六.薄氷を壊す勇気

 若獅子戦翌日の日曜日、いつもどおりの院生研修の昼休み。伊角は仲の良い面々とファストフード店で食事を取っていた。主な話題はやはり前日の若獅子戦についてである。
「昨日の若獅子戦。結局一回戦勝ったのは伊角さんと越智と足立さんの三人だけで、二回戦も勝ったのは越智一人ってのは、やっぱ寂しいなァ。」
「碁の内容は良かったんだぜ! 落合プロに会心の一手打たれたけど、立て直して半目差までつめたし。」
「先生も褒めてたよね。」
 しばらく会話を続けて話に区切りが付いたとき、そういえば、と思い出したように奈瀬が話題を切り出した。
「伊角くん、若獅子戦のとき、小学生くらい? の女の子と話してたよね。あんな小さな女の子が観戦に来てるなんて珍しいと思ったんだわ。知り合いなの?」
「ああ…」
 確かめるまでもなくのことである。何を説明したものかと伊角が考えていると、横並びに座っていた和谷と新藤が先に口を開いた。
ちゃんていうんだよなー!」
「すげえ仲良しなんだぜ!」
 納得するには今一つ足りない様子の奈瀬をよそに、和谷は伊角に話を振った。
「今日もちゃんと約束してるのか?」
 伊角はそれにはただ素直に答えるだけである。
「約束……。はしてない。」
「えっ??」
「なんとなく、自然な流れでいつも会ってるだけなんだ。」
「どゆこと?」
 はっきりしない様子の伊角を見て、和谷に続いて奈瀬も目を丸くする。疑問に対し新藤が説明で答えた。
「伊角さん、一般対局場で毎週日曜日に碁を教えてる女の子がいるんだよ。」
「えーなにそれ、初耳よ。それで伊角くん、研修後の付き合い悪かったの。女の子に碁を教えてるって?」
「でも約束はしてないんだ?」
 三組の目に見つめられ、伊角は重たく頷いた。
「ああ…」
 そんな彼を前にして和谷と奈瀬が顔を寄せ合い、当の本人には聞こえないように小声で囁き合った。
(それって下手な約束より固いじゃない。)
(だよなー!)
 伊角は所在なげにジュースを一口すすった。
「だけど今日もちゃんと会って打つんだろ。楽しみだな!」
 どことなく肩を落とす伊角を気遣うように和谷が言った。伊角は「ああ、そうだな」と小さく言うだけだった。
 そんな中、奈瀬が爆弾発言を投下した。
「その子に会ってみたーい! 伊角くん、今日の帰り私も寄ってもいいかしら?」
「えっ!?」


!」
「!?」
 その日の院生研修終了後。果たして宣言どおり奈瀬は伊角に付いて来た。おまけに和谷と新藤も。
 伊角の想像どおり、は待ち合わせに現れた4人を見て非常に驚いて固まっていた。慌てて伊角は彼女に説明する。
「こっちの二人──は、前会ったよな。和谷と新藤。それで、こっちは奈瀬。院生仲間だ。今日はよかったらみんなも一緒に──」
 言い終わるや否やは筆談器に文字を書き始めた。いつもより慌ただしい様子である。そして彼女が見せたのは、
『ごゆっくり』
 という文字と固い笑顔だった。
!?」
 そしては走ってその場から逃げ出した。予想外の行動に伊角は一瞬だけ呆気に取られて迅速に動くことができず、ワンテンポ遅れて彼女を追いかけようとするが連れて来た三人を放置するわけにもいかないためどっちつかずとなり、結果としてを見失った。
 三人の元に戻り、伊角は取り繕うように言った。
「なんか…ごめんな。普段は明るい良い子なんだけど。いきなり見知らぬ大勢の年上で押し掛けたから、びっくりさせちまったのかも。」
 驚きはしたものの、三人とも特に気分を害した様子でもない。奈瀬が最初に口を開いた。
「筆談なんだ。」
「ちょっとな。」
 疑問はささやかなものであったようで、伊角が言葉を濁すと奈瀬はそれ以上追及することはしなかった。
「あーあ、残念。お話聞きたかったのに。」
 に逃げられた。ここにきてその事実に襲われ伊角はがっくりと肩を落とした。
「逃げられた…………。こんなの初めてだ。」
「やーい逃げられたー!」
「うるさいっ!」
 和谷と新藤の軽口にはいつもの冗談みたいに口先だけ怒って返すが、伊角の心は静まらない。
 に逃げられた。なぜ? 今日だけの出来事であったらばここまで気がかりにはならないが、昨日にしても様子がいつもと違っていた。院生とプロとの対局の観戦に誘って、本人も(おそらく)喜んで見に来てくれて、有意義な時間を過ごしてもらえた。それは本当である。の瞳の輝いていたことを信じたい。だが別れ際の様子がどこかぎこちなかったのもまた事実なのだ。
 はまだ小さいし、初めての場所を訪れて緊張していたとか? そんな可能性も考えることは可能であるが、それに今日の逃走が続くわけだから事態は深刻である。昨日とぎこちなさと今日のそれが全く無関係であるなら少々報われもするが──伊角にはそうであるとは考えられなかった。
 元より続いていた「約束をしない関係」に対する不安も相まって、伊角の心はざわついていた。これで次の日曜日、いつもの場所に来てくれなかったらどうしよう。次も次もそのまた次も、そしてついにはもう来なくなってしまったら──。
 懸念が表情に表れていたようで、和谷が「い、伊角さん」と気遣うように声を発した。慌てて伊角は表情を取り繕い、和谷に笑いかけた。
「ん、何でもない。今日はもう帰ろうか。」



