一.ないしょのお買い物

 1999年10月。小学5年生のは、囲碁を始めるために書店にやって来た。
 使用人に言いつければ、教本の一冊や二冊、それどころか何十冊でも、買ってこさせることが可能だろう。けれどもはそうしなかった。新たな第一歩は、他でもない自分の足で踏み出したかった。そして親に内緒にしたかったというのも理由の一つ。
 同年代よりずっと多いであろうお小遣いは、用途も聞かずに親が毎月渡してくれる。それをポシェットに忍ばせて、は趣味にまつわる本が並ぶ棚を見回していた。
 囲碁の文字はすぐに見つかる。右端から本を一冊引き抜いて手に取って、また一冊手に取って重ねて、また一冊、一冊、…。最終的に囲碁コーナーの端から端までの本を引き抜いて、抱えるとの目線を塞ぐ高さの塔が出来上がった。
 動き出そうとするとしかし本の塔の座りは悪く、はバランスを失わないように前に後ろに体重を移動する。しかし努力も空しく塔のてっぺんは大きく後方に傾き、それを追ってが一歩足を引いたものの塔は崩壊を始め、はそれを追って、
「うわあっ!?」
 自分以外の男性の声と共に後ろに倒れてしまった。本が辺りに散乱する。慌てて顔だけで後ろを振り向くと、共に倒れたらしい青年の視線との視線が至近距離でかち合った。
 は即座に青年から距離を取って向き直り座り、頭を勢いよく床に落とした。いわゆる土下座。青年は面食らった様子でを見下ろして、二三拍の間の後言葉を発した。
「だ、大丈夫だよ。そんなに謝らないで。それより、君こそ大丈夫?」
 謝罪が通じたことにほっとしつつ、問いに対しはこくこくと頷きで返す。それでも青年は怪訝そうな顔ひとつせずに、周囲に散らばった本を拾い始めた。も慌ててそれに続いたとき、
 二人の指先が一つの本の上で触れ合った。両者共に即座に引っ込める。瞬間、気まずい空気が場に流れ、本を拾い集めるのもそこそこに青年は手に持ったとある本に目を落とした。
「…囲碁の本だね。碁、打つんだ?」
 これは世間話だ。世間話を振られたことに、そして自分のことを尋ねられたことにの気持ちはぽっと浮上した。反射的に頷き、しかし間違いに気付いて慌てて首を振る。
「?」
 青年は疑問を抱いた様子だった。それを見て取っては尚更慌て、左斜め前に落ちていた本を拾い表紙を彼に向けてタイトルを指差して苦笑した。『これから始める囲碁』
「そうか、これから始めるんだね。」
 青年がの意思をくみ取って適切な言葉を返してくれたとき、ようやくははっとそこに思い当たった。やはり慌てて頭を軽く下げ、青年を見上げ、自分の口元に指を当てる。そして指を足して×印を口の前で作った。
 青年がぱちぱちとまばたきをしてを見た。けれどもそう時間はかからずに「ああ、そうか」と納得を口にした。
 は口が利けないのだった。発声器官にこそ異常はないものの、精神的な理由から失声症となった過去をもつ。
 再度、そこはかとない気まずさが場に到来し、青年は今度はちらばる本の数々に視線を向けた。「あ…この本」
「オレが碁を始めたばかりの頃、使っていた指南書なんだ。ルールの説明から対局の流れ、基本の動き、定石、用語、…と順序立てて書かれていて、図も見やすくて、初心者には分かりやすいと思うよ。」
 は青年から渡されたその本をまじまじと見つめ、自分の右脇に抱えた。また、青年は別の本を手に取り、
「この本は、誤字脱字も多いし、図が少ないから、あまり評判が良くない。友達も言ってた。」
 そう言いながらに渡した。ふんふんと頷きながら講釈を聞いていたは、受け取った本を見つめてから今度は棚に戻した。
 そこから二度三度、同じような調子で本の批評がなされ、は本を抱えたり棚に戻したりした。
 そして青年はわずかにほほえむ。
「最初はその程度あれば十分じゃないかな。あまり本ばかり持っていても、読む時間がもったいないし。一局でも多く打たなきゃね。」
 は青年を指さし見つめ首を傾げる。彼は一瞬固まったが、表情を気恥ずかしげに溶かして答えた。
「一応、碁を毎日打って過ごしてる。院生なんだ。」
 いんせい。は聞き慣れないその四文字を口内で転がした。飲み込めていない様子の彼女を見て、青年は親切にも言葉を付け加えた。
「あ、院生っていうのは、いわゆるプロ予備軍の立場。プロ試験に備えて日本棋院に通ってるんだよ。」
「!!」
 とたんにはぱっと表情を明るくした。気持ちも明るくなった。またたくまに感動に包まれたのだった。雲の上の遠い存在だと思った、その指先を見て確かに惹かれた人(にごく近い人)が目の前にいるなんて!
 丁寧に本を脇に置いてから、は思わず初対面の青年の両手を手に取った。そしてぶんぶんと上下に振る。「わ、わ、」青年は戸惑いながらも、自分を見るキラキラと輝く少女の目を前にして拒絶することもできない。
 は、未だ床にちらばる本の表紙の単語を用いて意思表示をする。自分を指さしてから『初心者』、青年を指さしてから『上級者』。
 そして彼女はもう一度青年の両手を取って、じっと見上げて見つめた。「あなたはすごい人だ、会えて嬉しい」そんな気持ちを瞳に込めて。
 青年はの言わんとすることを整理していたようで、少しの間の後口を開いた。
「…ええと。オレでよければ、構わないけど。」
「??」
 返ってきたのは予想外の言葉だったのでは面食らった。すると青年は「あれ、違ったかな」と続ける。
「碁を教えてほしい、ってことだと思ったんだけど。」
 その瞬間はちぎれんばかりに首肯した。青年はその勢いにたじろぎつつも、がまた土下座をし始めたのは慌てて止めた。

