三.神様の一手

 そして次の日曜日。
 は先週に待ち合わせをしたときよりずっと早い時間に日本棋院を訪れた。一般対局室に向かうが、伊角がそこにいることはない。
 院生研修の後で来ていたというのだから当然だ。時間になるまでは来るわけもない。
 時間がきても来ることもないのだろうけれど。なぜなら約束をしていないのだから。
 は対局場の中を覗いて、碁盤に向かう人々、パチパチという石の打たれる音を見聞きする。それから通路に向き直って人々が行き交う中で立ちすくんで、
 決意して歩き出した。棋院の入り口に向かい、そこで院生研修の行われている場所を確認する。階段を上って**階に向かう。それらしき部屋がすぐに分かった。
 戸の隙間から見えた畳の間で、大勢の人が対局をしているのが見えた。は少し離れた通路の隅に立ち、筆談器を抱えて時間がくるのを待機した。
 研修の行われている部屋は広くたくさんの人がいるようだったが、中は静まり返っていた。誰も声は出さずに向かい合ってただ一手を交わす。少し距離があるので石を打つ音こそ聞こえなかったが、は目を閉じてその気配を感じていた。
 そうしてしばらく待っていると時間がきたようで、中の空気が動くのが分かった。立ち上がった人が歩き、ぽつぽつと外へ出て来る。見知らぬ人ばかりだったのでは緊張して萎縮するが、特に彼女を気に留める者もいない。せいぜいちらっと目線を向けられる程度だ。は視線を巡らせて、人の流れの中から懸命に彼を探した。
ちゃん!?」
 が姿を認めるほんの少し前に伊角から声をかけられた。はほっとして伊角に駆け寄ろうとしたが、それも伊角に先を越され、促されるままに人の流れから距離を取る。
「えーと」
 伊角は困った様子で言葉を探しているようだった。
 そんな彼を前にはペンを繰る。筆談器に書く言葉は、一週間前から準備していた。
』隣に読み方も添える。
『わたしはざいばつのむすめです』
『きらわれると思って言えなかった』
『ごめんなさい』
 そう締めくくり、は頭を下げた。彼の目を見られない彼女の頭に伊角がぽんと手を乗せた。
「構うもんか。」
 は顔を上げて伊角を見た。穏やかな、を安心させる表情がそこにある。
「だって囲碁には身分なんて関係ないだろ。ちゃんはオレにとっては、オレの話を聞いてくれる、対等な相手だよ。」
 優しい言葉と声が、の一週間分の不安をいとも簡単に溶かしてゆく。そして代わりに溢れた気持ちで胸がいっぱいになった。
「今日も打っていく?」
 声は出せないがは大きく頷いた。笑顔で。そして伊角の後を追う。