 逃げちゃった逃げちゃった逃げちゃった!
 筆談器を抱えて逃げた先、日本棋院の建物から少し離れた道ばたで、伊角が追いかけて来てはいないことを確認したは呆然と立ち尽くした。
 今日来るのだって勇気がいったのだ。慎一郎が好きだと気付いてしまって、果たしてどんな顔して会えばいいかが分からない。猶予が一日しかなかったために時間いっぱいを使って必死に予行演習をして、何とか自分を取り繕って待ち合わせの場所に向かったというのに。
 だというのに、複数人であの場に来られて、そのうちの一人にかわいい女の子がいて、頭がまっしろになってしまった! 取り繕った自分がいとも簡単に瓦解して、その場から逃げ出すほかはにはできなかった。
(彼女…なのかなあ。)
 思えば自然な話である。慎一郎は18歳の大人なのだから、そういう相手がいても何らおかしくはない。何より彼は格好良いのだ! あんなに格好良くて優しくてまじめで碁に一直線なすてきな男性を、周囲が放っておくはずがない。
 院生仲間だ、と伊角は言っていた。それならば碁も強いのだろう、少なくともなんかよりはずっとずっと。対等な相手と対局するときのあの伊角の「いつもどおり」を、彼女はいつも見ているのだ。にはあの深淵を伊角と共有することはできない。彼女にはできる。にはできない。彼女には、…。
 嫉妬というには燃え上がらない感情に苛まれて、打ちのめされて、はただその場で落ち込んだ。ため息を付く。
(いいんだ、彼女になれなくても。慎一郎と過ごせれば。それで。それはわたしだけの特権だ。)
 日曜日は慎一郎との大切な時間だった。一週間を日曜日のために過ごしていると言っても言い過ぎではない。なのに今週はだめにしてしまった。それがとてもとても悔しい。確かに慎一郎に会うには勇気がいったが、いつもの時間を過ごせない問題のほうが重大だった。
(来週謝らなきゃ……来週……)
 はごく自然に「来週」を考えていた。それはにとっては今となっては当たり前のことだったからだ。大切な、かけがえのない「当たり前」。



 翌週の日曜日、は待っていた。いつもの場所、いつもの時間で。が待つその場に伊角が後から現れるのもいつもどおりだった。
『ごめんなさい!』
 慌てて駆け寄った伊角が口を開くよりも先に、は腕に抱えていた筆談器を伊角に見せた。文字は前もって書かれていたのだろう。
 そしては謝罪の7文字を消して、そこに新しく文字を記入する。
『せんしゅう せっかくみんな来てくれたのに』
『にげちゃって』
 申し訳なさそうな表情で頭を下げるのは、いつもどおりのだった。
「いいんだよ。こっちこそごめんな、いきなり大人数でびっくりしたろ。」
 年上ぶって言う伊角に対し、はふるふると首を左右に振る。
『次はにげないから またみんなに会いたい』
「そっか。ありがとな。都合が合えば声かけてみるよ。」
 そうして言葉をかけると、はにっこりと笑った。
 何で逃げたんだ? 尋ねればきっとは答えるだろう。彼女は素直な少女だから。もう一つ聞きたいことがある。若獅子戦のとき、何かあったのか?
 けれどもそれは伊角にはできなかった。こうして薄氷に浮かぶ「いつもどおり」を演じるだけで、こんなにもやりとりは温かく心地良い。漫然とした不安は続いていたが、そこから抜け出そうとするための勇気が伊角にはなかった。抜け出そうともがいた先で「いつもどおり」が沈んでしまうかもしれなかったから。
 全くの初心者であったに囲碁を教えることは、プロ試験に落ちた直後自信を失っていた伊角の心を明るく照らした。できて当たり前と感じていた一つ一つをこなす度、すごいねとが笑ってくれることが。伊角の教えを柔軟に吸収してが成長していくことが。これまで伊角が歩いてきた道を思い出させてくれるようで救われていたのだ。自分のやってきたことの価値を。全ては無駄ではなかったと。
 この心地良い関係が、時間が、ずっと続けばいいのに。伊角はそんな夢を見る。「いつもどおり」の温かさに包まれながら。