二.初めてが二つ

 次の日曜日が待ち遠しくて、いつもの退屈な一週間がとても長く感じられた。
 が待ち合わせの15分前に一般対局室の前に行くと、既にあの青年はいた。を見ると表情を明るくして手を上げてくれる。は青年よりもっと表情を明るくして手をぶんぶんと大きく振った。私を待っていてくれたんだ!
「大丈夫? 迷わなかった?」
 席に向かいしな青年が尋ねてきたのではこくこくと頷いた。
「前回はここまで打ったね。」
 向かいの席に座った青年が、何気なく言いながら盤上に黒と白の石を並べていく。実際それは先週の対局を再現したものであったのだが、の記憶は曖昧になっていたので肯定も否定もできず、ただただ目の前の青年のすることが信じられずに目を丸くするばかりであった。
「ん?」
 並べ終わって、青年が顔を上げてを見る。彼の手つきに視線が釘付けになっていたの肩が跳ねて、それから彼女も青年の顔を見て何かを訴えようとしていたが、手の届く周囲には文字の書かれたものはない。観念してポシェットを漁って筆談器を取り出した。
『あんきしてるの?』
 が青年に見せたのは子どもらしく拙い走り書きだ。彼はそれを読み取って声に出して言葉で答えた。
「うん、そうだね。碁は一手一手に意味があるから、流れを掴んで暗記が可能なんだ。」
 の返事は(周囲に配慮された控えめな)拍手だった。表情に感嘆の色がありありと浮かんでいる。
「ありがとう。でも、それなりに打てるようになれば誰にでもできるよ。」
 何でもなく言い切ってから、青年は盤上のから見て右上を示した。
「ひとまず急場は終わったから、次に気にするのはここがいい。白石の動きも気にしながら、布石に繋げるようにして打つんだ。こんなふうに囲みたいから、どこに打つのがいいと思う?」
 がある場所を指で示す。
「確かにそうしたい気持ちも分かるんだけど、次に白石がこう入ってきて、」
 パチ、パチ、と黒白交互に石が打たれていく。そしてが繋げようとした黒石は白石に割り込まれてしまった。
「石がサカれて、地が小さくなってしまう。」
「!」
 ふと思い付き、それでは、と、はまた先ほどとは別の場所を示した。青年は頷いた。
「うん、そこに打てば、仮に白が割り込んできてもここをツいで、白を締め出すことができる。
 よく気が付いたな。偉い!」
 その二言はの心に深く染み渡った。褒められた。褒められた。褒められた。何度も心の中で反芻する。
 きっと青年にとっては何でもない言葉だったのだろうが、自分の出した結果を褒められることはにとっては実に久しぶりだった。
 静かにその事実を確かめていると、青年は少し申し訳なさそうな表情を見せた。
「あ、ごめん。つい弟にするみたいに言っちゃって。いやな気持ちになったかな。」
 は彼に気を遣わせてしまったことを「しまった」と思った。慌てて取り繕おうとして、けれども褒められたことが嬉しく照れるような気持ちがあったためにすぐには表情を作ることができずに、首を振ってからしばし口をもごもごさせて、そしてにっこりと笑顔を作った。
 青年もそれを見て安心したように軽く笑った。そして対局が再開される。

「死に石を取って、アゲハマと合わせて相手の地を埋めて、整地して、地を数える。」
 慣れた手付きで青年が石を並べ替えていく。はその様子をじーっと見つめる。
 きちんと数えた様子さえなく、青年はさらりと言った。
「今回は黒72目、白68目だから、コミを入れて白の1目半勝ちだ。これで対局は終了。互いに礼を言うのがマナーなんだ。」
 「ありがとうございました」と、青年は頭を軽く下げる。も彼に倣って頭を下げた。
「どうかな、対局の流れは掴めた?」
 は首を縦に激しく振った。その様子を見た青年はどこか満足そうである。
「前別れた時間に余裕があるね。一緒にマックに食べに行こうか。」