「先週はオレが言葉で説明しながら打ったけど、今日は無言で、自力で打ってみようか。」
「……!」
 碁盤を間に向かい合い、開口一番の伊角の言葉はそれだった。途端には不安に突き落とされ、ぶんぶんと首を左右に振る。
「やっぱり自分で考えながら打たなきゃね。実践が大事だから。」
 平然と言う伊角を前に、は慌ててすっ転びそうな文字を書いた。
『よわいから しょうぶにならない』
「大丈夫、本気で叩きのめすとか、そういうんじゃないよ。ハンデとして、」
 伊角は碁盤の星の上に黒石をパチパチと置いた。
「6子置く。それから、今からするのは指導碁だ。オレはちゃんを負かすために打ったりしない。」
 は首を傾げた。指導碁?
「その名のとおり、上手が下手に指導する目的で打つ碁でね。言葉じゃなくて一手一手で語るんだ。オレの手から流れを感じて、次の一手を見つけてほしい。」
 その説明はの心にすとんと落ちた。自分があのとき見つけた対局、その中の自分を引きつけた神秘が目の前に現れ、それを今まさに体験しようとしている。途端に喜び、期待、興奮に襲われ、は自然に緩んだ口元をぎゅっと引き締めた。
 それからの約一時間ほどは、本当に言葉のない時間が流れた。パチ、パチ、という音だけが二人の間を満たす。
 出ない声を無理して出さずとも、慌てて文字を書かずともよいのだ。ただ盤面に向かい手を打てばそれで。次にどうすればよいのかは、伊角の打つ手が教えてくれた。それに応えてが手を返せば、伊角もそれの訴えるところを察して真摯に返してくれる。
 声も文字もないのに、には伊角の言葉が伝わるような気がしていた。確かに二人は今(指導といえど)競い合う関係にはあるのだが、盤面を介して認識を、思いを共有することができていた。
 対局の終盤であるヨセに入り、はそこからはそれこそ一本道を伊角の手に引かれて走り抜けた。終局である。
「黒96目、白92目。コミを入れて、白の1目半勝ちだ。良い碁だったよ。」
 そして伊角は解説・検討を始めた。
「布石もオーソドックスに打てていたし、オレの切り込みにも応じられていた。ヨセは問題なし。
 たとえば、この手は良い一手だったよ。白による切断に備えた手だ。」
 指し示された石を見て、には心当たりがあったのでうんうんと強く頷いた。
「だけど中盤大きな失着があって、ちゃんはここに打ったけど、黒を生かすにはこっちのほうがよかったんだ。そうすれば白が入ってきてもこう応じられて、…、この隅を得ることができた。」
 自身その局面で失敗したことを感じてはいたが、どこが問題だったのかまでは分からなかった。説明を受けて納得した。それと同時に落ち込んだ。
(碁でお話するのも難しいなあ。)
 だけど、だけど、対局が心地よかったのである! だからは、落ち込みこそしたもののそこでへこたれてしまわずに、もっとがんばろう、次はこうしよう、と前向きに考えることができていた。
 だからはごく自然に、なんの抵抗もなく、盤上の白石を指さして筆談器に文字を書いて自ら会話を繋いだ。
『うまい手』
「うん、そうだね。ここの局面においてはそれが決め手だったから。でもそれに対するちゃんの返しも適切だったよ。」
『しんいちろーのおかげ!』
「ちゃんと指導が伝わっていたならよかった。」
 力強く笑うに対し、伊角は少しだけ嬉しそうにほほえんで返した。つられての心も優しく凪ぐ。
 そしては追って尋ねた。
『1目半って わざと?』
「うーん、わざとって言うと聞こえは悪いけど…。そういうことになるね。調節しながら打ったよ。」
「!」
 回答を聞き、は驚くと共に感動した。6子もハンデがあって勝つだけでもすごいのに、その上でさらに指導をして、なおかつ勝ち方の差を調節するだなんて。とんでもない! そんなことを考えたが、うまく言葉にはまとめられず──、頬を赤らめて拍手をしてから、文字にこのように起こすしかなかった。
『とんでもない!』
 伊角は少し照れくさそうに笑った。
 そうして検討を終えると今日もそこそこの時間になっていた。
「もっとちゃんと碁を勉強したかったら、家でも詰碁を解いたり、棋譜を並べたりするといいと思うよ。碁盤はあるかな? 足付きの良いものを買おうとすると高いけど、プラスチック製の折りたたみのものもある。
 よかったら今度、詰碁や棋譜の本を見に行こうか。」
『行く!!』
 声と文字で軽く会話を交わしながら碁盤を片付けて立ち上がり、二人はそれぞれの帰路に付くために別れた。


 それからというもののと伊角は、明確に約束したことはなかったけれど、「またな」「今度な」を繰り返して毎週毎週会っていた。
 碁を打つのに言葉はいらない。を導くのは盤上に置かれた石の一つひとつ、伊角の打つ一手一手だ。彼の大きな手は男らしい力強さで石を掴み、まるで恋人でも扱うかのように愛情深く取り扱い、光る指先で鋭く盤面に打ち付ける。はその光に導かれて突き進む。
 その時間がには心地よかった。
 伊角は何十手、何百手先まで見越して一手を放つ。過去の一手が未来に繋がる。それはさながら未来の予言だ。
(盤上の宇宙に星を増やしてわたしを導いてくれる。慎一郎はわたしの神様だ。)


「そこに打つこと自体は、左辺の攻防をニラんだ良い手なんだけど、右上隅をおろそかにするとシチョウで石が取られちゃうだろ? だからその前にこっちを何とかしたい。──うーん、確かにそれは局所的には有効ではあるんだけど、手拍子で受けすぎ。はずいぶん打てるようになったから、もっと先を見た手を打ってほしい。ほら、ここの白が弱いだろ? …………、うん、うん、正解。そうすれば先手が取れる。」

「1月期の院生試験合格者は一人、オレより4つ下の男の子だ。新藤っていうんだけど。自分が塔矢アキラのライバルみたいに言うんだ。」
『つよいの?』
「もちろんそれなりの力はあるみたいなんだけど──、正直、塔矢のライバルとまで言われるほどか? って思っちまう。でも本人はすごく良いヤツでさ。最近和谷も含めて一緒によくつるんでるんだ。」
『なかよしだね』
「うーん、そんなもんかな。でも、同年代の気の合う同性が入ってきてくれたから、普段の研修ももっと楽しくなったよ。」

『しゅくだい 一しゅうかん考えたけど 分からない』
「この問題だよな。急場があるというのは分かるよな? うんそう、だからここでトんでおけば白のヒラキを阻止できて、黒の補強もできる。ここに打つのが正解。
 …ん、どうした?」
『そっかー!』
『いっしゅんで答えでた やっぱりしんいちろーはすごいなあ』
「そんなに褒められることじゃないよ。院生だったらこのくらい誰でもできることだし。」
『けんそんなさらず』
「…ありがとう。」
『しんいちろーは そのいんせーの中 一位だしね』
「もー! 褒めすぎ! ちゃんだってがんばるんだからな!」



 そして時は過ぎ────