五.十二年目のワガママ

 若獅子戦観戦のために、は会場を訪れていた。
 伊角との毎週の時間は、決して約束されたものではなかった。それでもそんな不安定な中存在する尊い時間がには愛おしかったし、だからこそ、伊角から観戦に誘ってくれたとき、心底嬉しかったのだ。
 碁を覚えてからも、プロ同士の対局をテレビで時々見ていた。かつて意味も分からずなんとなく惹かれていたやりとりの意味が分かるようになり、より引き付けられるようになった。四角い箱の中の遠い対局の光景にすら心沸き立つというのに、今日はそれを、直接見られるだなんて!
 しかも伊角の対局だ。普段は上手の立場から優しく指導してくれる彼が、対等以上の相手と本気で打つ。普段から彼との圧倒的な力の差は見せつけられていたが、きっと本気の対局でこそ分かることがあるだろう。このときは気軽な気持ちでそう考え、今日の対局をただ楽しみにしていた。
「…………。」
 はきょろきょろとあたりを見回した。会場には碁盤の乗った机が16個ある。あちこちにたくさんの人がいる。そして会場の一角に特に大きな二つの人の塊があった。
(あれが出場者かな? 慎一郎は?)
 人の多さに萎縮してしまいは動けず、その塊に近付くこともできないので、伊角の姿を確認することはできなかった。
『え──静かにしてください。ただ今より、第9回若獅子戦を…………』
 途方に暮れていると、会場内にアナウンスが響き渡った。それを聞いていると座席の案内があったため、しっかり聞いて伊角の席を確認し、目的の場所に向かう。
 果たして伊角はそこにいた。既にギャラリーが数多くいたこともあって声をかけることもできず、は何の気なしにいつものように伊角の向かい側寄りに立って観戦することにした。
「院生のギャラリーがこんなにつくの? 力入っちゃうな。」
 のすぐ目の前に座る伊角の対局者が言った。
「だって、伊角さんは院生でボクはプロだから、カンタンにやられたらカッコ悪いですもんね。」
 意地の悪い声だった。それを聞いた瞬間、真柴という対局者へのの心象がどん底まで落下する。口振りからするに、どうやら伊角とは顔見知りらしい? 真柴のことはは全く知らなかったが、彼が伊角への意地悪として傲慢な物言いをしていることは伝わった。ので、は苛立って、かーっと頬が熱くなるのを感じた。
「…………お願いします。」
 しかし、のそんな憤慨も露知らず、伊角は何も言わなかった。その様子にの頬がまた違った意味で熱くなる。いつもと違う伊角。には決して見せない表情。そのためは、もちろん観衆の手前ということもあったが、怒りを片付けざるを得なかった。すーはーと深呼吸をして気持ちを落ち着けて、始められた対局を見守ろうとしたところで、

 さらなる追い打ちをかけられた。
 伊角が、碁笥の石を掴む。その瞬間から彼を纏う空気が一変した。目が、盤上だけを見つめる瞳が。違う。伊角のこんな目をは見たことがない。指導碁のときには口角が緩く持ち上がり時には開いてを導く言葉を発してくれる口元は固く引き結ばれている。
 石を挟んだ指先が盤上に打ち付けられた。静まり返った世界にその音だけが響いた。その音と、目が、の全身を貫いた。
 はぴりぴりと冷たく鋭い空気に身を浸しながら、ただその場に立ち尽くしていた。伊角が一手また一手と打つたびにの心に傷を付ける。
 なんとか意地を取り戻して盤上に目を向けると、そこには未知の宇宙が広がっていた。一つひとつの石が重厚な意味を持ち絡み合い言葉を交わしている。には見えない深淵が見える。向かい合う両者にはきっとより深くが見えているのだろう。なぜならその深淵を作り出す側なのだから。にはとうてい手の届かない高みだ。
 そうしているうちに、慎一郎は今、どんな目を表情をして盤面に向かっているのだろう、それが気になってつい目線を上げてしまう。するとやはりそこには伊角がいて、は彼の全てに釘付けになる。その伊角が石を手に取り、ピシャリと盤面に打ち付けた。その一手はには思いも寄らなかった高みにある一手で、打ち付けられた石はキラキラと輝いて見えた。
 これが本来のいつもの彼の顔なのだ。彼はいつもこんな顔をして碁盤に向かっているのだ。そのことをはよくよく思い知らされた。
 そんな伊角を、の知らなかった伊角を知ってしまった今、は認めずにはいられない。
 慎一郎のことが好きだ。

 夢のような現実は瞬く間に過ぎ去った。「マケマシタ」の一声にその場がわっと沸き上がり、その瞬間の視界がぱっと明るくなる。
「ありがとうございました。」
 観衆が口々に伊角を褒める感想を言っていた。その言葉をぼんやりと聞き流しながら、は美しい盤面と伊角から目が離せなかった。
「どっちがプロかわかんねーな。」
「ヘッ。こんなところでオレに勝ったってイミねーぜ。」
 のすぐ横の対局者が口を開いたとき、やっとの意識はそこに向かった。
「プロ試験に受かんなきゃしょうがねーんだよ。」
「……!」
 その言葉に伊角の表情が傷付き、が硬直する。とほぼ同時に、観衆の一人が叫んで対局者に掴みかかった。
「コノヤロォッ!!」
「和谷っ!」
 そのままの勢いで真柴を押し倒し食ってかかる和谷を、騒ぎを聞きつけた棋院の人間が必死に止める。野次馬がその場に増えて騒がしい中、は所在なくおろおろと立ち尽くしていた。
 