 日本棋院を出て「マック」に向かう道中、青年がさりげなく尋ねてきた。
「そういえばオレたち名前も知らないね。オレは伊角慎一郎。君は?」
 も青年の名前を聞くのをすっかり忘れていた。元より口の利けないにはその余裕もなかったわけだが。
 青年の彼…伊角が自分に興味をもってくれたことが嬉しくて、は筆談器にペンを走らせた。
』隣に読み方も添える。
ちゃんか。あれ、名字は?」
 追っての問いに関しても、伊角には他意はない様子だった。だからその質問の直後にちょうど目的地の店が見えたとき、すぐに伊角はそちらに気を取られてしまって話は途切れた。
 けれども名字を聞かれた瞬間、の胸には緊張が走っていた。その余韻としての胸のわだかまりを持て余しながら、は伊角の後に続いて店に入る。
 ごみごみした喧噪と忙しない時間が店内を満たしていた。入り口入ってすぐのレジに伊角はつかつかと歩み寄っていくが、の足は進まずに止まってしまった。胸のわだかまりの隣を驚きと感動と物珍しさが満たしていく。
 レジの前で伊角がを振り返ったとき、彼女ははっと我に返った。そうだ、店に入ったのだから注文をしなければ。伊角の待つレジに早足で近付く。
 あわあわと慣れない様子でカウンターの上のメニュー表を見ているに、伊角は気遣う調子で声をかけた。
「代わりに注文しようか? どれがいい?」
 途端に、これまでに見せたことのない不安げな瞳でが伊角を見た。指でさしてくれればオレが代わりに店員に言うから。彼はそう続けるがの表情は変わらない。そして彼女は筆談器にこう書いた。
『よく分からない』
「えっ」
 分からないとの言葉が伊角にはよく分からないようである。しかし一瞬引っかかったものの彼はすぐに気を取り直して、「おなかはいっぱいじゃない?」とに尋ねた。は首を振った。
「じゃあポテトとドリンクでも頼もうか。ドリンクはこの中から選んで。」
 は示された中にオレンジジュースの文字を見つけてそれを指さした。わくわくした気持ちを芽生えさせながら。
「ポテトM2つ、ドリンクM2つ、ほうじ茶とオレンジジュースで。以上です。」

 注文をしたのでは先に席に向かったのだが、後から伊角がトレーを2つ手にやって来たのでたいそう驚いてしまった。
「えっ…えっ?」
 そして驚いたを見て伊角も驚いた様子だった。
 は意を決して筆談を始めた。
『ここ はじめて来た』
「マックに来たことがないって!?」
『だからりょうりも店員がもってくるとおもった ごめんなさい』
「ううん、それはいいんだけど…。ちゃん、歳はいくつ?」
 は両手の人差し指を立てて見せた。
「11歳?」
 こくん。
「小6…5年生か。」
 こくこく。
「そうかぁ。もしかしたらオレも、君くらいの歳の頃はファストフードに食べに来たことはなかったかもしれない。デビューだな!」
 気さくに笑う伊角を親切な青年だとは感じた。
『今はよくくるの?』
「院生研修の後、仲間と一緒に寄ることが時々あるよ。あ、院生研修っていうのは、オレたち院生が毎週棋院でやってる研修のこと。同じくプロ志望の仲間たちとリーグ戦を行っているんだ。」
 はこくこくと頷きながら伊角の話を聞いている。声こそ出ないもののその目は興味に輝いていて、はっきりと頷くものだから、話し甲斐のようなものを伊角は感じていた。
「1組と2組に分かれて総当たり戦を行う。その成績で順位が変動するんだ。」
『しんいちろーは何位?』
 が筆談器の文字を見せた直後の一瞬、伊角の表情が堅くなった。けれどもそれは一瞬のことで、だからが違和感に気付くことはなく、すぐに照れくさそうな表情をして伊角は答えた。
「1組の1位。」
 途端には表情を明るくして、棋院にいたときよりも遠慮のない拍手を伊角に送った。そして慌てながら筆談器に向かう。
『すごい すごい!』
「そんなことないよ。1組が長くても自慢にならないしね。今年もプロ試験に落ちちまったんだ。」
 伊角本人は大して調子を変えずにそう言い切ったが、のほうが目に見えてしゅんと肩を落とした。
『くやしいね』
「ああ…」
 その様子に伊角も釣られてしまったので、感情が声に出た。彼は既に何度かプロ試験に落ちており、悔しいという気持ちにも自信がなかった。ただ漫然とした不安に包まれている。
 そんな伊角を見て、は筆談器に文字を書いた。
『しんいちろーはすごい!』
『おしえるのうまい』
『つよい』
『でも受からない くやしい!』
 小学生の拙くも力強い文字と励ましを受けて、伊角は力なく笑った。
「はは…。ありがとう。」
『らい年は?』
「もちろん受けるさ! 院生でいられる最後の年なんだ。次こそ絶対に受かってみせる。」
『がんばって』
 それからふと思い付いて、何の気なしにはこう書いた。
『いご たのしいね!』
 ニコニコと、満面の笑みを筆談器と一緒に伊角に向ける。屈託のない笑顔を見せられた伊角は、頷いて、
「うん、そうだね。」
 とだけ言った。

 先週と同じアラーム音が二人の間に響きわたった。
「家はどこ? 送って行こうか。」
 伊角の、年上の青年の、何てことはないささやな気遣いだった。しかしその言葉を聞いた瞬間、は弾かれたような勢いで強く首を振ってしまったのだった。横に。
「え…」
 伊角が言葉を失う。そんな彼を見ては慌てて訂正しようとするが、訂正する言葉を伝えるための声が出ない。筆談器に書くにも言葉が選べず。
 ただただ都合の悪いことを知られたくない一心で、後先考えずには店を飛び出していた。