四.いつもどおり?
「!」
4月。毎週日曜日のいつもの時間、日本棋院の一般対局室前で待っている少女に声をかけると、はぱっと顔を上げて嬉しそうにはにかんだ。は毎回待ち合わせより早めの時間に来るが、伊角は院生研修の後寄っている関係上早く来るにも限界があった。だから待っているに伊角が声をかけて歩み寄るのがいつもの光景だった。
対局場に入って席に付く。今日は一緒に詰碁の問題を解こうと考えていたので伊角が荷物から問題集を取り出すと、それより先にが差し出したものがあった。
『いつもありがと』
リボンがかわいいラッピングの施された焼き菓子だった。は時々こうして、「日頃のお礼」として手作りのお菓子を差し入れてくれることがあった。出会った当初こそ金銭報酬を支払おうとしていた彼女だったが、それは伊角が固辞していた(一度だけ食事代を出してもらったことがあったが、一度だけである)。すると差し入れとして手作りのお菓子を持って来るようになり、それは気持ちが嬉しかったので伊角は受け取るようにしている。
「いつも」のことなのに、お礼の一言をわざわざ書いて伝えてくれるのは、の律儀さの表れだ。
「くれるのか? いつも悪いなあ。今日のは何? クッキー…じゃないよな。」
『ダックワーズ』
「?? そっか、食べるのが楽しみだ。」
は財閥の、いわゆるお金持ちの娘だからか、伊角はたまに生活環境が違うなと感じさせられる場面があった。彼にはお菓子作りの趣味などないから尚更である。
伊角は受け取った包みを碁盤の脇に置いた。そしてお互い何も言わずとも、いつもの時間が始まろうとしたところで──
「ちゃんヤッホー!」
「ちわーっす!」
二人の少年が場に乱入した。和谷と新藤だ。伊角はちょうどそのとき言い掛けていたことを言えずに固まった。
は一瞬ぽかんとしたものの、すぐに人当たりの良い笑みを取り戻して軽く頭を下げた。
まず和谷にの存在を知られたのが**月頃、まだ彼女と出会って間もない時期だった。のほうから院生研修の手合い場を訪ねて来てくれたのである。そのときはすぐにと共にその場を離れたが、案の定、少女の姿を目撃していた和谷から後日問い詰められることとなった。
「先週の子だれ!? 彼女!?」
「そんなわけあるか! 相手は小学生だぞ。妹みたいなもんだよ。最近知り合って、碁を教えてるんだ。」
「あっ、先週やけに慌てて帰ったのってそれが原因か!」
「う…」
そのときのやりとりはその程度で終わった。それからしばらく経って新藤が院生になった後、新藤も含めた場での話題が出たことにより、彼にも知られることとなる。
「オレらもちゃんに会ってみたいなー。」
どちらからともなくそんな発言を聞いたこともあった。
(まさか本当に会いに来るなんて…)
頭を抱える伊角をよそに、和谷と新藤はに明るく挨拶をする。
「オレは新藤で、こっちが和谷。」
「よろしく!」
も人当たり良くそれに応えた。
『です 二人のことはしんいちろーにきいてます』
筆談器に文字を書いて見せたを、二人は少し不思議そうに見つめた。伊角は自分が説明すべきか否かを慌てて悩むが、
「本当ー? オレらも伊角さんからちゃんのこと聞いててさあ。会ってみたくて来たんだ!」
和谷がそつなく受け答え、新藤もそれに続いてニコニコと笑っていたので、ほっと胸を撫で下ろした。も特に気を悪くしたようすなく笑っていた。
「今日何やってんの? 詰碁? うーんどんなもんかな。」
新藤が伊角の出した問題集を手に取り、パラパラと中を参照する。そして指示されたでもないのに勝手に碁盤に石を並べ始めた。おいおい何をやっているんだ。止めるのを伊角がためらっていると、今度は和谷が碁盤脇の包みに気が付いた。
「あっ、お菓子だ! 手作り?」
「がくれたんだ。」
「へー、いいなー、羨ましいー。」
特に深い意図はない言葉だったろうが、はそれを聞いて筆談器に文字を書き始めた。そしてボードをくるりと回して二人に見せようとしたところで、そこに書かれた文字が目に入った伊角は思わず声を荒げて言っていた。
「あげないからな!」
伊角はその発言の真意を自覚していなかったが、和谷と新藤は目を見合わせてニコニコと笑った。
「奪わないよー。」
そして盤面に局面の形を並べ終えた新藤がに言葉をかけた。
「ほら、眼形作り。ちゃんこれくらい分かる?」
は素直に考え始めるが、思案が終わるのを一切待たずに和谷が割り込む。
「オレに任せろ! こうこうこう!」
「おまえがやったら意味ないだろ!」
これには思わず伊角も言葉で突っ込んでいた。和谷はいたずらに成功した子どものように得意げに笑っている。一方のは心底感動したようすで手を叩いていた。
『すごい はやい!』
「勝負だ!」
「あっ、オレも! 今度は和谷が問題出して。」
そうして三人で詰碁を題に(声こそ部屋の空気を読んで抑えているものの)盛り上がり始めてしまった。とはいえ、当然が現役の院生である二人に敵うはずもなく。は和谷と新藤の棋力を見せつけられて感心しきりだった。