、来てくれたのか! ごめんな、声かける暇なくて──」
 騒ぎが収束した後、一回戦と二回戦の合間の時間。院生の仲間たちの輪から外れて、伊角がに声をかけに来た。そのことが嬉しくての心はぴゃっと浮上する。
 が、その後はどうすればいいのかが分からなかった。様々な感情がない交ぜになってしまって、どんな表情をしたらいいのかが選べない。心を一番多く占める感情は外にはとても出せなかったから、は「怒り」を選択した。取り繕う側面もある。
「あれ、怒ってる?」
『ましばさん ゆるせない!』
 先ほどの真柴の発言についてである。
『しんいちろーのほうがつよくてやさしい』
『いいごを打つのに』
 は荒々しい字で気持ちを綴っていく。
『でもわやくんがおこってくれてよかった』
「…そうだな。」
 一番怒っていいのはよりも和谷よりも自分自身なのに。伊角はそれだけ言って小さく笑うだけだった。その表情を見て、はまたも怒りを片付けざるを得ない。すると次に出てくるのが先ほど発覚した伊角への恋心だった。
 の、文字を書く手が震える。
『つぎも がんばって』
 そうは書いたものの、二回戦も見ることは少しためらわれた。だって、だって! あんなにかっこいい慎一郎をこれ以上見ていられない。
 しかしそれは表面上だけの気持ちではあった。吸い寄せられるように、は次の伊角の対局を目の当たりにすることになる。



 二回戦終了後。伊角は観衆の中にを見つけて再度声をかけた。
「せっかく見に来てくれたのにごめんな。負けちまった。」
 は、ぶんぶんぶん! ともの凄い勢いで首を横に振った。筆談器の上でペンが踊る。
『ごかくだった すごい! 半目差』
『あいてはプロなのに』
 の目は興奮のためかキラキラと輝いていた。の勉強になるなら、という思いもあって観戦に誘ったが、良い体験になったようだ。良かった。伊角は安堵する。
「ありがとな。自分でも、良い碁を打てたんじゃないかって思うんだ。」
 仮にも指導する相手に道を示すことができたようで、伊角は誇らしい気持ちになった。
『来年はプロがわだ ね』
 そしてが、そう書いて、筆談器を伊角に向けた。その表情は伊角の力を、未来の勝利を疑っていないようである。は時々、そんな言動、表情をすることがあった。それがどんなに頼もしく、伊角の背中を押してくれたことか。
「………うん。」
 伊角は静かに、深くしっかりと頷いた。
『たのしみ』
『じゃね!』
 するとはぱたぱたと文字を書いて伊角に示してから、伊角の返事を待たずに軽く手を振って対局室を出て行った。その去り際の笑顔がまるで取って付けられたもののように見えて、彼女の背中を見送った伊角は軽く首を傾げた。
(なんだかぎこちなかったなあ。)



 は会場の外へ出てからもしばらくは早足で歩いたが、次第に動作が緩慢になる。伊角の姿が当然ないことを確認してから、はその場に立ち止まった。
 思いが噴出し、顔が熱く真っ赤になる。
 良い対局を観戦して宇宙の深淵の一端に触れることができて、心が歓喜に打ち振るえ、興奮したのは本当だ。だからは伊角の前ではその感情にしがみ付いて、多少ぎこちなかったとしても、何とか取り繕うことができた。
 けれども胸中を一番大きく占める感情が、今このとき溢れ出して止まらない。
(わたしは慎一郎のことが好きだ。)
 いつからだったかはもう分からない。ただ偶然で巡り逢い時間を共にするうちに、彼の優しさ穏やかさ思慮深さ、面倒見の良さ、碁の強いところ、ひたむきさ、人好きのする整った顔立ち、大きな手、心地の良い声、彼を構成する全ての要素に惹かれていた。いつのまにか。
(でもだめだ。こんなわたしじゃ。こんな子どものわたしなんかじゃ。)
 は齢11歳。方や彼は7つ年上の18歳で、18歳といえば小学生のにとってはただの大人である。子どもなど眼中にあるはずもない。よくて妹分だ。
 毎週会えて、碁を打ってもらっているだけで十分だ。これ以上望んではいけない。
 富豪の家に生まれて優しい両親に愛されて、新しいことを始めて好きになれて楽しくて。これ以上望むのはわがままだ。
 このままでいい。このままで。大事にしよう、いつもの時間を、この心地良い関係を。この思いの行方は分からないけれど、共に過ごせる幸福を抱き締めよう。
(明日から、いつもどおりのわたしに戻るから…)