 あやめはまったりと目を瞬かせて、また骸の背を撫でた。骸の身に纏わりつく白茶けて古びた布切れが、あやめの目にはあの質素な着流しに確かに見えた。
 ようやくあやめの許へ辿り着いた美沈が骸を目にしていかにも嫌そうに顔を顰め、エルガーはぞっとしたように肌から血の気を失せさせる。

「う、動けないのか⁉」

 しかしながらあやめの危難のためあらばと決心したのであろう。彼は勇み奮い立ってさらに一歩を踏み出した。
 実際傍目には、世にも悍ましい骸に圧し掛かられた少女が、恐怖で心神喪失しているように見えただろうことは想像に難くない。

「待ってろ、あやめ! 今すぐこいつを退かして——」
「——やめて!」

 鋭く高い叫びが響き、谺すこともなく木陰に吸い込まれて消えゆく。
 怯んだエルガーがぴたりと動きを止めて、異様な重たさで呼気をもったりと吐いた。

「わたしの、おとうさんなの」

 あのとき、ナマエは父であった。
 そしてあやめは娘として在った。
 世間にありふれた形をなぞっただけだと腐す者があろうとも、児戯にも満たぬ真似事だと嗤う者があろうとも。今は崩れ腐ったこの小さな一軒家のなかで、あやめとナマエは確かに家族として存在していた。

 視界の端で、答え合わせを求めて美沈に目配せするエルガーが見えた。また、ぶんぶんと首を激しく横に振り、否定する美沈の姿も。
 気を違えたように見えただろうか。今は、それでも構わなかった。
 あやめはそっと両腕を上げて、亡骸を抱き締めた。人々から忘れ去られた地で、渇いた孤独の砂埃に晒され続けた父の身を。
 ただ静かに。時間の許す限り。
 ——愛を、以て。


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24/11/27