九 ×××の終焉

 伊角がいつもの場所に現れなかった日曜日、帰ってからインターネットで対局結果を確認したらその日の対局でまたも彼は負けていた。相手は和谷だった。
 新藤はもちろん和谷も手強い相手である。だから負けること自体は有り得ない不可思議ではない。
 しかし伊角はいつもの場所に来なかった。彼は責任感の強い人だから、軽率な理由で「いつもどおり」を放り出すわけがない。を尊重してくれた言葉を信じたい。もしも慎一郎に、何かが起きていたら…!
 は気が気でなかった。しかし彼女にはただプロ試験の対局の結果を確認することしかできなかった。火曜日の対局も結果は黒星。祈るような気持ちで確認した土曜日の結果は、
(勝ってる! しかも越智くんに!)
 念願の白星だったために、は安直にほっと安心した。きっと伊角は調子が悪くて、それで負けが続いてしまっただけなのだ。なので、次はきっと来てくれる! という自己中心的な発想が浮かび、日曜日には呑気にいつもの場所に向かったが。
 その日も伊角は現れなかった。
 なんでなんでなんで!? は半ばパニック状態に陥る。周囲を見回してもを知らない他人がたくさんいるだけだ。
 こうなったら、試験会場に直接会いに行くしかない。そんな思いに一瞬駆られるがすぐに打ち消した。伊角のことを考えたからだ。もしかしたら、自分に会いたくないのかもしれない。
 会いたければ会いに来てくれるはずだ。だから、いつもの場所に現れないということは。それは小学生のにも少し考えれば分かる単純な答えだった。
(きっと試験が大変なんだ。)
 は、伊角の邪魔にはなりたくなかった。プロを目指して日々努力邁進する彼が好きだったから、その邪魔をしてまで彼と一緒にいたいとは思わない。
 そんなふうに一歩引いた「大人の」考え方ができるのは、安易な考えがその裏にあるからだった。
(プロ試験が終われば、プロになれば、慎一郎とまた会えるはず。)
 帰宅して、インターネットで対局結果を確認する。その日も白星を見つけては安堵した。
 それから火・土曜日に日曜日も加えて、は自宅で星の行方を見守った。先日の三連敗以降勝ち続けてはいたものの、途中で一戦落としたことにひどく衝撃を受け落ち込みながら、それでも彼と彼の勝利を信じて待つ。毎週日曜日にあの場所に行くのは欠かさずに。
 最終日。伊角は4敗だったが、3敗の和谷と新藤がいるために、この日の結果によっては伊角にもまだ可能性があった。はこの日の伊角の勝利は信じて疑わなかった。だから、後は3敗の二人の結果が全てを決める。
 は祈る気持ちで日本棋院のホームページを開いた。もはや数時間前から繰り返している行動である。対局は終わっているはずだから、ページの更新さえなされれば──
 ついに、空欄だった最終日の対局の欄が星で埋まっていた。は最下部の伊角慎一郎の欄を見るよりも先に、新藤ヒカル、和谷義高の対局結果を確認して、両者共に白星をそこに認めた。
 伊角は落ちていた。



 予想はしていたことだったが、やはり翌日の日曜日も伊角はいつもの場所に現れなかった。
「…………。」
 しゅん、と落ち込み、その場に立つ。けれどもそれは長くは続かずに、は歩き出した。院生研修の行われる部屋がある6階へ向かった。
 新藤でも和谷でも、何なら奈瀬でも院生師範でもいい。誰か、少なくとも自分よりは慎一郎について知っている人物に会えれば──
 6階に着くとどうやら院生研修はもう終わっていたようで、まばらな人通りがあるだけだった。は少し途方に暮れるが、その場に和谷の後ろ姿を見つけて駆け寄った。声は出ないので後ろからとんと肩を叩いた。
ちゃん!?」
 振り返って驚く和谷に、は筆談器に書いた文字を見せた。
『わやくん プロしけん おめでとう』
「お、おう…ありがと。伊角さん一緒…なわけないよな。」
 言いながら、和谷は少し気まずそうに視線を巡らせた。
『しんいちろーは元気ですか?』
 とにかくこれが一番聞きたいことだった。和谷は声を二度三度飲み込んだ後で話し始めた。
「知ってるだろうけど、伊角さんはプロ試験に落ちたんだ。受かったのはオレと新藤と越智。」
『しんどうくんにまけた日から会えてないの』
「そっか。ちゃんにも何も言ってないんだな。伊角さん、新藤との対局で何かポカやらかしたみたいで──負けてからしばらく調子崩してた。オレにも変に負けるくらいだった。その後試験の中で持ち直しはしてたんだけど。
 さっき院生師範に話を聞いてきた。伊角さん、院生も九星会もやめたらしいんだ。」
「!!」
 は衝撃を受けて固まった。言葉が文字にできない。口をあわあわと開閉させて、ペンを力なく握り、立ち尽くす。
 和谷も言葉に困っているのは同様らしかった。言いにくそうに話し続ける。
「院生師範は、伊角さんにはそのほうがいいって言ってたんだけど。オレは話しにくくて、伊角さんにも連絡取れなくて…このまま伊角さんが碁をやめちまったら──……」
『しんいちろーはやめないよ!』
 は筆談器を押しつけるようにして和谷に見せた。弾かれるように書いた文字だった。彼は目を瞬かせて筆談器とを見た。
『ご やめない』
『しんじてる』
 それは和谷の言葉に対し反射的に出たの意地だった。根拠はどこにもない。強いて言うならが伊角にやめてほしくないだけ。
 和谷はしばらく黙っていたが、やがて力なく笑って口を開いた。
「ん…そうだな。オレはオレでがんばるしかねぇ。」
『がんばってね』
『わたしもがんばる』
ちゃん、またな。機会があったらオレとも打とうぜ。」
 和谷が片手を上げて立ち去った。も同様にしてそれに応えてその場から離れた。
 慎一郎を信じて待とう。これはきっと永遠の別れなんかじゃない。きっとまたすぐにあなたに会える。そのとき恥ずかしくないように打ち続けよう。強くなったなってまた褒めてもらおう。
 わたしは碁をやめないよ。あなたとわたしを結ぶ道だから。
 待ってるね。慎一郎。いつもの日曜日のいつもの時間、いつもの場所で。



