八 星の砂時計

 平成13年度棋士採用試験本戦、第1週目。
『今日の対局は?』
「勝った。特に問題もなく、自分のペースを保てた一局だったと思う。」
『やった!!』
 今日からプロ試験本戦が始まっていた。伊角は日本棋院囲碁研修センターでのプロ試験第1戦目を終えた後でに会いに来てくれていた。
 いつものように日本棋院の一般対局室前で待ち合わせをして、いつものように碁を教えてもらう。はプロ試験に臨む伊角が心配で顔色を伺っていたが、今日はまだひとまずこちらも「いつもどおり」のようだった。安心した。
「そこは地を守るよりも割って入っていく場面じゃないか? 白の補強を防ぐと同時に攻めに繋がるコスミツケを打つことが…」
 でもそうすると黒の右辺の弱さが残って…、と、は指で問題の箇所を指し示す。
「その考えは一理ある。よく考えられた一手だと思うよ。でも、こちらはまだ急場じゃなくて、攻めたとき得られるであろう地のほうが価値は大きいんだ。今までだったら守りで良しとしてきたけど、は強くなったんだから、もっと攻めの一手を打っていってほしい。」
「…………。」
 は確かに頷いた。は自分の考えを注意・添削されているのに。そんな中でも伊角はを認めて褒める発言をしてくれて、おかげで自分の成長を実感することができて、こんなにも嬉しい。


 第2週目。
「今日も勝った。少し警戒していた相手だったけどうまく打てたよ。今のところ負けなしだ。」
『やった!!』
「今の時点での全勝は、オレと和谷、新藤、それから越智。」
『てごわいね』
「ああ…。越智にはプロ試験直前の院生順位で負けちまったから、試験でも心して立ち向かわないとと思ってたけど。和谷が調子が良いみたいで。それから新藤がここまでやるなんて。」
「…………。」
「前、新藤を碁会所に連れ回してやったって言ったろ。その甲斐あったみたいで、あいつ、ずいぶんと場慣れしてたよ。短期間ですごく成長した。これから化けるかもな。」
 そう語る伊角は面倒見の良い年長者そのものである。そここそが彼の長所で好きなところであったのだが、プロ試験のさなか、長所が裏目に出ないとも限らない。そのことがは心配だった。話題に時々登場する新藤、話の中で目覚ましい成長を遂げてきた新藤を、は密かに恐ろしく感じていた。伊角や和谷の良き友人である彼も、プロを目指す道のりにおいては等しく敵なのだ。伊角の手前、そんなことを口にすることはできなかったが。
 いつものように3子を置いて指導碁が始まる。
『わたしと打って にぶらない?』
「まさか! 確かに、プロ試験を目指すような者とは力の差があるけど…。だからこそこうして打つことが息抜きになるんだ。それに、はもう少し自信をもったほうがいい。言ったろ、は強くなったって。置き石も減ったしな。」
『よかった』
 伊角の言葉に救われながら、は自分だけに許された特権にほくそ笑む。これはわたしの、わたしだけの、慎一郎との時間だ。この時間だけは慎一郎はわたしのものだ。