 通路に散乱した本を二人で片付けた後、青年の案内で日本棋院という建物に行き中の一般対局場という施設で碁を打つことになった。道すがら、今更ながらもは思い当たったことがあり、ポシェットの中の財布から取り出したお札数枚を、ぷるぷると震える手で青年に差し出した。
 青年は即座に拒んだ。
「お金なんて受け取れないよ! まだプロでもないんだし。」
 けれどもも引き下がれない。しばらく硬直した後、青年は優しい声で言った。
「じゃあ、帰りに一緒にマックに行こう。よかったらごちそうしてくれないかな。」

「囲碁は全く初めて? ルールは分かる? そうか、じゃあ初歩から教えていくね。
 囲碁は陣取りゲームだ。交互に黒石と白石を盤上に置いて、大きく囲ったほうが勝ち。な、シンプルだろ?
 相手の石の上下左右を囲えば石が取れる。囲った部分は自分の陣地だし、取った石は相手の陣地を埋めるのに使える。
 まずは石取りゲームをしてみようか。」
 そのようにして青年の指導は始まった。囲碁盤の格子点の上に碁石を置いてゆく、交互に。取られそうになったら石を繋げてカタマリを大きくすればいいらしい。石が取れそうで取れない。取られてしまった。取れた。さらに大きなカタマリが取れた。
 は人差し指と親指で碁石を掴んでコトリと置くだけだったが、青年は人差し指と中指で碁石を挟んでパチと打ち付けていた。テレビで見た、あの指先である。は見とれそうになったところをはっと我に返った。
「ここでキリにしよう。君は9子、あ、子っていうのは石の数え方なんだけど、オレは5子取ったから、君の勝ちだ。
 石の取り方は分かってくれたかな。これを踏まえつつ、この盤面全体を使って陣地を広げていって、その大きさを競う。これが囲碁の基本だ。
 じゃあ対局をしながら流れを掴んでいこう。どちらがどちらの石を持つかはニギリという制度があって、」
 ニギリの説明を聞く。青年が握った白石の奇遇を当てることができたので、が黒石を持つことになった。
 お願いします、と挨拶をして石を起き始めるらしい。は黒石を手に19×19の盤面を見渡して、その広さに目が眩んでしまった。
「うん。最初は石を置く場所に困るよな。だから対局の序盤、これを布石というんだけど、布石には定番の流れがある。陣地を囲うにはまず隅のほうが手数が少なくて済むから──」

 実践を踏まえながらその都度解説をするという教え方は実に分かりやすかった。は青年に導かれるままに石を置き、そして青年が置き、そうしてやりとりをしているうちに時間は過ぎ、盤上の空きが半分ほどになった頃。
 ──ピピピピ! の腕時計から少し大きめのアラーム音が鳴った。すっかり対局に夢中になっていた彼女は大きく驚き、慌ててアラームを止める。
 青年が穏やかな声で「どうかした?」と尋ねるも、はひどく慌てた様子を止めない。口をぱくぱくと開閉するが声は出ず、何度も時計を指さす。
「もしかして、門限?」
 はぶんぶんと頷いた。そして青年が盤上を片付けるのに合わせて自分も片付けて、椅子を蹴って立ち上がる。
 そしてポシェットの中の財布からお札を数枚取り出し、青年に差し出した。何度も小さくお辞儀をする。
「受け取れないって! あ、そうか、店に寄ってる時間がもうないのか──」
 青年は数瞬だけ思考を巡らせた様子だった。
「じゃあさ、また次のとき、一緒に食事に行こう。」
 次! 切迫していたの表情がぱああっと明るくなった。
「オレは来週もここに来てるから。来週日曜日、オレの院生研修が終わった後、15時半、この対局室前で。」



 少女は嬉しそうに何度も何度も頷いた。そしてお金を財布にしまい財布をポシェットにしまい、最後に深々と頭を下げて、そしてぱたぱたと忙しなく駆けて行った。
 青年はその後ろ姿を無言で見送った。
 彼の名は伊角慎一郎。日本棋院所属の、10月のプロ試験に落ちたばかりの院生だった。
(オレは何をやっているんだろうなあ。)