(…あれ)
いつもと違う空気、いつもと違うメンバーにぽつんと取り残されて、伊角は心の中に違和感が生じるのを感じた。
そして、そういえば、と思い出す。当然だが詰碁を解くときにはに考えさせて、解答後や困ったときに伊角が手を出すようにしていたために、こんなふうに力を見せつけたことなどなかった。だから、つまり、が伊角の詰碁を解く姿に感動し褒め讃えたことなどなかったのだ。
そのうち、和谷と新藤がにハンデを与えて問題を考えさせるようになる。はそれに素直に従って問題に取り組み、当てたり外したりしては一喜一憂していた。
そのようすを眺めながら、伊角の心にある気付きが生まれた。
(別にオレじゃなくてもいいんだ。に碁を教えるのは。)
散々場をかき乱した後、満足したのか二人は唐突に去って行った。
「騒がしい奴らだっただろ。なんだかごめんな。」
は小さくほほえんで、ふるふると首を振った。
『たのしかった!』
『学校のともだちいないの だれかとわいわいできてうれしい』
「そうなのか…。」
なんとなく、伊角にはいつものように気の利いたことを返してやることができなかった。先ほどから心にあるしこりのせいだ。はそれを知ってか知らでか、ただ変わらずにニコニコと笑っている。楽しかったというのは本当なのだろう。それは伊角にとっても望ましくある、べきはずのことであったのだが。
の時計のアラームが鳴るまで、対局をするには足りない時間が残されていた。それこそ詰碁の問題集を持っているのだから共に問題に取り組めばよいのだが、伊角はそれをせずに会話を切り出した。かねてから伝えようと思っていたことではある。
「そうだ。5月と6月に若獅子戦っていうトーナメント戦があってさ。」
「?」
「院生の上位16名と若手プロが対局するんだ。オレも出るつもり。それで、この棋戦が一般人の観戦も可能だから、」
のつぶらな瞳に伊角は語りかけた。
「都合が付けば、観に来てくれないかな。相手はオレたち院生だけど、プロの対局を見られる良い機会だと思うんだ。きっとのためになる。」
が目を見開いて、ぐいっと身を乗り出した。口がぱくぱくと開閉して、声こそ出ないもののには彼女が何を言わんとしているかがよく分かった。
そしては慌ただしく筆談器を手に取り、文字を書いて伊角に見せた。
『ぜったい いく!!』
踊るような文字だった。の興奮がよく伝わってくる。
との具体的な意志疎通は筆談によっていたが、何度か経験するうちに伊角は文字からも彼女の感情を読み取ることができるようになっていた。それには表情豊かな女の子だったし、意志疎通を図るのになんら不便はなかった。伊角は元々ペラペラとまくし立てる人でもなかったので、が文字を書く間さえも心地がよい。
『プロと打つの?』
「ああ。一回戦は必ず院生とプロが当たる。プロは20歳以下、五段以下の若手なんだ。」
『かてそう?』
「オレは二回戦までは勝ったことがあるよ。」
『プロにかっちゃうなんて すごい!』
の目は爛々と輝いていた。伊角は照れくささをごまかすように続けた。
「ただやっぱり、勝ち上がっていくと相手のプロの実力も相当になるから、さすがに優勝は厳しいな…。」
するともしゅんと小さくなる。けれどもすぐに力を取り戻して、筆談器に文字を書いて見せた。
『Do your best!』
「ん。ありがとう。がんばるよ。」
それから具体的な場所と時間の話をして、がメモ帳にそれを書き留める。続けて二言三言言葉を交わしていたら、いつものようにの時計のアラームが鳴った。
伊角は、この時間がくる度にいつも同じことを考えていた。今でこそ毎週のように会ってこうして囲碁を教えているが、最初回を除いて一度として明確に次の約束をしたことはない。ただなんとなく「またな」と言って別れて、次の日曜日にいつもの場所にいつもの時間に行くとが待っていてくれる。それだけだ。それだけの関係だ。
しかしそれでは不健全だと伊角は考える。相手に不誠実だ。きちんと明確に、言葉にしなければ。
ただ、「教えてもらう」という立場の手前、からは言い出しづらいのかもしれない。その上彼女は年下である。だからここは、年上の上手である伊角が、責任をもってに言ってあげなければと。思うのだが。
『じゃ またね』
「うん。また今度。」
の純真無垢な笑顔を前に、伊角は今日もまた、なんとなく言い出せないのだった。
*
約束をしないから気がかりになるのだ。先週は来てくれた。でも今週は来ないかもしれない。もう来ないかもしれない。なぜなら、彼女に碁を教えるのは自分でなくともよいのだから。
研修手合いを終えて、いつもよりはやる気持ちでいつもの場所に向かう。そこにはまばらな人通りが。いつもどおり。いつもどおりの光景だ。
いつもどおりの光景だった。少女がこちらに目を向けて、にっこりと嬉しそうに笑む。
(オレじゃなくてもいい。でも、オレでいいんだ。)
ただ、その「いつもどおり」が伊角には心地よかったのだ。