 第3週目。 
「今日も勝ちだ。」
『ぜんしょうだよね!』
「うん。この調子のまま進めていきたい。」
 今日でプロ試験本戦は第7戦目になる。そして何と伊角は7連勝していた。先週に引き続き勝ち続けているのは4名で、彼はその内の一人だった。さすがに7連勝ともなればマグレの言葉では片付けられまい。は伊角の実力を改めて思い知って誇らしい気持ちだった。
「今日は棋譜並べをしようか。オレの勉強でもあるから悪いんだけど…。」
 申し訳なさそうな表情を浮かべる伊角に対し、はとんでもないと首を左右に振った。
『わたしにもべんきょーになる!』
 棋譜を片手に黒白両方の石を伊角が並べるのをは見守った。伊角は要所要所で手を止めて考え込む。時折考えを口に出す。半分は思考をまとめるための独り言で、半分はへの語り聞かせだった。伊角とはまた違った上手の打ち方には驚き感心しながら手筋を見守った。
 この次の手は、はどこがいいと思う? そんなふうに問いを投げかけられることもあった。は精一杯考えてそれに応え、伊角は全くの上手の立場から正解でもって彼女を導いたり対等な立場から検討し語り合ったりした。
 そんな中、はふと感じたことを書き留めた。彼女が筆談器に向かったことを感じ取り、伊角は手を止めての言葉を待っていた。
『このプロより しんいちろーのほうがつよい』
『なんでしんいちろーはプロじゃないのかな』
『ふしぎ』
「…………。」
 伊角が押し黙る。は、あっ、と声にならない声を上げ、慌てて書き足した。
『よわいのに分かったようなこと 言っちゃったね』
『ごめんなさい』
「ううん。」
 伊角は確かめるように声に出す。
「今のにならそれくらい分かるよ。きっとそのとおりなんだろうな。」
 今はそんな場合でもないのに、そのたった二言ひとつではこんなにも救われる。思いが胸を締め付ける。わたしも慎一郎に何かしてあげたい、もらうばかりじゃなくて。
 伊角は平坦な声で語り出した。
「確かに九星会でも言われることがある。もうプロ試験に受かってもいいくらいの実力はあるのに、って。
 院生師範には、土壇場での粘りとか、意地みたいなものを指摘されている。つまり精神的に弱いってことだな。」
 それはにとっては何だか現実味の薄い話だった。慎一郎の精神が弱いだって? わたしの前ではこんなにも強くてかっこよくて偉大な存在なのに。
 それでも彼が力ない笑顔を見せたから、少しでも何とかしてあげたくて、は一生懸命言葉を考えて文字にした。
『力は十分あるってことじゃん』
『出しきれてないだけで』
『メンタルよわいなんて』
『わたしと打つときのしんいちろーからはそうぞうもつかない』
『わかじしせんのときもそう』
『いつもならできてるってことだよ!』
 長めの文章を、伊角は急かしもせず黙って待って聞いていた。力ない表情が揺らいだようにも見えたが、結果はあまり変わらない。
「でも、その『いつもどおり』を本番で発揮しなきゃならない。それが難しいんだ。オレにはどうしたらいいのか…性格は今更変えられないし…」
 悩む伊角に、はこれ以上何と言葉をかけたらよいのかが分からなかった。幼い彼女には、そこまでの経験・思慮深さはまだなかった。ただ「性格は変えられない」という言葉一つを取って、心に浮かんだことを告げるだけである。
『そのままのしんいちろーでいて』
 そしてぎこちないながらも笑顔を作る。それが、それだけが、にできる精一杯だった。
 もどかしい。


 第4週目。
『今日はかった?』
「うん。勝ったよ。」
『やった!!』
 いつもの時間は定番のやりとりから始まる。真っ先に本日の勝敗を聞いて、軽く話しながら対局室の席に着く。そしてはポシェットからごく小さな巾着袋を取り出して伊角に渡した。
『お守り!』
 先週の伊角の話を聞いて、家に帰ってから一週間かけて作ったお守りだった。慎一郎のために何かできないか。幼い頭で必死に必死に考えた安直な結果であった。
「くれるのか? ありがとう。」
 少し驚いた様子の伊角は、それでも喜んでくれたようだった。続けては、
『きんちょーしたときはね ひがしを向いて』
 そのように前置いてから、東を向いて三回お辞儀、そして先ほど買って碁盤の脇に置いてあった飲み物を手に取りぐいっと飲み干す。
 こうするんだよ! という意志を込めて、力強く伊角を見つめた。
 ごく真剣に迷信とも言えない迷信を実行するを見て、伊角は、
(かわいいなあ。)
 と自覚なく庇護欲を刺激され、小さく口に出して笑った。プロ試験も進行する中で数少なくなっていった、手放しで出た笑みだった。
「はは、なんだそれ。初めて聞いたぞ。」
 釣られては照れくさくなって笑った。何でもないこんなやりとりがささやかで愛おしくて、はこの時間を守りたいと無意識的に切に願う。
 ぽつりぽつりと伊角が語り出す。
「週末が、今までちょくちょく話してた新藤との対局なんだ。
 新藤は今日負けたから、1敗。オレはまだ全勝だけど…お互いにとって大事な一戦になる。」
 それは特に答えを待たない、とりとめもない呟きだった。
「確かに新藤は強くなった。でも、それでも、自分が新藤より勝っているという自信はある。」
 は声は出せないが、頷きながら伊角の声と言葉を聞いていた。慎一郎のためにこんなことしかできないから。
「さ、今日も打とうか。の新鮮なパワーを分けてくれ。」
『のぞむところ!』
 指導碁の結果は3目半の負けだった。いつもどおりに検討を終え、の時計のアラームが鳴り、いつもどおりに棋院の前で別れた。
「じゃあ、またな。」
『またね』


 その次の土曜日。はパソコンの前に向かっていた。
 プロ試験が始まってからは、火・土曜日の午後は日本棋院のホームページでプロ試験の対局結果を確認するのが常になっていた。毎週日曜日に伊角の口からも直接聞いていたが、やはりそれまでも結果が気になって気が気でないからだ。
 その日、9月23日の、新藤ヒカルとの対局の結果は黒星だった。
「────…………。」



 プロ試験第5週目。9月24日の日曜日。いつもの場所でいつもの時間、は彼を待つ。
 けれどもその日伊角は現れなかった。