(待ってるだけなんていや!!
 わたしが慎一郎に会いたいの。会って声が聞きたい。悩んでるなら力になりたい。
 声、聞くだけ?
 伝えなきゃ。
 もうわたしのこと忘れちゃったかな? わたしのことなんてどうでもいいのかな? でも、わたしといると元気をもらえるんだって言ってくれた慎一郎を信じたい。
 忘れられても、また思い出してもらって、覚えてもらうんだ!)
 は書いてもすぐ消せてしまう筆談器ではなくて、便せんを取り出した。そこに万年筆で思いを綴る。けれども何を書いても思いを乗せるには物足りず、書いては丸め、書いては丸め潰し、思いのなり損ないが増えていった。



「あーっちゃんだー!」
 日曜日、日本棋院の一般対局室前で、を見つけて声をかけてきたのは奈瀬だった。
「私のこと覚えてる? 一度会ったことがあるよね。伊角くんにくっついて行った院生よ。」
 もちろん忘れるはずがない。は緊張でドギマギしながらも笑顔を作って大きく頷き、筆談器に文字を書いた。
『なせさん』
「ありがとー。」
 奈瀬は人好きのする笑みを浮かべた。が、しかしすぐにその表情が曇る。
「伊角くんを待ってるんだよね。知ってるかもしれないけど、伊角くん、院生やめちゃって…」
「…………。」
 は言葉を選んで文字にする。
『やくそくはしてないけど』
『いつ来ても会えるようにいつも来てる』
「……そうだね。」
 一人の声が静かに場に溶けた。そんな中で、は筆談器に質問を書いた。
『しつもんがあります』
「私に?」
『しんいちろーの家を知っていますか?』
 それは、院生研修の行われている階に向かってでも、誰か関係者に会ったら尋ねようとしていたことだった。今回は偶然奈瀬に出会えたので幸運だった。(もしかしたら彼女は意図的にに会いに来たのかもしれなかったが)
「私はちょっと知らないなあ。和谷か新藤あたりなら知ってるかも…でもあいつらはもうプロだし。帰ったら連絡取って聞いてあげるね。また来週も来るでしょ?」
 奈瀬は親切にもを気遣うことを言ってくれた。は身を乗り出す気持ちで頷きながら、即座に文字を書いて奈瀬に見せた。
『ありがとう!!』
「どういたしまして。伊角くんに会いに行くんだね。」
 そう言って優雅にほほえむ奈瀬は、にとっては本当に年上の大人の女性といった様子である。
(…勝てないなあ。)
 その佇まいを前にして、は決意して筆談器に向かった。それはずっと確かめたくて、けれども勇気がなくて逃げていた疑問。
『しんいちろーのかのじょですか?』
「…………。」
 突然に筆談器に書かれた小学生女子の文字を見た奈瀬が、目を丸くして固まった。はその反応を見て返ってくる答えへの恐怖が高まり、けれども今更引っ込めることもできずに、震えながら判決を待ち詫びる。
 どうか、どうか、違うという答えが返ってきますように! 健気に孤独に祈りを捧げた。そんなの頭上に、奈瀬の小鳥の鳴くような女性らしくかわいらしい声が降り注いだ。
「違うわよー! 伊角くんとは院生仲間でいい友達だけど。そんなふうに思ったことはないわ。」
 奈瀬はからからと笑った。伊角くんて確かにハンサムで優しくて非の打ち所がないけど、だからこそそういう対象として見られないのよね。望んでいた答えに二つも三つも熨斗を付けて贈られて、の心は安堵一色に晴れ渡った。
「やっぱりそうだったんだ。」
 こともなげにそう言って奈瀬は納得した様子で頷くが、なにが「やっぱり」なのかはにはよく分からない。
「がんばってね!」
 けれども力強くそう言われ、応援されたということはよく分かった。こちらも力強く頷いて返し、お互いにその場を後にした。
 もうすぐだ。もうすぐ、慎一郎に会える!